39:1 彼らは、青色、紫色、緋色の撚り糸で、聖所で仕えるための式服を作った。また、主がモーセに命じられたとおりに、アロンの聖なる装束を作った。
39:2 彼はまた、金色、青色、紫色、緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で、エポデを作った。
さて、彼等の働きの最後に語られていることは、この幕屋である聖所で働く大祭司や、祭司たちの装束を作る奉仕のことです。
まずここでは、祭司たちの着る衣服を作ったことを語っています。
そしてさらに、大祭司となるアロンの着る装束のことが語られています。
この装束は、主がモ-セにその製作を命じたものです。
その製作のためには、細かい指示がありました。
聖なる方の前に立つためには、その御心にかなうものでなければならないからです。
大祭司の衣服のことを「聖なる装束」と言っています。
彼はこの衣服を着て、年に一度至聖所に入り、犠牲を献げました。
それは、民と自分との罪の許しを得るための、犠牲を献げる働きでした。
聖なる神の前に立って、働きをするために、この衣服を着ることを命じられたのです。
よこしまな者や不法の者は、
曲がったことを言って歩き回り、
目くばせをし、足で合図し、指でさし、
そのねじれた心は、いつも悪を計り、
争いをまき散らす。
それゆえ、災害は突然やって来て、
彼はたちまち滅ぼされ、いやされることはない。(箴言六12―15)
これは、やくざ映画・ギャング映画の一こま一こまを見ているような描写です。
聖書は、世界に悪の力が働いていることを教えています。そして、その霊の力の名前は「悪魔」です。
悪魔の第一の働きは、造り主である神に逆らって間違った情報を流すことです。その中心は、「神などいない」という情報です。神などいるものか、正義とかきよさとかおきてとかは、みな無視して平気だといいます。第二の働きは、世界中のどこでも人と人の間に争いを巻き起こすことです。
現代の歴史は、信じられないほど、不信と争いと残虐に満ちています。ドイツやポーランドでのユダヤ人虐殺があります。エルサレムの記念館で見た写真の一枚一枚には、めまいがしそうな思いがしました。アウシュビッツだけでも百数十万人ものユダヤ人が虐殺されました。これはみな、人間が悪魔の力に動かされ踊らされている証拠です。
しかし聖書は、「世界の終わり」が突然やってきて悪魔は滅ぼされ、すべての悪にピリオドが打たれると宣言しています。神が悪魔を滅ぼして、平和な世界が造られる時まで、完全な平和はないでしょう。平和は神によるのです。
「神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」(Ⅰヨハネ三8)。
(エレミヤ三一・三)
律法の雷とさばきの恐怖が、私たちをキリストに導くのに用いられる。しかし、決定的な勝利は愛によって得られるのである。
放蕩息子は飢え渇いたすえ、父の家を目指して出発した。しかし父は、遠くから彼を見つけ、走り寄って迎えたのである。それで、息子が父の家の敷居をまたいだ時は、その頬にはまだ口づけのぬくもりがあり、その耳には歓迎のことばの余韻が残っていた。
律法と恐怖は、人の心をただ堅くする
しかし血により贖われた赦しは石の心も溶かす
ある夜、主は門口に立たれ、律法の鉄の手をもってノックされた。その時ちょうつがいがはずれるほど戸は揺れ動いた。しかし人は、あらゆる家具をもち出して積み重ね、「私はこの人を入らせない」と言った。
主はいったんそこを去られたが、まもなく帰って来て、釘あとのある御手で静かに優しく再びノックをされた。戸は揺れなかったが不思議に開かれ、堅く拒み続けた人が、今度は喜んで主を迎え入れた。「お入りください。あなたのノックを聞いて私の心は動きました。どうぞお入りください。あなたが傷ついた御手の血の跡を戸口に残し、泊まる所もなく出て行かれるのを見るに忍びません。あなたの頭は露でぬれ、髪の毛は夜のしずくでぬれています。私はあなたに従います。あなたの愛が私の心をとらえたのです。」
このように愛はいつでも勝利を得る。モーセの石の板によってなし得ないことを、キリストの、傷跡のある御手がなされるのである。救いに召される道はこれである。
私は実際にそれを体験しているだろうか。「主は引いてくださり、私は従った。私は主の聖い御声を喜ぶ」と言うことができるであろうか。もしそうであるなら、主がこれから後も私をみもとにとめおかれ、ついには小羊の婚礼に連なるまでに至らしめてくださいますように。
労働契約でも就業規則などにも明示されていないが、一般的に習慣として会社で行われていることを、「労使慣行」といいます。この労使慣行は、それが即契約内容となるものではないことは当然ですが、それが長期にわたって行われているような場合には、従業員もそれを当然のものとして受け止めているわけで、それがこれから先も続くことを当たり前のものとして期待します。
例えば、就業規則には無いが、毎年ある時期に手当を出しているような場合、これをいきなり出さないことができるのか、という問題があります。
また、就業規則の規定とは反する行為が長期間にわたって黙認されているような場合です。つまり就業規則の規定が形骸化しているような場合ですが、こうしたときに、いきなり就業規則違反として、それまで容認されていたことを辞めさせることができるのか、という問題があります。
就業規則の変更による労働条件の不利益変更については、変更の必要性や、変更後の内容の相当性、労働組合との協議状況などがどうかを総合的に考慮し合理性判断がされますが、その変更によって、ある一定の従業員に及ぼす不利益が大きいような場合には、経過措置があるのかどうかが大きな要素になります。
経過措置とは、就業規則の変更によって、労働条件が著しく低下するような場合、例えば賃金が大幅に下落するようなときですが、こうしたときに、その下落が急激にならないように、少しずつ下落するようにすることです。いわば激変緩和措置です。
しかし労働条件の著しい低下とは、何を持って判断するのか、明確ではありません。よく裁判などでは、「通常甘受すべき程度」という文言が使われますが、その程度は、どのような要素を判断の対象にするのかによって、微妙に異なることになるからです。
38:24 仕事すなわち聖所のあらゆる仕事のために用いられたすべての金は、奉献物の金であるが、聖所のシェケルで29タラント730シェケルであった。
この幕屋を作るために用いられた物に、金や銀、青銅などがあります。
ここではその用いられた金に関して、それは約30タラントであったと言われています。
1タラントは重さの単位ですが、その1タラントの価値は労働者の6000日分、即ち16年分の給与に等しいと言われています。
それの30倍と言われるのですから、相当の量です。
さらに、その他に銀や青銅などがあったのですから、どれほど多くの人々が、献身的に多くを献げたのかが分かります。
聖書は20才以上の者、約60万人の人々が献げたと語っています。
自分たちの用いている飾り物とか、持っている金銀などを惜しみなく献げて、この幕屋建設のために仕えていったのです。
神様のために奉仕をするということを、文字通り彼等は実行していったのです。
生きておられる神様に対する、彼等の生きた信仰の姿勢がありました。
なまけ者よ。いつまで寝ているのか。
いつ目をさまして起きるのか。
しばらく眠り、しばらくまどろみ、
しばらく手をこまねいて、また休む。
だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、
あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言六9―11)
いつか駅の職員が寝坊して、駅のシャッターをおろしたままで一番電車を通らせてしまい、お客さんが電車に乗れなかったという事件がありました。しかし、これはニュースになるほど特別なことでした。日本人は勤勉で清潔です。
ところが、その私たち日本人の怠惰でだらしがない点は、「神」とか「愛」「永遠」「きよさ」についてです。
ある時ホテルにとまって、朝早く出発しなければならないことがありました。フロントに行ってみると、ボーイさんがフロントの向こうで横になって寝ています。声をかけると起きあがったのですが、寝ぼけまなこで、こちらが何を言っても要領を得なかったことがあります。
人生も、寝ぼけているとそのとおりです。絶対にきよく正しい神の前に立つと、どうしていいか分かりません。愛とか永遠とかの前におどおどしてしまうのです。
いつも一生懸命働き、勤勉に商売しているように見えても、神の愛が分からず、神のきよさ・永遠も分からず、死とさばきも何のことかと目をこすっているようでは困ります。やがてすべてを神が分からせられる「死」を待っているのではおそいのです。私はまっすぐ歩いている、一生懸命やっていると思っても、愛がなければ曲がっています。きよくなければ、よろめいているのです。神の愛と神のきよさに目ざめましょう。
「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます」(Ⅰコリント一五34)。
(詩篇六二・五)
このことばを用いることは信者の特権である。彼がこの世からなんらかの望みを期待しているとすれば、それはまことにつまらない望みである。しかし、この地上の祝福であると霊的な祝福であるとを問わず、神によって欠乏を満たされたいと望むなら、その望みは決してむだになることはない。彼は信仰の銀行から常に資金を引き出し、神の恵みによってその必要を満たされる。私がこのことを心得ているならば、大金持ちのロスチャイルドに金を預けるよりも、神と取り引きしたいと思う。私の主は、決して約束を破られることはない。約束を御座に携えて行くならば、神は決してそれを無視されることはない。だから、私は神の戸口に立って、豊かな恵みの御手をもって戸を開かれるまで待とう。その時に約束の真偽ははっきりする。
さらに、私たちは、この世以上の望みをもっている。やがて、私たちは死ぬだろう。そうすれば「私の望みは神から来る」。私たちが病の床にある時、神が御前の使いを遣わして神のふところに運ばれることを期待しないだろうか。脈が衰え、呼吸が乱れた時に、天使は私たちの枕もとに立ち、あわれみの目を注いで、「私の愛するたましいよ。私とともに来なさい」とささやく時のあることを私たちは知っている。私たちが天の都の門に近づく時、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」という歓迎の声を聞くことを期待する。さらに、私たちは黄金の琴と栄光の冠を期待し、まもなく御座の前の輝く群衆の中に入ることを望む。私たちは栄光の主に似せられる時の来ることを心待ちにしている。なぜなら「私たちはキリストのありのままの姿を見る」と書かれてあるからである。
私のたましいよ。もし以上のことがおまえの望みであるならば、ただ神のためにのみ生きよ。おまえの必要をすべて満たし、その恵みによっておまえを召し、贖い、救われた神の栄光を現すことを願い、かつ決意して生きよ。これがおまえのもつべき、来るべき栄光の望みである。
38:21 幕屋、すなわち、あかしの幕屋の記録は、次のとおりである。これは、モーセの命令によって調べたもの、祭司アロンの子イタマルのもとでの、レビ人の奉仕である。
記録を残すということは、大事なことです。
その時には記録の価値が分かりませんが、後の時代になると、その記録が残されることによって、どのように作られたか、また誰が指導し、どのような働き人がいたのかということも知ることが出来ます。
またこの記録を書き残すことによって、神様がどのように民を導き、民がそれに答えていったかということも知り得ます。
そこから神様への感謝と、人々の奉仕の姿を知ることによって、読んだ人々は力づけられるのです。
モ-セは多くの所で、与えられたことを記録してきました。
そのことが残されることによって、人々は、その成された働きを知ることが出来ました。
従って、記録を残したということは、価値ある働きであったのです。
これは主が命じたこともありますし、またモ-セも、その大事さということを知って、自分から命じている時もあります。
聖書自体も、主の恵みの働きの、記録の書なのです。
なまけ者よ。蟻のところへ行き、
そのやり方を見て、知恵を得よ。
蟻には首領もつかさも支配者もいないが、
夏のうちに食物を確保し、
刈り入れ時に食糧を集める。 (箴言六6―8)
日本人は蟻のように働きます。それが現在の富を築いたわけです。勤勉でよく働く日本人はほめられもしますが、「働きすぎだ」とねたまれてもいます。
ねたまれて悪口をいわれても、やはり、勤勉で働くことが好きな日本人であり続けたいと思います。健康で、やるべき仕事・働きがあって精いっぱい働けるなら、これはすばらしいことです。
イソップ物語のキリギリスのように歌ってばかりいて働かず、備えをしないでなまけていると大変です。
ところが日本人には、キリギリスよりももっと仕方のないなまけ者で、いざという時の蓄えをせず、だらしがない点があります。それは「永遠」「永遠のいのち」という点についてです。
死が一人一人に迫ってきます。人生の冬が近づいています。ところが、だれも用意していません。雪の降るきびしい冬の夜もたきぎがあり暖炉があるなら、「雪の降る夜は楽しいペチカ」です。しかし、備えがなかったらどうでしょう。
私たちは勤勉な蟻から学ばねばなりません。いま見えないからといって冬は「ない」と思ってはならないのです。蟻に冬は見えませんが、冬のために備えています。永遠の世界が見えないから「ない」といってはなりません。死のかなたに永遠のいのちが、または永遠の滅びが待っているのです。
死のかなたは、完全に神のみが支配する世界です。神の愛の中で永遠の喜びを味わうか、神の怒りの中で永遠に孤独で過ごすかの選択を、冬になる前にしなければなりません。「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(アモス四12)と、聖書はすすめます。
(詩篇九一・九)
荒野におけるイスラエル人は絶えず変化にさらされていた。雲の柱が止まるたびに天幕が広げられた。しかし翌朝、太陽が上らないうちにラッパが鳴り、契約の箱が前進を始め、燃えている雲の柱に導かれて山の狭い道を通り、丘を越え、あるいは無人の荒野を旅するのであった。少し休んだかと思うと、すぐに命令が下って「前進せよ。あなたはここに休んでいてはならない。あなたがたはカナンに向かって旅を続けなけれはならない」と促されるのであった。
彼らは決して一つの場所に長くとどまってはいなかった。泉があっても、なつめやしの木があっても、彼らはとどまることができなかった。それでも彼らは神を彼らの家とし、雲の柱をその棟木と思い、夜になって燃えるその柱を家庭の炉の火と思っていた。
彼らは一つの場所から次の場所へと前進しなければならなかった。彼らは絶えず変化を経験し、落ち着く暇もなく、「今こそ私たちは安全である。この場所に定住しよう」と言うことはなかった。モーセは、「主よ。私たちは絶えず変わりますが、あなたは代々にわたって私たちの住まいです」と言った。
クリスチャンは、神は少しも変わらない方であると知っている。人は今日富んでいても、明日は貧しいかもしれない。今日は病み、明日は健康になることもあろう。今日は幸福でも、明日は患難に会うかもしれない。しかし私たちにとって、神との関係は少しも変わらない。昨日私を愛された神は今日も愛してくださる。私の、動くことのない憩いの家は恵み深い主である。前途は曇り、希望は吹き散らされ、喜びは失われ、かびがすべてのものをだいなしにしてしまっても、私が神のうちにもっているものは何も失われない。
神は「私の住まいの岩……強いとりで」である。世にあっては私は寄留者である。しかし神にあって安住している。地にあっては私は放浪者である。しかし神のうちに静かな住まいをもっている。
38:9 彼はまた、庭を造った。南側では、庭の掛け幕は百キュビトの撚り糸で織った亜麻布でできていた。
38:10 柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀であった。
ここでは、庭を作ったことが語られています。
通常、庭を作ると言いますと、その庭の中に置かれる木々や池、あるいは歩く所などを作ることを考えます。
所が、ここで語っている庭というのは、少し違います。
この庭は、幕屋と祭壇などがある場所を、幕で囲むことによって作るスペースのことを語っているのです。
つまり、この幕屋も移動できる物として作られていますので、この幕屋に伴う庭も、移動できる場所に作らなければなりません。
そこで、その庭は、幕で囲む形で作られているのです。
南北100キュビト、東西50キュビトの、かなり大きな物です。
東側には入り口が設けられました。
その1辺である南の側の柱は20本で、その台座は青銅で作り、かけ幕は亜麻布、そしてそのかけ幕を吊す鈎などは銀製であったと語られています。
これが、後の恒久的な建物である神殿の、原型となっていきました。
あなたの目を眠らせず、
あなたのまぶたをまどろませず、
かもしかが狩人の手からのがれるように、
鳥が鳥を取る者の手からのがれるように
自分を救い出せ。 (箴言六4―5)
勢子たちや犬に狩り出されたイノシシが、鉄砲でねらう猟師たちの待つところにふらふらと追われてきた姿を見たことがあります。また、かすみ網にひっかかって懸命に暴れる小鳥たちの姿も映画で見ました。絶体絶命です。
聖書は、人間の姿を、こんなカモシカや鳥にたとえています。孤独・不安・挫折……、現代人の憂いは濃く、現代人は深く悩んでいるのです。あなたも現代人の一人として、そのような悩みを持っているのではないでしょうか。
現代人はこの悩みから逃れようとして、網にかかった鳥のようにもがいています。レジャーに、酒や女やギャンブルに自分を忘れようとし、趣味・道楽に逃げ道を見いだそうとしたり、勉強や事業をいのちがけでやってみたりします。しかし、それはがんに膏薬をつけているようなものです。どこに救いがあるのでしょう。
現代人のこの悩みの根本原因は何かを、私たちは知らないでいます。ちょうど、自分のすみかから迷い出たカモシカや網の前に迷い出てしまった鳥のようです。
人間の悩みの根本原因は、造り主なる神の愛のふところから離れ、愛深い神のいのちのつながりから迷い出たことです。神に立ち返るところにのみ、ほんとうの解決があります。
「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」(イザヤ四四22)。
(ヨナ二・九)
救いは神のみわざである。「罪過と罪との中に死んでいた」たましいを生かし、その霊のいのちを守られるのは神のみである。神は「アルファであり、オメガ」であられる。
もし私が祈り深いなら、それは神が私をそうされたのである。もし私に徳があるなら、それは神の賜物である。もし私が調和のある生活をしているなら、それは神がその御手で支えておられるからである。神が私を守るために先手を打たれたのであって、私が何かの努力をしたためではない。私の犯す罪は私のものだが、私のなす正しい行いはことごとく主から来たのである。
もし私が霊の敵を撃退したとしたら、主が私の腕を力づけられたからである。私が人々の前で聖い生活をしたとしたら、それは私でなく、私のうちに住んでくださるキリストである。私は聖められているか。私を聖としたのは、私自身ではなく聖霊である。私は世的なものから離れているか。私は、私のために配慮される神の懲らしめによってそうされている。知識において成長したか。それは大教師が私を教えられたからである。私の宝石はすべて天の技術によってみがかれたものである。私に欠けているものは、すべて神の中にある。しかし私の中にあるものは罪とわざわいだけである。「神こそ、わが岩。わが救い」である。
私は神のみことばを食べて成長しているか。みことばをたましいの食物として、それを食べるようにしてくださるのは神である。私は天から降るマナによって生きているか。そのマナは受肉されたイエス・キリストであって、私はそのからだを食べ、その血を飲んでいるのではないか。私は不断に新しい力を受けているか。その力はどこから来るか。私の助けは、天地を造られた主から来るのであり、イエスなしに何もすることはできない。枝が幹につながっていなければ、実を結ぶことがないように、私も主につながっていなければ何もできないのである。
ヨナが海底で学んだことを、今朝は私の密室において学びたい。「救いは主のものです」ということを。