上郷の火乃神大明神
八幡浜市上郷の梅之峠というところに、一本の巨大なクスノキがそびえ立っている。このクスノキを調査した「さんきら自然塾」の水本孝志氏達によると、幹周は五〇〇センチ、樹高は約一四メートルで、現在、八西地域で確認されている巨樹クスノキとしては、五番目の大きさらしい。樹齢は地元の人によると、三〇〇~三五〇年といわれている。
このクスノキの近くには、「火乃神大明神」という火伏せの神を祀ったお堂があり、その脇には「神の水」と呼ばれる湧き水が出ている。イボが直ったり、飲むと肝臓が良くなったりすると地元では評判の名水として知られている。ちなみに「神の水」の名称は最近になって付けられたもので、『愛媛新聞』にこの水が取り上げられて以降、使われるようになったそうである。
さて、「火乃神大明神」については、次のような由来伝承が残っている。
今から三五〇年前に、吟兵衛という修験者が、一人馬に乗って名坂峠を越え、上郷梅之峠にたどり着いた。そして、地元の娘と結婚して、この地に住み着いたという。クスノキはその時に植えられたとも言われている。吟兵衛には、権律師正蔵坊という修験者の弟子がおり、彼が「火之神大明神」を祀り始めたという。その修験者の系譜は既に途絶えてしまっており、吟兵衛の子孫にあたる家の者がお堂や湧き水を管理されている。
この修験者について調べてみた。明治五年に編纂された『神山県寺院明細帳』(愛媛県立図書館蔵)によると、明治時代初期に上郷が属していた郷村に、延命山大覚院という修験寺院があり、玄良という者が住み着いていた。この寺院は天台宗系の本山派に属し、祈祷檀家が一五〇軒あったと記されている。そして、この寺院の開基が、万治二(一六五九)年に門覚という者によると記されているのである。今からほぼ三五〇年前のことである。クスノキが植えられた時期、「火之神大明神」が祀り始められた時期と重なっており、この延命山大覚院というのが、吟兵衛や権律師正蔵坊が創始した寺である可能性がある。
明治時代初期には修験道廃止令により、各地の修験者は帰農したりして系譜が途絶えてしまうことが多い。梅之峠のこのお堂も、修験者が帰農し、祀り手がいなくなり、小堂として管理されている。かつては毎年四月三日にお堂の中に西国三十三カ所霊場の掛軸を飾って、地元の者が集まり、お祭りをしていたというが、現在では廃れてしまっているようだ。祀り手の修験者が消え、お祭りも無くなってしまったものの、地元では火伏せの霊験は信じられ、また、そこから出る湧き水は病気直しの効果があると信じられている。民間に土着した信仰の源流が、修験者の活動にあったことを示す一事例と言えるだろう。
2001/03/15 南海日日新聞掲載
八幡浜市上郷の梅之峠というところに、一本の巨大なクスノキがそびえ立っている。このクスノキを調査した「さんきら自然塾」の水本孝志氏達によると、幹周は五〇〇センチ、樹高は約一四メートルで、現在、八西地域で確認されている巨樹クスノキとしては、五番目の大きさらしい。樹齢は地元の人によると、三〇〇~三五〇年といわれている。
このクスノキの近くには、「火乃神大明神」という火伏せの神を祀ったお堂があり、その脇には「神の水」と呼ばれる湧き水が出ている。イボが直ったり、飲むと肝臓が良くなったりすると地元では評判の名水として知られている。ちなみに「神の水」の名称は最近になって付けられたもので、『愛媛新聞』にこの水が取り上げられて以降、使われるようになったそうである。
さて、「火乃神大明神」については、次のような由来伝承が残っている。
今から三五〇年前に、吟兵衛という修験者が、一人馬に乗って名坂峠を越え、上郷梅之峠にたどり着いた。そして、地元の娘と結婚して、この地に住み着いたという。クスノキはその時に植えられたとも言われている。吟兵衛には、権律師正蔵坊という修験者の弟子がおり、彼が「火之神大明神」を祀り始めたという。その修験者の系譜は既に途絶えてしまっており、吟兵衛の子孫にあたる家の者がお堂や湧き水を管理されている。
この修験者について調べてみた。明治五年に編纂された『神山県寺院明細帳』(愛媛県立図書館蔵)によると、明治時代初期に上郷が属していた郷村に、延命山大覚院という修験寺院があり、玄良という者が住み着いていた。この寺院は天台宗系の本山派に属し、祈祷檀家が一五〇軒あったと記されている。そして、この寺院の開基が、万治二(一六五九)年に門覚という者によると記されているのである。今からほぼ三五〇年前のことである。クスノキが植えられた時期、「火之神大明神」が祀り始められた時期と重なっており、この延命山大覚院というのが、吟兵衛や権律師正蔵坊が創始した寺である可能性がある。
明治時代初期には修験道廃止令により、各地の修験者は帰農したりして系譜が途絶えてしまうことが多い。梅之峠のこのお堂も、修験者が帰農し、祀り手がいなくなり、小堂として管理されている。かつては毎年四月三日にお堂の中に西国三十三カ所霊場の掛軸を飾って、地元の者が集まり、お祭りをしていたというが、現在では廃れてしまっているようだ。祀り手の修験者が消え、お祭りも無くなってしまったものの、地元では火伏せの霊験は信じられ、また、そこから出る湧き水は病気直しの効果があると信じられている。民間に土着した信仰の源流が、修験者の活動にあったことを示す一事例と言えるだろう。
2001/03/15 南海日日新聞掲載