座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆ラザロは、

2016年11月21日 16時38分20秒 | 聖書
イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。(ヨハネ一二・二)
ラザロはうらやましい存在である。イエスと共に座り、そのみことばに耳を傾け、その行動を見、その微笑を受けることは大きな恩寵であり、ラザロを天使のように幸福にしたに違いない。私たちが将来、愛する主と主の大広間で食事を共にする幸いに浴する時には、たとえ一息で世界中の王国が買えるとしても、そのようなものには見向きもしないであろう。
私たちはラザロにならわなければならない。イエスが食卓に着いておられるのに、ラザロが食卓にいなかったとすれば奇妙である。ラザロはかつて死んで、イエスがよみがえらせた者なのだから。彼にいのちを与えられた主が家に来ておられるのに、死からよみがえらされた彼がいないならば、全く恩知らずの行為と言われても仕方ないであろう。私たちもかつては死んだ者であった。そして、ラザロのように、罪の墓の中で悪臭を放っていた。イエスは私たちをよみがえらせ、主のいのちによって私たちは生きている。私たちは、主から遠く離れて生きることに満足できるであろうか。主が兄弟と食事を共にしようとしておられるのに、私たちが主を忘れてよいだろうか。おお、これはなんという冷たい仕打ちか! 私たちは悔い改めて、主が命じられたようにすべきである。なぜなら、主の最も小さなみこころも、私たちの法律となるべきなのだから。
ユダヤ人が「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか」と言ったお方と、不断の交わりの中に生きないことは、ラザロにとっては恥辱であったであろう。永遠の愛をもってイエスに愛されている私たちにとって、これは許されることだろうか。いのちをなくした体のために涙を流してくださった主に冷たくすることは、ラザロにとっては最も残酷に思えたであろう。涙を流してくださったばかりでなく死んでくださった救い主に冷たくすることを、私たちはどう思っているだろうか。
読者よ。主と親密な交わりをもち、これからは主と共に食卓に着けるように聖霊に求めよう。
 

「あなたがこの王国に来たのは、

2016年11月21日 16時37分03秒 | 聖書

もしかすると、この時のためであるかも知れない」(エステル4:14)

エステルは王妃であり、ユダヤ人の危機に知らぬ顔をし、黙っていれば、命は助かり地位も安泰だ。

しかし、彼女は同胞を救うため、自らの命をかけて、王に同胞の民の救いを求めた。
エステルを通して学ぶ事が出来る。

捕囚の民として異国で生まれたのも、王妃になったのも、この時のためかも知れない。
ユダヤ民族を救うために、神のすべての配剤のもと、過去も現在も何もかもを導き、今の場所に置かれた。

私達も生い立ち、成育歴が皆、異なる。しかし、それがどのようなものであれ、今に至るまでの過程は、神の摂理であり、完全なご計画だ。

今、どのように自分の思い通りでない場所であっても、困難な現実であっても、今の場所で神の御心があり、ご計画がある。

今、置かれた所であなたのなすべき使命がある。
エステルは大変難しい状況で、死を覚悟して、自分自身を全く神に明け渡した。
その明け渡したエステルを、神はユダヤ民族の救いのために用いられた。

危急の事態が起きた時、方策や解決手段を捜し回る。
しかし、方法ではなく、神が全く明け渡した人を通して、ご自身のみわざをされる。

今の場であなたへの使命がある。今の場所は、神が遣わされた場だ。
あなたにしかできない働きがある。
神の視点に立ち、なすべき事を祈っていよう。
---------------------
人知を超えて、そのポジションに置かれているのだから、そこに神様の祝福は注がれている。
ストレスや、挫折もあるけれど恵みと支えを信じて今日も生きて行こう。


今日の聖人の記念日

2016年11月21日 08時26分51秒 | キリスト教

聖マリアの奉献

 

 古い伝承によれば、聖母マリアは、幼いころ両親(聖アンナと聖ヨアキム)によって、エルサレムの神殿に仕えるためにささげられたといわれている。聖書には、神殿に住み、断食や祈りそして神を礼拝する女性の集団があったと記されている(参照 1サムエル2.22, 出エジプト38.8)。

 この日は、マリアが生涯自分を神にささげたということを記念する日である。彼女の奉献は、「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1.38)という言葉に表現されている。彼女の神への全き信頼は、その生涯を貫くものだった。

 この祝日は、エルサレム神殿の近くにある「聖マリア・ノーヴァ」と呼ばれる聖堂の献堂式を、543年11月21日に行ったことが始まりである。西方教会では「マリアの奉献」というが、東方教会では、「神の聖なる母の神殿入り」の記念と呼んでいる。


◆罪をかくす人

2016年11月21日 08時25分42秒 | 聖書

自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。
それを告白して、それを捨てる者は
あわれみを受ける。        (箴言二八13)
私たちは、自分の罪をかくしたがるものです。
第一に、証拠をいんめつし、ひたすら人に分からないようにします。第二に、「だれでもしているじゃないか。ぼくばかりじゃない」とか、「こんな小さなことより、世間にはもっとひどいことが、ざらにあるじゃないか」とか、「今度だけだ。もうしない」とか、さまざまな言いわけを考え出します。「あの人のせいだ」「あの人がさそったのだ」と、人に責任転嫁も試みます。第三に、そして早く忘れようと努めます。記憶の外に葬り去ろうとするのです。
しかし、どんなに罪をかくしても、第一に、事実は消えません。第二に、人間の良心をごまかすことは至難のわざです。忘れたと思っていても、意識の下に沈殿して、ぬぐいきれない不安となって作用します。そして第三に、他人も自分もごまかせても、神はごまかせません。見ていらっしゃる、知っていらっしゃる、そして、さばかれます。
ある鍛冶屋の若い女房が愛人と共謀した殺人事件がありました。まじめで働き者だった大分年上の夫に、酒を飲ませて酔いつぶれさせ、脳天にくぎを打ちこんで殺し、遠く離れた山中に死体をうめたのです。そして、何食わぬ顔で、その家をのっとって生活していました。ところが、どうでしょう。二十年近くもたって、そのくぎが打ちこまれた白骨死体が鉄道工事で掘り出されました。そのくぎが動かぬ証拠となって、二人の悪事がすべてさばかれたという生々しい事件です。
ところが、聖書はこう言うのです。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ一9)。ゆるし、きよめてくださるばかりではありません。新しい人生の出発のために、神は備えてくださるのです。
心をかたくなにする人
 

◆神の聖霊を悲しませてはいけません。

2016年11月21日 08時24分47秒 | 聖書
(エペソ四・三〇)
信者がもつすべてのものは、キリストから来たものでなければならない。それはあらゆる恵みに富んでおられる聖霊の通路を経て来る。さらに、すべての祝福がこのように聖霊を通してあなたに流れ入るように、あなたの聖い思い、熱心な礼拝、情け深い行いなどの良いものは、同じ聖霊による聖別の働きなくしては、あなたの中から出てこない。たとえ良い種があなたのうちに蒔かれたとしても、聖霊が働きかけてあなたのうちに志を立てさせ、事を行わせるのでなければ、種子は眠ったままである。
あなたはイエスのために語りたいと願うか。――聖霊があなたの舌に触れられなければ、どうして語ることができよう。あなたは祈りたいと思うか。ああ、聖霊がとりなしてくださらなければ、それはなんという退屈な仕事になることであろう。あなたは罪に打ち勝ちたいか。聖くなりたいと願うか。霊的生活の最高峰に登ろうとしているか。神の使いのように、主のために熱心な者になりたいか。しかしあなたは聖霊なくしては絶対にそのようになることはできないのである。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ぶどうの枝よ。あなたは養分なしには一つの実も結ぶことはできない。
神の子どもよ。神が聖霊を通して与えられたいのちのほかに、あなたは自分のうちにいのちをもっていないのである。だから私たちは、罪によって聖霊を悲しませたり、怒らせたりすることのないようにしようではないか。たましいのうちの、聖霊のごく小さな働きでも消すことがないようにしたい。聖霊のすべての示唆を重んじ、そのあらゆる命令に従うように心備えをしていようではないか。自分が聖霊を離れては全く弱いことを知るなら、私たちは忠実に従うことを誓って、次のように祈ろう。
 主よ。私の心を開いて入ってください
 あなたを私の心の奥に迎えますから
 その自由な御霊によって私を支えてください
 

ヨブ記31章16-28節

2016年11月21日 08時18分26秒 | 聖書


31:26 「あるいは、輝く日の光を見、照りながら動く月を見て、
31:27 私の心がひそかに惑わされ、手をもって口づけを投げかけたことがあるなら、
31:28 これもまた裁判にかけて罰せられる罪だ。 私が上なる神を否んだためだ。」



 彼は、神が返事をくださらないことに対して、自分の心の内を点検します。

彼はここで、偶像礼拝である、真の神以外のものに信頼を寄せ、期待を寄せるような心の持ち主であったならば、それは真の神様から裁きを受けるべき者であると告げるのです。

 彼は語ります。

もし私が、多くの人のように輝く太陽を見て、その恩恵によって自分たちの収穫を得ていると言って、その太陽を神と崇めるならば、また、夜に輝く光である月を見て、その厳かさに圧倒されてそれを神として崇めるならば、それは神の御心を否む罪である故に、自分は神から裁きを受けても構わないと。

しかし、彼は言います。

私は、自然を神とするような愚かな事はしない。

なのになぜ、神は私を苦しめるのか、と問うのです。


★ヨハネ5:14

2016年11月21日 08時16分40秒 | 聖書


「その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」」


■O:今日のコラム
この人は足が不自由か、あるいは麻痺していました。
ところが、イエス様から「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われたことにより、突然歩くことができるようになりました。本当にすごい奇跡です。

しかし、この人にはさらに大きな奇跡『罪が赦されること』が必要でした。肉体的にいやされて大喜びでしたが、霊的にいやされるために、神様の赦しを求めなければなりませんでした。


■A:考えてみよう
いやされたこの人は突然歩けるようになり、奇跡を体験しました。ですが私は『イエス様に出会ったこと』が、この人の人生で起きた一番の奇跡だと思います。

神様は病を癒し、健康を与えることができます。
しかし病以上に大きな問題は罪です。
そしてこの罪さえも、イエス様は十字架により解決してくださり、永遠の地獄から永遠の天国への希望を、私たちに与えてくださいました。

健康があったら幸いでしょうか?
地獄ではなく天国に行けるから幸いでしょうか?
私たちの幸いは、イエス様です。

イエス様が私たちに出会ってくださいました。
イエス様が私たちに手を差し伸べてくださいました。
イエス様が私たちといつも共にいて、共に泣き、共に笑って、愛してくださるから、私たちは生きる意味を見出すことができます。

今日もイエス様の十字架を見上げましょう。
罪の赦しを受け取りましょう。たましいに幸いを得るとき、すべての点で健康であることを信じます。

(IIIヨハネ1:2)
「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」

今日も私たちは、自分自身に目を留めるのではなく、イエス様に目を留め、感情の愛ではなく、契約の愛の中に入れられていることを覚えましょう。
イエス様と出会ったことが奇跡です。
私の霊、たましい、からだを完全に守ってくださる主に感謝を捧げます。今日もイエス様と共に歩める幸いを心から感謝します。



■P:祈り
(Iテサロニケ5:23,24)
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


11月20日(日)のつぶやき

2016年11月21日 01時36分21秒 | キリスト教