あび卯月☆ぶろぐ

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天皇陛下からのお電話

2008-12-24 23:46:21 | 歴史・人物
―田中君、ちかごろよく天皇から電話がかかってくるんだよ、さびしいって。
天皇はぼくよりちょっと年上だからね。江上、ちょっと話をしたいんだがと。そうすると宮内庁から車が迎えに来て行くんだよ。
―はあ、どんな話をなさるんですか。
―それは騎馬民族説でね。天皇家は馬に乗って朝鮮半島を通って日本にやってきた、って申し上げるんだ。すると天皇はとても興味をもってきいてくれるんだ。


以上は高島俊男さんの『お言葉ですが・・・』八巻で紹介されている田中克彦さんの「騎馬民族説と江上波夫の思い出」(『図書』2003年七月号)の一節だ。
ここでの天皇は昭和天皇を指す。
高島さんは「小生たまげた。雑誌の記事でこんなにびっくりしたのははじめてだ」と感想を述べている。
つまり、普通の人間とはまったくことなる方というイメージの昭和天皇が臣民にジーコジーコ電話をかけて「もしもし」なんてとても想像できない、と。
私もそう思う。
昭和天皇御自身が自ら電話をかける姿は想像できない。

そこで、高島さんは「電話をかけてきたのはおつきの人」、「皇居へむかう車のなかで先生(あび註:江上波夫)が「突然のお召しで驚きました」と言うと、おつきの人が「陛下もおさびしいのでしょう」と頬笑んだ」のではないかと類推されている。
そして、
「あのかたが臣民にむかって「ぼくはさびしい」なんぞ仰せになるはずがない。威厳にかかわる。やっぱり「朕」でないとね」
とも書いている。

これ、実際のところどうなのだろう。
まず、江上波夫さんが田中克彦さんにこの話をしたのは二十年前。
2003年から遡れば1973年頃になる。
戦前は言わずもがな、戦後とはいえ天皇陛下が一国民に直接電話を掛けることはありえるのだろうか。

作家の牛島秀彦は宮内庁の侍従に「天皇、皇后、それに皇太子などに、直通電話はないんですか?」と質問したエピソードを『昭和天皇と日本人』(河出文庫)に書いている。
この質問に侍従は
「御居間に、直通電話はございません。ただ侍従などの連絡用のインターホーンがあるだけです。お住まいになっている吹上御所には、方々に直通電話がありますから、そこへ行かれれば、技術的にできないことはございませんが、陛下が直接電話口に出られたり、ダイヤルをまわされることは、ないんです……。すべて用件は侍従を通してなされるわけです。ええ、直接陛下宛にかかってくることもありません。いえ、いろんな電話がかかってくることは、もちろんありますが、直接おつなぎなどはしないわけです」
と答えた、とある。

このことから、江上さんが言った「ちかごろよく天皇から電話がかかってくるんだよ」というのは天皇陛下から直接というのではなく、高島さんの推理どおり侍従などおつきの人からの電話と考える方がよさそうだ。

ただ、昭和天皇が一般国民と直接電話した例が二つほどある。

一つは二・二六事件のとき。
事件発生の翌日夜八時、昭和天皇は事態の状況を把握するため麹町署に直接電話をお掛けになっている。
電話に出たのは当時二十八歳の大串宗次巡査。
電話口から「ヒロヒト、ヒロヒト・・・」と声がする。
大串巡査はピンと来ず、電話は一旦切れてしまった。
今度は別の声で「いま、日本でいちばん偉いお方がお出になる。失礼のないように」とおごそかにいう。
この非常事態のときになにをタワケたことをと大串巡査は少しムッとしたという。
すると、先刻の「ヒロヒト」の声。
大串巡査はわけがわからぬまま、「ヒロヒト」の質問に答えた。
「鈴木侍従長は生きているか」
「はい、生きております」
「それはよかった。間違いはないか……」
「昼間、確認してきました。(略)」
「総理はどうか」
「たぶん生きているでしょう」
「証拠はあるのか……」
「かねてより、非常事態にそなえての避難所が設けてあります」
「それだけでは、難をのがれたかわからんではないか」
「それ以上の情報はとれません」
「それではチンの命令を伝える。総理の消息をはじめ状況をよく知りたい。見てくれぬか。……名前はなんていうか」

ここにきて大串巡査は戦慄を覚える。
「チン(朕)」の一言に声の主は天皇陛下だと気づいた。
巡査はできる限り状況を見てくる旨を伝え、自分の名前は緊張のあまり、「麹町の交通です、麹町の交通でございます」とだけ答えた。
電話はそれで切れ、大串巡査はその後、天皇に報告する機会はなかったが、戦後の昭和二十五年、警部に昇進した大串氏は皇居拝謁の栄に浴する。
その際、昭和天皇は侍従を通じて「この中にコウジマチコウツウはいないか」とお尋ねになったという。

もう一つの例は戦後の御巡幸のとき。
昭和二十二年六月六日、朝日新聞大阪本社にて朝日新聞東京本社の長谷部重役と通話されている。
翌日の朝日新聞の記事はこの模様を次のように伝えている。

長距離電話は初めてなのか、受話器を強くおつけになったり離されたり、お額にはじっとりと玉のような汗、このとき東京本社の長谷部重役は陛下がおききだとのことに電話口に出て「天皇陛下でいらっしゃいますか」陛下は前かがみにお体を起こして目をパチパチとされる。
「こちらは東京代表の長谷部でございます。おきこえになりますか」
「…………」
「もし、もし、おきこえになりますか」
「ウーン、いまきこえる」
とお答えになった。
「先日は東京の美術展覧会にお出でをいただき、今日はまた大阪本社に行幸いただきまして有りがとうございます。新聞社の御印象はいかがでございましょうか」
陛下「大変に――ずいぶんいそがしいように思った。はじめてみて大変によい印象をえた」


この記事からは昭和天皇が電話に不慣れであることが読み取れる。
それにしても、陛下が朝日新聞社の重役と電話され、新聞社の印象を述べられるというのも興味深い。

他にも昭和天皇が一般国民と電話をされた例はあるのかもしれないが、私が知っているのはこの二例のみ。
(他に御存知の方がおられたら是非お教えください)

ところで、高島さんは天皇の一人称について「やっぱり「朕」でないとね」と書いている。
じじつ、大串巡査に対しても「朕」と述べておられる。
が、普段、人とお話になるとき昭和天皇は御自身のことを「私」と述べておられた。
これは戦前でも周囲の人にはそうだった。
所謂、終戦の御聖断を決せられた御前会議でも閣僚の前で「外に別段意見の発言がなければ私の意見を述べる」と一人称に「私」を使われている。
戦後、細川隆元と語られたときもやはり「私」でとおされている。(細川隆元『天皇陛下と語る』参照)
大串巡査に「朕」と云ったのは天皇が臣下に対し、命令を伝えるという特殊な状況だったからだろう。
いわば、個人的に会話をしたのではなく、勅語や詔勅に近いかたちだ。
むろん、戦前の勅語や詔勅のなかではすべて「朕」が使用されている。

さて、以上は昭和天皇のお話。
昭和天皇の時代は基本的にまず侍従が相手に電話を掛けてから天皇に取り次いでいた。
ところが、皇室ジャーナリストの松崎敏弥さん監修の本(『皇室 素朴な大疑問』雄鶏社)によるといまの陛下の時代になってからはすべて自分からかけられるようになったという。
だから、江上さんが言ったように「ちょっと話をしたいんだが」ということもあるかもしれない。
それでも、天皇陛下から直接お電話をいただくことは考えにくい。
あっても、御学友など古くからの友人に限られるのではないか。
いや、もしかすると、なんらかの方法で陛下と懇意になれば、陛下から電話が掛かってくる日がくるのかも。


*****
参考文献:
高島俊男『お言葉ですが・・・9 芭蕉のガールフレンド』(文春文庫)
黒田勝弘、畑好秀・編『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)
松崎敏弥[監修]『皇室 素朴な大疑問』(雄鶏社)
牛島秀彦『昭和天皇と日本人』(河出文庫)
『グラフィックカラー昭和史 14 昭和史と天皇』(研秀出版)
細川隆元『天皇陛下と語る』(山手書房)

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4 コメント

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Unknown (amakara)
2008-12-27 00:32:32
大変面白く読みました。

高島さんの文章はすでに読んでいましたが、後半の2つは未読でした。ぜひ読んでみたいと思います。
返信する
Unknown (あび卯月)
2008-12-27 02:27:08
コメントありがとうございます。

amakaraさんに弊ブログを御覧になっていただけるのは嬉しいと同時になんだか恥づかしい気もいたします。
(いつもくだらない記事ばかりですません)

念のために出典を書いておきますと、
二・二六事件の大串巡査とのエピソードは『グラフィックカラー昭和史 14 昭和史と天皇』と『昭和天皇語録』を参照にしました。

昭和二十二年の朝日新聞の引用記事は牛島秀彦『昭和天皇と日本人』からの孫引きです。
なお、この牛島さん「天皇制」に対してかない批判的なスタンスで、『昭和天皇と日本人』で貫かれている思想は私のそれと相容れない部分が多いのですが、昭和天皇が女官を「この大馬鹿ものメ」と叱りつけた話などが紹介されていたりとなかなか興味深い本でした。
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Unknown (T. Okushi)
2009-01-21 13:32:56
昭和天皇との電話にまつわるエピソード,興味深く読ませて頂きました。

私は大串宗次の孫です。
祖父は私が生まれるよりも前に亡くなっていますが,親戚を通してこのエピソードを聞いた覚えがあります。
昭和25年の皇居拝謁の件に関しては詳しく知りませんでしたが,祖父は長年にわたって警察官として勤務した後に叙勲を受けましたので,その時に何らかの形で再び陛下のお目に掛かる機会があったかもしれません。
出典資料も読んでみたいと思います。

ご参考までにコメント致しました。
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>T. Okushiさんへ (あび卯月)
2009-01-21 18:30:54
コメントありがとうございます。

大串宗次さんのお孫さんということで大変驚きました。
ネット上とはいえ、御子孫の方から書き込みを戴くとは嬉しいと同時に不思議な気持ちがいたします。

>祖父は私が生まれるよりも前に亡くなっていますが,親戚を通してこのエピソードを聞いた覚えがあります。

やはり、御親戚の間でもこのエピソードは語りつがれているのですね。
ところで、大串巡査さんとのエピソードで私がもっとも参考にしたのが『グラフィックカラー昭和史 14 昭和史と天皇』なのですが、ここには大串さんのお名前について「大串宗次」とあるのですが、『昭和天皇語録』には「大串長次」とありました。
(『昭和天皇語録』を引用して紹介している『昭和天皇と日本人』も同じく「長次」)
私はどちらが正しいのだろうと疑問に思っていたのですが、これは「宗次」が正しいということですね。

なお、参考文献として、『目撃者が語る昭和史・第一巻昭和天皇』にもこのエピソードが紹介されているようです。
これは私もまだ読んでいませんので近い内に読んでみたいと思います。
他にも『週刊文春』昭和三十五年七月二十五日号に大串さんの特別手記「モシモシ、天皇陛下ですか?」が掲載されています。
『昭和天皇語録』の記述もここからの引用です。
もっとも、これは入手が大変困難で、私も手にしたことありません。
(もしかしたらT. Okushiさんの御親戚のどなたかが保管しているかもしれませんね)

繰り返しになりますが、このたびは書き込み本当にありがとうございました。
ブログをやっていてこういう機会に恵まれるのがなによりの楽しみです。
またなにか御座いましたらお越しください。
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