愛する友よ。あなたには日ごとに必要なものがある。それが豊かに与えられるので、いつかかめの粉がなくなるのではないか、つぼの油は尽きるのではないかと心配してはならない。神のみことばである聖書によれば、そんなことは決してないとある。日々、さまざまな困難とともに助けが与えられる。あなたがメトシェラよりも長く生き、あなたの必要が浜辺の砂よりも多くても、神の恵みとあわれみはあなたの必要の一切を満たす。あなたは決して欠乏を覚えることはない。
このやもめの時代には、三年もの間空には一片の雲もなく、天の星は、よこしまなこの地上に一滴のきよい涙も注がなかった。飢きんと荒廃と死が、この世を寂しい荒野と変えた。しかしこの婦人は、決して飢えることなく、豊かな供給を絶えず喜んでいた。
あなたも同じである。あなたは罪人の望みがむなしくなるのを見るであろう。罪人は自分の生来の力に頼っているからである。あなたは高慢なパリサイ人の確信の揺らぐのを見るであろう。パリサイ人がその望みを砂の上に置いているからである。あなたは、あなた自身の計画すら損なわれ、しおれてしまうのを見るであろう。しかし、あなた自身は堅い岩のとりでに囲まれ、守られていることを見いだすであろう。
「そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」イングランド銀行を所有するよりも、神をあなたの導き手としてもつほうが、はるかによい。あなたは、インドの富を使い尽くすことができるかもしれない。しかし、神の無限の富を用い尽くすことは、決してできない。
かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(へブル12:11)
ある人が、家族や親族に懸命に証しをしていた。
どうしても救われて欲しい一心だったが、一生懸命になればなるほど、親族からは拒否反応が出た。
妹にも話せば話すほど、心頑なにするのだった。
心を閉じていて、「その信仰は嫌い」と言われてしまった。
やがて家族から離れ、遠隔地で仕事を始めたが、仕事がうまく行かなかった。
紆余曲折を経て、何もかも失い、行き詰まり、痛手を負い家に戻った。
家族としばらく生活したが、妹が「お姉さん変わった。今のお姉さん好き」とが言った。
以前の自分がいかに鼻持ちならない高慢であったかを知らされた。
苦しみにより、砕かれたのだ。
妹は証しに耳を傾けてくれた。
試練は、決して嬉しいものではなく、痛くて悲しい。
苦しみは耐え難く辛い。
しかし、自分で自分を砕くことはできず、自分でどうする事もできない。
高慢は砕かれるしかない。
苦しみが、高慢を砕いてくれる。
「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。
それであなたのおきてを学びました」苦しみ通して、神に出会い、その中で神の恵みを知って行ける。
「私たちの益のため…ご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」懲らしめにより、聖められて行く。
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砕きがなければ、神様からの恵みや哀れみを肌で感じる事はないだろう。
へりくだる事がなくて、どうして尊い主の十字架を証しする事が出来よう。
かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。(Ⅰ列王一七・一六)
神の愛の真実を見よ。この婦人は日ごとの糧を得た。彼女は飢きんの時、自分自身と子どもを養わなければならなかった。そのうえ預言者エリヤが加わったのである。こうして必要は三倍になった。しかし食物はなくならなかった。絶えず供給があったからである。彼女は、毎日粉を入れるかめを見た。そこには、いつでも同じ量の粉が残っていた。
愛する友よ。あなたには日ごとに必要なものがある。それが豊かに与えられるので、いつかかめの粉がなくなるのではないか、つぼの油は尽きるのではないかと心配してはならない。神のみことばである聖書によれば、そんなことは決してないとある。日々、さまざまな困難とともに助けが与えられる。あなたがメトシェラよりも長く生き、あなたの必要が浜辺の砂よりも多くても、神の恵みとあわれみはあなたの必要の一切を満たす。あなたは決して欠乏を覚えることはない。
このやもめの時代には、三年もの間空には一片の雲もなく、天の星は、よこしまなこの地上に一滴のきよい涙も注がなかった。飢きんと荒廃と死が、この世を寂しい荒野と変えた。しかしこの婦人は、決して飢えることなく、豊かな供給を絶えず喜んでいた。
あなたも同じである。あなたは罪人の望みがむなしくなるのを見るであろう。罪人は自分の生来の力に頼っているからである。あなたは高慢なパリサイ人の確信の揺らぐのを見るであろう。パリサイ人がその望みを砂の上に置いているからである。あなたは、あなた自身の計画すら損なわれ、しおれてしまうのを見るであろう。しかし、あなた自身は堅い岩のとりでに囲まれ、守られていることを見いだすであろう。
「そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」イングランド銀行を所有するよりも、神をあなたの導き手としてもつほうが、はるかによい。あなたは、インドの富を使い尽くすことができるかもしれない。しかし、神の無限の富を用い尽くすことは、決してできない。
それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」(ローマ5:3)
何となく信仰生活を誤解していたりする。
信仰を持つと良い事づくめであり、又、人生、肯定的に、スムーズに行く事が神の祝福と思っている。
受験は合格、畑は豊作、商売繁盛、無病息災、都合良く行く事が祝福で、不合格、不作、倒産や病気は祝福が無いと思ってしまう。
強いては順境の時は神に愛されていて、逆境の時は愛されていないと思う。
順境は善で、逆境は悪との価値観があるからだ。それで、逆境が来ると「なぜ?なぜ?」と落ち込む。
世はまさにそれなので、周囲からは、信仰の意味がないという目で見られる。
しかし、聖書はそんな事は言っていない。
信仰者の目的は平穏無事、幸せ、安楽ではない。
聖くされる事、御子のかたちに変えられる事だ。
そのため、神の子となった途端に、神はどんどん取り扱われ、鍛えられる。
「ご自分の聖さにあずからせ」るために試練が臨む。
逆境は悪ではなく、それを通して私達の品格が練られ、弱い者が強くされて行く。
ここをわきまえているなら不必要なつまずきから守られる。
ある人は、近所からの事実無根の誹謗中傷に苦しみノイローゼ状態だった。
しかし、試練と受け止め、苦しみの中で祈りつつ委ねて対応した。
すると事態の収束と共にある事を発見した。
人が気になる性質がどうにもならなかったのが、人が気にならなくされていた。
試練を通して主が変えて下さった。
御名を崇め、感謝に溢れた。
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順境に感謝するのはよいが、試練に打たれて、本当の自分に向き合い、信仰を働かせることを学ぶ。
はるかに感謝な事だ。試練を避けず神様からの品格を身につけたい。
聖レミジオ司教
437年-535年ごろ
レミジオは、フランス、ランスの貴族の家に生まれ、信仰深く育てられた。ランスで教育を受け、豊かな学識と優れた人格の持ち主であったレミジオは、多くの人々から慕われ、458年にわずか21歳で司教に選ばれた。自分には厳しく人々には慈悲深く、当時ガリア地方に広まっていた異端アリウス派と戰い正当信仰を擁護し、多くの人々を信仰に導いた。
フランク王国クロヴィスもその1人であり、熱心なカトリック信徒であった妻のクロティルジス皇后(6月3日 参照)の影響もあって496年にレミジオから洗礼を受けた。王はレミジオの指導を受けながら、熱心に信仰を守り国を治め教会や修道院の建設を援助した。
その後、レミジオは教皇使節として宣教に力を尽くし、生涯を神と人々のためにささげた。「フランク人の使徒」と呼ばれている。
なまけ者よ。いつまで寝ているのか。
いつ目をさまして起きるのか。
しばらく眠り、しばらくまどろみ、
しばらく手をこまねいて、また休む。
だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、
あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言六9―11)
ところが、その私たち日本人の怠惰でだらしがない点は、「神」とか「愛」「永遠」「きよさ」についてです。
ある時ホテルにとまって、朝早く出発しなければならないことがありました。フロントに行ってみると、ボーイさんがフロントの向こうで横になって寝ています。声をかけると起きあがったのですが、寝ぼけまなこで、こちらが何を言っても要領を得なかったことがあります。
人生も、寝ぼけているとそのとおりです。絶対にきよく正しい神の前に立つと、どうしていいか分かりません。愛とか永遠とかの前におどおどしてしまうのです。
いつも一生懸命働き、勤勉に商売しているように見えても、神の愛が分からず、神のきよさ・永遠も分からず、死とさばきも何のことかと目をこすっているようでは困ります。やがてすべてを神が分からせられる「死」を待っているのではおそいのです。私はまっすぐ歩いている、一生懸命やっていると思っても、愛がなければ曲がっています。きよくなければ、よろめいているのです。神の愛と神のきよさに目ざめましょう。
「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます」(Ⅰコリント一五34)。
さらに、私たちは、この世以上の望みをもっている。やがて、私たちは死ぬだろう。そうすれば「私の望みは神から来る」。私たちが病の床にある時、神が御前の使いを遣わして神のふところに運ばれることを期待しないだろうか。脈が衰え、呼吸が乱れた時に、天使は私たちの枕もとに立ち、あわれみの目を注いで、「私の愛するたましいよ。私とともに来なさい」とささやく時のあることを私たちは知っている。私たちが天の都の門に近づく時、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」という歓迎の声を聞くことを期待する。さらに、私たちは黄金の琴と栄光の冠を期待し、まもなく御座の前の輝く群衆の中に入ることを望む。私たちは栄光の主に似せられる時の来ることを心待ちにしている。なぜなら「私たちはキリストのありのままの姿を見る」と書かれてあるからである。
私のたましいよ。もし以上のことがおまえの望みであるならば、ただ神のためにのみ生きよ。おまえの必要をすべて満たし、その恵みによっておまえを召し、贖い、救われた神の栄光を現すことを願い、かつ決意して生きよ。これがおまえのもつべき、来るべき栄光の望みである。
25:26 アマツヤのその他の業績は、最初から最後まで、ユダとイスラエルの王たちの書にまさしくしるされているではないか。
25:27 アマツヤが主から離れた時、エルサレムで人々が彼に対して謀反を企てたので、彼はラキシュに逃げた。しかし、彼らはラキシュまで追いかけて、そこで彼を殺した。
ユダの王アマツヤの業績は、始めから終わりまで、王たちの書に記されている、と語られています。
その記録はユダの地にも、またイスラエルの地にもあったようです。
今、私たちが彼らの動向を知ることができるのは、こうした記録が残っているからです。
この書には、その王たちの始めから終わりまでが記されていると語られています。
つまり、良いことも悪いことも皆記され、またその結果がどうであったのかということも記されていると言っています。
つまり、そのことは、後の人々がこの書を読むことによって、その王たちの業績がどうであったのかということよりも、彼らが、主に対してどう生きたのかということが、主な関心となって記されています。
これこそ、人の人生の課題の中心だからです。
★私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
■O:今日のコラム
(祈りの最後に「おまけ」でヘブル書の要点をまとめておきました。古い契約と新しい契約を比べる参考になれば幸いです。ただし、堅い肉注意!よく噛んで食べてください。)
今日の箇所ですが、
おりにかなった助けの「おりにかなった」は多くの英語訳では、in time of needで、一番必要な時、という意味です。原語では、ユーカイロス、good timing で、良い機会。
良いときも、困ったときも、いつでも、ちょうどよいタイミングで、神様が一番ふさわしい助け、恵みを与えてくださる、という素晴らしい素晴らしい約束です。
どこで、この「ちょうど良いタイミングの一番ふさわしい助け」がいただけるのかというと、「恵みの御座」です。王なる主がおられるところ。
教会や祈りの家は、もちろんですが、もし、私たちが職場や家庭や学校で一人であったとしても、イエス様の血潮を通して祈りと賛美、礼拝(声に出せない場所では心の中で)をもって主の御臨在に入るなら、そこが恵みの御座なのです。(教会や祈りの家に行かなくてよい、ということではありません。行きたくても行けない時、という意味です。)
「まとめ」に書きましたが、古い契約はキリストによる新しい契約に取って代わられました。しかし、古い契約は、新しい本物の契約の「写し」「影」(コピー)なので、古い契約から、新しい契約の原則を見つけることができます。
古い契約の時は、大祭司が「必ず」動物の生け贄の「血」と、「香」をたずさえて、第二の垂れ幕を通って、至聖所に入り、契約の箱の前で、主と出会いました。そこが、神様が定められた、神と人とが出会う場所、神が人に語って下さる場所だったからです。
出エジプト25:22わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。
「血」は、贖いのふたの上と前に振りかけるため。(ケルビムは贖いのふたを見つめていました。)(レビ16:14-15)
「香」は、その煙が雲のように「贖いのふた」を覆うため。(レビ16:13)
新しい契約に生きる私たちは、イエス様の血と祈りの香を携え、キリストの肉体という垂れ幕を通して(ヘブル10:20)、主の恵みの御座に近づくことができます。
古い契約では、香から出る雲があかしの箱の上の「贖いのふた」を覆うようにしましたが(レビ16:13)、私たちが祈りをささげ、主の御臨在、栄光の雲が、私たちをおおってくださり、キリストの血の注ぎを心に受ける時(ヘブル10:22)、そこで主が語ってくださるのです。
この時、私たちは、自分は足りない、不十分だと思いますが、だからこそ、私たちの弱さに同情してくださる、憐れみ深い大祭司、イエス様がいてくださることが恵みなのです。
「ヨハネ6:63いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことば(レーマ)は、霊であり、またいのちです。」
私たちには、いのちを与えるイエス様の言葉(レーマ)、御霊が、今日も必要です。
この命、御霊の言葉、レーマを、弱い私たちでも受けることができるように、イエス様が恵みの御座への道となってくださいました。
このことをヘブル書(聖書全体もですが)は、繰り返し繰り返し教えようとしてくれているのです。
■A:考えてみよう
私は今日、神様の御口から出るいのちの言葉、レーマをいただいただろうか。
■P:祈り
イエス様。私たちのために新しい生ける道を設けてくださって、ありがとうございます。
イエス様が、ご自分の聖い命という、想像もできないほどの高価な代価を支払って買い取ってくださった父なる神様への道を、心から感謝して受け取り、この道を通って、感謝と賛美、信仰の祈りをもってお父さんの御座に大胆に近づきます。
今日私に必要な助けを与えてくださることをありがとうございます。
イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
【おまけ】
ヘブル書ポイント
「最初の契約」
神様は最初にユダヤ人を選び、
・祭司職(レビ族から出る祭司=神様に仕え、一般の人々に仕え、神様と人々との間を仲介する)を任命し
・幕屋(モーセの幕屋=礼拝する場所)で仕えさせ
・動物の血をささげさせ
・それに、契約の印(動物の血による契約の血、肉体の割礼と安息日)
と、
・この契約に加入するユダヤ人全員が守らなければならない、ユダヤ教の律法(十戒とその他の律法=神様の願う礼拝と生活のマニュアル)
これらの契約セットを与えて、この契約にユダヤ人を加入させ、この契約の中で生きる彼らを特別に祝福し、このユダヤ人を通して、すべての人を祝福しようとされた。
しかし、人間にはだれもーー選ばれたユダヤ人たちでさえ、この契約を守り切る事が出来なかった。
そこで、神はこの最初の規定(神様とユダヤ人との間に立てられた最初の契約セット)を廃止され、(ヘブル7:18、10:9)
今度は、御子イエス・キリストを送り、十字架に架け、よみがえらせ、キリストを信じる人々と「新しい契約」を結ぶことにされた。
「新しい、さらにすぐれた契約」
・キリストを大祭司として任命し(キリストはレビ族ではない)
・手で造った聖所ではなく天そのもの、人間がもうけたのではなく、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えるようにされ
・動物のいけにえではなく、キリスト御自身の血を捧げられ(傷のない御自身をとこしえの御霊によって神におささげになったその血)
・新しい契約のしるしを与え(聖餐式、聖霊による証印=心の割礼、主の臨在にある平安、安息)
・新しい戒め、律法を与えられた(キリストの愛にとどまり、キリストが私たちを愛されたように互いに愛し合う)
そして、ヘブル書のキーワードは、「さらにすぐれた」。
前の契約には人間を救う(罪や、あらゆる中毒、罪責感、病気や呪い、死からの救い)力はなかったが、新しい契約は、「さらに優れた」契約(さらにすぐれた大祭司=仲介者、幕屋、いけにえ、律法)で、いのちを与える力があり、これによって、私たちは、完全に救われるという素晴らしい約束。
ヘブル書はヘブル人=ユダヤ人に宛てた手紙で、ユダヤ教の律法を知っていることを前提に書かれているので、日本人(異邦人)の私たちには難しいのです。
しかし、この書も、神の言葉であり、ユダヤ人だけでなく、異邦人にとっても、信じるすべての人にとって非常に重要な信仰の土台が説明されていますから、読み方を身につけて、ここに書かれている素晴らしい真理をつかんでいきましょう。
私のたましいよ。立ち止まれ。驚け。おまえはイエスにおいて「永遠の昔から」出ることが定められていた。この世に生まれ出た時にキリストが愛されただけでなく、人が地上に一人もいなかった時から、キリストは私たちを喜ばれた。人の子たちを絶えず心にかけ、永遠の昔から永遠の未来に至るまで、愛を注がれる。
私のたましいよ。主が永遠の昔からおまえの救いのために心を砕かれているのに、その救いを完成されないことがあろうか。私を救うために永遠の昔から出て行かれたのに、今私を見捨てられることがあろうか。山々が生まれる前から、海がまだ造られなかったころから私を選ばれたのに、今になって拒まれるだろうか。否、そのようなことは決してあり得ない。
私は堅く信じる。もし主が変わることのない愛に満ちたお方でないなら、決してそのように長く愛を注がれるはずはないということを。もし主が私を見限られるとすれば、永遠の昔からそれをなさったであろう。もし主が、地獄のように深く、死のように強い愛をもって愛しておられなかったなら、はるか以前に私に背を向けられたことであろう。なんという喜びであろう。私が、主の永遠の譲渡されることのない相続地であり、地の造られる永遠の昔に、父なる神によって主に与えられたことを知るのは。今夜、この永遠の愛を枕として眠りにつきたい。
教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(Ⅱテモテ3:14)
飛行機や船を操縦する時、人間の感覚に頼らず、計器に頼って飛行や航海をする。
計器に頼らなければ、大空で大海で、自分の感覚に頼るならば、事故を起こし遭難する。
信仰人生も同様だ。
計器に頼らず、自分の感覚に頼るとトラブルをひき起こす。
正しい判断ができないからだ。
では、どうすればよいのか。
計器に頼るなら確かで安全だ。
計器はみ言葉だ。
人生行路を自分の感覚を頼らず、みことばに頼って歩む時、確かな正しい歩みができる。
夜遅く初めて行った山奥で、誰一人いない中、道に迷った時の不安は恐ろしいものだった。
私たちも信仰人生どう歩み、どちらへ向かえば良いのか、わからない時がある。
そんな時、み言葉は、真っ暗な中、足もとを照らし指針を与えてくれる。
「神のみ思いは?神はどう言っておられるのか?」を聞いて行く時に、正しい判断ができて、神の御心にかなった歩みができる。
もし、今、問題があり、行き詰まっているなら、立ち止まって考えてみよう。
「すべてのことについて感謝」できるのに、恐れ、不安、心配、不満でいっぱいなら、神の目ではなく、自分の思い、自分の感覚で見ているからだ。
視点にずれがある。
落ち着いて、静まって、神が何と言っておられるかに、まず耳を傾けよう。
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力強い約束のみ言葉に緑の色えんぴつで線を引いてみると、日毎に聖書が緑で染まって行く。
神様が語られたひとつひとつの言葉はまぎれもなく自分のものだ。
聖ガブリエル・ポセンティ
1838年-1862年
ガブリエルは、イタリア、アッシジの裕福な信仰深い家庭に生まれ育った。才能に恵まれていた彼は、上流社会の仲間入りをし、名誉と富を求める生活に甘んじていた。しかし重い病にかかったことで今までの人生を振り返り、より超越的なものを求める生活として修道生活をしたいと誓った。
病が全快したガブリエルは18歳で御受難会に入り、「悲しみの聖母のガブリエル」という修道名を与えられた。以後6年間、祈りと苦行によって十字架につけられたイエス・キリストの苦難を味わい、黙想した。また悲しみの聖母に対する優れた信心を表した。彼はどんな小さなことでも神に対して忠実であることをモットーに自己の聖化に励んだ。
彼の遺体は、イタリアのグラン・サッソの修道院に眠っており、現在では有名な巡礼地となっている。
なまけ者よ。蟻のところへ行き、
そのやり方を見て、知恵を得よ。
蟻には首領もつかさも支配者もいないが、
夏のうちに食物を確保し、
刈り入れ時に食糧を集める。 (箴言六6―8)
ねたまれて悪口をいわれても、やはり、勤勉で働くことが好きな日本人であり続けたいと思います。健康で、やるべき仕事・働きがあって精いっぱい働けるなら、これはすばらしいことです。
イソップ物語のキリギリスのように歌ってばかりいて働かず、備えをしないでなまけていると大変です。
ところが日本人には、キリギリスよりももっと仕方のないなまけ者で、いざという時の蓄えをせず、だらしがない点があります。それは「永遠」「永遠のいのち」という点についてです。
死が一人一人に迫ってきます。人生の冬が近づいています。ところが、だれも用意していません。雪の降るきびしい冬の夜もたきぎがあり暖炉があるなら、「雪の降る夜は楽しいペチカ」です。しかし、備えがなかったらどうでしょう。
私たちは勤勉な蟻から学ばねばなりません。いま見えないからといって冬は「ない」と思ってはならないのです。蟻に冬は見えませんが、冬のために備えています。永遠の世界が見えないから「ない」といってはなりません。死のかなたに永遠のいのちが、または永遠の滅びが待っているのです。
死のかなたは、完全に神のみが支配する世界です。神の愛の中で永遠の喜びを味わうか、神の怒りの中で永遠に孤独で過ごすかの選択を、冬になる前にしなければなりません。「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(アモス四12)と、聖書はすすめます。