座間コミニティー

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◆このわたしは荒野で、

2011年10月31日 17時44分27秒 | 聖書
かわいた地で、あなたを知っていた。(ホセア一三・五)

しかり、主よ。あなたは私が堕落していた時の様を知っておられました。その時でさえ、あなたは私をあなたのものとして選ばれました。私が汚れ、自分自身を嫌悪するほかなかった時、子どもとして私を受け入れ、私の燃えるような心の要求を満たされました。この自由な、豊かな、あふれるばかりのあわれみよ。このために私はとこしえにあなたの御名をたたえます。
その後も私の内なる経験は、しばしば荒野でした。しかし、なお私を愛する者として所有され、愛と恵みの流れを注いで私を喜ばせ、実り多い者とされました。ああ、外の環境が最悪であり、私がかんばつの地にさまよい出た時にも、あなたの楽しいご臨在は私を慰めました。嘲笑が私を待っていた時、人々はそれを知りませんでしたが、あなたのみ、逆境の中にいる私のたましいを知っておられました。なぜなら、どのような苦難もあなたの愛の輝きを曇らせることはないからです。いと高き恵み深き主よ。試みの中にあった時、いつも誠実であられたあなたをほめたたえます。そして、私はあなたの柔和と愛に一切を負っているのに、あなたを忘れ、心に高ぶりを覚えていたことを嘆き悲しみます。主よ。あなたのしもべをあわれんでください。
私のたましいよ。おまえが卑しかった時、このようにイエスがおまえを顧みられたとすれば、繁栄している今も、主ご自身とそのみこころの支配下にあることを確信せよ。世の成功によって高慢になり、真理を恥じ、属する教会を恥じてはならない。主に従って荒野に行け。迫害の火の手が燃え上がっている時にも、主と共に十字架を負え。おまえが貧乏と恥辱の中にあった時も、主はおまえをご自身のものとして所有された。決して主を恥じて主にそむいてはならない。おお、私の愛する方を恥じるとは、思うだけでも恥辱である。イエス様。私のたましいはあなたにすがります。
 最も輝かしく、麗しき主よ
 私のたましいはあなたにすがります
 心労の夜にも、また光の昼にも


●変形労働時間制での労働時間の変更●

2011年10月31日 08時08分00秒 | 労働法
そもそも変形労働時間制は、規則的な労働時間を業務の繁閑に応じて柔軟に労働時間を特定できるため、その事前に特定された労働時間を変更することについては、会社が業務の都合で任意に変更することはできません。ただし、緊急を要する災害時の対応など、やむを得ない場合には、変更も可とする裁判例もあります。その場合には、変更がある場合を就業規則に列挙し、どのような場合に、どのような時間の変更があるのかを明確にしておくことが要件としています。

出エジプト記21章7-11節

2011年10月31日 08時02分21秒 | 聖書
21:11 「もし彼がこれら三つのことを彼女に行なわないなら、彼女は金を払わないで無償で去ることができる。」 女性の奴隷の場合には、扱いを次のようにしなさいと語られています。気に入らなくなって去らす場合には、外国に売ることは出来ない、その奴隷の親族などに売りなさい。次に、奴隷を自分の息子の嫁にするのであれば、その女奴隷を娘同様に扱いなさい。第3に、もし、他の人を妻として迎えるのであれば、その女奴隷であった女性を、妻同様に扱わなければならない、と命じているのです。そして、もしこの3つのことを行わないのであれば、彼女は7年を待たずに、自由に、無償で去らせよと語っているのです。つまり、女性の奴隷には、特別の配慮を与えているのです。 私たちはよく、旧約の時代の女性は蔑視されていると言います。それは、神様を知らない地における姿です。聖書では、女性は弱い者として扱われて、そのために特別の配慮をするように求められているのです。それは、女性の奴隷に対しても同じであることを語っているのです。神様は、御愛に満ちたもうお方であられるのです。

◆人をのろわば穴二つ

2011年10月31日 07時47分11秒 | 聖書
穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、
石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。(箴言二六27)

小さい時、私たちはよく落とし穴を掘って遊びました。原っぱに穴を掘り、その上を木の枝や草でおおって擬装し、人が落ちるのを楽しみにしていたものです。でも次の日に、自分のしかけた落とし穴を忘れて、自分で落ちてしまったということなども、確かあったようです。こんなことは遊びです。しかし、「人をのろわば穴二つ。」――これは、深刻な現実です。
聖書の中に、いくつか顕著な実例があります。ハマンという高官は、憎いユダヤ人のモルデカイを王にざん言し、彼をはりつけにするために、柱を立てておきました。しかし、そのハマンの悪だくみが王妃エステルによってあばかれた時、ハマンは、自分が立てたはりつけ柱にかけられてしまいました。エステル記に出ていることです(五―七章参照)。
ユダヤ人の預言者ダニエルを憎み、彼を落とし入れようとした大臣たちは、ダニエルを投げこもうと計画した獅子の穴に、自分たちが投げこまれる破目になってしまいました。旧約聖書ダニエル書に書かれています(六章参照)。のろいや悪だくみは、必ず、自分自身へののろい・わざわいとなって返ってきます。
そして愛もまた、必ず、勝利と祝福を持って返ってくるのではないでしょうか。聖書は言います。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。……いつまでも残るものは……愛です」(Ⅰコリント一三4―813)。


◆ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

2011年10月31日 07時43分31秒 | 聖書
(詩篇五一・一〇)

信仰後退者が、もしその内にわずかでも残りの火をとどめているならば、回復を求めてうめくであろう。彼が再び新たにされるには、回心と同様の恵みの働きが必要である。私たちは回心の時、悔い改めが必要であった。今もたしかに悔い改めが必要である。私たちは最初キリストのもとに来るため、信仰を求めた。今もこれと同じ恵みのみが私たちをイエスのもとに行かせる。私たちはその時、私たちの恐れに終止符を打つため、いと高き方のみことば、愛する者のくちびるより出るみことばを必要とした。私たちは現在罪の意識の下にある時、なおそれを要することを発見するだろう。だれでも、初めに感じたような聖霊の力の真の顕現がなければ、新たにされることは不可能である。なぜなら、それは難事業であり、血肉は今も変わることなく行く手をふさいでいるからである。
クリスチャンよ。あなたの弱いことを、神に熱心に助けを求める理由とせよ。ダビデが自らの無力を感じた時、手をこまねくことなく、くちびるを閉じることなく、恵みの座に駆けつけて、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と祈ったことを覚えよ。あなたが一人では何事もなし得ないという教えを、怠惰の理由とせず、イスラエルの保護者に熱心に駆けつける理由とせよ。あなたが命をかけて「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と神に嘆願する恵みを得られるように。神に向かって真剣にこのように祈る者は、神の働かれる手段を用いることによって、自分が誠実であることを証明するであろう。
多く祈れ。神のみことばに生きよ。あなたから主を追い出した肉欲を殺せ。罪が再び頭をもたげないように警戒せよ。主はご自身の定められた方法を用意される。道のかたわらに座せ。主がお通りになる時、あなたは備えができていよう。あなたの恵みを養い育てる信仰の務めを続けよ。そして、すべての力が主から来なければならないことを知り、「ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と叫ぶことをやめるな。


出エジプト記21章1-6節

2011年10月30日 08時30分09秒 | 聖書
21:2 「あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。」 奴隷制度は、当時の世界でよく行われていました。従って、彼等が約束の地であるカナンの地に入ったときに、そこでこの奴隷をもつというようなことが生じた場合どうするかということを、主は語られたのです。この奴隷が生じる理由は、戦争で負けて奴隷とされたり、また金銭に困って売られたりする事によりました。イスラエルの民も、エジプトの国で人口が増加して、国に脅威を与えたために、奴隷とされてしまいました。奴隷の姿は労働者の場合もありますし、また有能な人の場合には、家の管理を任されたり、子弟の教育を任されたりしました。しかし、そのいずれの場合にも、自由は奪われていたのです。 ところが、ここで主は、イスラエルの民においては、奴隷として6年間働かせたならば、7年目には自由にするように命じました。それは、主の安息日のように、奴隷に安息を与えるためでした。神は、奴隷の人格を考えておられるのです。不自由な人に対する、神の驚くべきご配慮です。

◆巧言令色すくなし仁

2011年10月30日 08時23分19秒 | 聖書
声を和らげて語りかけても、それを信じるな。
その心には
七つの忌みきらわれるものがあるから。(箴言二六25)

「人を見たらどろぼうと思え」ということばがあります。
人間をそのことばどおり信じるな。人のことばは表面上のもので、「その心の中には七つもの忌まわしい思い・悪い心がひそんでいる」というのです。悲しいことです。しかし、悲しい現実ではないでしょうか。
ソロモンは、ことばがじょうずで、心が悪い人の姿を「銀の上薬を塗った土の器のようだ」(箴言二六23)と言いました。銀むくだと人に思わせますが、中味が違うのです。中国でも、「巧言令色すくなし仁」といって、ことば巧みな人は警戒せよ。真実の人は少ない、必ずといっていいほど裏があると警告しています。私たち人間には裏表がある、口と心の不一致がある。――このことは、人を判断するためによく知っておくべきでしょう。しかし、何よりもこれを自らに当てはめてみて、反省材料にすべきではないかと思います。
いったいどんな、いやな心・みにくい心・神に忌みきらわれる心が、私たちのうちにあるのでしょうか。
イエス・キリストは、こう言われました。「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。……内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(マルコ七15―23)。
イエス・キリストは、またこう言われました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四14)。忌まわしい、人をけがすものではなく、こんな新しい泉を心の中に持ちたいものです。


◆私は心を尽くして主に感謝します。

2011年10月30日 08時19分57秒 | 聖書
(詩篇九・一)

祈りが答えられた時、いつでも感謝がなされなければならない。それはちょうど天上の愛の太陽が地を暖める時、地の感謝の霧が立ち上るようである。主はあなたにあわれみ深く、あなたの訴えに耳を傾けられたか。それならあなたは生きている限り主に感謝せよ。熟した果物を、それにいのちを与えた源である肥えた地の上に落とせ。あなたの祈りに答え、あなたの心の願いをかなえられた方に歌をささげることを拒んではならない。神のあわれみに対して沈黙を守ることは、忘恩の罪を犯すことになる。それは、病をいやされたのに、いやし主に感謝をしに帰らなかった九人と同様、卑しいことである。
神に対する感謝を忘れるのは、私たち自身を益することを拒むことである。なぜなら感謝は、祈りと同様、私たちの霊的生活の成長を促進する有力な手段だからである。感謝は私たちの重荷を去り、希望を盛んにし、信仰を増進させることを助ける。それは、信者の活力を盛んにし、主の御用のため新しいことを企てる勇気を与える、健全な、また活気ある活動である。
神に対し、受けた恵みを感謝することは、私たちの友をも益する道である。「貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。」もし私たちが「私とともに主をほめよ、共に、御名をあがめよう。私が主を求めると、主は答えてくださった」と言うことができれば、私たちと同様な事情の下にある者は慰められるであろう。私たちの「救いの歌」を聞いて、心の弱い者は強められ、うなだれた聖徒は力づけられるだろう。私たちが詩と賛美と霊の歌とにより、互いに教え、互いに戒めるならば、彼らの疑いや恐れは消え去るであろう。私たちが、主の聖なる御名をあがめるのを彼らが聞く時、彼らもまた「主の道について歌う」であろう。
クリスチャンの義務の中で最もすばらしいのは感謝である。天使は祈ることはしないが、昼も夜も感謝をやめない。贖われた者は白い衣を着、しゅろの枝を手に、うむことなく「小羊はふさわしい」とたたえる新しい歌を歌う。


◆しかしふたりの目はさえぎられていて、

2011年10月29日 19時19分57秒 | 聖書
イエスだとはわからなかった。(ルカ二四・一六)

弟子たちは、イエスを当然知っていなければならなかった。彼らは絶えず主の御声を聞き、御顔を見ていたのに、主を見分けることができなかったとは、むしろ不思議である。しかし、あなたも同様ではないか。あなたは近ごろ、主に会っていない。あなたは主の食卓に列しながら、主にお会いしていない。今夜あなたは暗黒の苦悩のうちにあり、主がはっきりと、「わたしだ。恐れることはない」と告げられるのに、あなたは主を見分けることができない。
ああ、私たちの目はさえぎられている。私たちは主の御声を知り、御顔を眺め、自分の頭を主の胸にもたせかけてきた。しかし、キリストがすぐ近くにおられるのに、私たちは「主がどこにおられるかを知ることができたなら」と言っている。私たちはイエスを知るべきである。私たちは主の御姿を示す聖書を愛している。しかしそれを開きながら、自分の愛する主を一目見ることさえできないとは、どういうことか。
愛する神の子たちよ。あなたはこのような状態にいるか。イエスはみことばのゆりの中におられる。あなたはそのゆりの中を歩きながらも、主を見つけることをしない。主は常に聖書の中を歩み、そよ風の吹くころ、御父がアダムと交わられたように、その民と交わられる。あなたは聖書の園の中におり、主が常にそこにおられるのに、あなたは主を見ることができない。
なぜ私たちは、主を見ないのか。不信仰のゆえである。弟子たちは、明らかに、イエスにお目にかかることを期待していなかった。そのため、彼らはイエスであることがわからなかった。私たちにイエスを見ることができるようにさせるのは、信仰のみである。「私の目を開いて、私と共におられる救い主を見させてください。」これをあなたの祈りとせよ。主にお目にかかることを願うのは幸いである。しかし、おお、主を見つめることは、はるかにまさる。ご自分を求める者に対して、主は親切であられる。しかし主を見いだした者には、主は表現できないほど親愛なお方である。


出エジプト記20章21-26節

2011年10月29日 09時35分47秒 | 聖書
20:23 「あなたがたはわたしと並べて、銀の神々を造ってはならない。また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない。」 神様は偶像礼拝を禁じています。しかし、時々そのことで、間違ったことを考える人がいます。つまり、主なる神様を礼拝さえしていれば、他の神様を同時に礼拝してもかまわない、というような思いを持つことです。しかし聖書は、そうした行為を厳しく禁じています。ここで、「わたしと並べて」他の神々を礼拝してはならない、と命じているのです。イスラエルの民が偶像礼拝の為に滅ぼされた時、彼等は、主なる神様を忘れたわけではありませんでした。また、主なる神様を礼拝しなかったわけでもありません。彼等は主なる神様を礼拝しながら、他の神々を一緒に礼拝したのです。それは、バアルの神であったり、アシタロテの神でした。つまり、そこの地の土着の神を礼拝したのです。それによって、自分たちも豊かな収穫に預かるかと思ったからです。しかし、それが彼等の滅びへの道でした。唯一の真の神のみを、礼拝すべきなのです。

◆ストップ、陰口

2011年10月29日 09時25分36秒 | 聖書
たきぎがなければ火が消えるように、
陰口をたたく者がなければ争いはやむ。(箴言二六20)

確かに「陰口」は、争いの火にたきぎをくべるようなものです。それなのに私たちは、よく陰口をたたきます。どうしてでしょうか。
第一に、人のよしあしを言う品定めにはこたえられない楽しみがあります。
第二に、人間には、面前にいる人を喜ばそうという気持ちが働きます。そして、いない人の悪口を言うと、人は一番喜びます。「陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ」と、箴言二六章二二節は言います。
第三に、これは一番強力な陰口の動機です。人はうらみにかられて陰口をたたきます。憎い、うらめしい、怒りでいっぱいだ、怨念を晴らしたい。――そこで、あることないこと陰口をたたきます。
私自身が体験している「陰口のストップ法」を二つ紹介しましょう。第一は、陰口を言いたい時、ことにうらみの気持ちから言いたい時は、待てよ、本人に面と向かって言うとしたら、私は何と言うだろうかと考えます。必要なら、本人に面と向かえばこう言うという文章を実際に書いてみます。そして、本人の面前で言えないことは言わないと、ストップをかけるのです。こんなやり方をして、しばしばよく分かったのは、陰口の槍玉にあがる相手よりも、私自身の高ぶり・怒り・うらみ・憎しみこそ問題だということでした。
第二は、人が陰口を話すのを面白がって聞かず、ストップをかけてしまうことです。ピョートル大帝のところへある貴婦人が来て、自分の主人の悪口を言い始めました。ピョートル大帝は、「私の知ったことではない」と言いました。すると、その女は「でもピョートル大帝、私の主人は陛下の悪口も言いますの」とさそいをかけました。すかさずピョートル大帝は、「それはあなたの知ったことではない」と言ったそうです。


◆だから、こう祈りなさい。

2011年10月29日 09時21分30秒 | 聖書
「天にいます私たちの父よ……。」(マタイ六・九)

真の祈りは、主のすべての祈りのように、子が父に呼びかける心、すなわち「私たちの父よ」で始められなければならない。私たちが「立って、父のところに行って……」と言い得るまでは、神に受け入れられる祈りは出てこない。子どものように単純な心はすぐに、「天にいます」父の荘厳さを見させ、「御名があがめられますように」という真心のこもる崇敬を上らせる。「アバ、父」という子どもの片言が成長して、「聖なる、聖なる、聖なる」というセラフィムの叫びとなる。
全心全霊をもってする礼拝から、燃えるような宣教精神までの距離は、わずか一歩にすぎない。この宣教精神は、神への愛と、「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と敬虔に主をあがめることの必然の結果である。
次に心からの神に対する信頼が続く。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」
彼は主に依存しているだけでなく、さらに聖霊の光に照らされる時、自分の罪深さを発見するので、次のようにあわれみを願う。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
そして、罪赦され、キリストの義を着せられ、神に受け入れられたことを知り、彼は常に聖くあることをへりくだりつつ懇願して、「私たちを試みに会わせないで……」と言う。真に罪赦された者は、再び罪を犯すのではないかと恐れる。義とされた者は聖くなろうとする。「私たちの負いめをお赦しください。」これは義認である。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」これは消極積極両面の聖潔である。
以上の結果として次の賛美のことばが続く。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」私たちは、私たちの王が摂理の中に支配されること、やがて、恵みによって地の果てに至るまで統べ治められ、その統治の尽きないことを喜ぶ。


●労働時間規制の適用除外●

2011年10月29日 09時16分38秒 | 労働法
宿直などのように、労働密度の低い労働については、労基法41条の規定する「監視・断続的労働」についての許可申請をすることで、労働時間規制の適用を免れることができます。具体的には、割増賃金の支払義務が免れることになります。ただし深夜割増賃金は除外されません。また労働密度の低い宿直だからといって、適用除外の許可が無制限に認められるわけではなく、宿直に対する手当が通常勤務時の1/3以上であることや、その頻度が週1回を限度とするという通達があります。

◆その頭は純金です。

2011年10月28日 20時29分27秒 | 聖書
髪の毛はなつめやしの枝で、烏のように黒く……。(雅歌五・一一)

主イエスを説明するためには比較するものがない。しかし花嫁であれば、身近で最善の比較を見いだす。
イエスのかしらによって、私たちは主の神性を理解することができる。「キリストのかしらは神です」とあるからである。そして純金のかたまりは、想像し得る限りの最善の比喩であるが、それでも主の尊さ、純潔、親愛、栄光を述べるには余りにも不十分である。イエスは黄金の粒ではなく、無限に大きな黄金のかたまりであり、天地にたぐうべきもののない貴重な存在であられる。被造物は鉄や粘土にすぎず、すべて木、草、わらのように滅びてしまうであろう。しかし、神の被造物の永遠不死のかしらは、いつまでも輝かれる。
ふさふさとした髪は、主の男らしい力を表す。私たちの愛する主には、いささかの柔弱さもない。主は最も雄々しく、獅子のように大胆であり、雄牛のように勤勉であり、鷲のように軽快であられる。かつて、人々に侮られ、捨てられたが、すべての想像を絶した美がそこに見いだされる。
 主のかしらは麗しい黄金
 甘美な香りに満たされ
 烏の羽のように黒い毛が
 ふさふさとその肩にかかっている
主のかしらの栄光は刈り取られることなく、とこしえにたぐいない栄光をいただく。
黒髪は青年のはつらつさを示す。イエスには青春の露が宿っているからである。人は歳月とともに活気を失う。しかし、主はメルキゼデクのようにとこしえに祭司であられる。人は来てまた去って行く。しかし、主は神として世々限りなく御座に座しておられる。
私たちは今夜主を見、主をあがめよう。天使は主を仰ぎ見る。主によって贖われた者は主から目を背けてはいけない。主のような愛すべきお方がどこにおられるであろう。おお、主と一時問の交わりをもちたい。わずらわしい心労よ。去れ。イエスは私を引き寄せてくださる。主の後を慕って私は走って行く。