座間コミニティー

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◆この人々は歌うたいであって……

2015年07月31日 16時39分47秒 | 聖書

昼となく夜となく彼らはその仕事に携わった……。(Ⅰ歴代九・三三)

宮の中において、聖なる歌が決して絶えないように定められていたのはよいことであった。歌うたいたちは、常に、とこしえにあわれみに富まれる主を賛美していたのである。主のあわれみが昼も夜も絶えなかったように、音楽もその聖なる務めをやめなかった。
私の心よ。このシオンの宮の絶えない歌は、おまえに快い教訓を与える。おまえもまた不断の債務者であり、主の愛が絶えないのと同じように、おまえの感謝を決して絶やしてはならない。おまえの最後の住まいである天国において、神への賛美は絶えることなく続いている。おまえもまた、とこしえにハレルヤと賛美することを学べ。太陽が地上に光をまき散らすように、神の光も感謝に満ちた信者を目覚めさせて朝の賛美を歌わせ、聖徒のもつ祭司としての職務によって、不断の賛美をささげさせる。彼らは、私たちの地球を感謝の衣で包み、賛美の黄金の帯で取り巻く。
主こそ、不断の賛美を受けるにふさわしい方であられる。そのご人格のゆえに。その創造のみわざと摂理、被造物に対するいつくしみのゆえに。ことに贖いのすばらしいみわざのゆえに。そしてそれから流れ出る驚くべき祝福のゆえに。
主を賛美することはいつも有益である。それは昼を楽しくし、夜を輝かせ、労苦を軽くし、悲しみを和らげ、地上の喜びに聖なる光を投じて、私たちの目が、地上の喜びによってくらまされることのないようにする。私たちは、今何か歌うべきことをもっていないのか。私たちの現在の喜び、過去の救い、あるいは未来の希望について歌い出すことができないであろうか。地は夏の果実を生じ、干し草は納屋に納められ、黄金の穀物は鎌を入れられるのを待っている。太陽はこの実り多い地上をゆっくりと照らす。夜も短くなった。しかし、私たちの心からの礼拝の時は長くありたい。
イエスの愛によって励まされて、今日の日を聖い喜びの歌をもって終えようではないか。

 


「あなたが私のそばに置かれたこの女が、

2015年07月31日 16時39分01秒 | 聖書

あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」(創世記3:12)

私達はよく責任転嫁をする。
人のせいにしていれば、自分を見なくて済むからだ。
自分が怒るのは、相手が怒らせるような言動をするからで、そうする相手が悪い。
相手がそう言わなければ、怒らないのにと。
そう思っている。自分は正しくて相手が悪い。
相手を憎むのは、相手がそういう態度を取るからであってと、自分を正当化してしまう。
状況が悪い、あの人、この人のせい、人のせいにしたい誘惑が来ないだろうか。
ある人が同僚とぎくしゃくした。
悶々状態の中、心は辛く重苦しい。
祈りをもって主の御前に出た。
心を打ち明ける中で、気づかされた。
相手も確かに悪いかも知れない。
しかし、自分の内にある相手への怒りや憎しみや裁く心、これは自分の問題であり、自分に責任があると。
主の御前に、逃げず、言い訳せず、自分の問題である事を認め、悔い改めた。
その時、心が変えられた。
平安が来て相手との和解に導かれた。
ある人はずっと父親を憎んでいた。
確かに父親にも相当の問題があった。
しかし、そうであるにせよ、憎しみは自らの罪と認め、悔い改めた。
その時、心が溶かされて行った。
人のせいにする事は、人に依存して生きている事だ。
「自分の足でまっすぐに立ちなさい」本当の自分の姿を認める事が、責任を取り自分の足で立つことだ。
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逃げないで自分で責任を取り、自分の足で立つ人生を与えて下さっている。
ここにこそ、しんどくても痛くても、主と共に生き生きと生きる実感が伴う。
生きる喜びを味わって行く。


今日の聖人の記念日

2015年07月31日 07時31分09秒 | キリスト教

聖イグナチオ(ロヨラ)司祭

1491年ごろ-1556年

 イグナチオは、スペインのバスク地方の貴族ロヨラ家に生まれ、幼いころから騎士道精神を身に付け、名誉を求めることを価値としていた。1521年、戦場で負傷し、病床にあったイグナチオは、キリスト伝や聖人伝を読んで感銘を受けた。そしてすべてを捨ててキリストに従う決心をし、マンレサに退いて、祈りと苦行に専心した。このときの霊的体験が、有名な著書「霊操」を生みだした。それから、ローマとエルサレムに行き、ヨーロッパに戻りパリ大学で勉強をした。学友の中から6人の同志を集め、パリのモンマルトル聖堂で、「より大いなる神の栄光のために」、また「すべての人のために」働くことを誓って、「イエズス会」を創立した(1540年に正式に認可)。そのなかには、日本の最初の宣教師であるフランシスコ・ザビエルもいた。

 現在会員は、世界各地で、教育など多くの分野で活躍している。日本では、東京の上智大学をはじめ、鎌倉市、神戸市、広島市、福岡市などでの教育事業や、黙想指導、教会司牧、社会正義など、社会の中で人々の必要のために働いている。


◆人の計画・神の計画

2015年07月31日 07時30分07秒 | 聖書

人の心には多くの計画がある。
しかし主のはかりごとだけが成る。(箴言一九21)

ナポレオンは、実にちみつな計画を立てた人だったそうです。ワーテルローの戦いに臨んだ時も、一点の非の打ち所もないプランを立てていました。しかし、その日に朝から降った大雨のために、十二分に立てられたそのはかりごとは、ついえ去りました。ナポレオンとその軍隊は敗れ、ついに、その敗北から立ちあがれなくなったそうです。人が、人の力によって人のために立てる計画とは、そんなものではないでしょうか。むなしいものです。
しかし、「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(箴言一六9)と聖書は言います。どうせなるようにしかならないんだ、そんなやけのやんぱちからは、何の祝福もよいことも出てきません。どうすれば、主から祝福を受けることができるでしょうか。
第一に、自分の考え・願い・計画を祈りの中で神の前に持ち出し、神に相談してみることです。神に正し、力づけていただくのです。
第二に、「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。……信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」(ローマ一二3)とパウロが述べたすすめに従うことです。
第三に、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリピ二13)とあるように、神に与えられた志を働かせそれを実践していくことです。神は私たちに、その時々にその力をも与えてくださいます。いいえ、成し遂げてもくださるというのです(ヘブル一三21参照)。
これが、祝福を受ける理想的な姿ではないでしょうか。

 


◆わたしは彼らにおり……。

2015年07月31日 07時29分14秒 | 聖書

(ヨハネ一七・二三)

このみことばのように、私たちのたましいと主のご人格が結合しているならば、私たちの霊の交わりの水路はなんと深く広いことであろう。これは糸のような流れが曲がりくねって通る狭い鉄管ではない。驚くほどの深さと幅をもつ水路であり、それに沿って豊かな水がとうとうと流れている。
見よ。私たちの前に主は門を開いてくださる。ためらうことなく入ろうではないか。この霊の交わりの都にはたくさんの真珠の門がある。それはそれぞれ一つの真珠によって造られ、各々の門は私たちを歓迎し、私たちが入ることができるように最大限に開かれている。仮に、ただ一つののぞき穴があり、それを通してイエスと会話をもつことができるとしても身に余る光栄であるのに、まして、このような大きな門から大手を振って入れるとは、なんという祝福であろう。仮に、イエスが私たちをはるかに離れ、あらしの海がその間に横たわっていたとしても、私たちは使いを送って自分たちの愛を主に伝えたいと願い、御父の家からの便りを得ようとするであろう。
しかし、主の心づくしを見よ。主は私たちの隣に家を建てられた。否、主は私たちと同居し、あわれな、卑しい心とともに宿ってくださり、私たちと永遠に親しく語ろうとしておられる。
ああ、もし私たちが不断に主と親しくお交わりしようとしないならば、なんと私たちは愚かであろうか。友人同士が遠く離れており、しかも道が危うく困難であれば、互いに会うことの少ないのは当然である。しかし同じ屋根の下に住んでいて、ヨナタンがダビデを忘れることがあろうか。
主にある友よ。なぜ主のぶどう酒のうたげにつらならないのか。あなたの主を求めよ。主はあなたの近くにおられるから。主を抱きしめよ。主はあなたの兄であられるから。主にすがれ。主はあなたの夫であられるから。主をあなたの心に押しつけよ。主はあなたの骨肉であられるから。

 


第1歴代誌2章1-2節

2015年07月31日 07時27分51秒 | 聖書

2:1 イスラエルの子は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、
2:2 ダン、ヨセフ、ベニヤミン、ナフタリ、ガド、アシェル。



 アブラハムからイサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれましたが、そのヤコブが改名されてイスラエルとなりました。

ここに記されているのが、ヤコブであるイスラエルから産まれた12名の子供達です。

そこには正妻から生まれた子供達、また正妻でない女性達から産まれた子供達が含まれています。

女性達は合計4名でした。

この人々が後に、イスラエルの12部族の先祖となっていく人々でした。

しかしそこには入れ替わりがありました。

レビ人は、神殿での職務に就くために民から除かれ、ヨセフも入りませんでした。

レビとヨセフとの代わりに、ヨセフの二人の息子、すなわちエフライムとマナセとが、12名の中に入ったのです。

そうした意味では、こうして編入された彼らが、真の意味で、イスラエルの12部族の先祖となった人々でした。



第二歴代誌21章5~7節

2015年07月31日 07時24分58秒 | 聖書

★ヨラムは三十二歳で王となり、エルサレムで八年間、王であった。彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻であったからである。彼は主の目の前に悪を行なったが、主は、ダビデと結ばれた契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、約束されたからである。

■O:今日のコラム
ユダの王ヨラムは政略結婚により、北イスラエルのアハブの娘と結婚します。北イスラエルにおいては390年間の偶像礼拝が続けられ、主の道から外れ、後にアッシリアにより全世界へと散らされて行きます。

アハブ王は北イスラエルでバアルやアシェラによる偶像礼拝を盛んにした悪王として知られ、彼の妻イゼベルは悪魔の化身とも言える様な悪の王妃でした。その間に生まれた娘をヨラム王は妻としたのです。

その結果、聖書には「彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻であったからである。彼は主の目の前に悪を行なった」と記されています。妻の影響を受けたヨラム王は、ユダに偶像礼拝をもたらし国家全体を罪の道へと迷わせる結果となりました。

国の王や首相、大臣が主の道を選ぶか?悪の道を選ぶか?と言う事は国家全体の行き先が決まる非常に重要な事です。

私達クリスチャンは、たとえ首相や政権がどの様な状態にあっても、とりなし祈る責任があります。

何かの政策に反対したり批判したりデモをするよりも、私達が信仰によって立ち上がり日本の為にとりなし祈る時、国家に霊的な領域において変化をもたらし、それが後に目に見える形で実際的な変化をこの地に生み出す事となります。

パウロはテモテに送った手紙にこの様に記しました。「 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」(1テモテ2:1~3)

この御言葉を今こそ共に実行し、国家と首相、大臣、この国の高い地位に置かれた人々の内に、御国が来、御心がなされ、神の正義と公義が行われ、主イエス・キリストにある救いがもたらされる為に、日本の国に対して主にある願いを持ち、祈り、とりなし、主に感謝を捧げようではありませんか。

■A:考えてみよう
今日、日本の国家を覚え、首相、大臣、高い地位にある人々に御国の訪れがもたらされる為に共にと祈りましょう。
私達はキリストにあり王であり祭司とされています。私達の祈りが国家の行き先を変えます。

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月30日(木)のつぶやき

2015年07月31日 01時43分26秒 | キリスト教

◆わたしのところに来る者を、

2015年07月30日 17時16分01秒 | 聖書

わたしは決して捨てません。(ヨハネ六・三七)

この御約束には期限がない。単に「罪人が初めてわたしのところに来る時、これを捨てない」とあるのでなく、「決して捨てない」とある。このことばの原語は「わたしはしない、捨てはしない」、「わたしは決して捨てない」との意である。この聖句は、主が最初に信者を拒まれないことを意味し、最初にされないことを最後までなさらないことを言っている。
しかし、信者がキリストのみもとに来て後に罪を犯すならば、どうなるのか。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」信者の信仰が後退すればどうなるのか。「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。」信者は誘惑に陥るかもしれない。「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」
だが信者は、ダビデのように罪に陥るかもしれない。しかし主は、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」との祈りに答えてくださる。「わたしは……わたしにそむいたすべての咎を赦す。」
主は言われた。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」おお、震えるか弱き者たちよ。あなたはこのみことばに対して何と言うか。これは尊いあわれみではないか。キリストに来た者は、しばらくの間大切にされ、その後顧みられなくなるのではない。主はあなたを受け入れ、花嫁とされ、あなたは永遠に主のものとなる。では、もう恐れを抱く奴隷の霊ではなく、「アバ、父」と呼ぶ子としての霊を受けよ。おお、「決して捨てません」というみことばの中にある深き恵みよ。

 


「子よ。

2015年07月30日 17時15分09秒 | 聖書

あなたの罪は赦されました」(マルコ2:5)

ある父親が仕事だけに生きて来て、子供が警察沙汰を起こすという現実に直面した。
家庭を顧みず、子供に関わって来なかった自らの怠慢を、罪を、心から神の前に悔い改めた。
心砕かれ、くずおれた。
罪は決して甘いものではなかった。
辛い苦しい刈り取りをして行った。
仕事の上に、子供のための時間を取り、迷惑をかけた周囲への償い、できる限りの事をした。
もう精神的、時間的、体力、労力的に限界ぎりぎりだった。
数年間の苦しみは並大抵のものでなく、子供の回復をひたすら祈り続けた。
親自身が悲痛なまでの苦しみの中で変えられた。
今までの自己中心な歩みの間違いを正され、心砕かれ、神に従う事を導かれた。
主のあわれみは尽きず、祈りは聞かれ、数年後、子供は立ち直る事ができた。
その間、質的にも時間的にも子供と十分に関われ、心の通い合いが与えられた。
言い訳も弁解もできないが、主のあわれみにより、破壊的な事態が益とされた。
自らは裁かれて当然のひどい罪人だ、しかし、その裁きを、主は十字架上で代わりに受けて下さった。
罪は完璧に処分され、罪無しとして下さった。
罪が赦されたという事実が、苦しい刈り取りを成し遂げさせてくれた。
罪が赦されるとは、何という恵みであり、嬉しく有難い事だろう。
やり直せるのだから。
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順境のままにあれば自らの罪にも気づかず、また罪赦された事も覚えず人並みの信仰者のように生きているだろう。
神様の刈り取りは感謝だ。
辛くても御心の真ん中に方向変換させて下さるから。


今日の聖人の記念日

2015年07月30日 06時47分31秒 | キリスト教

聖ヨハネ・コルンビニ

1300年ごろ-1367年

 ヨハネ・コルンビニは、イタリアのシエナの貴族の家に生まれた。巨額の富を築いたが、貧しい人々を少しも心にかけなかった。ある日、妻が持っていた「エジプトの聖マリア」の伝記を読んで感銘を受け、今までの自分の態度を深く反省した。彼は、財産を貧しい人に与え、病人を世話し、泊まるところのない旅人に宿を提供するようになった。そしてついにはすべての財産を人々のために与えた。ヨハネの徳は広まり、多くの貴族が彼のもとに集まって指導を求めるようになったので、彼は共同生活を始め、修道会を創立した。会員はいつも人々を訪問するときに「イエス・キリストが賛美されますように!」と祈っており、その会は「イエズアト会」と呼ばれるようになった。

聖ペトロ・クリソロゴ司教教会博士

380年ごろ-451/485年

 聖ペトロ・クリソロゴ(金の言葉の意味)は、380年ごろ、イタリアのラヴェンナ(イモラ誕生ともいわれる)に生まれた。424年~431年の間にラベンナの司教に選ばれた。当時、この古い都は帝政時代の栄光期にあったが、その中で、ペトロ司教は牧者としての任務を忠実に果たし、また、優れた政治家でもあった。福音に基づいて生活へと導く彼の説教は有名で、その多くが今日まで伝わっている。そこには、同時代のアウグスチヌスのような雄弁も、レオ教皇のような神学もみられないが、彼の説得力と実生活に即した教えがあり、また飾り気がなく分かりやすい教えで、ラヴェンナの市民は高く評価していた。ペトロ司教は日ごろからこう言っていた。「民には民の言葉で話さなければならない。」

 ラヴェンナの年代史によると、ペトロ司教は451年から485年の間の7月31日に亡くなった。


◆自分の子をこらしめよ

2015年07月30日 06時46分26秒 | 聖書

望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。
しかし、殺す気を起こしてはならない。(箴言一九18)

「殺す気を起こしてはならない」とは、とんでもないとお感じになるかもしれません。八つ当たり・憎しみ・やけっぱちなどのヒステリー的感情で子どもをこらしめるなといわれているのでしょう。
とにかく、「むちを控える者はその子を憎む者である」(箴言一三24)とも記されているように、子どもは、望みのある幼いうちにこらしめるべきだというのが、一貫した聖書の教えです。ところがこのごろは、子どもをこらしめられない親が、大部分なのではないでしょうか。ある女性が、しみじみとこう言われました。「私の娘は、離婚して帰ってきて、もう口もきかずにふさぎこんでいます。私が甘やかしたのが悪かったと、今になると分かるのです。」
どうして甘やかしてしまい、こらしめられないのかを考えてみました。
第一に、子どもに対する責任を自覚していないことです。神は、資格もない私たちを愛し生かし、親にしてくださいました。親として任命し、こんな資格もない者に、子どもを愛する愛を与えていてくださるのではありませんか。あなたほど、あなたの子どもを叱る責任を負わされている人は、ほかにはいないのです。
第二に、子どもの前でよく思われたいという助平根性があることです。だから、きらわれると思うと、こらしめることができません。
第三に、子どもじみた「かわいそう」という気持ちに押されていることです。そこには、猫かわいがりな自己中心の愛しかありません。手術をしなければ死ぬ時、かわいそうだからやめてと言うでしょうか。センチメンタルなことでは追いつかないのです。
第四に、根本的に何が価値あり、永遠のことかが分かっていないことです。神とか絶対とかが分からないのです。

 


◆それに思い当たったとき、

2015年07月30日 06時45分31秒 | 聖書

彼は泣き出した。(マルコ一四・七二)

ある人々は、ペテロは一生、主を拒んだことを思うたびに涙が流れて止まらなかった、と考える。そうかもしれない。彼の罪は非常に大きなものであったが、後には恵みが彼の中に完全なわざをなした。この経験は程度の差こそあれ、聖霊によって生まれつきのままの石のような心を取り去られた、すべての贖われた者に共通の経験である。
私はペテロのように、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と言った尊大な約束を思い起こす。私たちは苦い後悔の思いをもって、自分のことばを追憶する。どのような誓いをなし、それがどうなったかを考える時、私たちは悲しみの涙にくれる。
ペテロは主を拒んだことを思った。自分がそれをした所、そのような極悪な罪を犯させた小さな理由、彼が偽りを証拠立てようとして激しく誓ったこと、彼をこのような罪に追いやったその心の恐るべきかたくなさについて考えた。私たちも自分の罪を思い起こし、その極悪さを考える時、無神経な、かたくなな態度をとり続けられないだろう。私たちは自分の家をボキム(泣く所)とし、主に向かって、罪に対する新たな愛の赦しが与えられるように叫び求めないであろうか。私たちが涙を浮かべずに罪を見ることが決してないように。そのようなことがあるなら、遠からず私たちの舌は地獄の火に焦がされてしまう。
ペテロはまた主の愛に満ちたまなざしを思った。鶏の鳴き声の後に、主は悲しみと愛のまなざしを与えられた。このまなざしは、ペテロにとって一生忘れることのできないものとなった。それは聖霊の注がれない千万の説教よりもはるかに力があった。深く罪を悔いたこの使徒は、自分をもとの位置に回復された救い主の完全な赦しを思い出した時、きっと涙を流したに違いない。しかし私たちは、この上なく愛と善に富んでおられる主のみこころをお痛めしたことを思う時、いくら泣いても泣ききれない気持ちなのである。
主よ。岩のような私の心を打って、水をほとばしらせてください。

 


第1歴代誌1章38-54節

2015年07月30日 06時43分47秒 | 聖書

1:51 そして、ハダデも死んだ。エドムから出た首長たちは、首長ティムナ、首長アルワ、首長エテテ、
1:52 首長オホリバマ、首長エラ、首長ピノン、
1:53 首長ケナズ、首長テマン、首長ミブツァル、
1:54 首長マグディエル、首長イラム。これらがエドムから出た首長である。



 アブラハムに、ハガルが産んだ子のイシュマエルは、後にアラブ人の先祖となりました。

また、イサクから生まれ、その家系から傍系として外されたエサウからは、エドム人が生まれました。

エドム人は、死海から南の方の地域一帯を支配した人々でありました。

後に、イスラエルの民との争いが絶えなかった人々です。

しかし、彼等も都市国家を形成して、地位を保っていきました。

ここでは、彼等の子孫の者たちの名前とともに、都市国家を形成した王たちや、首長たちの名前が告げられています。

彼等もそれぞれに土地や部族を与えられ、各地に繁栄を得て生活をしたということは、アブラハムを通して約束された神様の恵みの実現でありました。


歴代誌 第二 20章21節、22節(歴代誌 第二 19章)

2015年07月30日 06時40分46秒 | 聖書

★それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」
彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。


■O:今日のコラム
ここは、私にとって『賛美が、また、主にほめ歌を歌うことの力が、どれほど大きなことであるか』ということを、知ることの出来る、最も興奮するべき箇所の1つであります。

戦いの最前線に、屈強の戦士を行かせたのではなく、選ばれた賛美者たちが進み、主にある大勝利をおさめた、というとても有名なところです。

礼拝者が礼拝する所の天の窓は開かれ、天の軍勢はその『開かれた天』から、この地に送られて来ます。

天の軍勢が戦いに送りこまれ、霊的戦いの勝利がもたらされます。
そして、その霊的領域での勝利が、後に、この地上で目に見える形となって現れます。

賛美と礼拝は、霊的戦いの勝利の鍵です。

礼拝者が礼拝するところは、イコール、地上において圧倒的勝利がもたらされる場所であります。

17節で「この戦いはあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。」と主からの激励の言葉があったのち、19節「ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。」とあるように、彼らは「大声を張り上げて主を賛美しました。

また、22節でも「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき」とあります。
彼らの賛美は、力の限りであります。「大声を上げる」とは何百メートルも先にいる人にでも届くほどの声です。
果たして私たちの賛美はどうでしょうか?
もちろん教会によっても賛美のスタイルは違いますし、大声を出すのは、不適切な礼拝もあるかも知れません。大声を出せばいいってものでもないかも知れません。
しかしながら私たちの賛美は、このように力の限り捧げる賛美でしょうか?心を尽くし、知性を尽くし、力を尽くして主を愛する賛美でしょうか?

主は昨日も今日も、とこしえに変わらないお方です。
その偉大さと麗しさ、私たちの「力の限り捧げる賛美」に値する主のご性質はとこしえに変わりません。

それが例え何千回と歌ったことのある歌であったとしても、毎週のように歌われている賛美であったとしても、とこしえに変わらない主の偉大さを、力の限りたたえましょう。
日ごとに新しい主の恵みを感謝し、ほめたたえましょう。

出し惜しみはやめましょう。適当に捧げるのをやめましょう。
主に対しての正しい恐れを持ち、真心からの賛美を、力の限りの賛美をいつも捧げましょう。

賛美は、敵に対しての最大の攻撃であり、私たちには主にある喜びを与えます。いいことづくしです!

私たちの賛美が、いつも、この章に出てくる「賛美をする者」たちのように力の限り捧げられる賛美でありますように。

「それから、ユダとエルサレムの人々はひとり残らず、ヨシャパテを先頭にして、喜びのうちにエルサレムに凱旋した。主が彼らに、その敵のことについて喜びを与えられたからである。」(第2歴代誌20:27)


■A:考えてみよう
自分の賛美は力の限りだろうか?
真心だろうか?


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。