座間コミニティー

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◆生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。

2017年09月30日 18時30分36秒 | 聖書
(伝道者九・四)
いのちは尊い。それがどんなに卑しい形のものでも死よりはまさる。これは、霊的なことにおいてたしかに真理である。天国で最も小さい者となることは、天国の外で最大な者となるよりもまさる。恵みの最低の段階は、生まれ変わらない性質の最高の発展段階よりすぐれている。聖霊が神のいのちをたましいの中に植えつけられたところには、洗練された教育も匹敵できない尊いものがある。十字架上の犯罪人は、王座にいるカエサルにまさり、犬に囲まれるラザロは、元老院議員の中にいるキケロにまさり、さらに最も無学なクリスチャンは、神の目から見ればプラトンよりもまさっている。いのちは霊の領域において高貴さのしるしである。それをもっていない人々は、質の良い悪いにかかわらず、いずれもいのちのないものの実例であり、いのちを与えられる必要がある。彼らは咎と罪の中に死んでいるのだから。
生き生きとして愛に満ちている福音の説教は、無学で形式が整わなくても、聖霊の油と力のない最高に洗練された大講演にはるかにまさる。生きている犬は見張りをし、主人にとっては死んだ獅子よりも役に立つ。そのように最も貧弱な霊的説教者も、大雄弁家の、ことばがあっても知恵がなく、響きがあっても活力のないのに比べれば、どんなにすぐれているかわからない。私たちの祈りや礼拝についても同様である。もし私たちが、それらの中で聖霊によって力づけられているならば、神は、それをイエス・キリストによって受け入れてくださる。しかし、私たちの心のこもらない壮大な儀式は、死んだ獅子のようであり、生ける神の目から見れば、腐敗したしかばねにすぎない。
おお、いのちのない歌や、死んだ安静よりも、むしろ生きたうめき、生きた嘆息、生きた失望を得たい。どのようなものでも死よりはまさる。地獄の犬のうなり声は、少なくとも私たちの目を覚まさせる効果はもつ。しかし、人のもつことのできるのろいの中で、死んだ信仰と死んだ告白より大いなるものがあろうか。
おお、主よ。私たちを生かしてください。
 

「もし、あなたがたの心に、苦いねたみと敵対心があるならば・・

2017年09月30日 18時27分44秒 | 聖書

真理に逆らって偽ることになります」(ヤコブ3:14)

神は私たちに御声をかけられ、語りかけて導かれる。サタンも同じ事をする。
サタンも語りかけて誘惑して来る。主は荒野でサタンの誘惑に会われた。
サタンは御父から離そうと、誘惑をしかけて来る。

主は荒野で、二つの声を聞かれた。神の御声とサタンの声だ。
私たちも御父の御心を求めようとする時、神の御声とサタンの声がある事に要注意だ。
よくわきまえていよう。でなければ、間違ってしまう。

特に御心を求める時に、大切な事が、よく心を静めて、御霊に心を探って頂いて、罪があれば、必ず悔い改めることだ。
特に、妬みや敵対心の苦いものをそのままにしていると、サタンの声を神の声と信じ込んでしまう。

罪が見えなくしてしまう。邪悪な思いをそのままにしておくと、サタンの声と神の御声が混乱してわからなくなる。
間違ってしまう。あなたの心に苦い根、苦いものがないか、思いや行動に邪悪なものがないか、よく御霊の光に探って頂こう。

一つ一つ言い表わすなら、その罪を赦し、すべての悪からきよめて下さる。
きよめられて、御心を求める時、神のさやかな御声が聞こえて来る。
上からのものは純真、平和、寛容、温順・・あわれみと良い実に満ちている。

苦いものは、上からのものではない。いつも悔い改めて御霊の導きに従おう。
上からのものに満たされる。
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すべての人に平和な思いで接する事はできないが、やせ我慢して御心に従おうとしてしまうのは偽りだ。
苦い思い、その罪に正直になり悔い改めて行かなければ思いの中にサタンの足場が出来てしまう。
正直になり御声を待ちたい。


今日の聖人の記念日

2017年09月30日 09時13分31秒 | キリスト教

聖ヒエロニモ司祭教会博士

347年-420年

 古代教会の重要なラテン教父であるヒエロニモは、ダルマチア(現オーストリア)の裕福なキリスト信者の家に生まれた。恵まれた環境と豊かな才能によって、短期間でギリシャ語とラテン語を習得し、ローマに留学して8年間修辞学を勉強した。

 そのころ、修道生活に入ることを望み、アクィレアで隠修士の仲間に入り、その後東シリアの荒野に行き、聖書を研究しヘブライ語を学んだ。そしてアンチオキアに戻ってから司祭に叙階され、380年ころ司教とともにコンスタンチノープルに行って、ニッサのグレゴリオなどと親交をもった。

 382年から385年まで教皇ダマソ1世に仕え、聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳したブルガタ聖書を完成し、聖書の注釈書も著わした。教皇の死後、ヒエロニモの反対者によってローマを追われ、仲間とともにベトレヘムに行き、男子と女子の修道院を創立し、また聖地巡礼者のための宿泊所も建てた。晩年は、民族大移動時代と重なり、多くの困難に見舞われたが、修道院を守り抜き、著作活動に励んだ。

 現在もカトリック教会で使われているラテン語訳聖書は、彼によるものである。ヒエロニモは、大学、神学科の守護の聖人とされている。


◆食 欲 の 問 題

2017年09月30日 09時11分57秒 | 聖書

わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。
蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。
知恵もあなたのたましいにとっては、
そうだと知れ。
それを見つけると、良い終わりがあり、
あなたの望みは断たれることがない。(箴言二四13―14)
聖書の中に、蜂蜜が何回も出てきます。甘いものの少なかった時代に、蜂蜜がどんなに貴重であったかが想像できます。信州育ちの友人から、子どものころ、蜂をつかまえて細いひもを結んで放し、蜂の行方を追って、それこそ野越え山越えして、蜂の巣を捜し当てたという経験を聞いたことがあります。イスラエルの昔の人たちも、一生懸命蜂の巣を捜し、したたる蜜を求めたことでしょう。
蜜を恋い慕うと同じように、神の知識を恋い慕いなさいと、聖書は言っているのです。ペテロも、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」(Ⅰペテロ二2)とすすめ、ダビデも、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩篇一一九103)と告白しました。
しかし、あなたにとってどうでしょうか。「良薬口に苦し」ということばがありますが、聖書のことばとか、神とか永遠とかの話には食欲を感じない。苦いとは感じても、とても蜜とは思えない。――これが、私たち多くの人間の問題となっています。きよいこと・永遠のこと・神・神の知識に対して飢え渇きや食欲がないのは、なぜでしょうか。おいしいごちそうを前にしても、ほかのものでおなかがいっぱいで入らなかった経験はありませんか。卑しいもので、腹を満たしている時、貴いものへの食欲がわいてきません。そこで、ペテロは、「すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」(Ⅰペテロ二1)みことばを慕い求めなさいと言ったのです。
 

◆全地よ。神に向かって喜び叫べ。

2017年09月30日 09時11分17秒 | 聖書
御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。(詩篇六六・一、二)
神を賛美するかしないかは、私たちの勝手ではない。神は賛美を受けるべき方であられ、すべてのクリスチャンは、神の恵みを受けた者として、日々神を賛美すべきである。私たちは、日ごとに神を賛美するようにとの高圧的な命令は受けず、ある一定の時に歌い、感謝をささげるようにとも言われていない。しかし、私たちの心に記された律法は、神を賛美するのが正しいことだと教える。この不文律は、石の板に記されたような、あるいは雷鳴とどろくシナイ山頂から直接私たちに渡されたような力をもって迫ってくる。
そうだ。神を賛美することはクリスチャンの義務である。これは単なる楽しい行事であるだけではなく、クリスチャンの生涯の絶対的義務である。絶えず嘆き悲しむ者よ。この点に関して自分に罪がないと思ってはいけない。また賛美の歌なしにあなたの神に対する義務を果たすことができると考えるな。あなたは生きる限り、主の御名をほめたたえるために、愛のひもをもってつながれている。そして、主に対する賛美が常にあなたの口になければならない。神を祝福するために、あなたは祝福を受けているのである。「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
もしあなたが神を賛美しないならば、あなたは、農夫である神があなたに期待される実を、まだ結んでいないのである。だからあなたのたてごとを柳にかけたままにせず、それを下ろし、感謝の心をこめて高らかにかき鳴らせ。立って、神への賛美を歌え。夜明けのたびに感謝の叫びを上げ、夕日の沈むごとにあなたの賛美の歌を歌え。あなたの賛美をもって地をおおい、美しい調べによって地を包め。そうすれば神は天から聞いてくださって、あなたの音楽を受け入れてくださるだろう。
 私はあなたを愛し、心より愛し続け
 あなたに、賛美の歌をささげる
 あなたは私の愛する神であられ
 私の贖い主であられるからだ
 

詩篇66篇5-7節

2017年09月30日 09時09分33秒 | 聖書


66:5 さあ、神のみわざを見よ。神の人の子らになさることは恐ろしい。
66:6 神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。


神が民のためにしてくださった御業を見て、神を褒め称えようと言っています。

神がなしてくださった働きの中に、「神は海を変えて、乾いた地とされた」時のことがあります。

エジプトからの脱出の時、追い詰められた民の為、紅海の水をせき止めて乾いた地を作られ、民を逃れさせてくださいました。

神は神の側に属する人々、主なる神を神として崇めて歩む人々を、憐れんで守り支えてくださることを語っています。

 このような恵みと共に力に富みたもうお方が、私たちの主なる神であられます。

ですから、私たちは心の底から信頼と感謝とを持ってこの主の御名を呼びつつ、このお方の導きと支えとに信頼をして、みことばに従って歩んで参りたいと思うのです。

神を喜ぶことこそが、私たちの真の力である事を、心から知りたいと思うのです。


ルカの福音書21章5,6節(箴言21章)

2017年09月30日 09時07分16秒 | 聖書


『 宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。
「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」』

■O:今日のコラム
今日の箇所に出て来るこの会話。マタイの福音書、マルコの福音書でも記されていますが、ここで話題になっている神殿はヘロデ王が建てた豪華絢爛な神殿で、人の目を引くものであったことが分かります。
イエス様の預言の通りに、この見事な神殿は後に跡形も無いほどに破壊されることとなります。

みことばには「人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書3:11)とあるように、主が私たちに「永遠」への思いを与えて下さったことを感謝します。
私たちのこの地上での歩みが、また教会の中で行われるすべての働きが、果たして永遠へと繋がるものであるのか、それともこの地上で壊れて終わるものなのかを今一度思い巡らしてみたいと思います。
どれほど立派な歩みも、どれほどに麗しいと思われる働きも、主の御心から外れているならば、天に積み上げることはなく、この地上で朽ちていくこと、また永遠のいのちとは何の関わりもないことを、この神殿に対するイエス様のみことばから知ることが出来ます。
どのようにしたら御心から外れずに生きて行くことが出来るでしょうか。

ヨハネの福音書には「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)とあります。
『永遠のいのちとは、イエス・キリストを知ることである』と書かれています。この「知る」とはまさに「アダムがエバを知った」ことと同じ意味合いの「知る」であります。

つまり私たちがイエス様ご自身であるみことばを「知り」、みことばを愛し、みことばを守り行う者、みことばに生きる者となることが、永遠のいのちです。

この地上で、いずれは朽ちてしまうものに、私たちは人生の時間や経済を費やしたくはありません。永遠のいのちに繋がるものにすべてをかけて生きていきたいと願わないでしょうか?

「神に喜ばれている」と信じて進んでいる人生も、働きも、時にズレてしまうことがあります。ズレ始めであれば軌道修正は簡単ですが、時間が経つと、そのズレは大きく、修正も大変なものになるでしょう。まして、そのズレに神の御前に立った時に気づくなんてことは絶対に嫌です。
ですから私たちは日々の点検が必要です。みことばを読み、今の自分の歩み、心の態度、信仰が果たして神の御心からズレていないのか否かを点検したいと願います。
私たちの内の罪の性質が衰え、キリストの性質が私たちの内に生きるならば、
また私たちの生き方が、『みことばそのもの』になるならば、私たちは永遠へと続く神の御心の真ん中を進むことが出来るでしょう。


■A:考えてみよう
日々、みことばに生きるためには、みことばを知らなくてはなりません。ただ、みことばを読むことを超えて、自分自身の歩みがみことばそのものになっていくことが出来るように、みことばに生きる者となることが出来るように、そのような願いを持ってみことばを読む習慣を身につけましょう。


■P:祈り
主よ、神御自身であるみことばを、下さってありがとうございます。アダムがエバを知ったように、そのように、みことばを知っていくことができますように。私が朽ちていくもの、永遠へと繋がらないものに、この人生を費やすことがないように、いつも私のうちに永遠への思いを与えて下さい。私の歩み、働き、心の態度が少しでも御心からズレているのなら、少しでもあなたを悲しませているのなら、みことばを通してどうか気付きを与えて下さい。今日も知恵と啓示の御霊を歓迎し、イエス様の御名により祈ります。


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月29日(金)のつぶやき

2017年09月30日 02時27分14秒 | キリスト教

◆私の愛している人を私は見つけました。

2017年09月29日 17時10分21秒 | 聖書
この方をしっかりつかまえて、放さず……。(雅歌三・四)
キリストは、私たちがみもとに行く時、過去の罪がどうであろうと、受け入れてくださるだろうか。私たちは、他のあらゆる避け所を試してみたが、そのために主が私たちをお叱りになることはないであろうか。この地上に、主のようなお方がほかにあるだろうか。すべての善の中で主は最善であられ、すべての美の中で最上の美ではないだろうか。
おお、それなら主をほめたたえよう。エルサレムの娘たちよ。タンバリンとたてごとをもって主をたたえよ。あなたの偶像を打ち倒して、主イエスをあがめよ。誇りと傲慢の旗を足下に踏みにじり、この世がまゆをひそめ、あざける十字架を高く掲げよ。主をとこしえにあがめ、私の霊を主の足台の下に座らせ、主の御足に口づけし、私の涙をもって御足を洗おう。
ああ、キリストの尊さよ! なぜ私は、主のことをわずかしか考えていなかったのか。主がこれほどに私を満たし、富ませ、満足を与えられたのに、なぜ主以外のものに喜びや慰めを求めたりするのか。主にある友よ。決して主を離れないという誓いを自分の心と結び、主の批准を求めよ。主に願い求めよ。あなた自身を主の指のしるしとし、主の腕の腕輪としてくださるようにと。花嫁がその身を美しく飾り、花婿が宝石をつけるように、主があなたをご自身につけられるように求めよ。私はキリストの心の中に生きたい。
すずめがすみかを見つけ、つばめがひなを入れる巣を得るように、万軍の主、私の王、私の神様、あなたの祭壇のかたわらに住まいを得させてください。私もまたあなたの中に、私の巣、私の家を造り、あなたの鳩のたましいである私が、決してあなたから飛び出すことなく、おお、イエス様、私の唯一の安息所であるあなたに、よりそっていたいのです。
 尊い主にお会いした時
 私の愛のすべてが燃え上がり
 愛のきずなで主を縛った
 私は主を引き止めて行かせない
 

「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。

2017年09月29日 17時08分31秒 | 聖書

しかし、御霊によって、からだの行ないを殺すなら・・生きるのです」(ローマ8:13)

心から、相手を裁く思い、非難する思い、怒りが出て来たらどうするだろう。
クリスチャンなら、「裁く思いはいけない」「非難は良くない」「怒りは罪」と、同時に思いが出て来るだろう。

そんな時はどうするだろう。思いを抑え込むか、心の奥に押し殺すか。
それで良しとしているか。それらを抑え込み、押し込んでいると、必ずいずれ爆発する。
大噴火してしまう。

それらは押し込めているだけで、そこにある。妬みをその場で抑えても、すぐ出て来る。
大切な事は抑え込むことでなく、神の御前に「裁いています。憎んでいます。妬んでいます」と素直に正直に告白し、神に持って行くことだ。

「神様・・」と神に呼ばわり、その場で心を告白するなら、その思いは、すうーと失せて行く。
又、御霊の促しや、御心が示された時、「そんな事、無理」「自分には出来ない」「したくない」とその促しを無視したり、おろそかにしたり、流してしまう。

すると御霊の導きがそこで止まってしまい、平安無く、霊的に鈍くなって行ってしまう。
うやむやにしてしまうのが「肉」だ。その時に、「そんな事、無理だと思っています」とそのままを神に告げることだ。
それが必要だ。それをすると自分が変わる。

「自分にはできない、したくない」と神に持って行く。
すると神は、できるように助けて下さる。あなたの日常はどうだろう。

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「したくありません」「この祈りは口先だけです」「強情な固い心があります」
「心では思っていません」と、その本心を認めて、主に告げて行く時、不思議だが、何かが変わって行く。
自分でいっさい何とかせず、一つ一つ主に持って行こう。


今日の聖人の記念日

2017年09月29日 06時10分33秒 | キリスト教

聖ミカエル 聖ガブリエル 聖ラファエル大天使

 

 ミカエルは、「神と似た者」という意味で、ダニエル書(10.13)に、イスラエルを助ける天使として描かれ、ヨハネ黙示録(12.7)でも悪魔に対して戦ったと記されている。聖フランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝えられたのは1549年であるが、キリスト教宣教の許可が出たのは同年の9月29日であったことから、ザビエルは聖ミカエルを日本の守護者と定めた。

 ガブリエルは、「神の力」という意味で、ダニエル書では神のメッセージを預言者に伝えている。新約聖書の中では特別な役割をもち、ザカリアに洗者ヨハネの誕生を、聖母マリアに救い主イエスの誕生を伝えている。通信・報道の保護者といわれる。

 ラファエルは、「神はいやされた」という意味で、神のみ前にいる7位の天使の1位である。トビト書では、人びとの祈りを聞き入れて神にとりなし、エノク書では、堕落した天使たちに汚された地を清らかにする天使として描かれている。旅人、薬関係の仕事に携わる人、パイロットの保護者といわれている。


◆見 た も う 神

2017年09月29日 06時09分08秒 | 聖書

もしあなたが、
「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、
人の心を評価する方は、
それを見抜いておられないだろうか。
あなたのたましいを見守る方は、
それを知らないだろうか。
この方は
おのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(箴言二四12)
神が見ていらっしゃる。――これは、何という単純で明快な真理でしょう。ある男が子どもを見張りに立てて、スイカ畑に盗みに入りました。「だれかが来たら、すぐ知らせるんだぞ。」しばらくすると、「お父さん、見ているよ」と子どもが呼びました。「だれが見てる。」「神さまが見てるよ。」すると父親が、「ばか。神さまに見えるもんか」と言ったという話があります。「天網恢々疎にしてもらさず」「天知る地知る我知る」とも言われます。この単純な真理ほど、実際の生活で無視されている真理はないでしょう。
私の尊敬するマックスエル博士が話してくださったことです。「子どものころ母に教えられた『ご覧になる神』(創世一六13欄外注)という聖書のことばは、初めは恐ろしかった。しかし年月がたち、この真理の深みが分かるにつれ、この真理が平安で喜びにあふれた私の人生をつくりあげたのだと思う」というのでした。
神に背いて、自分勝手で、いんちきで、言いわけばかり言う二枚舌の偽り者にとって、神は恐ろしいお方でしょう。しかし、落ちこぼれた者・悩んでいる者・弱く失望している者であっても、正直に自分の弱さやみにくさを認めて神に目をあげる者にとって、神は何と優しく、慰め・ゆるし・励ましに富んだお方でいらっしゃいましょうか。
神は、何でも見抜き、何でも正しく評価なさいます。しかし神に身を寄せるあなたにとって、神は、見守ってくださるお方、その愛と恵みを傾けて報いてくださるお方なのです。神を敵として勝ち目はありません。神をあなたの心の父としてごらんなさい。
 

◆もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、

2017年09月29日 06時08分26秒 | 聖書
祭司はその患者をきよいと宣言する。(レビ一三・一三)
この規則は一見奇妙だが、その中には深い知恵が隠されている。なぜなら病毒を外に出すことは、からだが健全な証拠だからである。今朝、この奇妙な規則の象徴的な教えを学ぶことは、私たちに有益であろう。
私たちもまた病者である。そしてこの病に関する律法は、私たちにも適用できる。人が自分を全く失われた破滅した者と見、全身がことごとく罪におおわれ、義であるものが一つもないことを知って、主なる神の前に罪があると告白するならば、イエスの血と神の恵みによってきよめられるのである。心中に隠れていて感じることのない告白されない罪が、真の病である。しかし罪があばかれ、罪が感じられた時には、すでに罪は致命的打撃を受けており、主はあわれみの目をもって罪に苦しむたましいをご覧になるのである。
自己を義とすることほど致命的なものはなく、悔恨よりも望みのあるものはない。私たちは罪以外の何ものでもないことを告白しなければならない。これ以下の告白は真実のものと言うことができないからである。もし聖霊が私たちに働かれて、罪を自覚させられれば、前述のことを認めるのに何の困難もない。
引用の聖句は、深い罪の意識のもとにある人に、なんという慰めを与えることだろう。どれほど黒く汚れていても、嘆き悲しんで告白された罪は、決して人をイエスから閉め出すことはない。主イエスのもとに来る者を、だれであろうと神は決して拒まれることはない。犯罪人のように不正直であり、罪を犯した女のように不貞であり、タルソのサウロのように凶悪であり、マナセのように残忍で、放蕩息子のように反抗的であっても、自分によいものが全くないことを感じる人々には、神の愛が注がれる。そして彼が十字架につけられたイエスを信じた時、きよい者という宣告が与えられる。それゆえに、主のみもとに来れ。
「来れ。乏しき者。来れ。罪ある者。そして忌まわしき裸なる者よ。おまえは決して汚れすぎてはいない。あるがままの姿で来れ。」