愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

中津川の百矢祭2

2001年05月03日 | 八幡浜民俗誌
中津川の百矢祭2

 中津川の百矢祭の由来は、『八幡浜市誌』によると、五反田元城の家臣井上治部少輔が初めて庄屋になった永禄三(一五六〇)年ごろ、彼の生国大和国の風習から、武芸の奨励を目的として始めたものと紹介されている。中津川の大元神社は、正長元(一四二八)年に若山大元神社から勧請したもので、神社には社殿を造営した際の棟札が、宝徳三(一四五一)年から延宝六(一六七八)年までのものが四枚残っており、百矢祭が中世に始められたという伝承はあながち虚構ではないようである。八幡浜市内各所の祭りの起源は、古くても江戸時代にまでしか遡ることができず、戦国時代以前からの伝統を受け継ぐと考えられる祭りは、この中津川の百矢祭以外には見られないと思われ、この祭りは中世的要素を持つものとして貴重と言える。
 なお、愛媛県内の弓祭りは、①川之江市・宇摩郡新宮村、②越智郡、周桑郡、北条市、③南予地方の以上の三地域に集中的に分布しており、それ以外の地域では全く見られない。これらの弓祭りは室町時代から戦国時代にかけての中世に起源が遡るものが多く、やはり中世的な祭事といえる。ちなみに、県内最古の弓祭りに関する史料は、北条市夏目の池内文書の中にある明応九(一五〇〇)年「熊野谷権現社役之事」で、文中に「正月十日(中略)祝はふしゃの役也」とある。
 南予地方の事例としては、東宇和郡野村町長谷の天満神社の百矢行事がある。十三の的を作り、太郎組、次郎組とに分け、十三の的を射て、終わりの一矢でカワラケを付し、これを射落として終了するものであった、明治四十五年に以降中断しており、祭りの起源・由来に関しては不詳である。しかし、この神社の創建も中世に遡り、中世以来の祭りであったと推測できる。(『渓筋郷土誌』参考)
 さて、百矢祭のような歩射行事以外に、南予地方には各地に流鏑馬も存在していた。瀬戸町三机八幡神社、宇和町東多田八幡神社、明浜町大浦天満神社、野村町白髭三島神社の祭りに行われ、県内では南予にのみ伝承されていたものである。しかも宇和周辺に分布していることに気が付く。これらの淵源も中世に遡るといわれ、中世に宇和を治めていた西園寺氏が伝えて周囲に広まったものとも推察されている。
 南予地方の祭りを代表するものとしては、牛鬼や鹿踊、四ツ太鼓、山車、唐獅子、相撲練りなどが挙げられるが、これらはいずれも江戸時代に宇和島藩領内において流行し、定着した近世的要素の強いものである。今ではほとんどが廃れてしまった弓祭りは、伊達家入部以前の中世西園寺氏の治下において流行したものと思われ、現存唯一の弓祭りである中津川の百矢祭は、南予全般を見渡しても、古い型の祭りの残存と言えるのである。

2001/05/03 南海日日新聞掲載
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