座間コミニティー

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◆このわたしは荒野で、

2015年10月31日 19時09分20秒 | 聖書
かわいた地で、あなたを知っていた。(ホセア一三・五)
 
しかり、主よ。あなたは私が堕落していた時の様を知っておられました。その時でさえ、あなたは私をあなたのものとして選ばれました。私が汚れ、自分自身を嫌悪するほかなかった時、子どもとして私を受け入れ、私の燃えるような心の要求を満たされました。この自由な、豊かな、あふれるばかりのあわれみよ。このために私はとこしえにあなたの御名をたたえます。
その後も私の内なる経験は、しばしば荒野でした。しかし、なお私を愛する者として所有され、愛と恵みの流れを注いで私を喜ばせ、実り多い者とされました。ああ、外の環境が最悪であり、私がかんばつの地にさまよい出た時にも、あなたの楽しいご臨在は私を慰めました。嘲笑が私を待っていた時、人々はそれを知りませんでしたが、あなたのみ、逆境の中にいる私のたましいを知っておられました。なぜなら、どのような苦難もあなたの愛の輝きを曇らせることはないからです。いと高き恵み深き主よ。試みの中にあった時、いつも誠実であられたあなたをほめたたえます。そして、私はあなたの柔和と愛に一切を負っているのに、あなたを忘れ、心に高ぶりを覚えていたことを嘆き悲しみます。主よ。あなたのしもべをあわれんでください。
私のたましいよ。おまえが卑しかった時、このようにイエスがおまえを顧みられたとすれば、繁栄している今も、主ご自身とそのみこころの支配下にあることを確信せよ。世の成功によって高慢になり、真理を恥じ、属する教会を恥じてはならない。主に従って荒野に行け。迫害の火の手が燃え上がっている時にも、主と共に十字架を負え。おまえが貧乏と恥辱の中にあった時も、主はおまえをご自身のものとして所有された。決して主を恥じて主にそむいてはならない。おお、私の愛する方を恥じるとは、思うだけでも恥辱である。イエス様。私のたましいはあなたにすがります。
 最も輝かしく、麗しき主よ
 私のたましいはあなたにすがります
 心労の夜にも、また光の昼にも
 
 

「父なる神は、あなたがたがお願いする先に、

2015年10月31日 19時08分34秒 | 聖書

あなたがたに必要なものを知っておられる」(マタイ6:8)

偶像を見つつ育って来た日本人は、くどくどと唱え、量を多く祈れば答えられると勘違いする。
数珠を繰りながら唱えたり、とにかく毎日時間をかけて祈る姿を見聞きするので、熱心にさえ祈るなら聞かれるというのが、潜在意識にあったりする。
そして、神よ、ああして、こうして、あっちへ行って、こっちへ来て式の指図の祈りをする。
願いが聞かれないなら神を捨ててしまう。そんな神は要らないのだ。
欲しいのは自分に都合のよい神だ。
都合の良い願いを聞いて欲しい。
つまりは、自分に都合良く人生が回って欲しい。
人生途上で神に出会ったクリスチャンも、長年培われた価値観が潜んでいて、あくまでも自分のために神があり、祈りですら神を利用する。
ところが、祈る先に必要をご存じの神だ。
祈りは何のためか。あたかも神が状況に無知かのように、くどくどと説明する必要はない。
すでにご存じとは、何と感謝で嬉しい事だろう。
熱心に祈って、祈りを手段として、祝福をもぎ取るのではない。
あなたよりも、本当のあなたをご存じの神が目の前におられ、その方は御子を殺すほどに愛して下さったお方だ。
親は子が心配する前に、必要を心配し整える。
私達は自分にとって何が本当に必要で、良いのかがわかっていない。
それを教えてくれるのが祈りだ。
祈りの中で自分が変えられ、真の必要がわかり、それを求めて行く。
お願いする先に必要をご存じ、「だから、祈りなさい」だ。
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いま自分に本当に必要なものは何だろうかと素直に聞く祈りをして行こう。
必要をご存じの神様の前に、まずありのままを認める態度で祈って行かなければ、大切なものは何も受け取っていないのではないだろうか。


今日の聖人の記念日

2015年10月31日 07時57分17秒 | キリスト教

聖ウォルフガング司教

920年-994年

 ウォルフガングは、ドイツ南部スウェーベンの貴族の家に生まれた。少年時代はベネディクト会修道院で学び、ヴュルツブルクの神学校に入り、司祭となった。956年に、友人のヘンリーがトリーアの大司教に任命されると、その教区の神学校校長に招かれた。ヘンリーが964年に亡くなると、スイスのアインジーデルンで隠修士となり、ハンガリーへ宣教に行った。しかし972年に皇帝オットー2世からレーゲンスブルクの司教に任命され、司祭や修道士の生活を指導する一方、皇帝のよき相談相手となった。彼自身は質素で厳しい生活を続け、貧しい人びとや病人の援助に力を尽くした。
 レーゲンスブルクの守護の聖人とされている。


◆人をのろわば穴二つ

2015年10月31日 07時56分15秒 | 聖書

穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、
石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。(箴言二六27)
 
小さい時、私たちはよく落とし穴を掘って遊びました。原っぱに穴を掘り、その上を木の枝や草でおおって擬装し、人が落ちるのを楽しみにしていたものです。でも次の日に、自分のしかけた落とし穴を忘れて、自分で落ちてしまったということなども、確かあったようです。こんなことは遊びです。しかし、「人をのろわば穴二つ。」――これは、深刻な現実です。
聖書の中に、いくつか顕著な実例があります。ハマンという高官は、憎いユダヤ人のモルデカイを王にざん言し、彼をはりつけにするために、柱を立てておきました。しかし、そのハマンの悪だくみが王妃エステルによってあばかれた時、ハマンは、自分が立てたはりつけ柱にかけられてしまいました。エステル記に出ていることです(五―七章参照)。
ユダヤ人の預言者ダニエルを憎み、彼を落とし入れようとした大臣たちは、ダニエルを投げこもうと計画した獅子の穴に、自分たちが投げこまれる破目になってしまいました。旧約聖書ダニエル書に書かれています(六章参照)。のろいや悪だくみは、必ず、自分自身へののろい・わざわいとなって返ってきます。
そして愛もまた、必ず、勝利と祝福を持って返ってくるのではないでしょうか。聖書は言います。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。……いつまでも残るものは……愛です」(Ⅰコリント一三4―813)。
 
 

◆ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

2015年10月31日 07時55分29秒 | 聖書
(詩篇五一・一〇)
 
信仰後退者が、もしその内にわずかでも残りの火をとどめているならば、回復を求めてうめくであろう。彼が再び新たにされるには、回心と同様の恵みの働きが必要である。私たちは回心の時、悔い改めが必要であった。今もたしかに悔い改めが必要である。私たちは最初キリストのもとに来るため、信仰を求めた。今もこれと同じ恵みのみが私たちをイエスのもとに行かせる。私たちはその時、私たちの恐れに終止符を打つため、いと高き方のみことば、愛する者のくちびるより出るみことばを必要とした。私たちは現在罪の意識の下にある時、なおそれを要することを発見するだろう。だれでも、初めに感じたような聖霊の力の真の顕現がなければ、新たにされることは不可能である。なぜなら、それは難事業であり、血肉は今も変わることなく行く手をふさいでいるからである。
クリスチャンよ。あなたの弱いことを、神に熱心に助けを求める理由とせよ。ダビデが自らの無力を感じた時、手をこまねくことなく、くちびるを閉じることなく、恵みの座に駆けつけて、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と祈ったことを覚えよ。あなたが一人では何事もなし得ないという教えを、怠惰の理由とせず、イスラエルの保護者に熱心に駆けつける理由とせよ。あなたが命をかけて「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と神に嘆願する恵みを得られるように。神に向かって真剣にこのように祈る者は、神の働かれる手段を用いることによって、自分が誠実であることを証明するであろう。
多く祈れ。神のみことばに生きよ。あなたから主を追い出した肉欲を殺せ。罪が再び頭をもたげないように警戒せよ。主はご自身の定められた方法を用意される。道のかたわらに座せ。主がお通りになる時、あなたは備えができていよう。あなたの恵みを養い育てる信仰の務めを続けよ。そして、すべての力が主から来なければならないことを知り、「ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と叫ぶことをやめるな。
 
 

第1歴代誌26章1-11節

2015年10月31日 07時54分00秒 | 聖書


26:1 門衛の組分け。コラ人ではアサフ族のコレの子メシェレムヤ。
26:2 メシェレムヤには子どもがあった。長男ゼカリヤ、次男エディアエル、三男ゼバデヤ、四男ヤテニエル、
26:3 五男エラム、六男ヨハナン、 七男エルエホエナイ。



 神殿の門の所で守衛の働きをする、レビ人達のことが語られています。

コラ族とメラリ族の子孫があたりました。

 ここでは特に、コラ族のことが語られています。

その部族から出たアサフ族のコレの子メシェレムヤには、男の子が7人もいたと書かれています。

これは神様からの祝福でした。

これらの人々が、門番の働きについたのです。

しかし、なぜここで男の子の多い人のことがここで記されているのでしょう。

それは、彼らがコラ族に属していて、その子孫であったということに係わりがあります。

先祖のコラという人は、モーセが指導者として立っていることに文句を言って逆らった結果、神さまによって裁かれた人達の代表です。

その子孫がここに残されています。

神の憐れみを、ここで告げているのです。


ヘブル人への手紙6章10~12節

2015年10月31日 07時52分07秒 | 聖書


★神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。

■O:今日のコラム
いつの日か私達が天の御国の門をくぐる時、そこで主と顔と顔を合わせて出会う事となります。その時に主が私達に問われるのは、私達がどれだけ大きな働きをし、有名であり、成功したか?では無く、どれだけ愛に生きたか?と言う事です。

私達が心から主を愛し、そして主を愛するが故に人々を愛する事。ヘブル書6:10には

「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」

と記されています。主は私達の愛による行いを決して忘れる事がありません。時には愛を実行するには犠牲と決断が必要です。自分の利益を求め無いで仕える事、自分を傷付けた人々を赦し祝福する事、意見の違う人々を受け入れる事など。自分の生まれながらの性質によっては簡単に出来る事ではありません。

しかし、私達が天の相続を思う時、たとえこの地で小さな者と思われても、人目に大きく評価される事が無くても、一時的に損をする事があっても、喜びを持って大胆に主の為に我が身を捧げて生きる事が出来ます。

私達は神の御国の相続者として胸を張って、日々、主に御心を行い生きようではありませんか。

■A:考えてみよう
御言葉を通して御国の相続者としてのアイデンティティーを日々確立しましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月30日(金)のつぶやき

2015年10月31日 01時48分53秒 | キリスト教

◆庭の中に住む仲間たちは、

2015年10月30日 17時28分54秒 | 聖書
あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせよ。(雅歌八・一三)
 
主イエスは、ゲツセマネの園を去り、今主の教会の園の中に住んでおられるが、あの園のことをよく覚えておられる。そして今住んでおられる教会の園においても、主の幸いな仲間に加わっている者に、御心を打ち明けてお語りになる。その御声には、すべての人間の音楽も及ばない愛のメロディーがある。
地上における何万の人々、天上における何百万の人々が、その調和のある音楽を楽しんでいる。私がよく知り、うらやましく思っていた人々は、今なつかしい御声に耳を傾けている。おお、私もその喜びにあずかることができたなら! これらの人々のうち、ある者は貧しく、他の者は長く病床にあり、さらにある者は死の門に近づいている。しかし、おお、私の主よ。あなたの御声さえ聞くことができるならば、私は喜んで彼らと共に飢え、やせ衰え、共に死にたい。
かつて私は、しばしばあなたの御声を聞いていました。しかし、あなたの御霊を悲しませました。私をあわれみ、私のところに帰ってください。再び「わたしがあなたの救いだ」と御声をかけてください。他のどのような声も私を満足させません。私はあなたの御声を知っています。私に御声を聞かせてください。あなたが何と言われるかは知りません。そして、条件をつけることをしません。愛する主よ。ただあなたの御声を聞かせてください。それが叱責ならば、そのためにあなたをあがめます。私の鈍い耳をきよめるために、肉にとって非常な苦痛である手術を要するかもしれません。しかし、どんな犠牲が必要でも、ただ、御声を聞くことができない者とはしないでください。
今夜、あなたの卑しいしもべの、この願いを許してください。私はあなたの血で贖われ、あなたのものなのですから。あなたが私の目を開き、あなたを見ることを得させてくださったために、私は救われました。主よ。私の耳を開いてください。私はあなたの御心を読みました。今、あなたのくちびるの御声に耳を傾けさせてください。
 
 

「すべてのことが、神から発し、

2015年10月30日 17時27分26秒 | 聖書

神によって成り、神に至るからです…神に、栄光がとこしえにありますように」(ローマ11:36)

立てたプランや予定が、思い通りにならなくて、イライラして怒りが湧いたり、又、失望落胆して落ち込んだりした経験があるだろう。
目の前に障害や妨害が出てくるのだ。
綿密に計画を立て、様々な事を想定し、段取りし、着々と準備を進めて行く。
すると目の前に不測の事態が生じて、プランを断念せねばならなくなる。
情熱とエネルギーを注いだ分、もうがっくりする。
そして、やる気が失せてしまう。
これは「自分が」「自分が」と、余りにも自分が出て、プランと自分が一体となってしまって、「自分の」計画、「自分の」所有になってしまう。
思い入れが強く、うまく行かなかった場合に、ひどい落胆となる。
「自分が」「自分の」でなく、「神は」「神の」と主語を変えよう。
「自分が」神のために何をするかでなく、「神は」私の人生に何を求めておられるのか。
視点の変換だ。「自分が」神のために、となると必ず行き詰まる。
祈り一つにしても、願いの祈りしかない。
神への願いばかりだ。ところが「神は」私に何を?となると、神のみ思いを知らなくてはならない。
神の御声を聞くことからしか、始まらない。
「初めに神」だ。神から発したものだけが神に至る。
人から発したものが神に至る事はない。
まず、「神が私に何を求めておられるのか」から始めよう。
-----------------
「神のために」だが、「自分が」「自分が」になってしまう。
いつしか自分が前に出てしまっているが、神のためにと思っているだけに、気づかない。
自分を横に置いて、「神は私に」と祈ってみよう。


今日の聖人の記念日

2015年10月30日 07時40分43秒 | キリスト教

聖アルフォンソ・ロドリゲス

1531年-1617年

 アルフォンソは、スペイン、セゴビアの裕福な商人の家に生まれ、14歳のときに父を亡くして後を継いだ。26歳のとき結婚し、子どもにも恵まれたが、幸福な家庭生活も束の間、妻や子どもたちが次々と亡くなり、商売も不況という試練に見舞われた。アルフォンソはすべてを神に委ね、これからの人生を神に仕えたいと司祭になることを決心し、イエズス会への入会を望んだ。しかし、34歳という年齢の高さや、体力、学力などの理由で、6年間入会を断わられ続けた。しかし、とうとう管区長は、アルフォンソの熱心さとその徳の高さを認め、修道士として入会を許可した。翌年マジョルカ島のパルマに派遣され、その日から46年間イエズス会の学校の受付として仕事に励んだ。

 学校を訪れる客は、アルフォンソの優しく、礼儀正しい態度に感動し、彼が聖人だという評判が広まり、あらゆる階層の人びとが彼に助言や指導を求めに訪れた。その中に、当時神学生であり、のちに黒人奴隷の使徒となった聖ペトロ・クラヴェル司祭(9.9参照)もいた。

 「神のために忍んだ災難と繁栄の違いは、金と鉛の違いよりも大きい。」
               (聖アルフォンソ・ロドリゲス)


◆巧言令色すくなし仁

2015年10月30日 07時38分28秒 | 聖書

声を和らげて語りかけても、それを信じるな。
その心には
七つの忌みきらわれるものがあるから。(箴言二六25)
 
「人を見たらどろぼうと思え」ということばがあります。
人間をそのことばどおり信じるな。人のことばは表面上のもので、「その心の中には七つもの忌まわしい思い・悪い心がひそんでいる」というのです。悲しいことです。しかし、悲しい現実ではないでしょうか。
ソロモンは、ことばがじょうずで、心が悪い人の姿を「銀の上薬を塗った土の器のようだ」(箴言二六23)と言いました。銀むくだと人に思わせますが、中味が違うのです。中国でも、「巧言令色すくなし仁」といって、ことば巧みな人は警戒せよ。真実の人は少ない、必ずといっていいほど裏があると警告しています。私たち人間には裏表がある、口と心の不一致がある。――このことは、人を判断するためによく知っておくべきでしょう。しかし、何よりもこれを自らに当てはめてみて、反省材料にすべきではないかと思います。
いったいどんな、いやな心・みにくい心・神に忌みきらわれる心が、私たちのうちにあるのでしょうか。
イエス・キリストは、こう言われました。「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。……内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(マルコ七15―23)。
イエス・キリストは、またこう言われました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四14)。忌まわしい、人をけがすものではなく、こんな新しい泉を心の中に持ちたいものです。
 
 

◆私は心を尽くして主に感謝します。

2015年10月30日 07時37分29秒 | 聖書
(詩篇九・一)
 
祈りが答えられた時、いつでも感謝がなされなければならない。それはちょうど天上の愛の太陽が地を暖める時、地の感謝の霧が立ち上るようである。主はあなたにあわれみ深く、あなたの訴えに耳を傾けられたか。それならあなたは生きている限り主に感謝せよ。熟した果物を、それにいのちを与えた源である肥えた地の上に落とせ。あなたの祈りに答え、あなたの心の願いをかなえられた方に歌をささげることを拒んではならない。神のあわれみに対して沈黙を守ることは、忘恩の罪を犯すことになる。それは、病をいやされたのに、いやし主に感謝をしに帰らなかった九人と同様、卑しいことである。
神に対する感謝を忘れるのは、私たち自身を益することを拒むことである。なぜなら感謝は、祈りと同様、私たちの霊的生活の成長を促進する有力な手段だからである。感謝は私たちの重荷を去り、希望を盛んにし、信仰を増進させることを助ける。それは、信者の活力を盛んにし、主の御用のため新しいことを企てる勇気を与える、健全な、また活気ある活動である。
神に対し、受けた恵みを感謝することは、私たちの友をも益する道である。「貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。」もし私たちが「私とともに主をほめよ、共に、御名をあがめよう。私が主を求めると、主は答えてくださった」と言うことができれば、私たちと同様な事情の下にある者は慰められるであろう。私たちの「救いの歌」を聞いて、心の弱い者は強められ、うなだれた聖徒は力づけられるだろう。私たちが詩と賛美と霊の歌とにより、互いに教え、互いに戒めるならば、彼らの疑いや恐れは消え去るであろう。私たちが、主の聖なる御名をあがめるのを彼らが聞く時、彼らもまた「主の道について歌う」であろう。
クリスチャンの義務の中で最もすばらしいのは感謝である。天使は祈ることはしないが、昼も夜も感謝をやめない。贖われた者は白い衣を着、しゅろの枝を手に、うむことなく「小羊はふさわしい」とたたえる新しい歌を歌う。
 
 

第1歴代誌25章9-31節

2015年10月30日 07時35分41秒 | 聖書


25:8 彼らは、下の者も上の者も、達人も弟子も、みな同じように任務のためのくじを引いた。
25:9 第一のくじは、アサフに属するヨセフに当たり、第二はゲダルヤに当たった。彼と兄弟たち、子たち、十二人。



 ダビデは、神殿で讃美の奉仕をする人々を定めました。

ところが1節を見ますと、そうした人々は「立琴と十弦の琴とシンバルをもって預言する者とした。」と語られ、また2節では、「これらはアサフの子で、王の指揮に従って、預言する、アサフの指揮下にあった。」と、語られています。

いったいなぜ預言ということが言われているのでしょうか。

それは音楽で興奮させて、幻を語らせるからなのでしょうか。

そうではありません。

 その理由は、後にダビデが「歌った」詩篇を見るとわかります。

そこでは、主の裁きが語られ、主の約束が歌われ、主への信頼が告げられています。

自分の罪を悔い、主の救いを感謝し、御支配に信頼する、主への信仰の告白をしているのです。

つまり、主への讃美は、楽器を伴った「言葉による」、主と主の御支配に対する信仰の告白であったのです。

ですから、「預言」と言われたのです。


ヘブル人への手紙5章13, 14節(哀歌5章)

2015年10月30日 07時33分12秒 | 聖書


★まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、 義の教えに通じてはいません。 幼子なのです。
しかし、 堅い食物はおとなの物であって、 経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

■O:今日のコラム
今、私たちの教会ではちょっとしたベビーブームで、たくさんのかわいいベビーたちが毎週の礼拝に集っています。その姿は本当に愛くるしく、何をしても顔がにやけてしまいます。しかし、彼らもやがては成長して一人前の大人になる日が来ます。どのような力強い世代になるかと考えると、楽しみでなりません。

同じように、私たち、イエス様を信じる者も霊的な成長、信仰の成長が必要です。もし、10年前、20年前と同じ聖書の読み方をしているのであれば、それは少し考えたほうがいいかもしれません。主の恵みは日ごとに新しいのです。御霊によって聖書を読むなら、同じ箇所からも様々な啓示を主から与えられ、より深く聖書を読むことができるでしょう。ヘブル人への手紙の著者も、みことばをそのように読むことをすすめています。

赤ちゃんもやがては乳離れし、離乳食から普通の食事へと移行していくのが成長です。同じように、みことばに関して深い心理を求めないで聖書を読むなら、聖書が教える「義」の教えについてよく知らない、経験不足の状態で聖書を読むことになります。別のことばでは未熟と言います。ここで言う義とは、「意図、思考、行為の各面で神のみこころに合致すること」を言います。神様の「義」に合致する聖書の読み方が必要です。私たちは大人として聖書を読んでいく必要があります。

では、なぜそのような聖書の読み方をしなければならないのでしょうか。自分の満足のためでしょうか。それもあるかもしれませんが、私はもっと高い次元の召しを受け取っています。それは、教会が置かれている地域を主のために勝ち取るためです。

「ダビデは、 目を上げたとき、 【主】の使いが、 抜き身の剣を手に持ち、 それをエルサレムの上に差し伸べて、 地と天の間に立っているのを見た。 ダビデと長老たちは、 荒布で身をおおい、 ひれ伏した。」(第一歴代誌21章16節)

ダビデがサタンの誘いに負けて人口調査の罪を犯した時、主は街を滅ぼすために三つのチョイスをダビデに与えました。そして、オルナンの打ち場に来た時に目を上げると抜き身の剣を持った御使を見たのでした。この、見ることがとても重要です。

私たちの戦いは血肉に対するものではありません。 主権、 力、 この暗やみの世界の支配者たち、 また、 天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6章12節)みことばにはっきりと戦いの的が書かれています。であれば、もし、私たちがこの戦いの的をはっきりと見ていないのであれば、その戦いは敵の急所を射抜くことができないでしょう。

街に対して働く良い霊と悪い霊を、はっきりと見分けることが出来ないのであれば、街を勝ち取ることは難しいでしょう。しかし、敵がはっきりと見えたなら勝負はすでについています。その敵に向かってイエス様のお名前によって命じればいいのです。私たちには十字架で勝利された万軍の主、イエス様が共にいて下さいます。


■A:考えてみよう
霊的な見分けを求めていこう。終わりの時代、これからますます困難な時代に入るでしょう。何が困難な時代かというと、教会にパン種の混ぜものが多く入ってきます。ハロウィンや様々なメディアを通して、教会が世の中に妥協し、思ってもみない方法で悪のまどわしに負けてしまうかもしれません。

教会は世の中のものとは区別された特別な所です。地の塩として腐敗を止め、世界の光として暗闇に光をもたらす存在なのです。そのためには、何が良くて何が悪いかをはっきりと見分ける、まるで聖所で仕えていた祭司のような機能が必要です。

それでは、なにによって見分けをつけるのでしょうか。それはみことばによってです。私たちの全ての基準はみことばにあります。良く「このようなものが見えます」と祈りの中で言って下さる人がいますが、私は必ず「そのみえたもののみことばの裏付けはどこにありますか?」と聞きます。
もし、みことばの範疇を超えたものであったなら、それは注意が必要です。みことばなしに見分けをするのは、まるで目をつぶって目の前に置かれているものが何であるかを当てるゲームのようなものです。目の前に置かれているものが何かをはっきり知るには、目を開ければいいだけです。そうするなら、いたって冷静にそのものを認識し、それに対する正しい対処もできます。

私たちも恵みの時代に生かされる祭司として、みことばから良いものと悪いものをはっきりと見分ける訓練をしていきましょう。その目的は私たちの置かれている教会の街を勝ち取ることです。天の御国がこの地に来るまで、みことばと祈りによって勝ち戦を戦い続けましょう。


■P:祈り

みことばを通して、私たちの霊的な目が開かれ、はっきりと見ることが出来ますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。