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◆刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。

2014年12月31日 15時46分41秒 | 聖書

それなのに、私たちは救われない。(エレミヤ八・二〇)

救われない! 愛する読者よ。これがあなたの悲しむべき状態か。来るべきさばきが警告され、命がけで逃げよと命じられているこの時に、あなたは救われていないのか! あなたは、救いの道を知っている。あなたはそれを聖書の中で読む。あなたはそれが、講壇の上から話されるのを聞く。友人を通して、それがあなたに説かれる。それにもかかわらず、あなたはそれを無視しており、そのゆえに救われていない。主が生きている者と死んだ者とをさばかれる時、あなたは弁解のことばもないであろう。聖霊は、あなたがかつて聞いた説教のことばに多少でも祝福を与えられた。そして神のご臨在によってあなたが力づけられた時もあった。しかし、あなたはまだキリストなしである。
これらのすべての望みの多い季節は、来て、また去っていった。――あなたの刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。――しかしあなたはまだ救われていない。歳月は次々と来て、また去り、永遠に至る。そしてあなたの最後の年も、すぐにやって来るであろう。青年期は過ぎ、壮年期も過ぎようとしている。しかし、あなたはまだ救われていない。
私に質問させていただきたい。あなたは結局は救われるのか、と。そのような見込みがあるだろうか。最も幸運な季節はすでに去ったが、あなたはまだ救われていない。これから先、他の社会があなたの状態を変えるだろうか。あなたに対して尽くされた数々の手段は失敗に終わった。忍耐強く、この上ない愛情をもって尽くされた最善の手段が、失敗に終わったのである。
あなたに対して、これ以上いったいどうすればよいであろう。患難も繁栄も、あなたに何の印象も与えなかった。涙も祈りも説教も、あなたの荒れ果てた心にはむだであった。あなたが救われる可能性は、もうなくなってしまってはいないか。あなたは、死が希望の戸を永久に閉ざしてしまうまで、現状を続けるのではないか。このような想像から、あなたは後ずさりするのか。しかし、それは最も合理的な考え方なのである。何度となく入浴を拒んだ者は、結局最後まで汚れたままでいるのではないか。好機がこれまで決して来なかった人間に、どうしてこれから先、それが来ることがあろう。それが決して来ないとして恐れることは、論理的である。そしてあのペリクスのように、あなたは地獄に行くまで好機を見いだすことはないであろう。
おお、その地獄はどんなものか。そしてあなたが、まもなくそこへ投ぜられる恐るべき可能性について考えてみよ!
読者よ。あなたが救われないで死んだと想像してみよ。あなたの運命は、どのようなことばによっても描写することはできない。あなたの恐るべき状態を涙と血をもって書き、うめきと歯ぎしりをもって語れ。あなたは主の栄光からの、そして主の御力の栄光からの、永遠の破滅をもって罰せられるであろう。私は願う。主にある者としての私の声が、あなたを驚かせ、神の必要をあなたに悟らせるように。
おお、賢明になれ。遅くならないうちに……。そして新しい年の始まらないうちに、全く救うことのできるイエスを信じよ。この最後の時間を黙想のために聖別せよ。そしてもし、深い悔い改めの心があなたのうちに起こされればよい。そしてもしその結果、イエスにある謙遜な信仰に導かれるならば、それにまさるすばらしいことはない。あなたの罪が赦されないうちに、この年を去らせてはならない。真夜中の新年の鐘の音を、喜びのない霊の上に響かせるな!
今、今、今、信じなさい。そして生きなさい。
いのちがけで逃げなさい。
うしろを振り返ってはいけない。
この低地のどこででも立ち止
まってはならない。
山に逃げなさい。
さもないと滅ぼされてしまう。

 


「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。

2014年12月31日 15時45分51秒 | 聖書

必ずそれができるから」(民数記13:30)

約束の地の前まで来た時に、12人の斥候が遣わされた。
戻った時、10人は恐れて、民は強大で、自分達はいなごのようで「攻め上れない」と怯えた。
しかし、ヨシュアとカレブは、上って行って占領しようと人々を励ました。
民は、出エジプト時に神の超自然の偉大な力を体験していた。
荒野においてもしかりだ。
カナンの地の約束も何度も聞いていた。
しかし、斥候達の言葉を聞いた時、神を信じる事が出来なかった。
12人は、全く同じ状況を見たのに、信仰的に見るのと、不信仰の目で見るのとでは、こんなにも違う正反対の結論が出る。
だいたい新しい事を始める時に、8割方はまず出来ない事から、計算を始めるそうだ。
そして納得の行く説明がついてしまう。
人間は肯定的より、否定的考えの方が遙かに強く、放っておくと必ず否定的方向へ向かう。
10人と民達は、神ではなく、状況を肉の目でしか見なかった。
しかし、ヨシュアとカレブは、神の約束を見た。
彼らに導かれた人々は約束の地へ入って行くが、不信仰に陥った民は皆、荒野で死んだ。
神は、「不可能」だと信じない人々と一緒に働く事がお出来にならない。
私達の思考は否定的、悲観的だ。
神の言葉が思考となるよう、物事を御言葉で判断して行く訓練が必要だ。
それには信仰の言葉を常に聞き続ける事だ。
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あれだけの超自然の奇跡を見たに関わらず、民のほとんどが不信仰のため荒野で滅んだ。
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」との御言葉に生きよう。


◆祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、

2014年12月31日 07時43分23秒 | 聖書

大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ七・三七)

主イエスは全き忍耐を保ち、祭りの終わりの日に至るまでユダヤ人の心に訴えられた。同じようにこの一年の最後の日においても、主は私たちの心に訴えられ、私たちに恵みを与えようとして待っておられるのである。主が年々私たちのある者に対してなされる忍耐は、まことに驚くほかない。主は、私たちの挑戦、反逆、そして聖霊に対する反抗さえ耐え忍ばれる。私たちが、なおあわれみの国にいるということは、実に驚異中の驚異である。
あわれみはきわめて明白に表された。なぜなら、イエスは叫ばれたからである。主は単に声を大にされたというのではなく、優しく語りかけられたのである。主は私たちに和解を訴えておられる。パウロは「神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います」と言っている。なんという熱烈な、心に迫ることばであろう。主は罪人たちのために泣き、母親がその子どもを愛するように私たちを御胸に抱き寄せられる。主の愛のなんと深いことか。このような呼びかけに対し、心を動かさないでいられるだろうか。
備えは十二分になされている。人がたましいの渇きをいやすのに必要なものはすべて備えられている。贖いは私たちの良心に平安をもたらし、福音は私たちの悟性に豊かな教訓をもたらす。またイエスのご人格は、私たちの心に最も気高い愛の対象を刻み、イエスにある真理は、私たちの全人格に最も純粋な栄養を供給する。渇きは激しい。しかし、イエスはそれを取り去ることができる。イエスはたましいが全く飢えていても、それを満ち足らせてくださる。
この宣言は最も自由なものである。すなわち、渇いている者はだれでも歓迎するというのである。そこには渇いているという以外に、何の差別も設けられていない。それが貪欲、野心、快楽、知識、安楽などの渇きであろうと、渇いている者はすべて招かれているのである。渇きそのものは、悪いものであるかもしれない。そこには、恵みのしるしはいささかもなく、肉欲をさらに満足させようとする罪のしるしのみが見られるかもしれない。しかし、主イエスが招かれるのは、人のうちに美徳があるからではない。主は自由に、だれかれの区別なく招かれるのである。
また、イエスご自身のみもとに来るということが、ここにおいて明白に宣言されている。罪人はイエスのもとに来なければならない。善行や、儀式や、教理に来るのではなく、十字架上で自らのからだの上に私たちの罪を負ってくださった贖い主のみもとに来なければならない。血を流して死に、かつよみがえられた救い主は、罪人にとって唯一の希望の星である。ああ、一年の最後の日において、太陽が沈む前に今、イエスのみもとに行って、主から飲む恵みを得たい。
ここには待つことも準備することも言われていない。飲むことのためには、何らの資格も要求されていない。だれが飲んでもよいのである。品性が罪に汚れているということは、イエスを信じる上でいささかも妨げとなりはしない。私たちはこの水を飲んで渇きをいやすために、金の杯も、宝石を散りばめた杯も必要としない。貧しい者も、ただかがんで口を流れにつけさえすればよいのである。どんなに汚れたくちびるであっても、神の愛の流れに触れることができる。そのくちびるは流れを汚さないばかりか、かえってその水によって清められるのである。
イエスは希望の泉である。愛する読者よ。優しい贖い主が、私たち一人一人に向かって叫ばれる愛の御声を聞け。
「だれでも渇いているなら、
わたしのもとに来て
飲みなさい。」

 


第1列王記11章9-13節

2014年12月31日 07時41分12秒 | 聖書

11:11 「それゆえ、主はソロモンに仰せられた。『あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。』」



 この世の繁栄とその結果としての姦淫によって偶像礼拝者となり、神様との契約を破ったソロモンに対して、主は激しく憤りをもたれました。

彼に裁きを下されたのです。

その裁きは、彼の王国を分裂して、彼の家来にその国を与えてしまうということでした。

そして彼の子供に関しては、信仰深かったソロモンの父ダビデに免じて、1つの部族のみをその人に残すといわれたのです。

 これは、この世で繁栄のみを求める人々への警告です。

人は多くの時、この世で繁栄をすればそれでよしとします。

死んだ後のことなど考えないのです。

それはまるで、その死した後の人生などはないと思っているようです。

しかし、聖書ははっきりと、人の死した後の生こそ大事であると語っています。

人は死んだ後、神の前に立たされて、その責任を問われるのです。

そして、そこにこそ、人の生のすべてがかかっているのです。


詩篇121篇

2014年12月31日 07時37分52秒 | 聖書

★都上りの歌
私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない 。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。


黙示録21章2,22~23節
(2ばっかり!お気をつけください。)
★私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

私は、この都の中に神殿を見なかった 。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。


■O:今日のコラム
12月30日の朝です。今日1日も、主を見上げ、求め、主に救いがあることを宣言していきましょう。新しい都、新しいエルサレムがこの地に下ってくるのです。

旧約時代、主を礼拝することは、なかなか難しい時代でした。特別な選ばれた人、選ばれた民族が代表として礼拝しました。主の宮に行くことも、毎日御言葉を聴くことも、なかなかできない状況でした。だからこそ、ダビデの幕屋の時代から、主の臨在に満ちた「あの山」に向かって目を上げる時、天地を創造された方が救い主であるという確信を得ていきました。

そして、イエス様がこの地で過ごされ、「この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時がきます」と宣言されました。イエス様の十字架と復活によって買い戻された僕らの内側に、聖霊様が住んでくださることになりました。僕らの内側は、聖霊様の宮となりました。

僕らが聖霊様の宮となるというあり得ないことをイエス様がしてくださいました。天地を創造された方を、お父さんと呼べる特権も与えていただきました。主との生きた関係をもつことができるのです。

そして、さらに、御言葉が一冊の本にまでまとめられました。主の御言葉を個人的に聴くことができるようになりました。聖霊様が助けてくださり、御言葉をより深く知ることができるのです。

今までは、都に主を礼拝しに行っていました。もちろん、現在も主の宮である教会に行き祈ることや礼拝することはとても大切です。都に積極的に上っていきましょう。

そして、主がなされたことは、都が逆にこの地に下ってくることです。主が僕らの内側にすんでくださるのです。インマヌエルの主が、僕らを愛するために十字架に架かられたのです。主が居てくださる所に、天の御国はあります。「天の御国は、あなたがたのただ中にある!」のです。

そして、さらにさらに、これからは、天の御国が整えられ、花嫁のように、この地に下ってくるのです。新しいエルサレムが、都が下ってくるのです。

僕らは、ますますこの新しいエルサレムを待ち望み、僕らが花嫁として整えられていきましょう。 来年も主を礼拝できることを感謝します。


■A:考えてみよう
今年一年間はどんなことがありましたか?一つ一つを主に感謝し、一つ一つを主を礼拝する出来事にしていきましょう。
新しいエルサレムを待ち望んでいきましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月30日(火)のつぶやき

2014年12月31日 01時46分56秒 | キリスト教

◆その果ては、

2014年12月30日 16時41分54秒 | 聖書

ひどいことになるのを知らないのか。(Ⅱサムエル二・二六)

読者よ。もしあなたが、ただの自称信者であって、キリスト・イエスにある信仰をもっていないならば、次に述べるのが、あなたの終局の真の描写である。
あなたは礼拝に忠実に出席する。あなたの心が神と共にあるから出席するのではなく、他の人々が行くからあなたも行くのである。これがあなたの振り出しである。次の二十年か三十年、今のような状態が続くとしよう。外見は集会に出席して信者らしく見せかけているが、心は真の信仰をもっていない。
静かに聞いてほしい。あなたに、あなたのような人の臨終の床の有様を見せなければならないからである。彼の額は汗にぬれている。彼は目を覚まして叫ぶ。「神よ。死ぬのはつらいことです。……牧師を呼びに行ったか。」「はい。今来られます。」牧師が来る。「先生。私は死ぬのが恐ろしいのです。」「希望がないのですか。」「希望をもっているとは言えません。神の前に立つのが恐ろしいのです。ああ、どうか私のために祈ってください。」彼のために熱心な心からの祈りがささげられ、救いの道が何度も彼の前に示される。しかし、救いの綱を握らないうちに、私は彼が沈んでいくのを見る。その冷たくなったまぶたの上に、私は自分の指を置く。そのまぶたは、もう決してこの地上のものを見ることがないからである。その男はどこにいるのか。そして、その男の真の目はどこにあるのか。「ハデスで苦しみながら目を上げると……」とある。
ああ、なぜもっと早く目を上げなかったのか。それは、福音を聞くことに慣れきって、たましいがその下で眠っていたからである。ああ、もしあなたがかしこで目を上げることになるとすれば、あなたの嘆き、悲しみはどれほどであろう。それを救い主のみことばによって表そう。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」
どうかあなたが神の御怒りのもとで、このことばを発することが決してないように。

 


「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」

2014年12月30日 16時40分52秒 | 聖書

(マルコ5:28)

12年間の長血を患った生活、どんなに辛く、苦しく、絶望的だった事だろう。
治療のために、自分の全財産を使い果たしていた。
しかし、直るどころか、ますます悪化して行った。
経済的にも、身体的にも、精神的にも、又、当時、長血は「汚れたもの」とされ社会的にも、受け入れられず、人生に何の希望も無かったろう。
この苦しみが、彼女をして真剣に必死に、主を求めさせた。
主の着物にでもさわる事ができれば直ると信じたのだ。
群衆の人混みをかき分け、主の着物にさわった。
すると、主の癒しの力が流れ出て、彼女はすぐにその場で直った。
「きっと直る」と信じ続けていたのだ。
すると主は「だれがさわったのか」と探し、彼女のために面と向かって、関わろうとされた。
彼女は恐れおののいて、主の前に出て、辛さ、苦しみ、悲しみの真実を余すところなく話した。
彼女の病を直したのは、紛れもなく主だが、「娘よ」と呼びかけられ、「あなたの信仰があなたを直した」と言われた。
彼女がこのまま人混みに紛れて、隠れて去り、終わってしまったらどうだろう。
身体は直ったが、それだけだ。
しかし、主は彼女の身体だけでなく、全人格に関わって下さった。
そして、「安心して帰りなさい」と、心にも平安を与え、全人格の救いを与えて下さった。
真剣に一心に主を求める心に、主は向き合って下さる。
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主は求める者に、必ず姿を現して下さる。
お着物にさわることでもできればという主を求めた飢え乾きを忘れず、今日も豊かな主との交わりの中を歩もう。


今日の聖人の記念日

2014年12月30日 07時07分07秒 | キリスト教

聖メラニア

383年ごろ-438年

 メラニアは、ローマに生まれた。祖母は大メラニアであり、エルサレムに女子修道院を設立した聖人であった。
 メラニアは、397年に父から強制されて結婚したが、不幸にも2人の子どもを亡くし、夫とともに禁欲生活の道を選んだ。父の死後、莫大な財産を相続したメラニアは、それを貧しい人びとや、教会のため、また多くの奴隷解放のために使った。西ゴート族が襲ってきたときは、夫とともにローマを離れ、アフリカに行き、聖アウグスチヌスと出会ったといわれている。その後エルサレムに住み、431年、夫に先立たれてから、オリーブ山に彼の墓を作ってその近くに小屋を建て、祈りと修行の生活に励んだ。そのうちに彼女のもとに女性たちが集まり、修道院となった。


◆事の終わりは、

2014年12月30日 07時06分02秒 | 聖書

その初めにまさり……。(伝道者七・八)

ダビデの主を仰ぎ見よ。その初めがどうであったかを思え。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」あなたはその終わりを見るか。主は父なる神の右に座し、その敵を足台にしようとしておられる。「私たちもこの世にあってキリストと同じような者である」なら、当然十字架を負わなければならない。そうしなければ、決して冠を得ることはできない。あなたが泥の中をはって進むのでなければ、決して黄金の大通りを歩むことはできない。それゆえ、クリスチャンよ。雄々しかれ。「事の終わりは、その初めにまさり……」とある。
うごめく毛虫を見よ。なんと卑しい姿だろう。それが事の初めである。しかし、あの目の覚めるような羽をもち、日光の中にたわむれ、花の杯より蜜を吸い、幸福といのちに満たされている蝶を見るがよい。それが事の終わりである。あなたは死のさなぎになるまでは毛虫なのである。しかし、キリストが現れたなら、キリストのありのままの姿を見るので、キリストに似た者となる。主に似た者となることを覚えて心を安んぜよ。あなたが目を覚ますその時には、主のようになっていることを見いだして満ち足りるであろう。
天然のダイヤモンドは、研磨機にかけられてその全面を削り取られ、一見貴重と思われる部分までも失わなければならない。王の戴冠の際には、喜びのラッパとともに王冠が王の頭上に置かれ、その冠からはまばゆいばかりの光が輝く。しかしその光は、直前まで研磨機によって悩まされ痛めつけられていたあのダイヤモンドから出ている。このダイヤモンドに、あなた自身をなぞらえてみるがよい。あなたは神の民の一人であり、今は玉を磨く時なのである。信仰と忍耐をもって待て。王冠が永遠不朽の王の頭上に置かれるとき、一条の栄光の光があなたからも流れ出るであろう。
「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。」まことに「事の終わりは、その初めにまさる」のである。

 


第1列王記11章1-8節

2014年12月30日 07時04分12秒 | 聖書

11:7 当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の、忌むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。
11:8 彼は外国人の自分のすべての妻のためにも、同じようなことをしたので、彼女たちは自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。



 ソロモンは、先代の王ダビデが獲得できなかったものを獲得しました。

それは空前の豊かということです。

しかし、その豊かさは神の与えて下さった知恵によったのですが、いつしか彼はそのことを忘れ、その豊かさの故に、神よりも自分を喜ばすことに心を費やすようになりました。

彼には、700人の王妃と300人のそばめがあったと言われています。

その多くが外国の民からとったものでした。

主は、そのようなことをすれば偶像礼拝に陥って滅びることになろうと警告されていました。

しかし、彼は耳を傾けませんでした。

その結果、彼自身が偶像礼拝に陥ったのみではなくて、彼女たちが行う偶像礼拝を支える働きさえもするようになってしまったのです。

豊かさが罪ではありません。

用い方が問われるのです。


詩篇120篇全体(ヨハネの黙示録20章)

2014年12月30日 07時01分25秒 | 聖書


■O:今日のコラム
 この詩篇には、勇士の鋭い矢が登場します。この鋭い矢とは何でしょうか?『島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。』(イザヤ49:1~2)とあります。

 島々の遠い国々は、日本を含むアジアであるという事ができます。私たちは、召されています。それは以下のようなものであり、そのために主は、力を注がれます。

(1) 私たちの口を鋭い剣のようにします。
口の言葉が御言葉の宣言、信仰の告白となり、人を建て上げるものとなる召し。

(2) 御手の陰に隠します。
主の御手によって包まれる、臨在の中にとどまる者としての召し。

(3) 研ぎ澄ました矢とします。
その口の言葉の純度を高める召し。口の言葉は心にあるものがでるので、心を主が取り扱われ、きよめられます。

 その後、どうするかといえば矢筒にしまわれます。それは、どんな目的で使われるのかというと、神の民となった異邦人をきよめるために使われます。眠っている神の民の目を覚まし、熱心にさせるのです。イザヤは、口に炭が押し付けられ、きよめられました。
 同じように、神の民として召されていながら、その口に批判、争いを上らせる者の口が変えられます。それは、進む方向が変えられる事を意味します。
 5節のメシェクとは、ヤペテの子です。ノアの子、セム、ハム、ヤペテのヤペテです。セムはイスラエルへと続く系図となり、ハムは呪われ、カナンへと続く系図となります。ヤペテはセムとともに布でノアの恥を覆った(イスラエルと異邦人がともに幕屋を張ることを意味します。花嫁を意味します)ために祝福を受けました。救われる異邦人を意味します。
 ケダルの天幕は、雅歌1章で花嫁の象徴として登場します。雅歌は、花嫁の成長のストリーですから、彼らが、花嫁としてのスタートラインに着くことを意味します。
 彼らは、逆の意味で研ぎ澄まされた矢でした。『彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。』(詩篇64:3)しかし、主は、悪い言葉によって研ぎ澄まされた矢となった人々を、きよい言葉で研ぎ澄まされた矢によって変えられます。
 この事実を知ったならば、きよい言葉で研ぎ澄まされた矢となるために主にとどまる者、父の愛にとどまる者となりましょう!黙示録の14章で出てくる14万4千人の花嫁は『口に偽りがなかった』(黙示14:5)という特徴があります。
 矢と炭できよめられる側でなく、きよめるために神が用いる側になりましょう!



■A:考えてみよう
口のことばが御言葉、信仰の宣言、励まし、愛の言葉となり、きよいものとなることを求めましょう!また、主の愛にとどまり続けましょう!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月29日(月)のつぶやき

2014年12月30日 01時46分10秒 | キリスト教

◆あなたがたは、

2014年12月29日 16時35分49秒 | 聖書

キリストについて、どう思いますか。(マタイ二二・四二)

「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。」これは、あなたのたましいの健康状態を見る大いなるテストである。主はあなたにとって、「人の子らにまさって麗しく」、「万人よりすぐれ」、「すべてがいとしい」方であられるか。キリストがこのように重んじられるところでは、人のすべての霊的能力は力強く働く。あなたにとって、キリストの存在は高いか。それとも低いか。このバロメーターによって私はあなたの信仰を見極める。
もしキリストのことをほとんど考えず、そのご臨在なく生きることに満足しているならば、もし主の栄光を現すことをほとんど心にかけず、その戒めを顧みないならば、私はあなたのたましいが病気にかかっていることを知る。しかし、もしあなたの第一の思いが、「私はどのようにしてイエスの栄光を現したらよいか」であるならば、また日ごとの願いが、「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り」たい、であるならば、私はあなたに告げる。「たとえあなたに多くの弱点があり、神の子どもであるかどうかもほとんどわからなくても、あなたは安全である。なぜならイエスをこの上なく重んじているから」と。
私は、あなたの着ているぼろを気にしない。あなたは王なるキリストの装いをどのように考えているだろうか。私は、たとえあなたの傷口からどくどく血が流れていても、あなたの傷を気にしない。あなたはキリストの御傷をどのように考えているか。それはあなたにとって、輝くルビーのように尊いか。たとえラザロのように掃きだめの中にいても、私はあなたを低く評価しない。あなたは、美しい王を何と考えているか。主はあなたの心の中で、栄光の高貴な王座を占めておられるか。できれば、主をさらに高くあがめたいとあなたは願うか。主を賛美するメロディーに、もう一つのラッパを加えることができるならば、喜んで死にたいと思うか。あなたが自分自身についてどう考えようと、もしキリストがあなたにとって偉大であるならば、遠からずあなたは主と共になるであろう。

 


「私には、水がかき回されたとき、

2014年12月29日 16時34分51秒 | 聖書

池の中に私を入れてくれる人がいません」(ヨハネ5:7)

ベテスダの池には大勢の病人が集まっていた。
その池は、主の使いが降りて来て、水を動かし、その後一番先に入った者は、どんな病気でも癒されると言われていた。
そこに38年、病気の人がいた。主は彼を見て言われた「よくなりたいか」と。
「よくなりたい」と言えばよかったが、彼は、自分には、池の中に自分を入れてくれる人がいない、いつも先を越されると答えた。
他の人が我先にと、先を越して入ってしまうので、自分は直らないと。
病気が直らない事を、他の人のせいにしていた。
その心を見て取られた主は、では、わたしが池に入れて上げよう、ではなく「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われた。
人に責任転嫁するのでなく、自分の足で立って、しっかり自分の責任で歩めと。
彼は主の言葉を心に受け入れ、信じた。
それゆえ、すぐに立って床を取り上げて歩き出した。
もし、主の言葉を信じなければ、決して起きようとしなかったろう。
意志を向けて、起き上がろうとした時、主の力が臨み、奇跡が起きた。私達はどうだろう。
人がああしてくれない、こうしてくれない、だから自分はこうなのだと、人のせいにし、いつも言い訳し、愚痴と不平不満、自己憐憫の中にいるか。
そもそも、その態度が問題なのだ。人依存でなく、自分の足で立って、神依存で歩もう。
その時、生きている事の、喜びと、実感を得る。
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自分が信仰を持って一歩踏み出すことが必要だ。
信じる事をしないで、その場にとどまり続けず、信じる方を選ぼう。
必ず神様の栄光を見る。
変えられて行く。