うたのすけの日常 結核療養所物語 11
手術病棟への引越しそしてオペ
朝食が終わってから引越しの準備にかかる。同部屋の仲間たちがなにかと手を貸してくれる。ナースセンター脇から担送車を転がしてきてくれたりして、それに布団を積んでくれる。あたしは当座の日用品と下着類を風呂敷に包む。看護婦に先導され仲間が二人で車を押して付き添ってくれた。果たしてまたここに戻ることが叶うのか。不安と心細さが脳裏を掠めて消えた。今更なんだというわけである。
手術病棟は女子病棟と並んでいて、結構長い渡り廊下を渡っていく。布団や身の回りの品々を積んだ担走車をガラガラ引いたり押したり、異様な気分となる。
看護婦が手術病棟の看護婦と引継ぎをしている間に、勝手知ったる他人の家ではないが、三人は病室に行く。自分がいささか緊張しているのが分かる。幸い庭に面した窓際が空きベットになっていて、付き添いの二人が自分のことのように喜んでくれている。ここでは患者は術後で、皆輸血や点滴の身の上、簡単には移動できないというわけである。
手術日の朝、担送車に横たわり基礎麻酔を打たれる。早くも朦朧としてきた。手術室に入り本格的に麻酔を打たれる。一二と数えて、と大きな声がする。あたしは終始目を閉じていた。一二と数えた記憶はない、すぐ意識を失ったわけだ。
気が付いたとき既に夜になっていて、無性に喉が渇いている。身体は硬直していて身動きが出来ない。案じている痛みはまだ襲ってきていない、麻酔が完全に覚めていないのだろう。不安が雪崩のように襲ってきたが、そこでまた意識をうしなったようだ。
本格的に覚睡したのは明け方だ。身体は鉛の板、いや鉄板で包まれているようで微動だに出来ない。腕は輸血で固定され、腹の脇から管がベットの下に這っている。モーターのような音がする。肺に溜まる廃液を吸いだす音だ。しかしこれらは時間の経過とともに知ったことである。身体は背中を切ったというのに傷を下にして仰向けに寝かされている。だが背中というより、全身を包み込むような激痛が襲う。助けを呼ぶにも声もでず指一本動かせないのである。その時目の前に白い影が覆いかぶさる、看護婦さんだ、いきなり肩口に細い注射器でモルヒネを打たれた。波が引くように激痛は去るが、痛みがきれいに消えたわけではない、しかしまたうとうとと睡魔が襲う。これが救いなのだろう。
こんな状態が三日続いた。食事も摂らず、ただひたすら痛みに耐えるだけである。痛みから逃げるために、モルヒネを頻繁に泣きを入れて打ってもらうと、回復が遅れるといわれていた。それで懸命に痛みに耐えるのだが、気が狂いそうになる。なにしろ右の首の下から脇の下まで切られ、おまけに肋骨を三本か、切り取られているのだ。その傷口を下にして身動きできず臥しているわけだ。大の男が泣くというが、正にその通りだ。
患者の中には看護婦に痛止め痛止めと、やたら懇願する者もいるのだが、打つ量も回数もきまっているのだ。やたらには打ってくれない。あたしは正月前に帰るという目標を掲げていたので、人よりは我慢したつもりである。我慢も三日間だった。その間モルヒネを打たれたときうとうとするだけで、一睡も出来なかった。食事も出ず、ひたすら輸血と栄養剤の点滴で過ごすわけである。その間には肺を切っているのである。咳き込まないわけがない、痛みをこらえながら、息を殺してうっうっと小出しに咳をする。それでも収まらないときは、砂の入って袋、小さい薄い枕状のもので、重さが書いてある。500グラムとか1キロ2キロと、それを胸に乗せ咳を抑えるのである。背中のどうしようもない痺れは、寝返りの出来る状態ではないのだ、看護婦さんが両手を背中とベットの間に差し入れてくれる。それで一時痺れも治まり楽になるというわけである。
三日たって食事が出た。かすかに首が傾けられるようになり、看護婦さんがスプーンで重湯を口に運んでくれる。吸飲みでお茶をすすらしてくれる。まさに白衣の天使である。その頃には導尿の管も外されていて、尿瓶の世話までしてくれる。大便も一度夜中にとって貰っている。看護婦さんは薄闇の中、庭を眺めてあたしの用便のおわるのをじっと待っていてくれた。その後姿を今も鮮明に瞼の裏に描くことが出来る。
一週間でトイレに行けるようになった。看護婦さんに褒められたのが、子供のように嬉しかった。同部屋の患者の一人に、しきりに羨ましがられたが、彼よりあたしは痛止めを打って貰った回数が、はるかに少なかった筈であると自負している。
術後の経過もすこぶる良好と医者が太鼓判を押してくれる。術後の色々な検査も次々とクリアしていく。外科の傷は回復に向かえば早い、どのくらい手術病棟にいたのだろうか。朝目覚めると、隣の病棟は女子棟である。起床とともに病室から洗面に赴くご婦人たちが見える。季節は初夏、華やかな色とりどりのパジャマ姿や、ネグリジェ姿が廊下を行き交う。声は聞こえぬが、楽しげに笑い合う姿が嬉しい気分にさせてくれたりした。
あたしの手術は右肺上部の区域切除、肋骨を三本?切り取り、病巣を摘出した。術後半年化学療法を続け、辛うじて年の暮れに退所できた。
これでこのお話も終わりというわけか。目出度いのかそうでないのか。先ずは目出度いというべきであろう。そうでなかったら世話になった人たちに申し訳なしである。
おしまいです。
ご丁寧なコメントありがとうございます。
光陰矢のごとしと申しますが、術後60年よくも生き延びたものと、これ実感です。
後遺症の肝臓障害も落ち着いておりますが、油断はは出来ません。これからの月日はおまけと思っております。
それより連日の猛暑、正直こたえてります。
まだまだ暑さは続きます。
どうぞ御身お大事になすって下さい。
モルヒネを打って頂いたら楽になると思いながら我慢する処が、想像を掻き立てました。
今なら肋骨は苦も無く繋ぎ合わせることが可能だと思うのですが、当時の手術は此の様だったと解りました。
よくぞ、ご無事で今日を生き抜いて下さいました。戦火にも焼かれず、ご家族の強い運を感じます。長兄の場合肺は丈夫だったと思いますが、先ず脾臓が摘出され、以降八年経過後に肝臓がダメになりました。理髪師でしたので鋏と髭剃り用剃刀しか持たない人でしたが、「人それぞれ、生まれた時から命の長さは決まっている」というのが次兄の持論でした。
運命というのでしょうか。
よく解りませんが、お孫様たちが結婚して新しい命に会える日を希望に、長生きなさって下さいね。他人事ですが、姉は曾孫(男児)を持つ身となりました。みな、先は何があるか解らない人生ですが「私たち良く生きてるわねぇ」と、早く旅立った兄と妹への想いに暮れた昨夜でした。