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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

『弘法大師空海展』図録掲載「1200年前の空海」4

2014年06月18日 | 信仰・宗教
4 空海の時代
 筆者は以前、「穢」という漢字を古代の史料から抽出、分析したことがある(19)。奈良時代には「穢シ(キタナシ)」や「穢ス(ケガス)」といった形容詞、動詞としてのみ使われており、「穢」が「ケガレ」という訓で一文字名詞として用いられることはないことを指摘し、古代において「穢」そのものにも歴史的変遷が見られることを強調し、「穢」の一文字名詞の初見が『続日本後紀』承和3(836)年9月11日条であり、承和年間以降、名詞としての穢(ケガレ)は各種史料に頻出することになることを明らかにした。このような名詞化は一種の「ケガレ」の「概念化」であり、この時期に穢観念(穢に触れることを忌避する感覚)が強調されるようになったことを物語っている。空海が入定したのは承和2(835)年であり、その同時代に「穢」の歴史的変遷が見られたわけである。以下、「穢」自体の変遷の様子と、空海の生涯の活動が「穢」観念の変遷に与えた影響について考えておきたい。
まず、古代における「穢」を歴史的に見ていくと、触穢成立以前の奈良時代においては、「穢」は漠然とした概念ではあったが、そこにも時代的変遷があり、特に高野(孝謙、称徳)天皇期には朝廷に対する反逆心を意味するものとして「穢」が強調されることが多く、特に朝廷に対する反逆心として「穢シ(キタナシ)」が頻出する。例えば藤原仲麻呂の乱の際に仲麻呂に対して勅(天皇自身の言葉)として「穢キ奴(キタナキヤッコ)」と呼び、また宇佐神宮託宣事件の際には和気清麻呂が名前を清麻呂から「穢麻呂」と改称させられている。これを「ケガレマロ」と呼ぶのではなく、朝廷の正史である『続日本紀』には「キタナマロ」と訓が付けられている。これも「ケガレ」の名詞化、概念化が未だなされていなかった証拠の一つでもある。
「穢」の一文字名詞の初見は平安時代初期、承和3(836)年であるが、これには穢観念の変容をもたらす時代的背景があった。その一つが「律令祭祀制」から「平安祭祀制」への変化であったといえる(20)。律令祭祀制とは、大宝律令やその後の養老律令の中の神祇令を基礎とする神祇祭祀制度であり、律令の中に定められた神祇官による祈年祭、月次祭、新嘗祭等中心の祭祀の運営が行われた奈良時代の祭祀形態であった。全国官社への幣帛班給(班幣)制度を主としており、「班」とは「班田収受の法」の「班」ように「わかつ、わける」の意味である。この「わける」主体は朝廷であり、朝廷が神社に幣帛を与えるというように、朝廷が上、神社が下と認識される制度であった。それが、平安時代初期になると幣帛班給制度から京畿内を中心とする有力大社への奉幣制度へと変化していく。「班給」から「奉幣」、つまり朝廷側から幣帛を神社に「たてまつる」意識が強くなっていった。また、旧来の律令祭祀に規定された以外の臨時祭が重視されるようになり、天皇の神社行幸も盛んとなった。このような状況のもと古代律令制の解体に連動して、天皇が「神聖なる祭祀王」として純化していき、同時に政治の執行を担う摂関貴族が誕生し、西暦800年代に「天皇祭祀」と「摂関政治」の相互補完という平安祭祀制が形成されていったのである。それに伴って天皇や神社、そして朝廷そのものが「清浄性」と必要不可欠とする時代へとなっていき、「清浄性」が強調されると同時に、排除される対象として「穢」が意識され、それに触れることが忌避されるようになった(21)。
さて、一文字名詞化された「穢」つまり「触穢(しょくえ)」は承和年間以降、史料に頻出することになるが、貞観年間(859~877年)までに、「穢」は具体化、細分化していく。例えば『日本三代実録』の記述を見ると、単に「穢」ではなく、「人死穢」、「犬死穢」、「犬産穢」、「失火穢」など「○○穢」という用例が出現するようになる。これは穢の具体例の出現といえる。
このように、承和から貞観年間にかけて、ついには令や式(令の施行細則、弘仁11(820)年頃に『弘仁式』が編纂されている)による規定では対応できなくなり、『貞観式』(貞観13(871)年成立)において「穢」が明確に規定されることになった(22)。その規定により「穢」は一層固定概念化していき、この段階で、制度、認識の両次元において「触穢」が成立したといえる。
「穢」の時代的変遷や「触穢の成立」が天皇祭祀と神祇信仰の変容と密接に関わっていることを述べたが、変容の要因は当時の「神祇信仰の覚醒」というべきであり、その外的要因が仏教(密教)の宮中への浸透と天皇の「身体化」であったといえる。
その平安時代初期の仏教について三橋正氏は、仏教がこの時代、日本的な展開を遂げたとする(23)。つまり、従来の仏教史研究の中で空海や最澄が中国からもたらした「平安新仏教」が強調されてきたが、この時代で重要なことは、天皇自身が仏教への理解も深め、自らの来世を託すようになったことであるという。これは奈良時代の聖武天皇や高野(孝謙・称徳)天皇とは異なっており、天皇自身の仏教理解の深化というよりも、より正確にいえば「仏教の身体化」であった。それ以前、奈良時代の南都六宗(法相、三論、律、倶舎、成実、華厳宗)は、後の宗派とは異なり一寺一宗ではなく、一種の学派のようなものであったため、経典類の理解、解釈に重きが置かれていた。密教についても奈良時代の密教を「雑密」と表現するように、体系化されたものではなく、いまだ「仏教の身体化」がなされていない時代であったといえる。平安時代初期に「身体化」が進んだことを象徴する事例が「臨終出家」といわれる儀礼の定着であり、このことは三橋正氏により紹介されている(24)。この「臨終出家」は自らの死の直前に僧侶を招いて戒を受ける儀式のことで、その初めての例は承和7(840)年に崩御した淳和上皇であり、嘉祥3(850)年に崩御した仁明天皇も同様であった。この「臨終出家」は仏教経典類には記されていない日本独自の儀礼であるが、この時代に天皇(もしくは広く捉えれば貴族社会)において来世観の大転換があった。源信『往生要集』の成立と浄土信仰の隆盛はその100年以上先のことになるが、この西暦800年代前半に天皇の「死」を仏教に託すことになったのである。これは「死」を仏教に託して、「神道」(神祇信仰)から切り離すことになり、祭祀や神祇信仰の中で「死」を「穢」と明確にみなすようになる時期と重なっている(25)。(同時に「穢」を極端に忌避する神祇信仰へと変容していった。)
 この「臨終出家」を行ったのが淳和上皇であるが、淳和上皇は弘仁14(823)年4月から天長10(833)年2月の天皇在位の時期に空海を密教阿闍梨として厚遇していた(26)。
 一般に空海を厚遇したのは淳和天皇の前の嵯峨天皇であり、緊密な関係であったことはよく知られている。しかし、この点は武内孝善氏によると、緊密な関係とはいうものの、それは主として書、漢詩文を通してのことであって、新たに中国から伝えた真言密教を受持した「密教僧としての空海」を評価して厚遇していたかといえば、それほど重きを置いていなかった(27)。それは嵯峨天皇在位14年間で、空海と嵯峨天皇が密教を通して交流しているのは史料上では、弘仁2(811)年10月に乙訓寺別当に任じられたこと、弘仁7(816)年7月に高野山を賜ったこと、弘仁13(822)年2月に東大寺に戒壇道場を建立し、息災・増益法を修するように命じられたという以上の3例のみであったことからもわかる。そして、空海が国家的修法に関与してくるようになったのは淳和天皇が即位して以降のことであったことは、一次史料から明らかにされている(28)。
 以上のように、嵯峨天皇期の空海は書家や文学者としての天皇との関わりであったのが、淳和天皇期になって頻繁に国家的修法に関わり、宮中での密教修法の実践もなされていく。その結実が承和2(835)年正月の後七日御修法であり、天皇にとっては仏教(密教)を信仰し、自らの「死」を仏教に託す思想へと変容していったのである。生前は密教修法に身を託し、「死」をも仏教に託すことはまさに「身体化」といえるが、空海が実践した密教そのものが「身体化」をうながすものであったともいえる。密教の中で最も重要視される「大日如来」が真理をそのまま人格化した法身であったり、この身のままで仏になることのできる「即身成仏」の思想も「身体化」と繋がっている。つまり身体(身)、言葉(口)、心(意)を仏と一体化するといった「三密加持」が「即身成仏」を実現するための密教的な身体技法を体系化したものであったわけで、空海の思想、実践が様々な「身体化」を覚醒させる要素を持ち、その実践が宮中にまで及ぶことによって、それまでの神祇信仰をも覚醒させた。その過程で「触穢」を成立させ、それを排除することによって清浄性を保つようになることで、現在にまでいたるような神祇信仰へと変容する契機となったのである。つまり穢の概念の確立、固定化による「穢の忌避」は、天皇祭祀や神祇信仰側においても「身体化」が進んだとも言え、その基底に、空海の思想、実践の影響があったといえる。
このように、空海が唐から請来した経典類によって仏教の理解が深化し、空海による密教の弘法活動により「平安新仏教」が展開していったといえるが、本稿で述べてきたように、1200年前の空海の時代を理解するには、従来の仏教史的側面だけではなく、「穢」や神祇信仰の時代的変容と、貴族社会(天皇)における仏教の「身体化」といった視点でも歴史的展開を把握しておく必要がある。これを空海の生涯、事蹟と関連させて考えることで、後の時代(現代にいたるまで)の日本文化に対する空海の影響力を再認識することができる。そして今後、その研究が深化されることで、平安時代初期の仏教や神道をとりまく状況を起点とした新たな日本文化論が構築される可能性をも秘めているのである。


企画展「えひめ災害の考古学」及び関連講座

2014年06月18日 | 災害の歴史・伝承

災害関連で注目している展示。

今週末6/21開幕。

愛媛県生涯学習センター・公益財団法人愛媛県埋蔵文化財センター共同企画展

「えひめ災害の考古学 -災害の過去と未来を結ぶ-」

会場は松山市上野町の愛媛県生涯学習センター。

私も7/27(日)にこの展示の関連講座で喋る予定です。「愛媛の地震・津波の歴史と伝承」。

詳細はこちら。

http://pc2.ehimemaibun-unet.ocn.ne.jp/fukyukeihatsu/kyosaiten/kyodokikauten/H26_kyodokikakuten/H26_kyodokikakuten.html


関連講座(会場は愛媛県生涯学習センター)

■第1回講座:6月28日(土) 13:30~15:30・大研修室
 「南予地方で記録された安政大地震」
  柚山俊夫氏(伊予高等学校)
■第2回講座:7月13日(日) 13:30~15:30・大研修室
 「発掘調査からわかる災害痕跡」
  藤本清志氏(公益財団法人愛媛県埋蔵文化財センター)
■第3回講座:7月27日(日) 13:30~15:30 ・大研修室
 「愛媛の地震・津波の歴史と伝承」
  大本敬久(愛媛県歴史文化博物館)