座間コミニティー

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◆神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。

2018年04月30日 19時04分41秒 | 聖書
その総計は、なんと多いことでしょう。(詩篇一三九・一七)
神の全知は、不信仰な人の心には何の慰めも与えない。しかし、神の子どもに対しては、あふれるばかりの慰めを与える。神は常に私たちのことを考えておられ、常に目の前に私たちを置いてくださる。これは、私たちにとっても願うところである。たとえ一瞬でも、天の父の御目の届かない所で生きるのは、私たちにとって実に恐ろしいことだからである。主の御思いは常に優しく、愛に富み、賢明であり、思慮深く、広範囲に及び、数えきれない益を私たちにもたらしている。したがって、それらを思い出すことは何よりの喜びである。主は常にご自分の民のことを考えておられた。それゆえにこそ、彼らの選びがあり、彼らの救いをもたらす恵みの契約があった。主は、これからも常に彼らのことをお考えになる。したがって、彼らは最後まで支えられ、安全に最後の安息にまで導かれる。
私たちがさまよう時、永遠の見張りの者の絶えることのない視線が私たちの上に注がれており、私たちは決して、羊飼いの目の届かない所に迷い出ることはない。私たちの悲しみの時、主は絶えず私たちを見つめ、ただ一つの苦しみさえ逃されない。私たちが労苦する時にも、私たちのすべての疲れに心を配り、主の忠実な子どもたちのすべての戦いを記録される。これらの主の思いは、私たちが歩むすべての道で私たちを囲み、心の奥底まで見通してくださる。
愛する友よ。これはあなたにとって尊いことではないか。ではそれをしっかり守れ。非人格的な神などを信じてはならない。主は生きておられ、私たちのことを思っていてくださる。この真理は、軽々しく奪われるにはあまりにも大きい。高貴な人に知られるということは非常に価値のあることであり、そのようにされるならば、自分の運命が開かれたと思う。しかし、王の王によって自らの存在が知られることは、なんとすばらしいことか。主が私たちを念頭に置かれるならば、すべてはよく、私たちは永久に喜ぶ。
 
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「私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。

2018年04月30日 19時03分35秒 | 聖書

・・つのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです」(Ⅰサムエル1:16)

エルカナには二人の妻がいた。
ペニンナには子供がいたが、ハンナにはいなかった。
ペニンナは、夫がハンナを愛している事に激しく嫉妬していた。
それで、ペニンナはハンナをいじめた。
ハンナは、子供がいないという、その急所を突いて攻撃され、ハンナの苦しみ、悲しみ、辛さは尋常でなかった。

痛みと苦しみのため、ハンナは主の御前に出て、心を注ぎ出し、激しく泣きじゃくった。
唇が動くだけで、声が聞こえないので、祭司エリは、彼女が酔っていると思った。
彼女がことごとく主に打ち明け、気持ちも感情も表わし、泣いて訴えた後、祭司から「安心して行きなさい。願いが叶えられるように」との言葉を受けた。
その時、彼女は変わった。もう以前のようではなかった。

私たちも、辛い、苦しい状況の時は、泣いて訴えるとよい。
気持ちも、感情も、何もかも受け止めて下さるお方だ。
人に言えば「愚痴」が、神に向けると「祈り」となる。
心の悲しみ、苦しみ、不安も恐れも、何もかも訴えて、委ねて行く時、心がすっきりし、平安にされる。主が受け止めて下さるからだ。

ハンナの胎を閉ざされたのは主であり、ご計画があった。当時の堕落した、霊的暗黒時代を導くサムエルを、祈りにより産み出そうとされた。
そのためにハンナが用いられた。
あなたの今の苦しみにも、深いご計画と御心がある。大きな祝福が産み出される。
---------------
ネガティブな思いを人に語り自分に語り続けても何の解決にもならない。
主に心をうち広げ語ろう。
主が受け止めて下さり、そこに人のすべての考えにまさる神の平安がある。

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おはようございます。

2018年04月30日 06時47分38秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2018年04月30日 06時46分09秒 | キリスト教

聖ピオ5世教皇

在位1566年-1572年

 アントニオ・ギズリエーリは、1504年にイタリアのロンバルディアの貧しい家に生まれた。若いときにドミニコ会に入り、1550年に宗教裁判所長となって異端審問官を長く務めた。厳格で禁欲的な人であり、また、信心深く、臨終の人を慰めたり、施しを求める貧者を家に招いていた。教会に対する大きな愛と、聖母マリアに対する熱烈な信心が、彼の活動のエネルギーだった。

 教皇になってからは、教会全体から不道徳を払拭し、トリエント公会議の改革規定の実現に力を注いだ。ローマ・カトリック要理(1566年)を出版し、聖務日課書を改訂し、ミサの形式を確立した。現在行っているミサの形式は、この時代に定式化されたローマ典礼によっている。

 晩年は、ロザリオの祈りの形態を定め、トルコ軍の攻撃によって危機に陥ったヨーロッパ・キリスト教諸国のために、マリアの保護を求めてロザリオの祈りを広めたので、「ロザリオの教皇」と呼ばれている。没150年後に列聖された。

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◆家族への態度

2018年04月30日 06時44分31秒 | 聖書

自分の家族を煩わせる者は風を相続し、
愚か者は心に知恵のある者のしもべとなる。(箴言一一29)
家庭がうまくいかないということは、私たちのまわりを見まわすと、それこそどこにもあるようです。
家庭の中心となるべきものは愛です。愛によって、家庭はやすらぎの場となります。ここでやすらぎを得てこそ、外で活躍する力が私たちに与えられましょう。家庭が平和でないと、外での対人関係もスムースにいきません。家の中がいびつなら、外に出てもいびつです。
「自分の家族を煩わせる者」=家族にひずみを与える者です。家庭にひずみを与える子がいると、その家庭はどんなに苦しく、また暗いことでしょう。また、父親が家庭を顧みず、家庭に仕える愛の責任を果たさない時、どんなにその家庭は、冷たく寂しくうつろなことでしょう。家族の一人一人の心に与える傷は深く、家庭をだめにしてしまうのです。
「風を相続する」=人生をうつろにしてしまうことです。心の一番奥底に、後ろめたさ・寂しさがつきまといます。その結果、対人関係も自信がなくなり、うまくいかなくなります。他人なら逃げ出すことができても、家族は互いに逃げ出せません。苦しめたり苦しんだりするのです。そして、もし逃げ出せばおしまいです。そんな情況の原因となる人は、それ以外のことでもうまくいかないでしょう。
人の実力とは、単なる能力だけではありません。頭が切れること・仕事ができること・人が使えること・先が読めること・計画がよく立てられることでもありません。まわりの人を愛し受け入れていけることではないでしょうか。
現代ほど愛の歌をうたう時代はありません。しかし、愛はどこにあるのでしょう。「ここに愛がある」(Ⅰヨハネ四10)と聖書は言います。神に、キリストに、その十字架に、現代の奇蹟があります。
 
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◆イスラエル人はみな……

2018年04月30日 06時43分22秒 | 聖書
つぶやき……。(民数一四・二)
昔イスラエルの宿営に不平があったように、今もクリスチャンの中に不平がある。彼らはむちが加えられると患難の時をのろう。彼らは尋ねる。「なぜこんなに苦しむのだろう。私がどんな悪事をしたというので、このように罰せられるのだろう」と。つぶやく者よ。なぜ天の父のご配慮をうらむのか。主があなたを苛酷に扱いすぎることがあり得るのか。あなたはかつていかに神に反抗したことか。しかし神はあなたを赦された。もし神がその知恵によりあなたを懲らしめるのをよしとされたなら、あなたは不平を言うべきではない。
あなたは自分の罪に相当する厳罰を受けているか。あなたの心中の腐敗を考えてみよ。そうすれば、腐敗が除かれるために、そのように多くのむちが加えられなければならないことに驚くであろうか。あなた自身を量りにかけて、自分の金の中にいかに多量の不純物が含まれているかを確かめよ。それなら、多くの不純物をきよめるため、火が熱すぎると思うであろうか。あなたの高慢な反抗的精神は、あなたの心が全くきよめられていないことを証明しているではないか。その不平のことばは、神の子たちの聖い従順な性質に反するものではないか。それの矯正が必要ないであろうか。しかし、もしあなたが懲らしめに対して不平をもつならば、つぶやく者にはいっそう激しい罰が下ることに注意せよ。神は最初のむちを素直に受けない子どもに、いつでも再び懲らしめを加えられる。しかし次の一事を知れ。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」
主の矯正はすべて愛から出ており、あなたをきよめ、ご自身に引きよせようとされるためである。もしその懲らしめが父から来ることを認めるならば、たしかに素直に受けるべきである。「『主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」「彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」
 
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詩篇102篇12-17節

2018年04月30日 06時38分41秒 | 聖書

102:12 しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。
102:13 あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。


「しかし、主よ」と、語っています。

つまり、人がいくら主にある人々を苦しめ、「自分たちがすべてのことを支配して治めているのだ」と言っても、そうではない。

「真に世界を支配し導いておられるのは、人ではなく、主であられるあなたです」と言っているのです。

主こそが、とこしえにその御座について御支配をしておられる方、そのすべてを治めておられる方であるといって、告白をしているのです。

このお方が決意をされた時に、すべてのことが動き出し、その御心の実現を見ると言っています。

しかも、主はその御心を、主にある者達の方に向けて下さり、事をご計画して実現してくださると語っています。

 そして今や、その恵みのご計画が実現したのです。

キリストによる神の救いの時が、ここに到来したのです。


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創世記15章6節

2018年04月30日 06時29分57秒 | 聖書

★彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。



■O:今日のコラム
アブラハムは主の言葉を信じました。それがアブラハムの義と認められました。

人は心に信じて義と認められます。しかし、信仰によって生きることは、ここで終わりません。信仰によって生きるとは、信じたところによって生きることです。それは行動によって全うされます。

実際のところ、心で信じただけで行動が変わらなければ、何も変わらないのと一緒です。

天気予報で「今日は記録的な大雨です。」と流れていてもまだ晴天であったなら、天気予報を信じていない人は、傘一つ持っていかないのではないでしょうか?一方、それを信じて生きる人は、まだ雨を見ていないのに、傘を備えて出かけるのではないでしょうか?それが見ているところでなく、信じているところで生きる事を表していると思います。

私たちは、まだ見ていない御言葉の成就を信じて備えをする民です。そのためにしてはならないことをやめ、そのために変わらなければならないことに変化を求め、そのためにするように命じられていることを行って生きることは、信仰によって生きるのです。

信仰によるアクションは、私を生かし、私自身と私の周りに救いをもたらすのです。人は心に信じて義と認められます。しかし、口で告白するという信仰のアクションが救いをもたらすのです。心の中に始まった主の信仰を与えるみわざは、誰しもが見ることができる実となって、世の光となって現れるのです。

まだ結果を見ていないことに嘆くことなく、主により頼みましょう!信じているところによって歩み、生きていきましょう。見ずに信じる者は幸いであるという御言葉を信じましょう!必ず、時が来ると実がなり、全ての人はその偉大な光を見ることになるのです。



■A:考えてみよう
まだ実を見ていない約束を信じて、信仰の一歩を踏みだす。
見ているところによってでなく、信じているところによって生きる。


■P:祈り
あなたの与えてくださった約束を感謝します。あなたは真実な方です。あなたが言い送った言葉は、必ず事を成し遂げて、あなたのもとに帰っていくことを信じます。
見ているところによってでなく、信じているところによって生き、歩むことができるようにさせてください。なかなか結果を見れなくとも、私は約束を手放しません。あなたは必ず事を成し遂げられることを信じ、信頼して生きていきます。



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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4月27日(金)のつぶやき

2018年04月28日 02時32分23秒 | 仏教
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クラブ25

2018年04月27日 16時42分46秒 | 小説・詩

哀くるしく

たまらなく

あなたを

追い着きたい

ドラマのシーン

よりも

ドラマテック

篤いあなたの眼差しが

私を抱きしめていく

天使たちが

ふたりを

祝福する

幸いなるかな

貧しき者

https://youtu.be/jb-cKx5_gVk

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おはようございます。

2018年04月27日 07時40分53秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2018年04月27日 07時40分17秒 | キリスト教

聖ジタおとめ

?-1278年

 ジタは、イタリアの貧しい家に 生まれた。父母の教えに従って、「心は神に、手は仕事に」をモットーによく祈り、よく働いた。13歳のとき裕福な家のお手伝いとなり、生涯そこで働いた。ジタは心やさしく、貧しい人にたびたび食べ物などを分け与えていた。あるクリスマスの夜に、凍えそうな老人に出会い、コートを貸した。実はその老人は天使であったと言われ、そのことによってますます彼女は、人々から尊敬されるようになった。

 ジタは60歳でその生涯を閉じ、遺体は彼女が祈りに通った聖フレディアノ教会に、今も横たわっている。

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◆豊かになる方法

2018年04月27日 07時39分03秒 | 聖書

ばらまいても、なお富む人があり、
正当な支払いを惜しんでも、
かえって乏しくなる者がある。    (箴言一一24)
私の尊敬している友人三浦綾子さんは、ある小説の最後に、「人間の価値を決めるものは、その人が地上でどんなに集めたかでなく、どれだけ散らしたか、ばらまいたかである」というようなことを書いておられます。それが私の心にこびりついています。
私たちはだれでも、豊かな人生を望んでいます。「お金も豊か、友達も大勢。いつもにぎやかに人が寄ってくるような、知識も力も豊かな人生」と。ところが、その豊かさの秘密は、受ける側になることではなく、与える側にまわることなのです。
札幌の町の真ん中を流れる川にサケがのぼってきたという話を聞きました。それは四年前に、五センチほどに育ったサケの子を惜しげもなく放流しておいたからでした。ところで、私がつりに行った時のことですが、四、五十匹の小ブナをつってきたことがありました。放してやるのが惜しくてなりません。小さな水槽に入れ、何とかして生かして人に見せてやりたいと努力しました。けれども、二、三日のうちに、酸欠でみな死んでしまいました。
私たちの神は、祝福しようとして待ち構えていらっしゃる神なのです。受けた祝福を惜しげもなく人に流していくと、より多くの新しい祝福を次々に送ってくださいます。自分のためにだけ祝福をためこむ人には、神は新しい恵みを注ぎこめません。今まで持っていたものまでくさって、どんどん貧しくなるのです。
使徒パウロは、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ八32)と言いました。また、イエス・キリストご自身「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒二〇35)と言われたのです。
 
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◆神、私たちの神が、

2018年04月27日 07時38分14秒 | 聖書
私たちを祝福してくださいますように。(詩篇六七・六)
私たちが神の与えてくださる霊的祝福をほとんど活用していないのには、驚くほかはない。しかしさらに不思議なことは、私たちがほとんど神ご自身を活用していないことである。神は「私たちの神」なのに、私たちは神に注意を向けることが少なく、求めることも非常にわずかである。困難に会う時、重荷を主の肩に投げかけて支えていただこうとはせず、常に自分で重荷を担おうとする。私たちは故意に主の助けを仰がない。なぜなら主のほうでは「たましいよ。わたしはおまえのものだ。来て望むままに用いなさい。おまえは自由にわたしの倉庫に来ていいのだ。その回数の多いほど歓迎する」と言われるからである。神の富を自由に用いていないことは、私たちの過失なのである。
あなたはすばらしい友をもち、主はあなたを招かれる。だから、日々必要とするものを主から引き出せ。助けを得るために行くべき神がおられる限り、あなたは決して欠乏を感じないし、あなたを支えられる神がおられる限り、決して恐れや失望に陥ることはない。あなたの宝庫へ行き、必要なものを持ち出せ。神をあなたのすべてとすることを学べ。神はあなたにすべてのものを与えてくださる。さらに適切な表現をすれば、神はあなたのためにすべてのものの代わりになられる。そのゆえに、あなたの神を利用するようにお勧めする。祈りにおいて利用せよ。しばしばみもとに行け。主はあなたの神であられる。
神のみもとに急いで行き、必要の一切を訴えよ。暗黒の運命があなたを閉じ込めたなら、あなたの神を「太陽」として用いるようにせよ。敵があなたを襲うなら、主をあなたの「盾」とせよ。主はその民にとって太陽であり、盾である。あなたが人生の迷路で行く道を見失ったら、主を「道案内」とせよ。主はあなたの導き手である。あなたが何者であろうと、またどこにいようと、神は、あなたが求めるそのものであり、あなたが求めるその場所におられ、あなたの願う一切をなすことのできるお方であることを記憶せよ。
 
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詩篇102篇8-11節

2018年04月27日 07時36分33秒 | 聖書

102:8 私の敵は一日中私をそしり、私をあざける者は私を名ざして毒づきます。
102:9 これはみな、私が、パンを食べるように灰を食べ、私の飲み物に涙を混ぜ合わせたからです。


主によって歩み、主のために生きようとする時に、それは良いことなのですが、人からは苦しみを受けることがあります。

自分が支配者であり、自分の思いに従わせようとする人々からは、侮辱と苦しみとを受けることがあります。

そうした苦しみの中でも、なお主のみことばに従って生きようとしますと、時にそれが暴力的な苦しみや痛みを伴ってしまうことがあります。

そして、こうしたことを見ている人々からも、侮辱されている人が悪いと思われて、軽視されることもあります。

ここで作者は、こうしたことを語って、自分は灰をパンのように食べ、自分の涙を飲み物として飲んできましたと語って、その苦しみとつらさを訴えています。

私たちにも、信仰面での覚悟が必要です。

主が苦しめられたので、私たちも苦しめられるのです。

主にあって覚悟を持つことです。

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