座間コミニティー

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◆神よ。

2015年04月30日 16時47分09秒 | 聖書

あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。(詩篇一三九・一七)

神の全知は、不信仰な人の心には何の慰めも与えない。しかし、神の子どもに対しては、あふれるばかりの慰めを与える。神は常に私たちのことを考えておられ、常に目の前に私たちを置いてくださる。これは、私たちにとっても願うところである。たとえ一瞬でも、天の父の御目の届かない所で生きるのは、私たちにとって実に恐ろしいことだからである。主の御思いは常に優しく、愛に富み、賢明であり、思慮深く、広範囲に及び、数えきれない益を私たちにもたらしている。したがって、それらを思い出すことは何よりの喜びである。主は常にご自分の民のことを考えておられた。それゆえにこそ、彼らの選びがあり、彼らの救いをもたらす恵みの契約があった。主は、これからも常に彼らのことをお考えになる。したがって、彼らは最後まで支えられ、安全に最後の安息にまで導かれる。
私たちがさまよう時、永遠の見張りの者の絶えることのない視線が私たちの上に注がれており、私たちは決して、羊飼いの目の届かない所に迷い出ることはない。私たちの悲しみの時、主は絶えず私たちを見つめ、ただ一つの苦しみさえ逃されない。私たちが労苦する時にも、私たちのすべての疲れに心を配り、主の忠実な子どもたちのすべての戦いを記録される。これらの主の思いは、私たちが歩むすべての道で私たちを囲み、心の奥底まで見通してくださる。
愛する友よ。これはあなたにとって尊いことではないか。ではそれをしっかり守れ。非人格的な神などを信じてはならない。主は生きておられ、私たちのことを思っていてくださる。この真理は、軽々しく奪われるにはあまりにも大きい。高貴な人に知られるということは非常に価値のあることであり、そのようにされるならば、自分の運命が開かれたと思う。しかし、王の王によって自らの存在が知られることは、なんとすばらしいことか。主が私たちを念頭に置かれるならば、すべてはよく、私たちは永久に喜ぶ。

 


『蛇は女に言った

2015年04月30日 16時46分02秒 | 聖書

「…と神はほんとうに言われたのですか」』(創世記3:1)

エデンの園の誘惑に、蛇の狡猾さが現れ出てるが、あなたにも日ごとに、この誘惑が来ていないか。
「ほんとうに?」との言葉だ。
神が言われたのはよいが、「ほんとうに?」と。
言葉を否定して来るわけでなく、「ほんとうに?」と言われた時に、「ん?ほうとうだっけ?ほんとうかな?」と、疑いが湧き上がる。
サタンは極めて狡猾だ。
初めから否定して来たなら、警戒し、身構え、識別しながら聞く。
無神論者や共産主義者の言葉は、それなりに聞く。
しかし神を認め、御言葉を認めた上で「でも、ほんとう?」とは、サタンの罠だ。
そして、次には全面否定して来る。
「あなたがたは決して死にません」。
これはサタンのやり口だ。
「あなたがたは神のようになり」と。
あなたにもいつもこのサタンが来ているかも知れない。
信仰によって、御言葉の約束に立とうとすると、「本当に?」「成就なんてするの?」「信じているだけで大丈夫?本当に?」「そんな調子の良いことある?」
途端にどっと不安になり、信仰からすべり落ちる。
「ご自身の栄光の富をもって必要をすべて満たす」と言われると「本当に?」あなたの人生を導く、と言われると「本当?」いつも信仰が揺れ動きぐらつく。
自分が思っているのでなく、サタンが吹き込む火矢だと気づこう。
拒否しよう。エバのように自分の思いでなく、主のように御言葉に立とう。
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信じていなさいと言われると、本当に?と今も来ていないか。
常に「本当に?」とささやき不安と疑いで信仰を揺るがして来る敵を見分けよう。
約束の言葉でサタンに立ち向かおう。


ゴールデンウイーク

2015年04月30日 06時29分52秒 | 日記

1日4時間の勉強を確保し資格を習得することを目標に掲げました、ある勉強法の本を読むと脳は使えば使うほど鍛えられるそうです。そう言えば自分なりの勉強法を確立できないので困っています。

書くことで覚えるタイプなのかあやふやですが早朝の方が動画の講義は抵抗感がありません。

何かアドバイスがあれば教えてください。

昨日ブックオフに行ったらある本に奇跡的に会いました、10年前に購入した、アメリカの牧師が書いた自己啓発に近い本です。所持しておりますが現在長期貸し出し中です。この本はキリスト教専門店で売っていますがまず手に入らないでしょうがブックオフで200円(定価1500円)。なんか得した感じと偶然ではない何かを感じました。

これからこの本を読み潰そうと思っています。

朝からながらをしています。今日は放送大学のチャンネルにし動画でマンション管理士の講座を聞いています。コーヒーを飲みながらリラックスをして聞いていると自然と頭に入っててきますね。

今日も皆様良い1日とゴールデンウィークを満喫してください。('◇')ゞ


今日の聖人の記念日

2015年04月30日 06時29分08秒 | キリスト教

聖ピオ5世教皇

在位1566年-1572年

 アントニオ・ギズリエーリは、1504年にイタリアのロンバルディアの貧しい家に生まれた。若いときにドミニコ会に入り、1550年に宗教裁判所長となって異端審問官を長く務めた。厳格で禁欲的な人であり、また、信心深く、臨終の人を慰めたり、施しを求める貧者を家に招いていた。教会に対する大きな愛と、聖母マリアに対する熱烈な信心が、彼の活動のエネルギーだった。

 教皇になってからは、教会全体から不道徳を払拭し、トリエント公会議の改革規定の実現に力を注いだ。ローマ・カトリック要理(1566年)を出版し、聖務日課書を改訂し、ミサの形式を確立した。現在行っているミサの形式は、この時代に定式化されたローマ典礼によっている。

 晩年は、ロザリオの祈りの形態を定め、トルコ軍の攻撃によって危機に陥ったヨーロッパ・キリスト教諸国のために、マリアの保護を求めてロザリオの祈りを広めたので、「ロザリオの教皇」と呼ばれている。没150年後に列聖された。


◆家族への態度

2015年04月30日 06時27分32秒 | 聖書

自分の家族を煩わせる者は風を相続し、
愚か者は心に知恵のある者のしもべとなる。(箴言一一29)

家庭がうまくいかないということは、私たちのまわりを見まわすと、それこそどこにもあるようです。
家庭の中心となるべきものは愛です。愛によって、家庭はやすらぎの場となります。ここでやすらぎを得てこそ、外で活躍する力が私たちに与えられましょう。家庭が平和でないと、外での対人関係もスムースにいきません。家の中がいびつなら、外に出てもいびつです。
「自分の家族を煩わせる者」=家族にひずみを与える者です。家庭にひずみを与える子がいると、その家庭はどんなに苦しく、また暗いことでしょう。また、父親が家庭を顧みず、家庭に仕える愛の責任を果たさない時、どんなにその家庭は、冷たく寂しくうつろなことでしょう。家族の一人一人の心に与える傷は深く、家庭をだめにしてしまうのです。
「風を相続する」=人生をうつろにしてしまうことです。心の一番奥底に、後ろめたさ・寂しさがつきまといます。その結果、対人関係も自信がなくなり、うまくいかなくなります。他人なら逃げ出すことができても、家族は互いに逃げ出せません。苦しめたり苦しんだりするのです。そして、もし逃げ出せばおしまいです。そんな情況の原因となる人は、それ以外のことでもうまくいかないでしょう。
人の実力とは、単なる能力だけではありません。頭が切れること・仕事ができること・人が使えること・先が読めること・計画がよく立てられることでもありません。まわりの人を愛し受け入れていけることではないでしょうか。
現代ほど愛の歌をうたう時代はありません。しかし、愛はどこにあるのでしょう。「ここに愛がある」(Ⅰヨハネ四10)と聖書は言います。神に、キリストに、その十字架に、現代の奇蹟があります。

 


◆イスラエル人はみな……

2015年04月30日 06時26分43秒 | 聖書

つぶやき……。(民数一四・二)

昔イスラエルの宿営に不平があったように、今もクリスチャンの中に不平がある。彼らはむちが加えられると患難の時をのろう。彼らは尋ねる。「なぜこんなに苦しむのだろう。私がどんな悪事をしたというので、このように罰せられるのだろう」と。つぶやく者よ。なぜ天の父のご配慮をうらむのか。主があなたを苛酷に扱いすぎることがあり得るのか。あなたはかつていかに神に反抗したことか。しかし神はあなたを赦された。もし神がその知恵によりあなたを懲らしめるのをよしとされたなら、あなたは不平を言うべきではない。
あなたは自分の罪に相当する厳罰を受けているか。あなたの心中の腐敗を考えてみよ。そうすれば、腐敗が除かれるために、そのように多くのむちが加えられなければならないことに驚くであろうか。あなた自身を量りにかけて、自分の金の中にいかに多量の不純物が含まれているかを確かめよ。それなら、多くの不純物をきよめるため、火が熱すぎると思うであろうか。あなたの高慢な反抗的精神は、あなたの心が全くきよめられていないことを証明しているではないか。その不平のことばは、神の子たちの聖い従順な性質に反するものではないか。それの矯正が必要ないであろうか。しかし、もしあなたが懲らしめに対して不平をもつならば、つぶやく者にはいっそう激しい罰が下ることに注意せよ。神は最初のむちを素直に受けない子どもに、いつでも再び懲らしめを加えられる。しかし次の一事を知れ。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」
主の矯正はすべて愛から出ており、あなたをきよめ、ご自身に引きよせようとされるためである。もしその懲らしめが父から来ることを認めるならば、たしかに素直に受けるべきである。「『主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」「彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」

 


第2列王記10章1-11節

2015年04月30日 06時25分05秒 | 聖書

10:10 「だから知れ。主がアハブの家について告げられた主のことばは一つも地に落ちないことを。主は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」
10:11 そして、エフーは、アハブの家に属する者でイズレエルに残っていた者全部、身分の高い者、親しい者、その祭司たちを、みな打ち殺し、ひとりも生き残る者がないまでにした。



 アハブには70人もの子供がいました。

その子らが後を継ぐという可能性がありました。

ところが、北イスラエルの指導者達はエフーを恐れて、彼等の内からその王を立てませんでした。

反対にエフーの要請に従って、彼等を皆殺害してしまいました。

またそれだけではなく、エフーは、アハブの家に属する者を皆殺害してしまいました。

これは、主に命じられたことを実行したのでした。

これによって、主がかつてエリヤによって言われていた、北イスラエルのオムリ王国の滅亡がここに到来したのです。

同時にそれはまた、主が語られたことの完全な成就でありました。


第一列王記20章28、43節(第一列王記19章)

2015年04月30日 06時22分19秒 | 聖書

★ときに、ひとりの神の人が近づいて来て、イスラエルの王に言った。「主はこう仰せられる。『アラムが、主は山の神であって、低地の神でない、と言っているので、わたしはこのおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す。それによって、あなたがたは、わたしこそ主であることを知るであろう。』」

イスラエルの王は不きげんになり、激しく怒って、自分の家に戻って行き、サマリヤに着いた。

■O:今日のコラム
ハレルヤ!私達の主は山の神でもあり、低地の神でもあり、すべてに満ちておられる、すべての上にたつ、万軍の神です!!

23節にアラムの王の家来達が、山で負けた経験から、平地だったたらイスラエルに勝てると言い、翌年にアラムはイスラエルに戦いを仕掛けます。

平地だから勝てると言って、アラムは手を引いたかと言うと、そうでもなく、この前よりも万全な状態で戦いに備えました。前の戦いは、お酒でどんちゃん騒ぎをしていた時だったので、今回は、その時に失った数の軍勢、馬、戦車を補充して、戦いに出てきました。

27節では、アラム軍とイスラエル軍をこのように描写しています。
「彼らは二つの群れのやぎのようであったが、アラムはその地に満ちていた。」
アラムとイスラエルの軍勢の差をみなさん、想像できますでしょうか?

しかし、私達の神様は、山でも低地でも関係なく勝利をなさるお方!それをもって、「わたしこそ主である」と人々に示すのです。すべては、主ご自身の名の為です。

ちなみに、この時代のイスラエルの王アハブは、今までのイスラエルの王よりも主の目の前に悪を行った王でした(第一列王記16:30参照)。なのに、神様は彼に大勝利を与えました。彼が良い王だからというわけではないのです。彼が良い王でも悪い王でも関係なく勝利を与えた理由。それは、彼がイスラエルの神こそ主であることを思い知らす為でした。

神様は、私達の山も低地もどんな戦いをも勝利することができます。それは、私達がよい行いをしたからや、いい子にしていたから、そのご褒美に戦ってくれるのではなく、ただ、主の主権、主のゆえに主が戦い勝利されるのです。

なので、自分が悪い事をしたから、神様は助けてくれないなどと思わないでください。神様は、そんなにちっぽけな神様ではありません。あなたが悪くても悪くなくても、この戦いを戦うと決めたら戦い、勝利されるのです。それは、皆さんに「わたしこそ生きている神、主である」と知らせる為。もし、自分が悪いと思っているなら、悔い改めて、この神様を恐れ、そして、神様のもとにかえりましょう。

43節のイスラエルの王アハブのようにならないでください。神様が勝利を与えたのに、その後、自分の間違いに神様から叱責を受け、怒ってしまったアハブ王にならないでください。自分が良い悪い関係なしに、主の前にへりくだり続け、主を認めていきましょう。


■A:考えてみよう
今、山、または低地で戦っているでしょうか?神様はあなたがどんな状況にいても、主の御名を呼ぶと助け戦ってくださるお方です。失望せずに、主を待ち望みましょう。しかし、それと同時に、主を信頼し、主を誇り、主を認め、主を愛し、主としっかりと関係を持ちましょう。悔い改めるべき時は、悔い改め、勝利を得たときは、主にすべての栄光を捧げ、主の御名を高く掲げていきましょう!!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


4月29日(水)のつぶやき

2015年04月30日 01時40分43秒 | キリスト教

◆主は、

2015年04月29日 16時31分13秒 | 聖書

ご自分の民を愛し……。(詩篇一四九・四)

イエスの愛は、なんと広い愛であろう! 民の関心事で、主がみこころを煩わされないものはなく、民の幸福に関することで重視されないものはない。信者よ。主はあなたを滅びない者として考えておられるだけでなく、死ななければならない者としても考えておられる。それを否定したり疑ったりしてはならない。「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」
この愛の衣が、私たちの心遣いの一切を包んでくれなかったら、それは私たちにとって悲しむべきことであろう。私たちの務めの一部が、恵み深い主の検分からもれていたならば、どのような不幸が私たちの上に降るかわからないからである。信者よ。安心せよ。イエスはあなたの一身上のごく細かなことすら、心にかけておられる。主の優しい愛の範囲はこのように広いから、あなたはすべてのことを主に訴えてよい。主はあなたのすべての悩みを悩み、父が子をあわれむようにあなたをあわれんでくださるからだ。
神の御子の胸には、単にその民の一人一人が覚えられているのみか、すべての民の種々雑多な数えきれない関心事がみな覚えられている! おお、クリスチャンよ。あなたはキリストの愛を測ることができると思うか。主の愛があなたに何をもたらしたかを考えよ。あなたは義とせられ、子とせられ、聖化せられ、そして永遠のいのちを与えられた! 主の善の富は数えきれない。否、それらを心に描くことすらできない。
キリストの愛の広さよ! 私たちはそのような愛に対して、自分の心の半分でもささげているだろうか。そのような愛に応えるのは、冷たい愛だけであろうか。イエスの驚くべき愛と優しい心遣いとは、かすかな応答と仕方なしの感謝を受けるだけなのか。私のたましいよ。おまえのたてごとを感謝をこめた喜びの歌に合わせよ。喜びに満たされて休息せよ。なぜなら、おまえは頼りとするもののないさすらい人ではなく、愛される神の子どもであり、主によって見守られ、心に留められ、支えられ、保護されているからである。

 


「私たちも光の中を歩んでいるなら、

2015年04月29日 16時30分12秒 | 聖書

私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ1:7)

もし、私達が失敗した時には、どうすればよいのか。
あなたは言動や行為が間違った時はどうするだろう。
それを黙殺して、無視する事ができる。
無かった事にする事ができる。
又、周囲に、人に、責任転嫁をする道がある。
人のせいにし、人に責任をなすりつけてしまう。
お皿を割った時に、こんな所に皿を置く者が悪い。
人の言動にいら立つ時、いら立たせる事を言う相手が悪い。
そうではなく、自分の感情や自分の行動は自分の責任だ。
そこをしっかり認める事から成長が始まる。
責任転嫁している限り成長は無い。
又、人は弱点を指摘された場合、それを攻撃でおおい隠すとも言われている。
成長途上の私達は、よく失敗する。
皆、弱さがあり、間違った選択をしてしまう。
その時に、心の中で抹消し、無視し、否定してしまうのか、周囲に責任転嫁するのか、神は一つの道を示して下さっている。
「自分の罪を言い表わすなら…その罪を赦し」。
いっさいの言い訳と自己弁護をやめて、失敗に自らが責任を取るのだ。
それが悔い改めであり、光の中にいるという事だ。
神は完全に赦して下さる。
言い訳など必要ないのだ。
恐れる事も逃げる事もない。
私たちは、光の中で罪を認め、主の赦しの中で赦され続けて生きて行く。
恵みのまっただ中だ。
----------------
プライドは罪を認めたくない。
言い訳し相手を責める。
悔い改めは、へりくだらなければできない。
そこが問題だ。とにかく一切言い訳しません、と主の御前に出よう。
それが光の中だ。


◆何をたよりにするか

2015年04月29日 08時01分39秒 | 聖書

自分の富に拠り頼む者は倒れる。
しかし正しい者は若葉のように芽を出す。(箴言一一28)

年末に売り出されるジャンボ宝くじは、予約をしないと買えないほどの人気だそうです。夢を買うつもりなら、一枚ぐらい買ってみてもいいかもしれませんが、「富に拠り頼む」のは絶対にだめです。
何年か前、二千万円の宝くじに当たった人の悲劇物語が新聞に出ていました。ああ、これでおれも人生一息つけると思ったことでしょう。ところが、今まで知らん顔だった親戚や友人まで、砂糖にたかる蟻のようにやってきます。彼は人間不信に陥り、おれのものはおれのものと、その二千万円をかかえこみました。やがて、心の中に巣くうみにくい欲望にしてやられて、悪とけがれに転落し、三年後には、水死体となって川に浮かびあがったのです。
遠いお話と聞かないでください。お金には力があります。正しい心で用いれば、どんなにあってもいいものでしょう。しかし、お金に「拠り頼む人は倒れる」のです。石油をドルに換えても、ドルはさがればおしまいです。お金を金に換えて、大損をした人の話も聞きました。持っていると思っていたのに、一夜明けるともう持っていなかった。――これがお金です。
私たちは裸で生まれ裸でこの世を去ると、聖書は言います(ヨブ一21参照)。生まれてくる前・現在の人生・死後の世界のすべてを支配しているのは神の力であって、お金ではありません。
目に見えない大切な愛・誠実さ・偽りのないやりとり・そこから出る信頼感、こういうものなしに人生は成り立っていきません。そして、これらのものは、何一つとして金では買えないのです。このようなものはみな、自分の誠実さであがなうものです。そして、神の助けなしには誠実に生きることはできません。しかし、神にたより神に助けられて誠実に生きる時、人生は若葉のように生え茂り繁栄するのです。

 


◆あなたは、わざわいの日の、

2015年04月29日 08時00分42秒 | 聖書

私の身の避け所です。(エレミヤ一七・一七)

クリスチャンの道は、いつも太陽が輝いているわけではない。時にはやみもあらしもある。なるほど神のみことばには、「その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である」と記されている。まことにそれは一大真理であり、信仰は人に天上の喜びのみならず、地上の幸福をも与えるものだと考えられている。しかし、「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」にしても、時にその光がさえぎられることを経験する。ある期間、雲が信者の太陽をおおい、信者はやみの中を歩き、全く光を見ないことがある。
しばらくの間、神の臨在を喜んだ人は多い。彼らが信者となったころ、彼らは十分な日光を浴び、「いこいの水のほとり」の「緑の牧場」を歩んだ。しかし突然、彼らは晴れた空が雲におおわれるのを発見し、ゴシェンの地に代わって砂漠を歩かなければならない。甘い水の場所には困難な川が流れ、彼らはその苦い水をなめて、「もし私が神の子なら、こういうことは断じてあってはならない」と言う。ああ、暗い道を歩む者よ。そういうことを言ってはならない。すぐれた神の聖徒は苦よもぎを飲まなければならない。神の最も愛される子どもたちは、十字架を負うべきである。クリスチャンはだれであっても繁栄ばかりを楽しむものではなく、常にたてごとを柳の木に掛けないでいられるわけではない。
おそらくあなたが弱く臆病であったために、主は初めのうち、やわらかく日の当たる道を与えてくださったのであろう。主は毛を切った小羊に強い風が当たらないように配慮される。しかしあなたは、霊的生活において強くなったので、神の成長した子どもとして円熟した激しい経験に入らなければならない。私たちは自分の信仰を鍛練し、自己依存の腐敗した枝を除き、さらによくキリストに根を下ろすために、風とあらしを必要とするのである。わざわいの時が、私たちの輝かしい希望の価値を示すのである。