観測にまつわる問題

政治ブログ。政策中心。「多重下請」「保険」「相続」「農業」「医者の給与」「解雇規制」「国民年金」を考察する予定。

復興学考

2018-06-24 10:36:25 | 政策関連メモ
日本災害復興学界が存在しており、趣旨のページに「災害復興学という学問領域は、まだ存在しません。私たちは簡単に「災害からの復旧・復興」と口にしますが、「復興」についての定義すら定かでないのです。」とあります。

言葉の定義すら定められていないのですから、学問として未発達は明らかだと思いますが、復旧と復興の定義を考えることは重要だと思い、考えてみました。

まずは復旧とは何かを考えます。復興は復旧に対する言葉だと考えられるからです(復興学は始まったばかりです)。

復旧とは「元通りに戻すこと」でしょう。旧が旧い(旧い)で復が復る(かえる/返る)の意味があります。天災などでインフラ等がダメージを負った場合に復旧という言葉を使います。被災地においても復旧は勿論大切です。

復興とは「元通りにした上で更に発展させる」だと思います。興すには「盛んな状態にする」という意味があり、例えば新興国という使われ方があります。復という字もありますし、復旧を包摂しているとも言えますが(一般に復興と言われるときにインフラの復旧が包摂させれていないということはないと思います。言葉の定義はしばしば複数あります)、あえて区別するなら、復旧という概念に収まらず更に上を目指す考え方が復興だと思います。これは焼け野原になった後で高度経済成長した歴史を意識しているのではないかとも考えられます。天災が来て良いということはないと思いますが、旧い設備が壊れて新しい設備を新築した方が急速に伸びるというケースがないとは言えません。日本には「災い転じて福となす」という言葉があります。返す返す言っておきますが、天災を歓迎することは有り得ず、来てしまってからの態度に関して、あまりくよくよし過ぎない方がいいんじゃないかと示唆したい訳です。

学問的には復旧と区別し(隣接・対立する概念がないと学問としては分かり難くなると思います)、例えば旧に復することがスタンダードなものを復旧と定義し、新しいものをつくることを復興、(瓦礫など)放置、(更地にするなど)整理の4つに分類して計測してみると学問として成立するような気がします。文系学問で計測がない学問はありますが、復興を考える上で金勘定をしないということは考えられず、計測は必須の条件と言えると思います。言葉の定義が明らかになれば、計測以外でも議論は成立します。復旧・復興・放置・整理の率を面積や金額(地価・建物価格)ベースで数字を出せば、復興の状態や進捗度が理解しやすくなり、事例間の比較がやりやすく議論も発展しそうですよね。

復旧は既にある技術・ノウハウを元に重要な部分を素早く元に戻す意味があって、本来はポジティブなものだと思います。その際新しい技術が出ていれば多少はバージョンアップするかもしれませんが、誤差の範囲内だと思います。電力会社や水道工事の業者はそうした技術を持っており、訓練されているのでしょう。

しかし家が倒壊したとして、同じ家を建てようとする人がそうそういるとは思えません。企業等が入るビルの倒壊があったとして、それも復旧はまず考えにくいところです。放置・整理しないなら、復興というかその時点で新しい土地の使い方を考えるはずです。新しい家を再建するか、そこは例えば駐車場にして別のところに住むかは分かりません(同様で新しい建物を建てる復興と、別の種類の建物を建てる転用(復興)の区別も重要でしょう)。いずれにせよ、復旧/復興はもう大体その建築物の性格次第で既に決まっており、選択の余地はあまりないのではないかとも考えられます(復興内(新造と転用)では選択の余地が大きそうです)。

こう考えると、復旧が極めて重要で助け合いや援助が重要だと大体分かってきます。復興も重要ですし、助け合いや援助も必要ですが、新しい建物を建てるポジティブな行動を全面援助しようと考える人はあまりいそうにありません。例えば半分援助で半分は自己資金でやるみたいな発想が大切ではないでしょうか?また、復旧は極めて重要ですが、プロの領域で素人がやること・やれることはあまりないとも考えられます(被災地ボランティアやケアは極めて重要ですが、復興の枠組みで語られることはあまりないと思いますし、復旧でボランティアが重要という発想も成立していないと思います)。自衛隊の災害対応は基本的に復旧に属し、復興はならしをする意味があるのではないかと思います。いずれにせよ、復興は復旧が落ち着いた後に、国がアシストしながらも、地域主体で行われるものではないかと考えられます。地域の事情を知らず必ずしも責任を持てない中央政府が箸の上げ下げまで指示して復興をやり遂げるのいうのは誤りなんじゃないかと思うんですよね。復旧は定型的ですし力のある国がビシッとアシストし、復興の領域は国のアシストは控えめに地域主体・共同体主体・個人主体で進めていくべきではないでしょうか?

言葉の定義が重要と意識したのは最近で、多分ディベート文化とその意識は切り離せないような気がしています。違う考えの人と対話せずに言葉の定義が気になることってないと思いますし、それでも別に大体やっていけると思うんですよね。


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