(2月10日の手賀沼公園この日は晴れだがきのうの雪が残っている)
(手賀沼遊歩道にある文学広場の石碑の一つ)
手賀沼公園の「文学の広場」にあった志賀直哉の碑にも雪が残っていた。
志賀直哉が我孫子市に住んだのは大正のはじめ(大4 ~ 大12 )で、大正九年に発表された「雪の日」はこんな書き出しだ。
「二月八日 昼ごろからサラサラと粉雪が降って来た。
前から我孫子の雪が見たいと云っていたK君が泊りに来ている時で丁度よかった。
自分には雪だと妙に家にじっとしていられない癖があった。それで女中の行く筈だった町の使を引きうけてK君と一緒に家を出る。」
我孫子駅駅前の商店で色々と会話を交わし、買い物をした様子が書かれ、次のような描写に続く。
「柳の家に寄る。座敷でピアノの音がして、K子さんが東京から来たお弟子に歌を教えていた。柳は離れの書斎を石油ストォヴで温かくして勉強していた。
今日はリーチが来る筈だという。
間もなく稽古をすましたK子さんが入ってきた。そしてお弟子から貰ったものがあるからと晩飯を勧めた。
色々な荷物があるので自分だけとにかく一度帰って来る事にする。
雪は降って降っている。書斎から急な細い坂をおりて、田圃路に出る。沼の方は一帯に薄暮ではいたようになって、いつも見えている対岸が全く見えない。沼べりの枯蘆が穂に雪を頂いて、その薄墨の背景からクッキリと浮き出している。その蘆の間に、雪の積もった細長い沼船が乗り捨ててある。本統に絵のようだ。」
それから、バーナードリーチも加わって会話が続き、九時ごろ家を出る。
「帰る時物尺を雪に立てて見たら、七寸五分あった。」
大正 9 年 (1920) 2 月 8 日我孫子に降った雪は 23cmほど積もったことが分かる。
平成 31 年(2019)2 月 8 日~9 日我孫子に降った雪は路上をうっすらと覆った程度だった。
志賀直哉の旧邸に行ってみた。
ここには雪は残っていなかった。
説明板はとても分かりやすかった。
旧邸の前に白樺文学館があって、その音楽ホールに柳兼子さんのピアノで、森嶋謙一郎氏(我孫子在住の会社員で音楽家)がバッハを弾いておられた。次にショパンのノクターンを弾いて下さった。
このホールの地下に、柳兼子さんの音楽活動を鑑賞できる心地よい部屋が用意されている。
この文学館は小さいけれどとても充実している。
旧志賀邸の前の道(大正の頃は沼が足許まで来ていた)を西に 200mほど行ったところに煎餅屋があった。
大正時代は農家だったが、子孫の方が暖簾分けで戦後店を開いたそうだ。
霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、~~清少納言
雪道を(あまり雪も残っていないようですが)、
白樺文学散歩とは、渋いですね。
谷氏もあの辺り、ざっと歩いた記憶があります。
志賀直哉住居跡も見ました。
文学館ではピアノとクラリネットのディオを聞いた。
手賀沼湖畔の施設(公会堂?)で白樺カレーを食しました。
大正ロマン、戦乱の昭和、不公平・格差の平成、新しい元号はどんな時代に……
三本のシイの古木に因み、加納治五郎が「三樹荘」と名付けた別荘、当時柳宗悦が住んでいましたが、まだランプの生活だったようです。
我孫子は、そんな大正時代が窺える街です。
雪が忘れず降ってくれるのもうれしいですね。