愛媛の伝承文化

民俗学・日本文化論。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。大本敬久のブログ。

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宇和島の八ツ鹿踊りの歴史

2012年10月24日 | 祭りと芸能
先日21日午前、宇和島市の宇和島結人プロジェクトで牛鬼、鹿踊について少しだけ話をしたが、牛鬼そして南予鹿踊に関する江戸時代の確実な史料はどのくらいあるのか紹介してみた。

慶安2(1649)年に今の宇和津彦神社祭礼が始まっているので、そこに八ツ鹿踊りや牛鬼が登場していたと考えてみたいものであるが、それを裏付ける史料は今のところ確認されていない。

牛鬼は天明年間より前の史料は確認できないため、推測であるが18世紀半ばに宇和島の祭礼に取り入れられたものではないかと私は考えている。

鹿踊については、2000年8月30日付で私は「宇和島・鹿踊りの始まり」という一文を「愛媛の伝承文化」に掲載しているので、そちらをご参照いただきたい。(ここに再掲しておきます)

「宇和島・鹿踊りの始まり」
平成5年2月11日付のうわじま新聞に宇和島の鹿踊に関する記事が掲載されている。これは当時の宇和島市立歴史資料館の山口喜多男館長が執筆したもの。その中で龍光沙門伝照(龍光院第六世院主、宝暦四年、66歳没)の旧記なるものが紹介されている。「宝永三年(一七〇六)、星霜五十七回を経て鹿頭悉く破損。時の町会長・今蔵屋與三右衛門隆久(旧裡町三丁目、長瀧氏)、紺屋忠大夫(旧裡町四丁目、山崎氏)、町内の有志に諮って修理。鹿頭等十体。不朽に後裔に貽す」以上がその内容である。1706年の段階で、すでに57年前、つまり、宇和島の一宮祭礼の始まった慶安2年(1649)に鹿踊が登場していたことを証明する史料ということになる。私は先日発表した南予鹿踊に関する論文「南予地方の鹿踊の伝播と変容」(『愛媛まつり紀行』、愛媛県歴史文化博物館、2000)では、この史料を取り上げることができなかった。というのも、原典が確認できなかったのである。山口氏は故人となり、直接お話をうかがえなかったため、直接、龍光院に問い合わせてみたものの、この史料自体、昭和11年に焼失しており、寺側でも史料の内容がわからないらしい。どこかに写本があるのだろうと思って、方々探してみたが見つからない。果ては宇和島の近世史料に最も精通している松山大学の先生にも聞いてみたが、写本の存在はご存じなかった。このようなわけで、内容的には興味深いが、一次史料としては使えず、論文では取り上げることができなかったのである。論文では、18世紀半ばの宝暦年間には宇和島藩領内各地に鹿踊が伝播しているので、18世紀前半以前に鹿踊が仙台から取り入れられたと結論付け、17世紀半ばの慶安年間に宇和島に鹿踊が存在した記録は確認できないと記した。龍光沙門伝照の旧記が写本でもよいので、確認することができれば、結論は変わってくる。さて、この史料の内容から推測できるのは、慶安2年の一宮祭礼の始まりとともに鹿踊が登場していたこと、さらには「鹿頭等十体」とあることから、鹿の頭数を考えるヒントになると思われる。十体とは、裡町三丁目と四丁目の各五体の合計とも考えられるし、八つ鹿の8体プラスその他の頭2体ということも考えられる。実際、現在の鹿踊でも、子供の扮する兎が出る所もある(瀬戸町三机の事例)。ただし、宇和島の鹿踊は江戸時代末期以前の記録から、五ツ鹿であったことが証明されているし、八ツ鹿になったのも大正11年と近代になってからであることから、やはり5体の2セットの計10体と考えるのが妥当だろう。以上、原典が確認できないものの、興味深い内容の史料からわかることを、ここで紹介してみた。

以上が再掲である。鹿踊は、実際に慶安2(1649)年に東北地方から宇和島に伝播して祭礼の練物として登場していた可能性がある。この文章を書いてから12年経ったが、この龍光沙門伝照の旧記に関しては、未だ何の進展もない。実に恥ずかしい限りである。

さて、この一文にも書いたように江戸時代後期には、絵巻を見ると宇和島の鹿踊は五頭立てで、いわゆる「五ツ鹿」であった。これが「八ツ鹿」になった経緯についてはこれまでも何度か紹介しているが、『愛媛県に於ける特殊神事及行事』(昭和2年)に「近年五ツ鹿ト称シ五人ノ少年鹿ノ仮面ヲ被リ舞踊セシヲ大正十二(ママ)年十一月 皇太子殿下行啓アラセラルルニ際シ古式ニ則リ三頭増シテ八ツ鹿トナシ台覧ニ供シタリ」とあり、もともと宇和島の八ツ鹿が五頭立てであったことがわかる。宇和島市立伊達博物館所蔵の宇和津彦神社祭礼絵巻(江戸時代後期の祭礼の様子を描いた絵巻)にも五ツ鹿で描かれている。また、現在、宇和島市指定有形民俗文化財となっている安政4年製作の鹿踊の頭(かしら)も5頭であって8頭分は無い。

ただし、木下博民先生が2009年に著した『八つ鹿踊りと牛鬼』(創風社出版)67頁に、昭和44年当時、八ツ鹿保存会の会長であった曽根政一郎さんの記したメモが紹介されている。

安政4(1857)年6月、それまで使われていた八つ鹿踊りの諸道具が大破したので、五ツ鹿として再調整したという。町民住民の経済的負担困難のため、五ツ鹿に縮減したと記されているらしい。

私は未だこの曽根さんのメモを実見していないのだが、非常に興味深い記述である。私は単純に江戸時代は絵巻に描かれているものも、残っている頭(カシラ)も5頭であり、大正時代、東宮(皇太子)が宇和島に来た際に、五ツ鹿から八ツ鹿に変えたとあるので、江戸時代は五ツ鹿であると考えていたが、そんな単純なものでもないようだ。この点も調べを進めないといけない。

ただし、江戸時代に宇和島から伝習した西予市宇和町小原のように五ツ鹿が宇和島周辺に広く一般に見られ、八ツ鹿は西予市城川町窪野のように江戸時代文政年間に八ツ鹿にしたという特別な事例とそこからの伝播した地区以外には八ツ鹿が皆無であることは気になる点である。江戸時代に宇和島が八ツ鹿であれば、周辺部にもっと八ツ鹿が残っていても不思議ではない。

さらに、今月、西条市総合文化会館から刊行された福原敏男先生『西条祭絵巻-近世伊予の祭礼風流-』に掲載された「宇和津彦神社祭礼絵巻(末広本)」には五ツ鹿で描かれている。この末広本は嘉永2(1849)年の制作で、曽根メモにあるように安政4(1857)年以前は八ツ鹿だったという内容と矛盾する。この江戸時代の頭数問題は、これからきちんと整理して考えないといけない課題である。

さて、『郷土趣味』という大正時代の雑誌があり、そこに宇和島八ツ鹿踊りのことが少し紹介されている(水島兎人「伊豫宇和島八ツ鹿踊」『郷土趣味』第4巻第3号大正12年3月発行)。

それを意訳すると、

例年京の春を飾る都踊が4月1日から催される。
昨年東宮殿下南豫行啓の時鶴島城下天赦園にて台覧に供した八ツ鹿踊を、
本年度東宮御成婚の祝賀にと上演することとなった。
二荒伯と吉田初三郎の尽力で
2月13日祇園歌舞練場に宇和島の人々を招き
識者都踊関係者に試演してみせることになった。
多くの著名な踊の師匠達の手により舞妓連に如何に振り付けされようか
あの広い都踊の舞台で鶴島城を望んだ天赦園の秋色の背景は
実地を写された吉田氏(初三郎)の手にてできそうである。
南豫の一角に人に知れなかったこの八ツ鹿踊が、
都踊の呼ものとなり、
多くの人々に知らしめる事は宇和島の人々にとって
其の郷土の誇りでなければならぬ。


この『郷土趣味』からわかることがいろいろある。

まず、大正11年11月に東宮行啓で披露した八ツ鹿踊りは、もう早速翌年2月13日に京都祇園歌舞練場に行って試演しているのである。行啓が11月26日だったから実質2ヵ月半という早さである。

その試演に尽力したのが「二荒伯」と「吉田初三郎」。吉田初三郎はあの著名な鳥瞰図絵師。大正時代に宇和島の鳥瞰図も描いている。そして二荒伯というのが、伯爵の二荒芳徳(ふたらよしのり)である。二荒芳徳は宇和島行啓の前年の殿下欧州巡遊時に側近秘書官を務めた人物で、旧宇和島藩主の九代宗徳(むねえ)の九男でもある。彼らの尽力があって京都での試演となったのである。

そしてその直後の4月1日からの京都の都をどりで、八ツ鹿踊りが上演されることになったのである。大正12年のことである。

気になるのが、「多くの著名な踊の師匠達の手により舞妓連に如何に振り付けされようか」という一文である。舞妓が八ツ鹿踊りを演ずることになるが、それは宇和島で踊られていたそのままの芸態ではなく、「多くの著名な踊の師匠達の手により」舞台用に改変させられているのである。この点は、この都をどりの舞台でのことだけであったのか。この舞台での改変に影響されて、それまでの八ツ鹿踊りの芸態に変化は無かったのか。それは気になる点である。実際、現在の宇和島八ツ鹿踊りは他の周辺地域の鹿踊と比べると、優美、繊細で芸術的な印象を受ける。この京都での踊りの師匠による影響は無かったのか。これについても明らかにすべき課題である。

以上のように、牛鬼や鹿踊については、わからないこと、明らかにすべきことが数多くある。宇和島結人プロジェクトが軌道に乗りつつあるので、地元の多くの方々にいろいろと調べていただいて、これらの課題が少しでも解決できることを願っている。


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