うたのすけの日常

日々の単なる日記等

幼馴染の死  徐々に淋しさは募る

2006-04-12 06:19:50 | エッセー

 小学生時代からの親友に、死なれてしまった。戦争で辛酸を共に味わった人たちが、戦友として固い絆にむすばれている話をきくが,あたしたちもそんな仲ではなかったのではないだろうか。
 戦争が激化していく中、親兄弟と別れ、冬は雪と氷に閉ざされる寒冷の地での学童疎開の日々、親恋しさに涙し、飢えに耐え、蚤しらみに苛まれながらも勝利の日を信じて、少国民として次の日本を担うべく勉学に励んだ仲間だ。
 結末は悲惨、無残な姿でたどり着いた生まれ育った下町は焦土と化し、戦後の荒廃した世相に翻弄され、時には悪の道に踏み入りお互い悪あがきした、そんな幼馴染でもあった。
 彼は一時期、所謂てきやの親分として一家を構えていた。
 彼の家には常時十人近い子分が寝起きをし、稼業の実態は皆目不明だったが二人の交遊は家族ぐるみ続いた。彼は近隣の人たちと紛争も起こさず、地域の人から反感を買うようなこともなかった。
 そうした年月を経たある日、彼は一家を解散した。
 「真っ当な稼ぎじゃ若いもん食わしていけなくてね」
 
 その後の彼は町内の世話役、学校の役職にと果敢に取り組んでいった。やくざもんがと、初めはかなりの反発もあったようだが、元々義理人情に厚い男が、私心を捨てて猛進するのである。誤解が賛辞に変るのに時間はかからなかった。
 そんな彼が不治の病に倒れた。
 お前の葬儀委員長は俺がやるからなと、冗談を言っていた彼がである。
 何回目かの見舞いの時の、それが最後になってしまったのだが、
 「こんなに足がむくみやがって、もうウチにはけえれそうもねえや、情けねえったらありゃしねえ」 
 それは余りにも悲痛で、慰めの言葉に詰まった。

葬儀の日、弔問客は長蛇の列をなし別れを惜しんだ。
 あたしはその情景に胸を撫で下ろし、淋しさをこらえ遺影に手を合わした。