座間コミニティー

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◆しばらく眠り、しばらくまどろみ、

2016年11月24日 16時13分08秒 | 聖書
しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言二四・三三、三四)
怠け者のうち最悪の者は、ただちょっとまどろみたいだけと言う。もし徹底した怠け者だと言われるならば、立腹するであろう。手をこまねいてしばらく眠ること、これが彼らの切望するすべてであり、彼らにとって、これくらいの気ままは当然だという理由が無数にある。しかし、このしばらくの間に日は傾き、働きの時は失せ、畑はいばらでおおわれてしまう。ほんの少し引き延ばすことで、人々はそのたましいを滅ぼす。幾年も延ばそうという意図は少しももたず、「もう数か月すれば、もっと都合のよい時期がやってくるだろう」と言う。明日にでも、もしあなたが望むならば、彼らは立ち上がって重要な問題と取り組むであろう。しかし今は都合が悪いからかんべんしてくれと言う。
砂時計から落ちる砂のように、時は過ぎ去り、人生は少しずつ失われ、恵みの時期はしばしの間の仮寝によって失われてしまう。おお、飛び去ろうとする瞬間を、賢明にとらえて利用したい!
主が私たちにこの聖なる知恵を教えてくださるように。そうでなければ、最悪の貧しさが私たちを待ち受けているからである。それは一滴の水さえ、求めても得られぬ永遠の貧しさである。一歩一歩、確実に行路をたどる旅人のように、貧乏は怠け者に追いつき、破滅は優柔不断な者を打ち倒す。一刻ごとに恐ろしい追跡者は近づいてくる。彼は途中で止まることがない。なぜなら、彼は主人の用をしているため、ぐずぐずしていることはできないからである。武装をした男が力ずくで入り込んでくるように、欠乏は怠惰な者を襲い、死は悔い改めない者に臨む。逃れる道はない。
おお、遅くならないうちに人々が賢明になり、切にイエスを求めるように。厳粛な日が来れば、耕し、種を蒔き、悔い改め、信じても、もう遅い。収穫の時に、種蒔きの時期をむだに過ごしたことを嘆いても遅い。今は、信仰と聖い決心の好機である。
 

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、

2016年11月24日 16時12分15秒 | 聖書

自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)

信仰生活の中で、無意識ゆえ、なかなか気づかないが、古い価値観、生まれつきの価値観が成長を阻んでいる事がある。

御言葉によらない、自分の理想や、自分の生まれつきの好み、考え方だ。
ストレートな欲望や肉ならまだわかりやすい。
それらは、霊と肉の葛藤はあるが、祈りに持って行ける。

祈りに出して行ったなら、それは必ず聞かれて行く。ストレートな悪は、よくわかる。
だが、理想や、自分の良かれと思う思いも、同じく肉であり、神から離れている。
その自分が良いと思う思いを、判断や行動の土台に据えているなら、御心と正反対の方向へ向かってしまう。

主がこれから苦しみを受け、殺されると話された時、ペテロが「そんなことが起こるはずがない」と否定した。
その時、主はペテロに向かって「下がれ。サタン」と言われた。
ペテロの考え、良かれと思った思いは、サタンからのものだった。

培われた価値観や自分が良いと思う考えは、御言葉に基づかなければ、敵に利用されて反対方向へ向かう。
だからそれに引き続いて、「自分を捨て」と言われた。
自分が良かれと思う、思いを捨てなければ、主について行けない。

ストレートな肉ではなく、良いと思う思いが曲者だ。自分の思いを捨てて、主のみ思いを求めて行こう。
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まがい物、にごった思いを識別するためには、上からの純真な御心を知らなければならない。間違えやすく迷いやすい思いを、一つ一つ神様に尋ねて行こう。
一見、良い事の後に言われた主の「自分を捨て」は大きな警告だ。


今日の聖人の記念日

2016年11月24日 07時19分29秒 | キリスト教

聖クリュソゴノス

?-304年

 クリュソゴノスは、ローマの役人であったが、キリスト教徒になり、多くの人びとを信仰に導いた。特にアナスタシア(殉教し聖人となる)を信仰に導いた。クリュソゴノスは彼女の信仰の師として、キリスト教徒でない人と結婚したキリスト者の生き方を論じたと伝えられている。

 当時は、ローマ皇帝ディオクレチアヌスによるキリスト教迫害下にあり、クリュソゴノスも捕えられ、何か月も拷問を受けたのちに斬首された。彼の遺体は、海に投げられ、ゾイルスという司祭に発見されたといわれる。

 4世紀の初めに、教皇シルベストロ1世によってクリュソゴノスの墓の上に教会が建てられ、人びとから敬われた。この教会の祭壇の上には、彼の頭と腕が安置され、17世紀になって、天井に画家ジョヴァンニ・グエンチーノによる「聖クリュソゴノスの勝利」という絵が描かれた。

聖アンデレ・ジュン・ラク司祭と同志殉教者

17-19世紀

 彼らは1625年から1886年にかけて、ベトナムで殉教した117人である。そのうち96人がベトナム人司祭、カテキスタ、第3会員で、その他外国人の21人は、ドミニコ会やパリ・ミッション会の司教、司祭だった。

 スペイン人のドミニコ会士、イグナチオ・デルカド司教とドミニコ・エナレス司教は50年間ベトナムで働き、逮捕された。監禁された後、飢えと渇きに苦しみ、1838年、斬首された。

 アンデレ・ジュン・ラク司祭は、1795年にベトナム北部のバックニン省で生まれた。異教徒の貧しい家庭で育ち、12歳のときハノイ市に家族とともに移り住んだ。そこでカテキスタと出会い、信仰教育を受けた彼は自らもカテキスタとなり、1823年に司祭に叙階された。国王による迫害のもと、彼は何度か捕らえられたが、信徒たちが集めた献金を王に献上し、解放された。多くの人に洗礼を授け、教区司祭として信徒を励まし司牧していたが、1839年に捕らえられた。激しい拷問を受け、12月21日に斬首された。

 ベトナムでの信徒に対する拷問は残酷で、1847年に殉教した信徒17人のなかには、9歳の子どももいた。

 117人は、1900年にレオ13世、1906年と1909年にピオ10世、1951年に教皇ピオ12世よって4回にわたって列福され、1988年6月19日に教皇ヨハネ・パウロ2世よってローマにおいて全員が列聖された。


◆片寄り見るな

2016年11月24日 07時18分31秒 | 聖書

人をかたより見るのは良くない。
人は一切れのパンで、そむく。    (箴言二八21)
ローランド・ヒルという牧師は、三十年間忠実に勤勉に仕えて後死んだ下男について、こういう話をしています。「三十年前、私はあるところで、こそどろにあった。なぜ君は、こそどろなど働くのかと尋ねたところ、馬車屋の馬丁をやっていたが、首を切られ、きょうのパンにも困り、思い余って盗みを働いたという。では、家へ来て働きなさいといって連れてきて、三十年が過ぎた。彼は見違えるような人間になった。昔どろぼうを働いた男とは、私すら思えない。」
「貧すれば鈍する」で、追いつめられれば私もまた、一切れのパンのために罪を犯すかもしれません。しかし反対に、箸にも棒にもかからないような強盗殺人犯でも、チャンスがあれば生まれ変わって、きよい愛の人になるかもしれません。事実、重ね重ねの罪を犯した重大犯人が、刑務所にさし入れられた一冊の聖書を読んで悔い改め、後に牧師になったという有名な話があります。
服装や職業や教育程度、あるいは金を持っているかいないかなどで、人をえこひいきしたり片寄り見たりするのは罪だと、ヤコブは言いました(ヤコブ二1―4参照)。このごろ青年たちを見る時、ああ、私の娘だったらとか、私の息子だったらと思うことが多いのに、私は気がつきます。その人の親になったつもり、教師になったつもり、兄弟姉妹になったつもりで、いろいろの立場から人を見ると、また違ったことが分かってくるのではないでしょうか。
聖書は、神が愛しておられる人、イエス・キリストが十字架の上でその人のために血を流してくださった人を、ないがしろにしてはならないと言います。こんな卑しい罪深い私まで、愛し忍耐してくださる神が、どのようにその人を見ていてくださるか。――こう考えると、人を片寄り見ることはできません。
 

◆そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。

2016年11月24日 07時17分47秒 | 聖書
そこには多くの川があり、広々とした川がある。(イザヤ三三・二一)
広い川の流れは土地を肥沃にして、豊かな産物をもたらす。大河の流域は植物の種類も多く、収穫も豊かである。神は主の教会にとって大河であられる。神のおられる教会は豊かである。教会の求めるもので、神の与えられないものがあろうか。教会の欠乏で神から供給されないものがあろうか。「万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会……を催される。」あなたはいのちのパンを求めるか。それは天からマナのように降る。あなたは、自分を力づける流れが欲しいか。水のほとばしり出る岩であるキリストがあなたに伴ってくださる。もしあなたが窮乏に悩むならば、それはあなた自身の責任である。あなたは主にあって困窮しているのではなく、自分の心で困窮しているのである。
広い川の流れはまた、通商の要路である。栄光の主は天の商品取り引きの場所であって、私たちは主を通して過去と通商する。カルバリの富、契約の宝、昔からの選びの宝、永遠の蓄え、これらはすべて私たちの恵み深い主の広い流れを下って私たちのもとに来る。私たちはまた将来と通商する。どれほど多くの財宝を満載した宝船が、千年王国から私たちのもとに来ることか。私たちは天国の生活についてどんなビジョンをもっているか。栄光の主を通して私たちは天使と通商し、血によって洗われ、御座の前で歌う輝かしいたましいと交わる。否、それだけでなく、私たちは永遠であるお方と親しく交わる。
広い川の流れは特に、安全という考えを与える。昔、川は防衛のために用いられた。愛する者よ。神は主の教会にとってなんという要害であろう。悪魔は広い神の川を横切ることができない。悪魔はこの流れを変えようとしてどれほど心を砕いていることだろう。しかし恐れてはならない。神は永遠に不変であられるからである。サタンは私たちを悩ますかもしれないが、私たちを滅ぼすことはできない。敵の軍船はこの川を航行することはできないからである。
 

ヨブ記32章6-22節

2016年11月24日 07時16分20秒 | 聖書


32:20 「私は語って、気分を晴らしたい。くちびるを開いて答えたい。
32:21 私はだれをもひいきしない。どんな人にもへつらわない。
32:22 へつらうことを知らないから。そうでなければ、私を造った方は今すぐ、私を奪い去ろう。」



 エリフは語りました。

年をとっている人の方が知恵がある、だから、若い自分は今まで黙っていたと。

しかし、真の知恵は人の内にあるのではなく、神の内にある。

それを与えられている者が、真理を語ることができる。

今、友人たちは、ヨブの内から罪の自覚とその悔い改めを導き出すことができなかった。

その結果、黙りこけてしまった。

しかし、私はそうではない。

ヨブに対して、語りたいことが山ほどある。

それを告げて、ヨブと対話をしたい。

ヨブが自分の非を認めるほどに、彼に問うて見たいというのです。


 人にはそれぞれに、思いと意見があります。

それを言うことは良いことです。

しかし、言うことと、それによって納得されることとは違います。

どうなるのでしょう。


ヨハネの福音書8章31節

2016年11月24日 07時14分16秒 | 聖書


★そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」

■O:今日のコラム
最近、新宿シャローム教会で、弟子になる、また弟子訓練について、いろんな先生方を通して語られています。しんご先生もメッセージでおっしゃっていましたが、「弟子訓練」っていう言葉を聞くと固いイメージ、または、弟子訓練で傷を受けよくない経験をしたというトラウマがあるかもしれません。しかし、今日の箇所で、イエス様はばっさりとはっきりと、本当の弟子とはどういう弟子なのかを語っています。

まずは、31節の前までの部分で、イエス様は群衆に対して語っています。20節のところで、「献金箱のあるところでこのことを話された。」とありますが、これは、宮の中でも公共の場所で、男女、みんながいることができる場所です。このおおやけの場所で、イエス様はご自身は父によって遣わされたものであり、”I am HE”、「わたしはある」、Yahweh、ヤハウェであるとはっきり語られました。このメッセージを聞いていた、特にパリサイ人や律法学者は、聞いていることもできない、神への冒涜だといい、イエス様を信じませんでした。

しかし、30節には、このメッセージを聞いて、多くのユダヤ人がイエス様を信じたという記述があります。そして、これに続くのが今日の箇所で、この信じた群衆に対して、イエス様は語られました。

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」

信じることは、第一歩であることがわかりますか?弟子は信じる以上をもとめられます。イエス様のほんとうの弟子の姿とは、イエス様のみことばにとどまる者です。そのためには、みことばである聖書を読み、それを食べ、消化していかなければなりません。もし、私たちが真のイエス様の弟子として生きるのであるならば、私たちは日々みことばを読むことを、私たちの日々の生活の優先順位の上におかなければなりません。どんな状況であっても、時間を作ってでも、師匠であるイエス様のみことばに耳を傾けていく必要があります。これこそが、弟子訓練です。

■A:考えてみよう
聖書は、自分の頭で理解することは不可能です。わからないことばかりです。しかし、感謝なことに、私たちのうちには、聖霊様がおられます。そして、この聖霊様が先生となり、みことばを解き明かしてくださいます。なので、日々、みことばを読むときに、聖霊様に教えてくださるように祈ってください。私も、今、このマナメールを書けているのは、聖霊様が助けてくださっているからです!!

ぜひ、イザヤが経験したことを私たちも経験していきましょう。
「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」(イザヤ50:4)

人々を励ますことができるようになるのも、私たちがまず、主の御言葉を聞くことから始まります。ますます、主のみことばにとどまっていきましょう!!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


11月23日(水)のつぶやき

2016年11月24日 01時41分27秒 | キリスト教