座間コミニティー

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◆これらは、

2016年11月26日 18時50分14秒 | 聖書
ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。(ゼカリヤ四・一〇)
ゼルバベルはその仕事を小さな書から始めた。しかし、だれもそれを軽蔑することはできなかった。なぜなら主は、かしら石が叫び声とともに運び出されるまで忍耐し続ける人を起こされたからである。
下げ振りは良い人の手にあった。ここに、主にあるすべての信者への慰めがある。恵みの働きは初めどんな小さなものであっても、下げ振りは良い方の御手の中にある。そして、ソロモンよりも偉大な熟練した建築師が、天の神殿の造営を引き受けられたのである。もし下げ振りがただの人間の手にあるならば、私たちは建築の前途を心配するかもしれない。しかし、神の喜ばれる事柄はイエスの御手のうちにあって栄える。
仕事は、不規則に不注意に進められたのではなかった。建築師は良い道具を持っていたからだ。もし城壁が十分な監督もなく急いで造られたならば、傾いてしまったかもしれない。しかし、下げ振りは選ばれた監督者によって用いられた。イエスは常に、その霊の神殿が堅固に、申し分なく建てられるように見守られる。私たちはあせるが、イエスは思慮深くあられる。主は下げ振りを用いられ、線から外れたものは、一つ一つの石に至るまですべて落とされなければならない。
こうして多くの見かけ倒しの仕事や、きらびやかな信仰告白はくつがえされる。主の教会をさばくのは私たちの職分ではない。なぜなら、イエスは正確な手、真正な目をもち、下げ振りを正しく用いることがおできになるから。私たちは、さばきが主に任せられているのを見て、喜ばないであろうか。
下げ振りは積極的に用いられた。それは建築師の手に握られていた。これは、仕事を進めて完成させようとする意気込みがあったことを、確実に示している。
おお主イエス様。あなたが偉大な仕事に従事しておられるのを見ることができますならば、なんという喜びでしょうか。おおシオンよ。おまえの城壁はなお壊れたままである。栄光の建築師よ。立って、あなたがおいでになり、シオンの廃墟を喜ばせてください。
 

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、

2016年11月26日 18時49分26秒 | 聖書

神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして・・」(ピリピ2:6)

人は皆、プライドで生きている。男性は仕事や地位に格別高いプライドを持っている。
母親は子供に自分の夢を託し、子供により自分のプライドを満たそうとするかも知れない。

プライドは、子供の人生を奪い取ってしまう。
様々な対人関係で、プライドとプライドが衝突し、火花を散らし、争い、怒りや憎しみが起こる。

妬みや敵対心、争いは、実はプライドから発生している。
プライドは神の中に自分の価値を見るのでなく、自分の能力や功績によって、自分の価値を量ろうとする。

それは順調に行っている時は、優越感に浸り、うまく行かないと劣等感に落ち込む。
プライドは優越感と劣等感を行き来して、心休まる時が無い。
一生平安と安堵の無い、虚しい人生だ。

パリサイ人は、徹底してプライドに生きた人達だ。彼らの正しい行ないの動機は、愛とあわれみではなく、プライドだった。

主キリストは、プライドとは何の関係もなく、徹底して愛とあわれみに生きられた。
様々な事態の中で、プライドが砕かれ、へりくだった者とされる。
主はご自分を無にしてへりくだって仕えられた。

私たちは自分で自分を無にする事も、砕く事もできない。
主の取り扱いだけが、自分を変えてくれる。今、問題があるだろうか。
プライドが砕かれるためではないか。 
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プライドのために、どれだけ傷つけ、傷ついているだろう。砕かれずに成長はあり得ない。
起こる問題の中で自分の内を照らされ、あいまいにせず主に明け渡していこう。


今日の聖人の記念日

2016年11月26日 14時18分15秒 | キリスト教

聖レオナルド(ポルト・マウリチオ)

1676年-1751年

 レオナルドは、イタリアの港町、ポルト・マウリチオの船乗りの家に生まれた。信仰深く育てられ、12歳でローマに遊学し、その後ローマ大学の医学部に進んだが、次第に修道生活への望みを抱くようになった。1697年、フランシスコ会に入り、1702年に司祭となったが、重病にかかり、回復は無理と思われていた。しかし奇跡的に回復し、以後44年間は、イタリア各地やコルシカ島を回ってたゆむことなく説教した。彼を動かしていた信念は、「キリストは私のために死なれた」ということであり、その黙想指導は、聖母への信心のため、ロザリオの祈りに始まり、十字架の道行(キリストの受難を黙想する祈り)を行なうことで閉じられた。彼は、多くの人びとを信仰に立ち返らせた。教皇ベネディクト14世に招かれ、ローマの諸教会で黙想を指導したときにはいつも超満員となり、屋外で説教をするほどだったといわれている。十字架の道行の信心を全教会に広めたのは彼の貢献によるものである。多数の説教・書簡集が刊行されている。

 最後まで宣教に身をささげ、休養するように勧める人びとに対して、「ひとつのミサは地上の宝より値打ちがある」といってミサをささげ、息を引き取ったといわれる。当代随一の宣教者と評された。

福者ヤコブ・アルベリオーネ司祭

1884年-1971年

 ヤコブ・アルべリオーネは、1884年4月4日、北イタリアのクネオ県、サン・ロレンツォ・ディ・フォッサーノの貧しい農家に生まれた。6歳のとき、小学校の先生から将来の夢をたずねられ、「ぼくは司祭になります」と答えた彼は、司祭になる道を目指して、1896年にブラの小神学校に入学した。しかし、悪い仲間が回した本のことがきっかけとなって、1900年に中退した。その後、その年の10月アルバの大神学校に入学した。

 19世紀の終わり、教皇レオ13世は「新しい世紀のために祈るように」と信徒たちに呼びかけた。1900年12月31日から1901年1月1日にかけての夜、神学生であったアルベリオーネは、アルバにある司教座聖堂で祈っていた。顕示された聖体から特別な光を受け、「みな、わたしのもとに来なさい」というイエスの招きと、新世紀の人びとのために何事かを果たさなければならないという義務を感じた。

 このインスピレーションの後、1907年に教区司祭になった彼は、当時教会に反対する人びとが出版によって自分たちの考えを広めていたことに注目し、メディアによって福音宣教する「聖パウロ修道会」を1914年に創立した。

 1915年にはテレザ・メルロの協力のもとに、「聖パウロ修道会」と同じ使命を持つ「聖パウロ女子修道会」、また1923年、祈りに献身し、司祭と聖体への奉仕につとめる「師イエズス修道女会」を創立した。その他に2つの女子修道会、4つの在俗会、協力者会を組織し、この10の会を「パウロ家族」と呼んでいる。パウロ家族は、道、真理、いのちである師イエスを人びとに告げ知らせることを使命としている。

 当時メディアによる宣教は、人びとから理解されなかった。しかし、精神的、経済的困難に直面しながらも、アルべリオーネ神父は祈りのうちに神と親しく対話し、神のみ旨だと分かれば、恐れることなく実行する勇気を持っていた。1923年、病に伏した彼に師イエスがあらわれ、「恐れることはない。わたしはあなたがたと共にいる。ここから、照らそう。悔い改めの心を持ちなさい」と言ったことばは、生涯、彼を力づけた。このことばは全世界のパウロ家族の聖堂に掲げられている。

 彼は、1962年から1965年に行われた第2バチカン公会議にオブザーバーとして出席した。「広報機関に関する教令」が発布され、メディアを宣教のために用いることを奨励したこの教令は、アルベリオーネ神父とパウロ家族の会員たちに大きな慰めを与えた。

 1971年に病状が悪化し、その年の11月26日、87歳で帰天した。

 2003年4月27日、教皇ヨハネ・パウロ2世によりバチカンの聖ペトロ広場で列福され、福者にあげられた。

 パウロ家族のメンバーは、彼の後継者として、世界で教会に奉仕している。




◆うなじのこわい者

2016年11月26日 14時17分02秒 | 聖書

責められても、なお、うなじのこわい者は、
たちまち滅ぼされて、いやされることはない。(箴言二九1)
ある時、私が大切にしていたつぼを娘が落として、粉々に割ってしまいました。娘は粉々になった破片を拾って、こうでもない、ああでもないと、くっつけていました。妻が「もうどうにもなりゃしないわ。早く掃いて、燃えないごみの中に捨てなさい」と、いとも簡単に言いました。私は、いささか未練がましくまだながめていたのですが、妻のことばにはっとしました。うなじのこわい魂の滅びの様に、思い当たったからです。
聖書中に、「陶器師の器が砕かれると、二度と直すことができない」(エレミヤ一九11)ということばがあります。いつまでもがんこに我を張りとおし、「ごめんなさい」とか「私が悪かった」と言えない魂。自己主張・自己満足でこりかたまった魂。――そんな魂が、何かのことでハンマーでがんとやられると、粉々に壊れて収拾がつかなくなってしまいます(もちろん、神のさばきの座の前では最後的な結末となるのです)。
しかし、神の細い声を聞き入れ、良心の責めることばで心を柔らかくする人は、柔らかく練られた粘土のように、神の愛の手の中で新しく造りかえられることができます。
ですから、ダビデは旧約聖書の中でこう歌いました。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇五一17)。
新約聖書の中で、パウロも言いました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント五17)。
 

◆あなたの手もとにあるなすべきことはみな、

2016年11月26日 14時16分26秒 | 聖書
自分の力でしなさい。(伝道者九・一〇)
「なすべきことはみな」というのは、私たちにとって可能な仕事を意味している。私たちは心で思いながら、決して実行しないものを多くもっている。心でしたいと思うことは結構である。しかし、もしさらに役立つ者になろうとするなら、心で計画したり、口で語ったりすることだけで満足してはならない。実際に、「なすべきことはみな」行わなければならない。
私たちは新しい機会を待ったり、他の仕事を求めたりせず、ただ日々私たちのなし得る仕事をしようではないか。私たちは今、ただ一つの時の中を生きている。過去は過ぎ去り、未来はまだ来ていない。私たちは現在以外のいかなる時ももつことはできない。だから、あなたの経験が熟するのを待ってから、神に仕えようなどと考えてはならない。今、実を結ぶように努めよ。今、神に仕えよ。しかし、あなたの手のなし得ることをする方法については、注意深くあれ。「自分の力でしなさい。」
あなたのわざを速やかになせ。明日の仕事を思い煩って、人生をむだに費やすな。今日の怠慢を明日の仕事で償おうなどと考えてはならない。翌日事を行って神に仕えた者は一人もいない。もし私たちがキリストに祝福されて御名をあがめるとするならば、それは今日私たちがなすことによってである。
キリストのためにどのようなことをするにしても、あなたのたましいのすべてをもってそれに打ち込め。気まぐれになされた小さな粗末な仕事をキリストにささげてはならない。あなたが主に仕える時、あなたの心とたましいと力のすべてをそれに傾けよ。
とはいえ、クリスチャンの力はどこにあるだろう。彼の中にはない。なぜなら彼は全く弱いからである。彼の力は万軍の主にある。だから主の御力を求めようではないか。祈りと信仰をもって前進し、自分の「なすべきことはみな」なして、主の祝福を待ち望もうではないか。このようにする時、私たちのなすことは失敗に終わることがない。
 

ヨブ記33章12-28節

2016年11月26日 14時10分51秒 | 聖書


33:13 「なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに神がいちいち答えてくださらないといって。
33:14 神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。」




 彼はヨブを非難します。

なぜあなたは、神が自分の語ることに答えてくださらない、返事をしてくださらないといって、神と言い争いをするのか、と。

なぜかと言うと、神様はいろいろな方法で答えてくださっているのであって、それはあなたも知っていることであろうというのです。

たとえば、それは、ヨブの友人たちの言葉を通して、答えてくれたものであるかもしれない。

あるいは、今私が語ることによって、答えてくださっているのかもしれない。

だから、神から直接の返事がないとしても、それによって神と言い争うような事をしないで、むしろ私の言葉を聞け、というのです。

誠にいろいろな事を、人はいいます。

しかしヨブにとっては、それらの言葉は、自分を芯から納得させるものではなかったのです。

だからこそ、彼は神からの直接の返事を求めたのです。



ヨハネの福音書10章27節

2016年11月26日 14時08分24秒 | 聖書


★わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

■O:今日のコラム
この時代において私達がイエス様に従い、命の道を生きる為の重要な教えが今日の御言葉に記されています。

1「わたしの声を聞き分けます。」 現代は様々な場所で「主は言われる。」「主が語られた。」と言う言葉を耳にします。勿論、主は私達に日々、そして瞬間瞬間に語られますが、時には「主が私にこれを語られた。」と聞く時に「本当にこれは主が語っておられる事なのかな?」と吟味が必要な内容があります。私達が預言を受けたり啓示を受ける事はとても素晴らしい事ですが。しかし、最も優れた預言と啓示は聖書の御言葉です。
骨董品を取り扱う人や銀行員が偽物や偽札を瞬時に見分けられる秘訣は毎日本物に触れているからです。私達が毎日本物の真理である御言葉に触れ、御言葉を通して主の御声を聞く時、私達ははっきりと主の御声を聞き分けられる様になるのです。御言葉の朗読を継続的に行い、「主の御声を聞き分ける霊的な耳をください。」と祈る時、主は日々、真実な御言葉を持って私達を養い、導いて下さいます。

2「わたしは彼らを知っています。」 この知るという言葉は原語によると「親密に知る」という意味があります。つまり私達が御言葉を聞く目的は、ただ私達の知識的に知り、思考が満たされる為ではなく、御言葉を通して私達が主イエスと人格的な交わりをし、その命に触れ、心の真ん中(至聖所)において主イエスとの親密な交わりに入る為なのです。

3「彼らはわたしについてきます」 主の御声を聞き、主との親密さの中に入った結果、私達は主の御声に従順する生き方へと変えられて行きます。主の御声に聞き従い、従順する事は。強制されてでも、恐れによってでもなく。主の深い恵みと親密な愛に入った者達が自発的に、自ら進んで行なって行く信仰の応答なのです。これら全ての祝福は主の御声を聞く事から始まります。今日もあきらめず主の御声を聞く為に、御言葉の朗読を続けて行きましょう。

■A:考えてみよう
毎日聖書を10章、御言葉の朗読を続けて行きましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


11月25日(金)のつぶやき

2016年11月26日 01時36分59秒 | キリスト教