弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑦
七 多方面で活躍した空海
あと、大体二〇分ほどになりましたのでまとめに入っていきたいと思います。空海は宗教者ですが、多方面で才能を発揮しています。例えば香川県の満濃池がありますが、満濃池は弘仁九(八一八)年に決壊してしまいます。そして朝廷から修池使として路浜継という人物が復旧の担当となった。しかし修池ができない。そこで、讃岐国や朝廷は困ってどうしたかというと、空海を「修池別当」つまりその池を修す役職に就かせて、そして満濃池に派遣したのです。そうすると、それまでは修築工事にあたる人員がなかなか集まらなかったところ、それを解決させた。この点は『日本紀略』の記述が興味深いので紹介しておきます。『日本紀略』は六国史、先ほどもからよく出ている『続日本紀』とか『日本後紀』等をダイジェスト版でまとめた史料で、記述内容は史実に忠実で史料的価値が高いのです。そのうち、ちょうど空海の活躍した平安時代初期の『日本後紀』は散逸部分が多くて全容がよくわからない。弘仁年間の一部の記録が幸い『日本紀略』に載っていまして、満濃池について書かれています。そこには、空海は「百姓に」(ヒャクショウじゃなくてヒャクセイ、一般の人々)に「父母のごとく恋慕される」とあります。父母のように恋い慕われていると朝廷の編纂史書のダイジェスト版に書かれているのです。そしてその後三ヶ月を経て、満濃池が完成をしたとあります。空海はよく土木技術に長けていたとか、鉱物資源の知識が豊富だったと言われます。それに関する史料も、土木関係でいえばこの満濃池とか益田池などが出てきますが、この満濃池修築にあたって池に関する技術指導を行ったというよりは、修築の際の人員、労働力を集めることができたことが史料からわかります。これは地元讃岐国出身でもあり、空海の人徳に依るところが大きかったのでしょう。これが宗教者としてだけではない側面の空海の業績のうちの一つであります。
もう一つは、教育者としての側面です。空海は天長五(八二八)年に綜芸種智院を開設します。日本で初めての私立学校です。現在も種智院大学が京都市伏見区にありますが、種智院大学も母体は「学校法人綜芸種智院」といいます。今でも名前として残っているのです。「種智」というのは仏智、仏の教え、悟り、知恵という意味ですけども、その前に「綜芸」糸偏に宗と書いて、宗教の宗ですね、そして学芸、芸術の芸です。これは何を意味するかというと、綜合芸術、綜合学術といった意味です。綜芸種智院を創立する際の序文といいますか、趣意書が『性霊集』巻第十に載っています。それを見ると、空海は綜芸種智院で僧侶を育て、真言密教を教えようとしていたわけではありません。何を教えるかというと「三教を教えろ」と書いています。三教とは儒教であり、道教であり、仏教です。だから、単に真言宗の僧侶という側面だけではなくて、その時代、平安時代初期における総合的な知識、学問を貧しい子ども達でも学ぶことができる。このように『性霊集』の「綜芸種智院式」という趣意書を空海が書いているのです。そして空海は、自分が唐に渡ったとき、唐の都長安にはいろんな私塾があった。日本では国の役人になるためには大学や国学があるけれども、長安にはそれ以外にも坊(都が碁盤の目のようになっていて、そのマスにあたる区画)ごとに学校があって、それに驚いたとも書いています。ところが平安京はというと大学一つしかないではないかと。大学が一つあるだけで私塾がないので、綜芸種智院をつくろう。そして、仏教だけではなくて儒教、道教も含めた、この「綜芸」を貧しい子ども達でも勉強ができるようにと建てたと『性霊集』にある。これが綜芸種智院なのです。ところが、綜芸種智院は長く続きませんでした。綜芸種智院は空海が亡くなった後に、丹波国の人に売り払われて、お金に換えられて、それが真言宗の教団経営に充てられてしまいました。そのかわり、その綜芸種智院に関する趣旨、主義、思いというものは現在の学校法人綜芸種智院、種智院大学にまで受け継がれています。この綜芸種智院についての『性霊集』の文章は、現代の教育にも通じる様々な言葉が登場しますので、漢文、古文に興味のある方にはおすすめします。
もう一つ、文学評論家としての側面です。空海は漢詩文で『文鏡秘府論』を著しています。この『文鏡秘府論』の何が凄いのかといいますと、もう時間がないので簡略に説明しますが、空海が漢詩を作るときに、このようにすれば漢詩は上手に作れますよということを書いています。要するに漢詩の制作手引書、入門書です。そして唐の時代、隋の時代、六朝の時代などの様々な漢詩の文例を挙げています。中国の古い時代からの漢詩についていろいろ類例を紹介しながら、例えば陥りやすい「病」を二八種類も挙げたりしています。例えば一行目の一文字目の音がカンで始まるとしたら、二行目でもカンと読める漢字を頭に持ってくると、カンカンになって抑揚が無くなるので、それは一つの病であると書いてあります。具体名もあって「平病」つまり音韻の平らな病ですよと指摘する。そんなことが書かれています。音韻、音律を重視した内容ですが、実はこの『文鏡秘府論』の中に現地中国では既に散逸していて、確認できない文章が含まれています。要するに、空海が日本に持って帰った漢詩文集をもとに、空海が『文鏡秘府論』を書き残してくれた。しかし、当地中国で現代では既に失われてしまっている詩があるのです。このように漢字文化圏、漢詩をつくる文学、文化を有する東アジア全体で、空海は宗教者としてだけではなくて、文学者、文学評論家として広く評価されるべきではないかと思っています。
もう一つ、空海といえば「三筆」と言われます。嵯峨天皇と空海と橘逸勢ですね。橘逸勢も空海と一緒に遣唐使に随行して、一緒に帰国しました。橘逸勢については、少し余談になりますが、空海が残している文章(『性霊集』所収)の中に橘逸勢の悩みが書かれています。橘逸勢は中国語(漢音)が堪能ではありませんでした。当時、桓武天皇が即位したあと、ちょうど空海が大学に入る頃ですが、漢音奨励が始まります。それまでは日本の仏教は呉音中心でした。呉音というのは例えば、死者供養とか言いますよね。供養、供物をキョウヨウ、キョウブツとは言わずクヨウ、クモツですよね。あと、精霊をセイレイではなくショウリョウと読みます。精霊棚はショウリョウダナです。仏教に関する用語の読み方が、普通に小学校、中学校で学ぶ音訓では読めないものがありますが、それはもともと中国南部から朝鮮半島を経由して日本に仏教が伝来した飛鳥時代から奈良時代初期の発音の名残なのです。ところが、その発音を学んで中国北部に位置する唐の長安に行くと、中国南部の呉音では都の発音が理解できなかったのです。それではいけないということで桓武天皇が、延暦年間に僧侶や学者になるにも官僚になるにも漢音を学ぶことを必須とするのです。その第一世代が空海の年代です。ところが、橘逸勢は名門橘氏の出身です。空海はかなり勉強して大学へ入りますが橘逸勢は天平期の左大臣橘諸兄のひ孫、奈良麻呂の孫です。逸勢は名門氏族で充分勉強しなくても遣唐使に随行することができたのでしょう。しかし遣唐使で渡ったら、今度、長安で漢音がわからない。学問ができないということで、それで何をしたかというと琴と書を学んだと『性霊集』に書かれています。琴と書を学んでばかりで中国での正式な学問が修められないので早く帰りたいとも書かれています。そして空海と一緒に帰国することになるのです。そのときに逸勢は漢音ができなかったから書を学んで、その後に「三筆」の一人になってしまうのです。人生はどう転ぶかわかりません。ちなみに『夜鶴庭訓抄』という平安時代の史料があって、そこに「能書の人々」つまり書道の上手な人達が二四名列挙されています。最初に挙げられているのは弘法大師、嵯峨天皇なのですが、最後に特に三人を「三聖」と呼ぶと書いています。それが「弘法、天神、道風」と出てきます。「三筆」「三蹟」ではなく「三聖」です。「弘法」は弘法大師空海のこと、「天神」は菅原道真ですね、「道風」は小野道風。今の時代で言われる「三筆」「三蹟」と異なっています。実は「三筆」「三蹟」という括りになったのは、実は江戸時代なのです。一六〇〇年代後半の貝原益軒『和漢名数』が史料上の初見とされています。
もう一つ、「弘法にも筆の誤り」という言葉があります。弘法大師空海も筆を誤る、猿も木から落ちるというように使いますけれど、『今昔物語集』という平安時代末期成立の仏教説話集を読むと、空海が平安京の南面諸門の額を書くことになります。
史料8『今昔物語集』「弘法大師渡宋伝真言教帰来語第九」
皇城ノ南面ノ諸門ノ額ヲ可書シト。然レバ、外門額ヲ書畢ヌ。亦、応天門ノ額打付テ後、是ヲ見ルニ、初ノ字ノ点既ニ落失タリ。驚テ、筆ヲ抛テ点ヲ付ツ。諸ノ人、是ヲ見テ手ヲ押テ是ヲ感ズ。
応天門という大きな門がありますが、その額を書き終えて門に掲げた後、それを見ると、初めの字の点が「既に落ち失せたり」と書かれています。要するに、応天門の「応」の字の最初の点が無かったのです。ただし、点が無かったのは、空海が間違ったのが原因という様に書かれてはいません。「既に落ち失せたり」です。何故か無かった、落ちて失せていたというのです。そして、それを見て空海は驚いて、門の額めがけて筆を投げて、見事に点を打ちました。多くの人がこれを見て「手を押してこれを感ず」とあります。手を押すっていうのは拍手するということです。現代では「弘法にも筆の誤り」といいますが、誤っていたと書かれていない。誤ったのが主の話ではなくて、何故か額を掲げたときに点が無くて、筆を投げて点を付けたという奇跡が主の話だったのです。「弘法にも筆の誤り」とは一体いつ誰が言い始めたのか私も調べたことはないのですが、平安時代にはちょっと違ったニュアンスの話だったということです。
⑧につづく
七 多方面で活躍した空海
あと、大体二〇分ほどになりましたのでまとめに入っていきたいと思います。空海は宗教者ですが、多方面で才能を発揮しています。例えば香川県の満濃池がありますが、満濃池は弘仁九(八一八)年に決壊してしまいます。そして朝廷から修池使として路浜継という人物が復旧の担当となった。しかし修池ができない。そこで、讃岐国や朝廷は困ってどうしたかというと、空海を「修池別当」つまりその池を修す役職に就かせて、そして満濃池に派遣したのです。そうすると、それまでは修築工事にあたる人員がなかなか集まらなかったところ、それを解決させた。この点は『日本紀略』の記述が興味深いので紹介しておきます。『日本紀略』は六国史、先ほどもからよく出ている『続日本紀』とか『日本後紀』等をダイジェスト版でまとめた史料で、記述内容は史実に忠実で史料的価値が高いのです。そのうち、ちょうど空海の活躍した平安時代初期の『日本後紀』は散逸部分が多くて全容がよくわからない。弘仁年間の一部の記録が幸い『日本紀略』に載っていまして、満濃池について書かれています。そこには、空海は「百姓に」(ヒャクショウじゃなくてヒャクセイ、一般の人々)に「父母のごとく恋慕される」とあります。父母のように恋い慕われていると朝廷の編纂史書のダイジェスト版に書かれているのです。そしてその後三ヶ月を経て、満濃池が完成をしたとあります。空海はよく土木技術に長けていたとか、鉱物資源の知識が豊富だったと言われます。それに関する史料も、土木関係でいえばこの満濃池とか益田池などが出てきますが、この満濃池修築にあたって池に関する技術指導を行ったというよりは、修築の際の人員、労働力を集めることができたことが史料からわかります。これは地元讃岐国出身でもあり、空海の人徳に依るところが大きかったのでしょう。これが宗教者としてだけではない側面の空海の業績のうちの一つであります。
もう一つは、教育者としての側面です。空海は天長五(八二八)年に綜芸種智院を開設します。日本で初めての私立学校です。現在も種智院大学が京都市伏見区にありますが、種智院大学も母体は「学校法人綜芸種智院」といいます。今でも名前として残っているのです。「種智」というのは仏智、仏の教え、悟り、知恵という意味ですけども、その前に「綜芸」糸偏に宗と書いて、宗教の宗ですね、そして学芸、芸術の芸です。これは何を意味するかというと、綜合芸術、綜合学術といった意味です。綜芸種智院を創立する際の序文といいますか、趣意書が『性霊集』巻第十に載っています。それを見ると、空海は綜芸種智院で僧侶を育て、真言密教を教えようとしていたわけではありません。何を教えるかというと「三教を教えろ」と書いています。三教とは儒教であり、道教であり、仏教です。だから、単に真言宗の僧侶という側面だけではなくて、その時代、平安時代初期における総合的な知識、学問を貧しい子ども達でも学ぶことができる。このように『性霊集』の「綜芸種智院式」という趣意書を空海が書いているのです。そして空海は、自分が唐に渡ったとき、唐の都長安にはいろんな私塾があった。日本では国の役人になるためには大学や国学があるけれども、長安にはそれ以外にも坊(都が碁盤の目のようになっていて、そのマスにあたる区画)ごとに学校があって、それに驚いたとも書いています。ところが平安京はというと大学一つしかないではないかと。大学が一つあるだけで私塾がないので、綜芸種智院をつくろう。そして、仏教だけではなくて儒教、道教も含めた、この「綜芸」を貧しい子ども達でも勉強ができるようにと建てたと『性霊集』にある。これが綜芸種智院なのです。ところが、綜芸種智院は長く続きませんでした。綜芸種智院は空海が亡くなった後に、丹波国の人に売り払われて、お金に換えられて、それが真言宗の教団経営に充てられてしまいました。そのかわり、その綜芸種智院に関する趣旨、主義、思いというものは現在の学校法人綜芸種智院、種智院大学にまで受け継がれています。この綜芸種智院についての『性霊集』の文章は、現代の教育にも通じる様々な言葉が登場しますので、漢文、古文に興味のある方にはおすすめします。
もう一つ、文学評論家としての側面です。空海は漢詩文で『文鏡秘府論』を著しています。この『文鏡秘府論』の何が凄いのかといいますと、もう時間がないので簡略に説明しますが、空海が漢詩を作るときに、このようにすれば漢詩は上手に作れますよということを書いています。要するに漢詩の制作手引書、入門書です。そして唐の時代、隋の時代、六朝の時代などの様々な漢詩の文例を挙げています。中国の古い時代からの漢詩についていろいろ類例を紹介しながら、例えば陥りやすい「病」を二八種類も挙げたりしています。例えば一行目の一文字目の音がカンで始まるとしたら、二行目でもカンと読める漢字を頭に持ってくると、カンカンになって抑揚が無くなるので、それは一つの病であると書いてあります。具体名もあって「平病」つまり音韻の平らな病ですよと指摘する。そんなことが書かれています。音韻、音律を重視した内容ですが、実はこの『文鏡秘府論』の中に現地中国では既に散逸していて、確認できない文章が含まれています。要するに、空海が日本に持って帰った漢詩文集をもとに、空海が『文鏡秘府論』を書き残してくれた。しかし、当地中国で現代では既に失われてしまっている詩があるのです。このように漢字文化圏、漢詩をつくる文学、文化を有する東アジア全体で、空海は宗教者としてだけではなくて、文学者、文学評論家として広く評価されるべきではないかと思っています。
もう一つ、空海といえば「三筆」と言われます。嵯峨天皇と空海と橘逸勢ですね。橘逸勢も空海と一緒に遣唐使に随行して、一緒に帰国しました。橘逸勢については、少し余談になりますが、空海が残している文章(『性霊集』所収)の中に橘逸勢の悩みが書かれています。橘逸勢は中国語(漢音)が堪能ではありませんでした。当時、桓武天皇が即位したあと、ちょうど空海が大学に入る頃ですが、漢音奨励が始まります。それまでは日本の仏教は呉音中心でした。呉音というのは例えば、死者供養とか言いますよね。供養、供物をキョウヨウ、キョウブツとは言わずクヨウ、クモツですよね。あと、精霊をセイレイではなくショウリョウと読みます。精霊棚はショウリョウダナです。仏教に関する用語の読み方が、普通に小学校、中学校で学ぶ音訓では読めないものがありますが、それはもともと中国南部から朝鮮半島を経由して日本に仏教が伝来した飛鳥時代から奈良時代初期の発音の名残なのです。ところが、その発音を学んで中国北部に位置する唐の長安に行くと、中国南部の呉音では都の発音が理解できなかったのです。それではいけないということで桓武天皇が、延暦年間に僧侶や学者になるにも官僚になるにも漢音を学ぶことを必須とするのです。その第一世代が空海の年代です。ところが、橘逸勢は名門橘氏の出身です。空海はかなり勉強して大学へ入りますが橘逸勢は天平期の左大臣橘諸兄のひ孫、奈良麻呂の孫です。逸勢は名門氏族で充分勉強しなくても遣唐使に随行することができたのでしょう。しかし遣唐使で渡ったら、今度、長安で漢音がわからない。学問ができないということで、それで何をしたかというと琴と書を学んだと『性霊集』に書かれています。琴と書を学んでばかりで中国での正式な学問が修められないので早く帰りたいとも書かれています。そして空海と一緒に帰国することになるのです。そのときに逸勢は漢音ができなかったから書を学んで、その後に「三筆」の一人になってしまうのです。人生はどう転ぶかわかりません。ちなみに『夜鶴庭訓抄』という平安時代の史料があって、そこに「能書の人々」つまり書道の上手な人達が二四名列挙されています。最初に挙げられているのは弘法大師、嵯峨天皇なのですが、最後に特に三人を「三聖」と呼ぶと書いています。それが「弘法、天神、道風」と出てきます。「三筆」「三蹟」ではなく「三聖」です。「弘法」は弘法大師空海のこと、「天神」は菅原道真ですね、「道風」は小野道風。今の時代で言われる「三筆」「三蹟」と異なっています。実は「三筆」「三蹟」という括りになったのは、実は江戸時代なのです。一六〇〇年代後半の貝原益軒『和漢名数』が史料上の初見とされています。
もう一つ、「弘法にも筆の誤り」という言葉があります。弘法大師空海も筆を誤る、猿も木から落ちるというように使いますけれど、『今昔物語集』という平安時代末期成立の仏教説話集を読むと、空海が平安京の南面諸門の額を書くことになります。
史料8『今昔物語集』「弘法大師渡宋伝真言教帰来語第九」
皇城ノ南面ノ諸門ノ額ヲ可書シト。然レバ、外門額ヲ書畢ヌ。亦、応天門ノ額打付テ後、是ヲ見ルニ、初ノ字ノ点既ニ落失タリ。驚テ、筆ヲ抛テ点ヲ付ツ。諸ノ人、是ヲ見テ手ヲ押テ是ヲ感ズ。
応天門という大きな門がありますが、その額を書き終えて門に掲げた後、それを見ると、初めの字の点が「既に落ち失せたり」と書かれています。要するに、応天門の「応」の字の最初の点が無かったのです。ただし、点が無かったのは、空海が間違ったのが原因という様に書かれてはいません。「既に落ち失せたり」です。何故か無かった、落ちて失せていたというのです。そして、それを見て空海は驚いて、門の額めがけて筆を投げて、見事に点を打ちました。多くの人がこれを見て「手を押してこれを感ず」とあります。手を押すっていうのは拍手するということです。現代では「弘法にも筆の誤り」といいますが、誤っていたと書かれていない。誤ったのが主の話ではなくて、何故か額を掲げたときに点が無くて、筆を投げて点を付けたという奇跡が主の話だったのです。「弘法にも筆の誤り」とは一体いつ誰が言い始めたのか私も調べたことはないのですが、平安時代にはちょっと違ったニュアンスの話だったということです。
⑧につづく