座間コミニティー

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◆このころ、イエスは祈るために山に行き、

2016年11月12日 19時28分08秒 | 聖書
神に祈りながら夜を明かされた。(ルカ六・一二)
女から生まれた者のうち、祈りなくして生活できる人があるとするなら、それは傷のない完全な主である。しかし、だれも主のように多くの祈りをした者はいない。主は御父をこよなく愛していたので、御父との交わりを何ものにもまさって愛された。また、ご自分の民を心の底から愛されたので、彼らのために多くとりなしをすることを望まれた。イエスがこのように祈り深かった事実は、私たちに良い教訓を与える。主は、私たちに足跡を踏ませるために、模範を残された。
主が祈りのために選ばれた時は注目に値する。それは群衆にわずらわされない沈黙の時であった。主を除くすべての者が活動を停止した休息の時であり、睡眠によって自分のわざわいを忘れ、それから解放されるために、神に嘆願することをやめている時であった。
場所もまた、よく選んでおられた。主はだれも妨げられず、また見られない所にただひとり入られた。こうしてパリサイ的な見えや無作法な妨げから自由になることがおできになった。暗黒と静寂におおわれるあたりの丘々は、神の御子のためにかっこうな礼拝堂を形づくっていた。夜半の沈黙を守る天と地は、神秘の君のうめきと嘆きに耳をそばだてていた。
主の執拗な祈りはまことにあざやかである。長い夜も主にとっては短く、冷たい風も主の熱いお心をさますことはない。無気味な暗黒は主の信仰に影を落とさず、寂しさもその執拗さをゆるめなかった。私たちは主とともに一時たりとも目を覚ましていることはできないが、主は夜を徹して私たちを見守られた。
主が祈られた時期も注目に値する。それは、主の敵が激怒した後であった。――そのため祈りは主の避け所となり、慰めとなった。またそれは、十二使徒を派遣する前であった。――そのため祈りは主のご計画の門となり、新しい働きの先ぶれとなった。私たちが特別な試みの中にある時、あるいは主の栄光のために新しい事を計画しようとする時、特別な祈りに頼るべきことを、イエスから学ぶべきである。
 

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。

2016年11月12日 19時27分19秒 | 聖書


そうすれば、あなたの計画はゆるがない」(箴言16:3)

今、あなたの計画、しようとしている事があるだろうか。
それを、一旦主に明け渡して、委ねよと。
神のためでなく、自らの欲望によるものかも知れない。

それが神の御心なら、きよめられて返って来る。そして、堅く揺るがないものとされる。
神から出た計画でなければ返って来ない。

それは御心ではなかった事になる。
「主にゆだねる」とは、“自分は”ああして、こうしよう。これこれの町に行き、商売をしてもうけよう、という事ではなく、“主は”私を通して何をしようとされているのか、主の御心は何か、を見い出して行くことだ。

発想の転換だ。
「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」神の御心だけが成就する。

肉の計画は立ち行かず、途中でストップする。成就して行かない。まず確信が来ない。
それは状況が変わる度に、心は揺れ動き、風に吹かれて揺れ動く海の大波のようだ。

どんなに完璧に計画したとしても、人の計画は挫折する。
しかし、神の御心との確信があれば、見えるところ何があろうと、心の底に動く事のない平安がある。

状況がどうなろうと、その平安は揺るがない。そして、どんなに不可能に見えても、神が、道無き所にも道を造られ、その計画は成就する。
今、しようとしている事を神に献げよう。
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しようとしている事を神様に尋ねているだろうか。
これなら大丈夫と肉の思いで立ち動く前に、些細な事も祈り、委ねるようにしたい。
神様とともに歩んでいこう。


今日の聖人の記念日

2016年11月12日 08時45分13秒 | キリスト教

聖ヨサファト司教殉教者

1580年ごろ-1623年

 ヨサファトは、ポーランドのウラジミルで生まれた。当時はローマ教会(カトリック)とロシア正教会との合同運動が起こっていて、ヨサファトの父はローマ教会に属していた。ヨサファトは、ヴィルノの商人見習いとして働いたが、彼の興味は商売よりも教会のことに向けられていた。そしてイエズス会の司祭と出会い、修道者になることを決意し、1604年に聖バジリオの修道会に入り司祭となった。彼の説教はすばらしく、人びとを感動させ、カトリックと一致するように導いた。

 1617年にポロツクの大司教に選ばれた後も、合同運動に力を注ぎ、この運動に反対する人びとから、幾度も命を襲われたが、それにも屈せず熱心に続けた。彼は、いつも「あなたたちの牧者として小羊のために喜んで命をささげます。教会の一致のために……」と言っていた。この言葉のとおり、彼は反対者から暴行を受け、殺された。彼は、教会一致の使徒と呼ばれている。


◆卑しい愚かさ

2016年11月12日 08時44分07秒 | 聖書

愚か者を臼に入れ、
きねでこれを麦といっしょについても、
その愚かさは彼から離れない。    (箴言二七22)
ずいぶん痛烈なことばです。戦時中は、よく玄米を一升びんに入れて、細い棒でついて白米にしたものです。そんな心もとない精白方法でも、根気よくやれば、りっぱに精白できました。ところが、どんな臼でひいても精白できない。――それが愚か者だというのです。
箴言の他の箇所にも、「愚か者」についての痛烈なたとえがありました。「なぐられても痛がらず、たたかれてもたたかれたと分からないで、もっと飲みたいと言っている酔っぱらいのようだ」とか、「犬が自分の吐いた物・排せつした物に帰っていき、食べてしまうように、何度も愚かさをくりかえす」(二三35、二六11参照)と言われています。
預言者エレミヤは、ほんとうの愚か者についてこう言っています。「主よ。……あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。彼らを絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けようともしませんでした。彼らは顔を岩よりも堅くし、悔い改めようともしませんでした」(エレミヤ五3)。そしてエレミヤは彼らを「実に卑しい愚か者だ」と言いました。
力も度胸もあるくせに、頭能も才能もあるくせに、卑しい愚か者が、この世にはいるのではないでしょうか。神と人との前に「ごめんなさい」というひとことが言えない愚か者・悔い改めることができない愚か者にはなりたくないと、つくづく思います。
「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」(箴言一7)のです。
 

◆信仰の試練……。

2016年11月12日 08時43分03秒 | 聖書
(Ⅰペテロ一・七)
信仰は、試練を受けなくても本物であるかもしれない。しかしそれは弱い信仰である。信仰は試練を受けない限り、発育不全に終わる可能性が大きい。信仰はすべてが非である時に、最も旺盛になる。暴風は信仰を訓練するものであり、稲妻は信仰を啓発するものである。
海が穏やかな時は、たとえあなたが帆を上げたとしても、船は目指す港に進まない。なぜなら、海が眠るならば、船もまた眠るからである。ひとたび風が吹き荒れ、波が起こり立つならば、船は揺れ、甲板は波に洗われ、マストは張りつめた帆のためにきしむ。しかし、その時こそ、船はまっしぐらに目ざす港に向かって突き進むのである。
氷河の縁に咲く花ほど、愛らしい色を帯びたものはなく、極地の空に輝く星ほど明るい光を放つものはなく、また砂漠にわき出る水ほど甘美なものはない。同じように、逆境の中にあって生き、勝利を得た信仰ほど尊いものはない。
試練によって信仰は経験をもたらす。川を横切ることを余儀なくされるまでは、あなたは自分の弱さを認めることができなかったであろう。そしてあなたは大水の中で支えられなければ、決して神の力を知ることもなかったに違いない。信仰は試練によって鍛練されればされるほど、その強さ、確かさ、熱烈さを加える。信仰は尊い。そして、その試練もまた尊いものである。
しかし、このために信仰の若い者が落胆する必要はない。あなたが試練を求めなくても、試練は必ず来る。適当な時に十分に与えられる。それまでは、あなたは深い経験を要求することはできない。しかし、今あなたが受けているだけの恵みを神に感謝せよ。あなたが到達しただけの聖い確信のために神に感謝せよ。この方法によって歩め。そうすれば、あなたはいよいよ神の祝福を受け、ついにあなたの信仰が山を動かし、不可能を征服するに至るであろう。
 

ヨブ記28章20-28節

2016年11月12日 08時41分32秒 | 聖書


28:26 「神は、雨のためにその降り方を決め、いなびかりのために道を決められた。
28:27 そのとき、神は知恵を見て、これを見積もり、これを定めて、調べ上げられた。
28:28 こうして、神は人に仰せられた。『見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。』」



 神は、雨や稲光までも支配されるお方である。

あらゆることを知り、また御心のままにご支配したもうお方である。

従って、その方とその方の御心を知る道は、人の努力や探索によるのではない。

神が語られたこと、また神が示されたこと、それを素直に人が聞いて従うところに、神を知ることが出来る道がある。

神は、御自身のことを知らせておられる。

みことばをもって、語っておられる。

その語っておられることに聞き、その聞いたことに従っていくことが、神と神の御心を知る道である。

そこに真の知恵がある。

人の能力と知恵に依存するのではなく、神の言葉に聞き従うところにこそ、真の知識と知恵を与えられる道があるというのです。



士師記6章 24~25節

2016年11月12日 08時35分26秒 | 聖書


★そこで、ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけた。これは今日まで、アビエゼル人のオフラに残っている。その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。


■O:今日のコラム
ギデオンは弱い者でありましたが、主は彼を「勇士よ。」(別訳では「大勇士よ。」)と呼び、ミデヤンの圧迫からイスラエルを救う為に立ち上がらせました。彼が敵を打ち破りイスラエルを救いに導く前に、最初にした行動は、私達もこの時代において学校や職場、家庭や街々で神の国の影響を与える為の重要なポイントとなります。

私達の戦いはまず祭壇における戦いである事を覚える必要があります。ギデオンは主のために祭壇を築き、偶像の祭壇を取りこわしました。それぞれの職場や学校、家庭において主の為の祭壇を築く事は非常に重要な事です。ある大学生達は日々学校に行き朝、昼、夕方に各10分の祈りと礼拝の時間を校内で持ち、大学に祈りの祭壇を築いています。私達の遣わされた地で聖霊様の臨在を歓迎して礼拝し、御言葉を朗読し、主イエスの血潮を告白して祈り、日々祈りの祭壇を築いて行こうではありませんか。

また生活習慣の中から偶像の祭壇を壊す必要があります。うわさ話や批判、情欲や不品行、行き過ぎた願望や怒り、訴え、恐れなど・・・これらは心の中で私達の偶像となりうる可能性があります。
全てが悪いわけではありませんが、テレビやインターネット等も限度を超えると、私達から多くの時間を奪い、心をこの世の思いで満たし、祈りや礼拝に心が向かう事が出来なくなってしまいます。その為に、日々私達の内にある偶像の祭壇を打ち壊し、主の為の祭壇を築いて行きましょう。そうするなら私達もギデオンの様に、弱い者が強くされ、それぞれの職場や学校、そしてこの時代に主イエス・キリストの救いを運ぶ、主の勇士として用いられる事となるでしょう。


■A:考えてみよう
日々の生活習慣の中から偶像の祭壇を打ち壊し、主の為の祭壇(日々の礼拝)を回復しましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


11月11日(金)のつぶやき

2016年11月12日 01時34分04秒 | キリスト教