座間コミニティー

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◆ああ、できれば、

2016年11月19日 17時09分16秒 | 聖書
どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。(ヨブ二三・三)
せっぱつまった時、ヨブは主を呼び求めた。苦難の中にある神の子どもの心からの願いは、もう一度、父の御顔を拝することである。ヨブの第一の祈りは、「今、私の全身に広がっている病をいやしてください」でも、「私の子どもたちが墓から救い出され、私の財産が、略奪者の手から再び返されますように」でもなかった。彼の第一の、そして最も痛烈な叫びは、「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい」であった。神の子どもたちは、あらしが来る時、家に駆け戻る。すべての悪から逃れて、主の翼の下に避け所を求めるのは、恵みを受けたたましいが天から受けた本能である。「彼は神を避け所としている」は、真の信者のだれについても言える。
偽善者は神に苦しめられる時、怒りを発し、奴隷のように、むちを打つ主人から逃れようとする。しかし、天国の真の相続人はそうではない。彼は自分をむち打つ手に口づけし、自分に対して顔をしかめておられる神の御胸に避け所を求める。
神と交わりたいというヨブの願いは、他のすべての慰めの源が閉ざされたことによって、さらに強められた。この族長は、同情する友人たちに背を向けて、天の御座を仰いだ。あたかも、旅人が空になった皮袋を捨てて、全速力で泉に向かうように、彼は地上的な希望に別れを告げ、そして叫んだ。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知りたい」と。
私たちは周囲がすべて空虚であることを知る時ほど、創造者の尊さを教えられる時はない。この地上の巣箱に少しも蜜がなく、多くの鋭い針があることを発見する時、私たちは、激しい軽蔑の思いをもってそれに背を向け、喜んで主のみもとに帰る。その忠実なみことばは、蜜よりも巣箱よりも甘美である。
あらゆる逆境の中で、まず神が共にいますことを覚えるように努めよ。主の御顔の笑みを喜ぶことのみを努めよう。そうすれば、主の愛に力づけられて、喜んで日ごとの十字架を担うことができるようになる。
 

「それゆえ、私の霊は私のうちで衰え果て、

2016年11月19日 17時08分27秒 | 聖書

私の心は私のうちでこわばりました」(詩編143:4)

身体的にも精神的にも霊的にも、人には限界がある。
身体を余りに酷使すると病気になり、心も極度の圧迫が来ると病気になる。

心身、目一杯使うと消耗する。
ストレスが余りにも続いて、許容量オーバーになると、心が衰え果てることを経験する。

それは、対人関係で悩んだり、様々な問題に苦しんだりする時だ。
こわばるとは心の余裕がなくなってしまう事だ。

普段なら、平気で乗り越えられ、何の問題にもならない事が、心に余裕が無いので受け入れられない。
心がすさんで、ピリピリし、いらいらし、とげとげしくなる。

心が否定的になり、人の言葉や態度への反応もネガティブになる。
イライラして仕方がない。
又、それが自己嫌悪になり、そんな自分が嫌で受け入れられず、ますます落ち込んで行く。

これは霊的補給ができていないので、ゆとりを失っている状態だ。
ダビデはこの後、「昔の日々を思い出し、神のなさったすべての事に思いを巡らし、御手のわざを静かに考える」事によって、再び引き戻され、引き上げられている。

今、あなたがイライラし、余裕が無いなら、同じようにすればよい。
霊的補給が必要なのだ。

今までの溢れる恵みと感謝を一つ一つ思い起こしてみよう。
神に心を向けてみわざを思い起こす時、御霊に触れ、心が新たにされる。
落ち込みから、賛美と感謝に変えられる。
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御手のわざを静かに考える事は、とても大切だ。
立ち止まり静まって神様と交わろう。
必ず潤いと喜びは戻ってくる。神様の導きに、また自分を委ねる事が出来るようにされる。



今日の聖人の記念日

2016年11月19日 07時24分49秒 | キリスト教

聖ポンチアノ教皇

在位230年-235年

 ポンチアノは、教皇ウルバヌス1世の後を次いでローマ司教(教皇)になった。当時は、神学者オリゲネスが書いた種々の著作が論議を巻き起こしていたので、教皇もその一部に反対せざるを得なかった。またオリゲネスに傾倒していた聖ヒッポリト(8.13参照)と教えについての論争が続いており、教皇座が分裂していた。

 在位してから5年後、ローマ皇帝マクシミヌス1世によるキリスト教迫害が起こり、ポンチアノはヒッポリトとともにサルデェニヤに流された。そこで、2人は和解し親しい友人となり、教皇座の分裂が終わった。ポンチアノは、強制労働をさせられた後、ヒッポリトとともに殉教した。2人の遺体は、教皇ファビアーヌスによってローマに戻され、埋葬された。

ハックボルンの聖メヒティルト

1241年-1299年

 聖メヒティルトは、ドイツ、テューリンゲン州の高貴な家庭に生まれた。7歳のときに母に連れられて、姉のゲルトルード(ハックボルンの)が住んできたシトー会、ロダースドルフ修道院を訪ね、両親の反対を押し切って、彼女も入会を決めた。姉のゲルトルードは後にヘルフタの修道院長になった。

 彼女が修道院長で、歌の才能に恵まれていたことから、修道院の聖歌隊を指導をしていたことが、ヘルフタの大ゲルトルード(1256年-1302年)の著作から知られている。また1261年、当時5歳だった大ゲルトルードがベネディクト会修道院にあずけられたとき、彼女を教育したのはメヒティルトであった。

 メヒティルトは生涯のなかで、数々の神秘体験をした。あるとき、彼女は霊的慰めもなく、病のために1ヵ月以上ベッドに伏していた。しかし、神から豊かな恵みが彼女に注がれ、その後、今までの霊的体験を人びとに打ち明け始めた。彼女の体験はヘルフタの修道女たちによって、『特別な恩寵の書』(平凡社刊)として書きつづられた。この書は、中世神秘主義の代表作あり、イエスのみ心に対する崇敬や、苦しみにおいて受難のイエスと一致することなどが描かれている。メヒティルトにとって、人間の心は神と人とが出会う根源的な場であり、個人としてだけではなく、地上、天上の人びとが共同体として神をたたえ、その取りなし手として聖母マリアを捉えるというビジョンを持っていた。

 1299年に修道院で平和と沈黙のうちに亡くなった。


ヨブ記30章24-31節

2016年11月19日 07時23分47秒 | 聖書


30:26 「私が善を望んだのに、悪が来、光を待ち望んだのに、暗やみが来た。
30:27 私のはらわたは、休みなく煮えたぎる。悩みの日が私に立ち向かっている。
30:28 私は、日にも当たらず、泣き悲しんで歩き回り、つどいの中に立って助けを叫び求める。」



 神からの助けがない時、自分の内にあるのは、はらわたが煮えくりかえるほどの苦しみだと語ります。

自分は神に善を求めて願ったのに、到来したものは苦しみであり、悪であった。

自分は太陽の明るさを伴う光を待ち望んで歩いたのに、到来したものは暗闇であったと語るのです。

 神からの言葉も助けもない時、自分ができることは、この苦しみと悩みの内に泣き悲しんで歩き回ることのみだ、と語るのです。

ヨブは、人からの助けを求めているのではありません。

彼は神を愛し、また神のみが自分のことをよく知ってくださっているお方であると信じて、信頼しています。

しかし、そのお方から何も返事がない時、そこには闇しかないと言うのです。



◆迷  わ  す  者

2016年11月19日 07時19分32秒 | 聖書

正直な人を悪い道に迷わす者は、
自分の掘った穴に陥る。
しかし潔白な人たちはしあわせを継ぐ。(箴言二八10)
迷う者のほうにも、責任がないわけではありません。つまずく者にも、やはり落度がありましょう。それは不注意だと言われても、仕方がありません。
しかし、イエス・キリストは「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」(マルコ九42)と言われました。きついことばです。何でそんなにきびしく言われているのかは、マルコの福音書を続けて読むと分かります。「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです」(マルコ九43)。永遠のいのちの尊さは比べるものがないからです。
私の知り合いのスチュワーデスの娘さんは、指の先がちょっと痛かっただけなのに、病院で調べてもらうと、腕一本切り落とすというのです。がんでした。いのちを助けるために、腕一本は犠牲にすべきです。いのちは、そんなに尊いものです。
鉄道線路の上に面白半分に置いた小石一つが、電車を転覆させ、多くの人が死ぬとしたら、その小石を置いた行為はゆるしがたいことです。それと同じように、純真な人たちを罪にさそい、悪にいざなう人はゆるせません。目の不自由な人の前に石を置いて、倒れさせるのと似ています。霊的精神的なことで何が一番人をつまずかせるかと考えますと、人の偽善ほど、人をつまずかせて人を迷わし、滅びの道へ突き落とすものはないと思います。それに反して、ありのままで正直な潔白な人は、人につまずきを与えません。
 

◆愚かな議論……

2016年11月19日 07時18分36秒 | 聖書
を避けなさい。(テトス三・九)
私たちの一生は短い。それで有益に過ごすために、それほど重要でない問題の議論に時を費やすより、むしろ良いわざに励むべきである。昔の学者たちは、実際重要でない問題を議論することで、常にわざわいを招いた。私たちの教会も、難解な点や重要でない問題についてつまらない論争をすれば、多くの苦しみを経験する。双方が言いたいことを全部言い尽くして論争することによって、どちらの側も別に知識がつくのでも、愛が増すのでもない。このような不毛の畑にいつまでも種を蒔いているのは愚かなことである。
聖書が沈黙している問題、神にのみ属する奥義、意味不明瞭な預言、人の定めた儀式、これらに関する質問はみな愚かなものであって、賢明な人の避けるものである。私たちのとるべき態度は、これらの愚かな質問をすることでも、またそれに答えることでもなく、全く避けることである。もし私たちがテトスへの手紙三章八節にあるように、使徒の教訓を守って、努めて良いわざに励むことを心がけるならば、私たちは価値のない不必要な論争に関心をもたず、より有益なことに従事するようになるであろう。
しかしここに、このような愚かな質問とは逆の幾つかの質問がある。私たちはこれを避けることなく、公正に直面しなければならない。その質問とはこうである。私は主イエスを信じているか。私の心は新たにされているか。私は肉によらず、御霊によって歩んでいるか。私は恵みのうちに成長しているか。私の語ることばは救い主の教えをあがめているか。私はちょうどしもべが主人の帰りを待ちわびるように、主のご再臨を待ち望んでいるか。イエスのためにさらに尽くす道がないか。このような質問は、私たちにとってきわめて大切である。
もし私たちが今まで愚かな議論にふけっていたとするならば、ただちに私たちの批評の力を、さらに有益な奉仕に向けようではないか。私たちはことばと行いにより他の人の調停者となって、「愚かな議論を避ける」ように人々を導こうではないか。
 

ヨハネの福音書3章5節

2016年11月19日 07時16分57秒 | 聖書


★イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。


■O:今日のコラム
「水と御霊」これは聖書における重要なテーマです。聖書の初めの創世記は「水と御霊」から始まり「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」(創世記1:2)。そして聖書の最後の黙示録は水と御霊によって閉じます。【御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。】(黙示録22:17)。

「水と御霊」これを別の言葉で言い表すなら「霊とまこと」「聖霊と真理」「祈り礼拝と御言葉」「ハープ&ボール」という言葉で言う事が出来ます。「真理と聖霊」は共に働き、私達の内なる人と教会に真の命をもたらし、神の御国をこの地に前進させる力となります。車の車輪の様に片側だけでは前進する事が出来ません。同じように「真理と御霊」この両輪が揃ってこそ前進する事が出来るのです。

教会には絶対に聖霊様が必要です。このお方こそが教会の命の灯火であり、私達聖徒達を花嫁として整え、完成させるお方です。聖霊様を歓迎しない歩みは次第に信仰の眠りに陥り、霊的な死へと至ります。しかし、真理がなく霊的な満たしだけを求める時、そこに次第に偽りの啓示や預言が混ざり、教会に混乱と分裂をもたらすものとなります。

また教会には絶対に真理の御言葉が必要です。御言葉は私達の足の灯火であり、御言葉に聞き従い生きる時、いのちがそこに満ち溢れる様になります。しかし、聖霊様を抜きにした真理は、宗教と律法主義の霊性を教会にもたらし、教会から喜びと生きた礼拝を奪ってしまう事となります。それなので私達の歩みには霊だけではなく、また真理だけでもなく「真理と御霊」の両方が必要なのです。

神の聖徒達を生きた者とし、神の国の相続者とする「水と御霊」。そして、さらにここにあと一つ重要な要素を加えるとするなら「主イエスの血潮」です。「御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」(1ヨハネ5:8)

私達が天の栄光をこの地に反映し、主イエス・キリストにある性質を持って生きる為にはこのシンプルな事「御霊と水と血」に注目をする必要があります。それなので私は日々の祈りの中で聖霊様の臨在を歓迎し、主を賛美し礼拝し、異言で祈り、聖霊様にある新しい満たしを求めて祈ります。また御言葉を朗読し、御言葉を告白して祈り、御言葉をもって主を褒め称え、御言葉の水によって身を洗います。また主イエスの血潮を告白して祈り、あらゆる罪汚れから聖められ、神の国の相続者として堅く立つ事を覚えます。

あらゆる教えや惑わしが氾濫しているこの時代。ますます私達は聖書が語るシンプルな事へと帰り、それを堅く実行して行こうではありませんか。

■A:考えてみよう
日々継続して、御霊と水と血により祈り、キリストに属する聖さを受け、花嫁としてこの身を整えましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


11月18日(金)のつぶやき

2016年11月19日 01時37分09秒 | キリスト教