うたのすけの日常

日々の単なる日記等

庭のみかん  樹木も人間の気持ちを察するのか?

2006-04-08 10:11:48 | エッセー



 その大きな樹は、歩道に面した庭の道すれすれに、わたしがこの家に入居したときから植わっていた。
 鬱蒼と枝葉を伸ばした、なんの変哲もない樹である。十年近く過ぎても枝を伸ばし、幹を太らせ続けるだけである。妻は柑橘類だというが確かなことは分からない。
 私は気懸かりだった。雨の後など、道行く人の頭上を覆う枝葉から雨滴が落ちる、恐らく枝を見上げて舌打ちしているに相違ないと。

わたしはこの大木を伐ると妻に宣言した、実はおろか花一つ咲かせぬ樹に用はないと。
 そして、鋸の切れ味を吟味し、梯子まで用意した四月初めの朝のことであった。
 「おとうさん!花が咲いてます、白い花が」私は庭に飛び出した。見れば白い小さな花を枝々に喰いつかせるように、無数に咲かしているではないか。胸がじいんと熱くなった、伐るという私の一言に、健気にも満身の力を振り絞って一気に花を咲かせたのか。そればかりか、花を散らした後には、青い実を誇らしげに覗かしているではないか、それも気が遠くなるような数の。
 
 青い実の種類は定かではなかったが、私はなんのためらいもなく、その実を庭のみかんと称した。
 それ以来庭のみかんは、近所の人、道行く人の目を楽しませてくれている。色づかぬ実を、水盤に活けたいという人があれば、枝ぶりを見て差し上げ、色づいたみかんを、立ち止まって見上げる、孫の手を引いたお年寄りを目にすれば、飛び出して行っ
貰って頂く、なんとも嬉しい日々である。

 以来、毎ねん十分に熟し色づいた庭のみかんは、爽やかな風に身を委ねたゆたい、夕陽に肌を焦がし、降る雨に艶やかに濡れる様は、ひとつひとつが艶を競って、私をなぶるようである。

 私は庭のみかんに、いくばくかの後ろめたさを感じながらも、良き友を得たような感慨を抱き、一年一年が充実した日々であることを感謝している。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿