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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

上郷の火乃神大明神

2001年03月15日 | 八幡浜民俗誌
上郷の火乃神大明神

 八幡浜市上郷の梅之峠というところに、一本の巨大なクスノキがそびえ立っている。このクスノキを調査した「さんきら自然塾」の水本孝志氏達によると、幹周は五〇〇センチ、樹高は約一四メートルで、現在、八西地域で確認されている巨樹クスノキとしては、五番目の大きさらしい。樹齢は地元の人によると、三〇〇~三五〇年といわれている。
 このクスノキの近くには、「火乃神大明神」という火伏せの神を祀ったお堂があり、その脇には「神の水」と呼ばれる湧き水が出ている。イボが直ったり、飲むと肝臓が良くなったりすると地元では評判の名水として知られている。ちなみに「神の水」の名称は最近になって付けられたもので、『愛媛新聞』にこの水が取り上げられて以降、使われるようになったそうである。
 さて、「火乃神大明神」については、次のような由来伝承が残っている。
 今から三五〇年前に、吟兵衛という修験者が、一人馬に乗って名坂峠を越え、上郷梅之峠にたどり着いた。そして、地元の娘と結婚して、この地に住み着いたという。クスノキはその時に植えられたとも言われている。吟兵衛には、権律師正蔵坊という修験者の弟子がおり、彼が「火之神大明神」を祀り始めたという。その修験者の系譜は既に途絶えてしまっており、吟兵衛の子孫にあたる家の者がお堂や湧き水を管理されている。
 この修験者について調べてみた。明治五年に編纂された『神山県寺院明細帳』(愛媛県立図書館蔵)によると、明治時代初期に上郷が属していた郷村に、延命山大覚院という修験寺院があり、玄良という者が住み着いていた。この寺院は天台宗系の本山派に属し、祈祷檀家が一五〇軒あったと記されている。そして、この寺院の開基が、万治二(一六五九)年に門覚という者によると記されているのである。今からほぼ三五〇年前のことである。クスノキが植えられた時期、「火之神大明神」が祀り始められた時期と重なっており、この延命山大覚院というのが、吟兵衛や権律師正蔵坊が創始した寺である可能性がある。
 明治時代初期には修験道廃止令により、各地の修験者は帰農したりして系譜が途絶えてしまうことが多い。梅之峠のこのお堂も、修験者が帰農し、祀り手がいなくなり、小堂として管理されている。かつては毎年四月三日にお堂の中に西国三十三カ所霊場の掛軸を飾って、地元の者が集まり、お祭りをしていたというが、現在では廃れてしまっているようだ。祀り手の修験者が消え、お祭りも無くなってしまったものの、地元では火伏せの霊験は信じられ、また、そこから出る湧き水は病気直しの効果があると信じられている。民間に土着した信仰の源流が、修験者の活動にあったことを示す一事例と言えるだろう。

2001/03/15 南海日日新聞掲載

長増遁世譚-異界としての四国-

2001年03月15日 | 信仰・宗教
 『今昔物語集』巻第十五の「比叡山僧長増往生語第十五」に、比叡山僧の長増が四国に退隠流浪し、たまたま伊予国で再会した弟子清尋供奉の慰留も退けて終生乞食修行を続けて往生を遂げたという話がある。内容は次のとおりである。今は昔、比叡山の東塔に長増という僧がいた。(長増は天徳四年に律師に任じられた東大寺戒壇和尚名祐(明祐)の弟子である。)ある時長増は僧房を出て厠に行ったきり、自分の数珠や袈裟、経文等を残したまま行方をくらましてしまう。その後、数十年が経過したが、ついに行方はわからなかった。長増の弟子清尋供奉は六十歳程になったころ、伊予守として任国に下った藤原知章に伴って伊予国に着いた。清尋は藤原知章の庇護のもと修法を行い、伊予国内の人々も清尋を敬った。ある日のこと、清尋の僧房の前に立ててある切懸塀の外に一人の老法師がいた。その格好は「蓑ノ腰ニテ●ケ懸タルヲ係テ、身ニハ調布ノ帷、濯ギケム世モ不知ズ朽タルヲ二ツ許着タルニヤ有ラム、藁沓ヲ片足ニ履テ竹ノ杖ヲ築テ」という門付け乞食の姿であった。僧房の宿直をしていた土地の人がその老法師を大声で罵って追い払う。その叫び声を聞いて清尋が障子を開けて乞食に近寄って、笠を脱いだその顔を見れば、老法師は比叡山にて厠に行ったまま行方不明になっていた長増であった。清尋が問い尋ねると、長増は「我レ、山ニテ厠ニ居タリシ間ニ、心静ニ思エシカバ、世ノ無常ヲ観ジテ、此ク、世ヲ棄テ偏ニ後生ヲ祈ラムト思ヒ廻シニ、只、『仏法ノ少カラム所ニ行テ、身ヲ棄テ次第乞食ヲシテ命許ヲバ助ケテ、偏ニ念仏ヲ唱ヘテコソ極楽ニハ往生セメ』ト思ヒ取テシカバ、即チ厠ヨリ房ニモ不寄ズシテ、平足駄ヲ履キ乍ラ走リ下テ、日ノ内ニ山崎ニ行テ、伊予ノ国ニ下ダル便船ヲ尋テ此国ニ下テ後、伊予讃岐ノ両国ニ乞匈ヲシテ年来過シツル也。」と答え、僧房を出てそのまま跡をくらました。やがて、藤原知章が伊予守の任期が終わり上京し三年程たってこの門付け乞食が伊予国にやってきた。今度は土地の人々が彼を貴び敬ったが、間もなく伊予の古寺の後の林にて、この門付け乞食が西に向かって端座合掌し、眠るように死んだ。土地の人々は各人が法事を修した。このことは、讃岐、阿波、土佐国にも聞き伝えて、五、六年間、この門付け乞食のための法事を営んだ。「此ノ国々ニハ、露功徳不造ヌ国ナルニ、此ノ事ニ付テ、此ク功徳ヲ修スレバ『此ノ国々ノ人ヲ導ムガ為ニ、仏ノ権リニ乞匈ノ身ト現ジテ来リ給ヘル也』トマデナム人皆云テ、悲ビ貴ビケル」つまり、「此ノ国々」=四国はまったく功徳をつくらない所であるのに、長増の死があってから功徳を行うようになったので、仏が仮に乞食の身となっておいでになったと語り伝えられている。
 ちなみに、長増の弟子で伊予守藤原知章に伴って伊予に着いて修法を行った「静尋」は、『台密血脈譜』や『阿裟縛抄』八六、『諸法要略抄』によると「静真」と見え、六字河臨法を修している。『諸法要略抄』に「六字河臨法(中略)河臨法者、阿弥陀房静真、為伊予守知章、於予州修之」とあるのである。また、『谷阿闍利伝』によると、静真の弟子皇慶も藤原知章のもとで長徳年間に普賢延命法を行っている。六字河臨法は『阿裟縛抄』八六には、呪咀、反逆、病事、産婦のために修すとあり、公的というよりむしろ貴族の私的修法の性格が色濃いものである。また、普賢延命法は九世紀までは玉体を祈念する国家的修法として発達するも、一〇世紀には有力貴族の私的修法へと転換する(註速水侑『平安貴族と仏教』52頁)。つまり、これらは伊予守藤原知章による私的修法であることがわかる。
 さて、先に紹介した『今昔物語集』長増遁世譚では、四国は「仏法ノ少カラム所」、「露功徳不造ヌ国」と表現されている。『今昔物語集』の他の説話で「四国ノ辺地」と表現されているように、四国は仏法の普及していない「辺土」であったと認識されていたのである。なお、辺地とは、日本国語大辞典では「弥陀の仏智に疑惑を抱きながら往生した者の生まれるところ」(今昔17ー16参照)と紹介されている。
 ここで長増の話しに戻ろう。長増は、厠からそのまま行方をくらましているが、これと同様の行為、つまり厠からの脱出譚は日本の昔話に多く見られるものである。その代表的な話として「三枚の護符」がある。
 ある山寺に和尚と小僧がいた。小僧は山に花を取りに行ったが道に迷って夜になってしまう。小僧は山中の一軒のお婆さんの家に泊めてもらうが、実はこの婆は鬼婆であった。何とかして逃げなければいけないと思い、便所に行き、便所の神の導きで窓から逃げた。神からは三枚の護符を貰い、追っかけてくる鬼婆に投げつけながらようやく寺に戻る、といった話である。
小僧は異界(山)での試練を経験し、寺に帰ってくるのであるが、厠はちょうど異界との境(鬼婆のいる世界と日常入る山・寺)に位置していると認識することができる。厠に関しては、飯島吉晴がその意味、昔話や儀礼におけるその位置づけ、禁忌や俗信、厠神の伝承などを考察しているが、それらを分析すると、厠は異界へ参入する入り口、変身の場、此の世と異界との境というイメージが伴っているとされている(註『竈神と厠神-異界と此の世の境-』)。
 この厠に関する民俗からすると、『今昔物語集』の長増が厠を通じて四国に渡るという行動は、四国が異界であることを象徴していることになるのではないだろうか。
 ここで、さらに四国の異界性について考えてみたい。
 『今昔物語集』三一ノ十四に「今昔、仏ノ道ヲ行ケル僧、三人伴ナヒテ、四国ノ辺地ト云ハ、伊予讃岐阿波土佐ノ海辺ノ廻也、其ノ僧共其ヲ廻ケル」とあり、この史料は海岸廻りの道を僧侶が巡る四国遍路の原初的形態と解釈されている。また、『梁塵秘抄』に「我等が修行せしやうは、忍辱袈裟をは肩に懸け又笈を負ひ 衣はいつとなくしほたれて 四国の辺地をぞ常に踏む」とあるように、僧侶にとって四国は修行の場であった、つまり日常とは異なる空間であったのである。また、武田明によると、本州や九州の人々にとって四国とは海を渡らなければとどかない一種の他界であって、四国が死者の霊魂のこもる霊地であったともいっている(『巡礼の民俗』)。
 四国遍路の習俗を見てみると、遍路の装束は死装束である。実際に巡拝にもちいた白衣を死に装束として用いることはよくある話である。また、遍路がかぶる菅笠に書かれている文言「迷故三界城・・・」とは真言宗や禅宗の葬儀において用いられる文言である。すなわち遍路はそのままで死者に他ならない。(註 真野「四国遍路への道-巡礼の思想-」『季刊現代宗教』1-3 1975・11)
 長増の場合、比叡山の厠を通じて、異界としての四国に上陸し、苦行、門付乞食をしながら、地元の者には忌避されていたが、清尋との再会を契機に尊敬される存在となり、そして往生する。ミルチャ・エリアーデの言うように、イニシエーションつまり人間の宗教的・社会的地位の変革をめざす儀礼で、受礼者は一連の試練を克服し、世俗的生活に終止符を打ち、新たにめざめた生を受けいれることを象徴する。その儀礼の大部分は死とそれにもとづく再生を象徴している。このことにまさに当てはまる事例といえるのではないだろうか。 以上、長増の説話と四国の関係を検討すると次のことがわかる。
 歴史的に見ると、伊予国内においても一〇世紀には国司が私的密教修法を行っていたことがわかる。つまり、これからは、律令的社会体制が崩壊し、個人的な救済が主とする貴族社会へと変容していることが見てとれる。
 ただし宗教的に見ると、四国は、当時の中央から見て「仏法ノ少ナカラム所」であり、史料に修法に関する記事があっても、国司の個人的修法であったため、中央から見れば、やはり、「仏法ノ少ナカラム所」であり、そして一種、異界的世界としてとらえられていたのである。
 後に、四国遍路が成立するのは、その道の険しさ故だけではなく、古代においてそういった異界性が前提としてあったからではないだろうか。儀礼的死人として四国で修行することに再生に達しようとするという遍路の構造が古代にもあり、それが原型であったといえるのである。
 異界性を伴うことから、四国は「死国」であったとも言えるのではないだろうか。

2001年03月15日