座間コミニティー

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◆そそぎの油とかおりの高い香のための香料……。

2016年11月29日 17時09分23秒 | 聖書
(出エジプト三五・八)
この注ぎの油は律法の下で多くの用途をもち、福音の下でも最も重要なものを代表している。もし私たちが受け入れられる奉仕をしようとするならば、すべての聖い奉仕のために油を注がれる聖霊は、私たちにとって欠くことができない。聖霊の助けがなければ、私たちの信仰上の奉仕はむなしい儀式にすきず、私たちの内なる経験は死んだものである。聖霊の油を注がれない時、私たちの伝道はなんとみじめなものになることだろう!
私たちの祈り、賛美、黙想、クリスチャンとしての個人的努力においても同様である。聖い油を注がれることは、敬虔への道のたましいであり、いのちである。それを欠くことは、すべての不幸のうち最大の不幸である。油注ぎを受けないで主の御前に出るのは、あたかも普通のレビ人が祭司の務めをするようであり、それは奉仕というよりむしろ罪である。どうか、私たちが聖なる油注ぎを受けずに、あえて神聖なるわざに携わることのないように。油は私たちの栄光のかしらなるお方から、私たちの上にしたたる。主に油が注がれることにより、主の衣のすそである私たちも、その豊かな油注ぎにあずかる。
精選された香料は、薬剤師の巧妙な技術によって調合されて注ぎの油となり、私たちに聖霊の感化の豊かさを示す。すべてのよいものは、神である慰め主の中に見いだされる。たぐいない慰め、誤りない教え、不滅のいのち、霊の力、神の聖潔、これらのすべてが、他の高貴なものと結合されて、聖霊の天来の注ぎの油の中に見いだされる。これを注がれる人は、その品性の上に快い香りを受ける。富む者の財宝の中にも賢者の知恵の中にも、これに比すべきものは見いだされない。それは模倣できるものではない。それは神のみから来て、イエス・キリストを通して、すべての待ち望むたましいに無代価で与えられる。
私たちは、それを求めようではないか。なぜなら私たちはそれをもつことができるからである。今夜でも、おお主よ。あなたのしもべに油を注いでください。
 
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「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、

2016年11月29日 17時08分36秒 | 聖書

神のすべての武具を身に着けなさい」(エペソ6:11)

エステル記で、ハマンは王に重んじられ、家来は皆、ハマンにひれ伏した。
しかし、モルデカイがそうしないので、ハマンは憤りに満たされた。

そこでモルデカイの民族を根絶やしにする事を画策した。
王にうまく取り入り、動かし、ユダヤ民族皆殺しの、王の命令を取り付けた。

サタンが、この邪悪なハマンを通して、神の計画をつぶし、阻止しようと働いた。
ユダヤ民族皆殺しの勅令が出された。

モルデカイは祈り、王妃エステルに、王にあわれみを求めるよう伝えた。
エステルは、召されないで王のもとへ行く者は死刑、そして、自分はこの30日間王に召されていない。
しかし、命をかけるので、自分のために、民に断食の祈りを頼んだ。

祈りがなされた。ハマンのまずの標的はモデルカイであり、殺害すべく柱まで用意した。
神は祈りに答え、介入された。

王を不眠にし、年代記を読むようにしむけ、モデルカイの手柄を見つけさせた。
結局、神が、ハマンが裏で仕組んだ邪悪な企みを、明るみに出し、明らかにされた。

モルデカイ殺害のための柱に、ハマン自らがかけられる事になった。
邪悪な企みは自らの身に返った。サタンの陰湿な企みは、神が明るみに出される。
隠れたものは明らかにされる。

祈りがなされ、神はモルデカイに知恵を与え、なすべき事を示し、エステルは命を献げ、行動し、サタンは打ち破られた。
陰での邪悪な行ない、陰口や批判は必ず、神が明るみに出される。
サタンを見破り、真理に、光に、愛に歩もう。

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サタンは神の計画を壊そうと、攻撃して来るが、神は切なる祈りに答えて、働かれる。
知恵を与え、指針を与え、なすべき事を示される。
争い、分裂、トラブルの背後にサタンが働いている。
真の敵をよく識別できるよう祈ろう。

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今日の聖人の記念日

2016年11月29日 08時17分53秒 | キリスト教

聖セルニン殉教者(トゥールーズ)

3世紀

 セルニンは、ローマで生まれ、245年ころ教皇ファビアノからスペインのパンプローナに派遣された。彼は、そこからフランスのアルスに渡り、司教のもとで宣教に従事した。

 その後トゥールーズの司教に任命され、説教によって多くの人びとを信仰に立ち返らせた。しかし、トゥールーズのキリスト教でない神殿の祭司たちは、人びとがセルニンの建てた教会にお金を寄付することで、彼に反感を持つようになった。そして、ついにセルニンは、祭司たちに殺された。

 今日、トゥールーズの聖セルニン教会は、フランスで最も大きいロマネスク建築の教会である。セルニンの遺骨は、1746年に作られた墓のブロンズの雄牛の上に安置されている。

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◆喜びの三条件

2016年11月29日 08時16分50秒 | 聖書

悪人はそむきの罪を犯して自分のわなをかける。
しかし正しい人は喜びの声をあげ、楽しむ。(箴言二九6)
世の中のあらゆる罪は、背きの罪です。神はあなたを愛し、あなたのために最善の計画を立て、あなたに最善のことをしてくださろうというのに、それを踏みにじり、自分勝手な恥ずかしいつまらないことをしてしまうエゴイズム。――それが罪であり、背きです。また、罪の大部分は神の愛への背きであるばかりか、人の愛・信頼・期待への裏切りなのです。罪こそは、人間関係を壊すナンバーワンの元凶です。
ところが、神に対しても隣人に対しても正しい関係にある人、つまり正しい人は、「喜びの声をあげ、楽しむ」といわれます。「喜び」は、楽しみとか幸せとかいう以上に、生き生きした健全な生き方のシンボルみたいなことばです。幸せは、めぐり合わせのよい時のもの、楽しみは、楽しいことをしている時のものです。しかし、貧しい時・病む時・苦しい時も、そして楽しくない時にもわきあがってくるものこそ、「喜び」です。
人生の最も深い喜びの土台に、三つのものがあると思います。
・ 愛し愛されている、受け入れられ受け入れているという確信。
・ 進んで喜んで語り合うコミュニケーションの道が、まっすぐ開けていること。
・ 自分のためでなく、相手のために仕えるという心の姿勢があること。
この三拍子がそろえば、「喜びの声をあげて楽しむ」ことのできる人間関係に太鼓判が押されます。まずキリスト・イエスを通して、私たちに対して三つの条件を整えてくださった神は、私たちを待ち構えていらっしゃいます。私たちがその愛に応答していくところに、何ものにも侵されない「喜び」の人生の出発があるのです。
 
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◆人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。……

2016年11月29日 08時16分07秒 | 聖書
あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。(レビ一九・一六、一七)
人の悪口を言う者は三重の毒を流す。悪口を言う者と、聞く者、話題に上っている者を害するからである。その悪口が真実であるかどうかにかかわりなく、私たちはみことばによって、それを禁じられている。
主の民の名声は非常に尊いものである。私たちは悪魔を助けて教会を辱しめ、主の御名を汚さないように心しなければならない。ある人々の舌には、拍車よりもむしろくつわが必要である。多くの人々が、兄弟を引きずり下ろすことによって、あたかも自分の地位が高められたかのように思って得意になっている。
ノアの賢い息子たちは、裸の父に着物をかけた。そして、父の裸を暴露した子どもは恐ろしいのろいを受けた。私たち自身この暗黒の時代に住んで、自分たちの兄弟が寛容であり、沈黙を守ってくれることを望んでいる。私たちも喜んで、今それを必要とする者に同様の態度をとろうではないか。人の悪を語るな。これを私たちの家憲とし、誓いとしよう。
しかし聖霊は、私たちが罪をとがめ、それに対して適当な処置をとることを許しておられる。だが、それは陰で兄弟をあざ笑うのではなく、相対して戒めることによってなされなければならない。これは雄々しく、兄弟愛に満ちた行いであり、キリストと同じ方法である。これは神の祝福を受け、効果を上げるであろう。
肉はそれを恐れるか。それなら私たちはさらに良心を励まし、ぜひともそれを実行しなければならない。それは友人の罪を見過ごすことにより、私たちが共犯者とならないためである。誠実な牧師や主にある兄弟たちの時宜を得た、賢明な、愛のある警告によって、幾百という人々が重大な罪から救われている。私たちの主イエスはペテロに警告を与え、またそれに先立って祈り、彼が高慢にもそれを無用だとして拒んだのに、優しく耐え忍ばれた。そして、罪を犯した友をどう扱うべきかという、いつくしみ深い模範を示されたのである。
 
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ヨブ記34章10-15節

2016年11月29日 08時14分14秒 | 聖書


34:10 「だから、あなたがた分別のある人々よ。私に聞け。神が悪を行うなど、全能者が不正をするなど、絶対にそういうことはない。
34:11 神は、人の行いをその身に報い、人に、それぞれ自分の道を見つけるようにされる。
34:12 神は決して悪を行わない。全能者は公義を曲げない。」



 ヨブが「自分に誤りがあるのではない、神が私に敵対しているから私に苦しみが到来し、神が私を痛めつけるので苦しみがくるのだ。」と言っていると、エリフは言います。

そして、エリフは語ります。

それではまるで、神が悪を行う方のようではないか。

また、不正を行う方のようではないか、と。

もし神が不正を行い、また悪を行うのであれば最早、神は神ではあり得ない。

だから、あなたを苦しめているのは決して神ではない。

その苦しみは、人が悪を行っているので、その悪の結果としての苦しみが、その人にもたらされるのだ。

だから、今、ヨブが苦しんでいるのは、ヨブ自身の悪しき行いのためであって、その結果として苦しみが到来しているのだ、というのです。



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詩篇91篇7~9節(ヨハネ13章)

2016年11月29日 08時12分15秒 | 聖書


★『千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。
あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。』


■O:今日のコラム
私たちは、安定した歩み、心、生活を求めたいと思うものです。それならば、困った時に主に願い、避けどころとなっていただくだけでは不十分です。主と共に住まう事を求める時です。
  安定した生活とは、目の前に困難や問題がやってこないという事ではないのです。この聖句でも、霊的な戦いの中にいて、その最前線に立たされているからこそ、私たちの『かたわら』や『右手』に敵が倒れるのをながめているのです。血潮の宣言で用いている申命記28章にもこうあります。

『主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。』(申命記28:7)

  敵は目の前までやってきます。私たちは、自分からはるか遠くで敵が滅んでくれたら良いと感じます。しかし、主は、目前まで敵を引き寄せ、そこで打ち破り、神に対する信頼を学ばせます。私たちの安定した生活というのは、問題がない生活ではないのです。問題があってもそこに勝利がある事を確信している生活なのです。
    私たちが、攻撃されて傷ついて、主に助けていただいて、解決を見て、という歩みも良いものです。しかし、それはまるで士師記の時代の生き方です。傷ついて癒されて、というパターンよりも、攻撃がまるで効かない状態に入っていることが理想です。治療より、予防が優れているのと同じです。私たちが主を住まいとするならば、敵の武器は役に立たなくなるのです。
    この住まうという語は、(へ)マオーンですが、その類義語に(へ)オナーがあります。オナーとは、婚姻の権利とか、同居という意味です。私たちが、『自分は自分のもの』という生き方から、『私は主の妻』、『私の心も身体も主のもの』という生き方をする時に、主を住まいとするという御言葉が実現するのです。私たちの夫が主であるなる事を認めるでしょうか?『妻は自分のからだに関する権利を持っておらず、それは夫のものです』(1コリ7:4a)とある通りです。
    私たちのワンシングはこれです。

『私は一つのことを主に願った。
私はそれを求めている。
私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見、
その宮で、思いにふける、そのために。』(詩篇27:4)

  しかし、主の家に住まう事を求めるとは、祈りの生活をする事(第一の戒め)」と共に、生活の中で主にからだを捧げる事(第二の戒め)でもあるのです。第一の戒めが最優先ですが、第二の戒めも同じように大切なのです。


■A:考えてみよう
自分の全部が主のものである事を認め、肉を手放す事を惜しまない。主を主として生きる。主を夫として生きる。


■P:祈り
心を尽くし、精神を尽くす事に終わらず、力を尽くしてあなたを愛します。私はあなたのものです。私を通してあなたのなさりたい事がなされますように。

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11月28日(月)のつぶやき

2016年11月29日 01時34分16秒 | キリスト教
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