聖ポンチアノ教皇
在位230年-235年
ポンチアノは、教皇ウルバヌス1世の後を次いでローマ司教(教皇)になった。当時は、神学者オリゲネスが書いた種々の著作が論議を巻き起こしていたので、教皇もその一部に反対せざるを得なかった。またオリゲネスに傾倒していた聖ヒッポリト(8.13参照)と教えについての論争が続いており、教皇座が分裂していた。
在位してから5年後、ローマ皇帝マクシミヌス1世によるキリスト教迫害が起こり、ポンチアノはヒッポリトとともにサルデェニヤに流された。そこで、2人は和解し親しい友人となり、教皇座の分裂が終わった。ポンチアノは、強制労働をさせられた後、ヒッポリトとともに殉教した。2人の遺体は、教皇ファビアーヌスによってローマに戻され、埋葬された。
ハックボルンの聖メヒティルト
1241年-1299年
聖メヒティルトは、ドイツ、テューリンゲン州の高貴な家庭に生まれた。7歳のときに母に連れられて、姉のゲルトルード(ハックボルンの)が住んできたシトー会、ロダースドルフ修道院を訪ね、両親の反対を押し切って、彼女も入会を決めた。姉のゲルトルードは後にヘルフタの修道院長になった。
彼女が修道院長で、歌の才能に恵まれていたことから、修道院の聖歌隊を指導をしていたことが、ヘルフタの大ゲルトルード(1256年-1302年)の著作から知られている。また1261年、当時5歳だった大ゲルトルードがベネディクト会修道院にあずけられたとき、彼女を教育したのはメヒティルトであった。
メヒティルトは生涯のなかで、数々の神秘体験をした。あるとき、彼女は霊的慰めもなく、病のために1ヵ月以上ベッドに伏していた。しかし、神から豊かな恵みが彼女に注がれ、その後、今までの霊的体験を人びとに打ち明け始めた。彼女の体験はヘルフタの修道女たちによって、『特別な恩寵の書』(平凡社刊)として書きつづられた。この書は、中世神秘主義の代表作あり、イエスのみ心に対する崇敬や、苦しみにおいて受難のイエスと一致することなどが描かれている。メヒティルトにとって、人間の心は神と人とが出会う根源的な場であり、個人としてだけではなく、地上、天上の人びとが共同体として神をたたえ、その取りなし手として聖母マリアを捉えるというビジョンを持っていた。
1299年に修道院で平和と沈黙のうちに亡くなった。