33:18 ゼブルンについて言った。「ゼブルンよ。喜べ。あなたは外に出て行って。イッサカルよ。あなたは天幕の中にいて。
33:19 彼らは民を山に招き、そこで義のいけにえをささげよう。彼らが海の富と、砂に隠されている宝とを、吸い取るからである。」
ゼブルンとイッサカルの部族のことが語られています。
モーセが彼等の祝福を祈っています。
彼等は「出て行く」、また「家にいる」と言われておりまして、彼等はあらゆる面で、主の祝福を受けると言われています。
特にこ民の特徴は、この民だけが、「海の宝」「砂に隠されている宝に預かる、」と言われています。
貝とか、砂から作るいわゆるガラス製品などに、その力を発揮することを語っています。
バプテスマのヨハネが捕らえられた時、イエス様はカペナウムの町に行かれました。
そのことを聖書は、「ゼブルンの地に光が上った」と告げています。
そこは、神殿があるエルサレムからは遠く離れている地でありました。
しかし、神様はその恵みを忘れることなく、この民に、主の憐れみを注いでくださっているのです。
すべての勤労には利益がある。
おしゃべりは欠損を招くだけだ。 (箴言一四23)
石油ショック以来、いろいろの国や国民や会社が石油問題で苦しんでいます。
ところで三年近く前のこと、ある産油国の様子をテレビで見ました。採掘や精製に使う設備が保全や修理がされないで、ほったらかしになっています。そこで、自分の国で使う灯油にまで事欠いて輸入しなければならない情況になるだろうと、くさったりさびたりした設備の写真が映し出された時には、心を刺されました。産油国であるその国にも、いろいろむずかしい複雑な事情もあることでしょう。しかし、石油でもうけて、なまけていて全く働かなかった結果を見せつけられたような気がしました。
勤労と労働は、人間に神が与えてくださった祝福です。
「働かざる者は食うべからず」(Ⅱテサロニケ三10参照)も、聖書のことばです。働くことをいやがったり憎んだりするのではなく、神からの贈り物とすることは、どんなに大切なことか分かりません。こう考えて、社会が必要とするものを骨身を惜しまずに生み出し、社会が必要とする仕事につく時、人は、自分の値打ちを認識できます。
そこには、働く喜びが伴います。自分のしていることが、教えることであれ生産であれ商売であれ、神の任命によっていることが分かり、生きていく力が与えられます。経済的な収入面ばかりではなく、目に見えないその他の点や目に見える多くの面で、利益・収益を得るのです。勤労と労働を尊ばない時、人生に必ず何かの欠損が生じるでしょう。
愛してくださる神のもとで、神から与えられ預けられた人生を、神から与えられた仕事のために労する勤労は尊いのです。
(Ⅱサムエル一五・二三)
ダビデは裏切りの子アブシャロムに追われ、悲しみのうちに部下とともに陰気な川を渡った。神のみこころを求めていた彼は、困難から除外されていたのではなく、むしろその生涯は患難に満ちていた。彼は主に油注がれた者であると同時に、主の悩みを負う者であった。それなのにどうして私たちが困難を免れることを期待できるだろう。悲哀の門の前で、最も気高い人々が灰をかぶって座していたのに、私たちは困難に際して全く予期しないことが起こったかのように不平を言うことができようか。
王の王も楽しい立派な道を歩まれなかった。エルサレムの汚物が流れているキデロンの濁流を渡られたのである。神は罪のない子をただ一人もっておられたが、むちを加えられない子は一人ももたれなかった。イエスがすべての点において私たちのように試みられたことを信じるのは、私たちにとって大きな喜びである。
今朝私たちの渡るべきキデロンは何か。不信の友か。悲しい死別か。中傷か。暗黒の前兆か。私たちの王はこれらのすべてを渡られた。肉体の苦痛、貧困、迫害、侮辱か。私たちの王は先に立ってこれらすべてのキデロンの上を行かれた。私たちの試練が特珠なものであるとの考えは、ただちに、また永遠に捨てなければならない。なぜならすべての聖徒のかしらなるお方が、そのご体験により、私たちが特別なものと考えているその悲しみを知っておられるからである。すべてのシオンの民は、インマヌエルがかしらであり隊長である名誉ある哀悼者の群れに加わらなければならない。
ダビデは一時卑しい身分に下ったが、やがて勝利を得て都に帰り、またダビデの主は勝利を得て墓からよみがえられた。だから私たちも勇気を奮い起こそうではないか。なぜなら、私たちもまたいつの日にか勝利を得るからだ。今しばらくの間は罪と悲しみの汚れた流れを渡らなければならないが、やがて喜びにあふれて救いの井戸から水をくむのである。十字架の兵士よ。勇敢であれ。王ご自身がキデロンを越えて勝利を得られた。あなたもまた同様に勝利を与えられる。
33:17 「彼の牛の初子には威厳があり、その角は野牛の角。これをもって地の果て果てまで、国々の民をことごとく突き倒して行く。このような者がエフライムに幾万、このような者がマナセに幾千もいる。」
ヨセフの部族のことを語っています。
彼等は豊かな主の恵みとして、作物を得ることが出来ると語られています。
また同時に、その角には威厳があると語って、力に満ちる者であることを語っています。
エジプトにおける神の恵みといい、また約束の地に入ってから与えられた土地といい、恵みと祝福を豊かに味わった部族でした。
ここでは特に、ヨセフから出た部族として、息子のマナセとエフライムのことが語られています。
彼等はヨセフに代わって、イスラエルの12部族の一員に加えられました。
そして後に、この民が北王国と南王国とに分離されました時に、北王国の指導的な立場に立ったのが、このエフライムの部族でありました。
主は、このヨセフの子孫を豊かに祝福してくださって、多くの恵みを注いでくださったのです。
主がそのようになされたことであって、主の恵みによっているのです。
自分の隣人をさげすむ人は罪人。
貧しい者をあわれむ人は幸いだ。 (箴言一四21)
何年か前、カンボジアの難民の有様を視察する日本人視察団が派遣されました。女の方が団長さんでした。その報告の第一声として、「こんなひどいことが、隣の国にあるのに、日本人は行って助けていない。日本人も、お金だ政策だと言うより、まず第一に行って助けるべきです」と話されました。ほんの数えるほどしか、日本人は行っていないとのことです。
その報告がのった次の朝、新聞の漫画を見ました。「ルック」とか「ヨーロッパ二週間の旅」の旗をたてて、毎年何十万と出かける日本人旅行団が、旗を塗り替えて、「カンボジア難民を助ける旅」を組織して出かけるところでした。
日本人には、自分の家庭・職場・会社を守り、他人に迷惑をかけなければそれでいいという考えがあるのかもしれません。しかしほんとうの愛は、利害関係を越えて、隣人に助けの手をさし伸べないでしょうか。日本人の親は、関係のない人、いいえ、あなたの兄弟姉妹である世界の、国内の同胞たちに、無条件で愛の手をさし伸べる模範を、子どもたちに示していないのではないかと、私自身も反省しています。
三浦綾子さんは、長い病床の苦しい経験の中から、同じく病床で苦しんでいる病人の方たちに慰めの手紙をせっせと書き始められました。そして、このように言われたのです。「他人を慰めようとすること以上に、自分自身が慰められることはほかにない。」こうして具体的に隣人に愛の手をさし伸ベさせるものは、自然に心からわき出るものです。ほんとうの愛の行為は、ほんとうの愛の心から出てくるのです。そんな愛は、無条件で愛し、すべての人のためにいのちを捨てられた神を知り神に従うへりくだった心に、神から注がれます。そして、そのような人はことばで表せない幸せを経験するのです。
ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕えておくれ。(雅歌二・一五)
小さなとげが大きな苦痛を与え、小さな雲が太陽を隠すことがある。小狐がぶどう園を荒らし、小さい罪が柔らかい心に害を与える。小さい罪がたましいの中に巣を作り、キリストの憎まれるもので満たすので、キリストは私たちと親しい交わりを続けるのをやめられる。大きな罪はクリスチャンを滅ぼすことはできないが、小さい罪は彼をみじめにすることができる。
イエスは、その民が身に覚えのあるすべての罪をことごとく捨てなければ、共に歩まれない。主は言われる。「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです」と。
あるクリスチャンは、ごくまれに救い主のご臨在を経験するにすぎない。これはなぜか。たしかに弱い幼児が父親から離れているのは苦痛に違いないのに。あなたは神の子でありながら、父の顔を見ないで満足していられるのか。おお、あなたはキリストの花嫁でありながら、一緒でなくても満足していると言うのか。たしかに、あなたは悲しむべき状態に陥っている。なぜならキリストの貞節な花嫁ならば、夫が去ってしまえば、鳩のように嘆き悲しむはずだからである。
それゆえ、なぜキリストが去られてしまうかを考えてみよ。主はあなたの罪の塀の背後に身を隠された。塀は大石でも小石でも作れる。海は一滴の水が集まって、岩は砂の集まりによってできたものである。あなたを主から隔てている海も、あなたの小さな罪が集まったものかもしれない。あなたの船に致命的な大損害を与えた暗礁は、あなたの小さな罪というさんご虫の日ごとの働きによって造られたものかもしれない。
もしあなたがキリストと共に生き、共に歩み、キリストを見、そして交わりたいと願うなら、花盛りのぶどう畑を荒らす小狐に注意せよ。イエスは、共に狐を捕えに行こうと言われる。主はサムソンのように、ただちに狐を捕えられるだろう。主と共に猟に行け。
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大西
33:12 ベニヤミンについて言った。「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。」
ベニヤミンは、主に愛されている者だと言われていますが、そのことは同時に、彼は父に特に愛されたということを、暗黙の内に告げていることを見ます。
この部族の特徴は、戦いに勇ましい部族であったと言われています。
戦いにおいては、勇気を持って戦った部族でした。
しかしそうした勇ましさ、それ自体が彼等を守り導いたのではありません。
ここでモ-セは、主が、いつまでも彼をかばうと語っています。
主の守りの中で、彼は戦いにおいても力を与えられ、また勇気を与えられたのです。
この部族は、人数的にはあまり大きな部族ではありませんでした。
しかし、この部族から後に、大きな働きをした人々が出ています。
初代の王サウロはこの部族の出であり、また新約時代のパウロもこの部族の出身でありました。
後にユダの部族と共に南王国ユダを構成したのも、このベニヤミンの部族でした。
貧しい者はその隣人にさえ憎まれるが、
富む者を愛する人は多い。 (箴言一四20)
前にも申し上げたことですが、現代ほど、「愛」ということばが氾濫している時代はないでしょう。しかし、現代ほど、愛のない時代はないのかもしれません。都会の片すみで、数かぎりない人が、自分が見忘れられ顧みられないことを寂しく感じています。けたたましく忙しい一日の活動の後にベッドに横たわる時、人々は、しみじみそれを感じるのです。
どこかが狂っています。どこかに間違いがあります。何がおかしいのでしょう。
家庭での愛情はひとまず置くとして、一歩外に出ると、人間の愛は、相手の利用価値に動かされています。相手に利用価値があれば愛し、そうでないと見向きもしないのです。富んでいる人のまわりには人が群がり、みな心のこもったようないいことを言います。貧しい人のまわりには、だれも集まりません。だれも、慰めも励ましも愛のことばもかけません。いや、それどころか、意地悪する人もあります。人が悩んでいたり苦しんでいるのを、ひそかに喜ぶ者すらいるのです。
家庭の中の愛だけは、無条件のほんとうの愛でしょうか。いつの間にか、ここでもやはり、自分で利用できるもの・自分の役に立つもの・自分の名誉や喜びになるものだけが愛され、そうでないものはポイと捨てられています。ですから、いま家庭の中で、夫婦の間・親子の間でさえ、争いの絶えない冷たい家庭が増えているのです。
ほんとうの愛とは、無条件で相手を受け入れ、相手の喜びを喜びとし、相手の悲しみを悲しみとする愛です。そんなほんものの愛は、神にあるのです。富める者も貧しい者も無条件で愛し、一人一人の最善を願うばかりか、それを備えてくださいます。そんな神の愛を知って、初めて私たちの愛もほんものに近づいていきます。
悪を憎んだ。(詩篇四五・七)
「怒っても、罪を犯してはなりません。」もし人が罪を怒らないとすれば、その人の中に善があるとは思えない。真理を愛する者は、一切の偽りを憎むはずである。私たちの主イエスは、誘惑が襲ってきた時、どれほどそれを憎まれたことであろう。それは三度手を変えて襲ったが、主は「引き下がれ、サタン」とのことばをもって撃退された。主は他人の中にある罪を憎み、叱責のことばよりはさらに熱烈なあわれみの涙をもって、罪に対する憎しみを示された。
しかし、主の次のみことばほど、エリヤを思わせるような激しさをもつものはない。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。」主はこの上なく悪を憎まれ、悪に致命傷を与えるためにご自身の血を流し、悪が死ぬためにご自身が死に、悪をご自身の墓に葬るために葬られ、永久に悪を御足の下に踏みにじるためによみがえられた。キリストは福音の中におられ、福音はあらゆる悪に反対する。悪は美服をまとい、聖いことばをまねる。しかし、イエスの教えは、有名な宮潔めの縄のむちのように、悪を宮から追い出し、それが主のからだである教会の中に存在するのを黙認されない。それゆえ、イエスの支配下にある心の中では、キリストとサタンのなんと激しい戦いがあることだろう。
さらに、私たちの贖い主がさばき主としておいでになる時には、「のろわれた者ども。わたしから離れよ」との雷のようなみことばが――これは主のご生涯を通じての罪に関する教えの延長にすぎないものだが――罪に対する主の憎しみを表すことだろう。主は罪人に対して温かい愛をもたれるだけに、罪に対しては燃えるような憎しみをもたれるのである。主の義が完全であられるだけに、あらゆる種類の悪を残らず破壊される。
ああ、栄光ある正義の闘士、悪の破壊者よ。それゆえ神、すなわちあなたの神は、あなたの友にまさって喜びの油を多く注がれたのである。
33:11 「主よ。彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。彼の敵の腰を打ち、彼を憎む者たちが、二度と立てないようにしてください。」
レビ族に対する祝福の言葉と願いが語られています。
彼等の務めは、神殿で主の前に民に代わって、主に奉仕を献げることでした。
特に、祭司の集団がこのレビ族から出ることによって、彼等は特別に、また専門的に神殿で奉仕をする部族とされました。
従ってその働きは、神殿で民のために犠牲を献げて、罪の赦しや感謝のささげ物を献げること、またモ-セを通して与えられた戒めを民に教えることなどにありました。
こうしてイスラエルの民を霊的に、主の前に、主の御心にかなった民として導く務めを与えられていたのです。
彼等の務めは、誠に大事な働きでした。
ですからその働きの大切さを覚えて、ここでモ-セは、彼等の働きが祝され、彼等に敵対する者、また彼等を憎む者によって滅ぼされることがないようにしてくださいと語っているのです。
イエス様がおいでになるまで、彼等は主の御心を行うために、重要な働きを主の民のために担い続けてきたのです。
知恵のある者は用心深くて悪を避け、
愚かな者は怒りやすくて自信が強い。(箴言一四16)
自信がないのは困りものです。
・ いつもおどおどして、人の気持ちばかり気にしている。
・ 自分というものを持っていない。独立していない。力が出しきれない。
しかし、自信がありすぎるのも、また困りものです。
・ 人を押しのける。まずくいくと、いつも人のせいにして怒ったり非難する。自分が用いられないと気分を損ねる。
・ 事がうまくいくと、おれのせいだと、すぐ自己賛美をする。
・ 何事にも謙虚な自己反省がない。
人間にとって大切なことは、自分の力を過小にも過大にも評価しないことです。正確に、あるがままの姿を認め、つかむことです。その上で、自分の未来の姿が進歩し改革され生まれ変わる可能性に向かって、明るい希望をもって努力することが肝要です。
自分のほんとうの姿を認めることは、こわいこと・つらいことでしょう。だれでも、自分の弱さ・欠点・失敗は認めたくないのです。
私も、自分の弱点や失敗を知られた時は、母にまで反抗したことがありました。しかし母は、私のみじめさを知りながら、弱点・欠点も十分承知した上で、やはり私を受け入れ、愛し期待し、私を守ってくれていたことが、だんだんと私にも分かってきたのです。ところが、神は母親どころではありません。すべてをご承知の上で、私たちを受け入れ愛し導き、期待し力を与えてくださるのです。
神の前に自分が罪人であることを認めると共に、自分がまた、神に愛され選ばれており、神の愛と導きの中に、すばらしい可能性があることをはっきり認めること。――これこそ、人生のすばらしい力です。
召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ八・三〇)
ここに、あなたのために尊い真理がある。あなたは貧しく、苦しんでおり、また人に認められていないかもしれない。しかし、あなたへの「召し」とそれから来る結果を思い出し、特にここに語られているすばらしい結果を思って、あなたの励ましとせよ。
今日、あなたが神の子であることは確かな事実であるが、それと同じ確実さであなたの試練はまもなく終わり、あなたはすべての祝福を豊かに受けるようになる。しばらく待て。そうすれば、あなたの疲れた顔は栄光の冠をいただき、苦しい働きについていた手は勝利のしゅろの枝を握るであろう。あなたの患難を嘆かず、まもなくあなたが「悲しみ、叫び、苦しみもない」ようになるのを喜べ。火の車があなたの戸口にあり、一瞬のうちにあなたを栄光の場所に連れて行くのだ。永遠の歌はあなたのくちびるから出ようとしている。天国の門があなたのために開かれている。安息に入りそこねるなどと思ってはいけない。
もし主があなたを召してくださるならば、何者も主の愛からあなたを離すことはできない。逆境もその結び目を断つことはできず、迫害の炎もそのきずなを焼き尽くすことはなく、地獄の鉄槌もそのくさりを断ち切ることはできない。あなたは安全である。初めにあなたを召された声は、再びあなたを地より天に召し、死の暗黒から不朽の栄光にまで移すのである。安心せよ。あなたを義とされたお方の心は、あなたに対する無限の愛によって脈打っている。
あなたはまもなく栄光を受けた者とともになるだろう。そこにあなたの受ける資産がある。あなたは資産を受ける準備をするため、しばしこの地上にいるのであり、ここでのわざが完了したら、天使の翼があなたを遠く平和と喜びと祝福の峰に運んで行くのである。
そこで、悲しみと罪の世を遠く離れ
とこしえに神とともになる
こうしてあなたは永遠の安息を得る。
33:7 ユダについては、こう言った。「主よ。ユダの声を聞き、その民に、彼を連れ返してください。彼は自分の手で戦っています。あなたが彼を、敵から助けてください。」
ユダというのは、後にユダヤ民族の基盤となった部族です。
ここでは、彼からでた部族が、自分の手で戦っていますと語っています。
つまり、敵と戦っていると告げているのです。
そのような時に、主が彼等を守り、助けてくださいと祈っているのです。
これはどういうことを語っているのでしょう。
それは、イスラエルの民が隊を組んで戦いに出る時に、一番先頭に立つのが、どの部族であったかと言いますと、このユダの部族であったのです。
ですから、この部族がイスラエルの部族の中で一番、危険に遭遇することが多かったのです。
ここで彼等が、「自分の手で戦っています」というのは、そのことを指して告げているのです。
ここでモ-セは、彼等のために執り成しています。
多くの戦いの時に、彼等が戦いを終えて、平和に戻ってくることが出来ますようにとの願いを、告げているのです。
いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が共になえていた。(Ⅱサムエル九・一三)
メフィボシェテはダビデ王の食卓に列して、さほど光彩を添える存在ではなかったが、常にダビデ王のそばで食事をとっていた。それは王が、今は亡き親友ヨナタンの面影を彼に見たからである。
私たちも、メフィボシェテのように、栄光の王に向かって、「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか」と叫ぶ。それにもかかわらず、主なる神は、私たちと親しい交わりをもってくださる。神が愛する御子の面影を私たちの中に見られるからである。神の民は御子のおかげで大切にされている。父なる神はそのひとり子に対する愛のゆえに、ひとり子のいやしい兄弟たちを貧困と流刑の中から引き上げ、宮廷の交わりに入れ、高貴な身分を与え、王族としての備えをさせる。身体が不自由であるという事実もその特権を奪うこととならず、足がきかないという事実も子としての資格を妨げない。彼も、足の速いアサエルと同様世継ぎである。力量が足りなくても、私たちの権利に支障はない。
王の食卓は、このような者の尊い隠れ場である。福音のうたげにおいて、私たちは自分の弱さを誇ることを学ぶ。キリストの力が私たちの上にあるからである。
しかし極端な無能力は、最も愛された聖徒たちをも損なう。ダビデのうたげにあずかることのできるメフィボシェテは、王が都を逃げた時について行くことができず、しもべのツィバに訴えられた。このように信仰が弱く知識の足りない聖徒たちは、非常な弱点をもっている。多くの敵にさらされやすく、どこまでも王に従うことができない。この病はしばしばつまずき倒れることによって起こるものである。霊的幼児期における養育が悪かったため、回心者を失望させ、立ち上がれないようにすることがしばしばある。またある場合には、罪のために骨が砕かれることもある。
主よ。このような弱い者を助けて、雄鹿のように躍らせ、あなたの食卓のパンにより、あなたにつくすべての民を満たしてください。