座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。

2016年11月30日 17時37分22秒 | 聖書
それで、竜とその使いたちは応戦したが……。(黙示録一二・七)
二つの大いなる主権の間には絶えず戦いがあり、どちらかが打ち滅ぼされるまでこの戦いは続く。善と悪との間には平和はあり得ない。平和が来たように見えるならば、それは実際には、やみの力が勝利しているのである。ミカエルは常に戦う。彼の聖なる霊は罪を憤り、罪を許さない。
イエスは常に竜の敵であられる。イエスは静的な意味においてではなく、積極的に力強く、悪を根絶しようとする決意に満ちておられる。
すべての主のしもべは、天にある御使いでも、地にある使者でも、戦うのであり、また戦わなければならない。被らは戦士として生まれてきた。――十字架の下で、彼らは決して悪と休戦しないことを誓った。彼らは勇敢な仲間である。守る時は堅固であり、攻める時は勇敢である。主の軍隊のすべての兵士の任務は、日ごとに、全心全霊全力を傾けて竜と戦うことである。
竜とその使いたちは戦いをやめない。彼らは絶えず猛襲をくり返し、武器も手段も選ばない。私たちがもし何の反対も受けずに神に仕えることを期待しているとするならば、それは愚かである。私たちが熱心であればあるほど、必然的に地獄の軍勢の攻撃にさらされる。教会は怠慢になるかもしれない。しかし、教会の大敵サタンはそうではない。彼の気持ちは落ち着かず、決して戦いをやめない。彼は女のすえを憎み、教会をむさばり食うことを願っている。サタンの手下どもは、常に活動的である。戦いは至る所でなされ、平和を夢見ることは危険であり、無益である。
しかし、栄光神にあれ。私たちは戦いの結末を知っている。巨大な竜は投げ落とされ、永遠に滅ぼされる。主と主に伴う者は冠を受ける。
今夜、私たちの剣をとぎ、戦いのために腕を強くされるように聖霊に祈ろうではないか。この戦いほど重要な戦いはなく、この冠ほど栄光に満ちた冠はない。十字架の戦士よ。部署につけ。遠くないうちに、主がサタンを足下に踏みにじってくださいますように。
 

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、

2016年11月30日 17時36分31秒 | 聖書

神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」(Ⅰヨハネ5:14)

祈りは聞かれるが、聞かれない時は、「ノー」の答えか、あるいは尚も祈り続けよということだ。
ノーの答えの一つに、「動機」が間違っていることがある。

動機は非常に大切だ。動機が間違っていたなら、決して聞かれる事はない。
ある婦人が赤ちゃんが欲しいと神に願い祈っていた。
ところが、祈り続けるものの、幾ら祈っても祈っても答えがない。

与えられないと、ますます願望と執着は強くなり、委ねて行く事とは逆に向かい、どんな事をしても絶対に与えられなきゃ嫌だと思った。
しかし、余りの気持ちの強さに、このまま行けば、仮に与えてくれるなら、偶像でも何でもよいとまで行き着く事になると、愕然とした。

自分が神の上に立って、指図しようとしてる態度、何がなんでも、神から恵みをもぎ取ろうとしている、欲望のために神を利用する、恐るべき自分の姿に気づかされた。
号泣の中で心から悔い改めた。

何もかも神に明け渡し、心すっきりし、平安にされた。
もう子供はいいと思えた。
そう思えるほど、心が喜びと平安で満たされていた。

その後、御心のままにと委ねていたら、数年して、医師からは妊娠できない身体と言われていたのに、神は赤ちゃんを与えて下さった。

喜びであり感謝であったが、何よりも、いかに自我が強く、自己中心であるかを示され、気づけたこと、間違った心が正され、平安と喜びに満たされたこと、その事が感謝でならなかった。
神が取り扱って下さり、隔てが除かれ、神ご自身との交わりが何よりも喜びとされた、その事が嬉しかった。

-----------------
もし、祈りが聞かれなかったら、祈りの動機もよく探ってみよう。動機が間違っているなら、御霊が気づきを与え、祈りの軌道修正をして下さる。
そして、願い通りでなくとも、思いを越えた更に良きものを与えて下さる。


今日の聖人の記念日

2016年11月30日 07時16分53秒 | キリスト教

聖アンデレ使徒

1世紀

 アンデレは、ガリラヤのベツサイダの漁師であった。初め洗礼者ヨハネの弟子であった彼は、イエスが通りかかったとき、ヨハネが「見よ、神の子羊を」(ヨハネ1.36)と言ったのを聞き、その晩はイエスと過ごした。翌日、兄弟シモン・ペトロ(聖ペトロ)をイエスのところに連れていった。その後、ペトロと網を打っていると、イエスに呼びかけられ、2人は従った(参照 マタイ4.18-20、マルコ1.16-18)。

 イエスは、その後12人の弟子を選び、アンデレもその中に入った。聖書の中でアンデレが登場するのは、イエスが行なったパンを増やす奇跡の場面(ヨハネ6.8-10)などで、地味ではあるが、思慮深い性格が現われている。

 伝承によれば、イエスの昇天後ギリシャのパトモスで宣教し、そこでX型の十字架にかけられて殉教したといわれている。

 彼は漁師の保護者、またスコットランドの保護者とされている。特に東方教会では、特別な保護者として敬われている。


◆思  い  や  り

2016年11月30日 07時15分48秒 | 聖書

正しい人は
寄るべのない者を正しくさばくことを
知っている。
しかし悪者はそのような知識をわきまえない。(箴言二九7)
上に立つ人・人を治める人に欠くことのできない資格の一つは、人への思いやりです。
自分に反対する敵に対してさえ、王は、思いやりがなければならないと聖書は言うようです。イエス・キリストは、こう言われました。「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ五44―45)。
私たちは、目に見える区別にばかり気をとられます。金持ち・教養のある人・知恵のある人・力のある人、こんな人ばかりに注目します。そして、年寄り・女子ども・貧しい人・力のない人・知恵のない人を、見くだしたり無視したり忘れたりしやすいのです。
養わなければならない子どもを、やっかいがってはなりません。次の世代を構成する人たちです。老人――それは、何年か後のあなたなのです。
発想を換えてみてください。
死を前にして、神のさばきの前に立って考える時、私たち一人一人は何とむなしく弱くけがれた者でしょう。金や肩書きや免状などは、何でもありません。すべてが平等です。死よりも強い神の愛・神の力の前に、自分を置いてごらんなさい。一羽の雀すら野の一本の花すら、神のみこころによって歌い、美しく咲いています。まして、神に愛されていない人は一人もいないのです。上に立つ者は、すべての人に公平な思いやりがなくてはなりません。
 

◆アマツヤは神の人に言った。

2016年11月30日 07時15分03秒 | 聖書
「では、イスラエルの軍勢に与えた百タラントはどうしたらよいのか。」神の人は答えた。「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」(Ⅱ歴代二五・九)
この質問は、ユダの王にとって非常に重要なものと思われる。また試練に会い、誘惑にさらされているクリスチャンにとっても、おそらく、さらに重要なものであろう。金銭において損することは、どのような場合でも快いものではない。正しい目的の場合でも、肉はその犠牲をいつも喜んでささげるわけではない。「有効に使用できるものをなぜ失うのか。真理の価はあまりにも高すぎるのではないか。あの金を失えば、私たちはどうすればよいか。子どもたちや、少ない収入のことを考えたらどうだ」と。このようなことがクリスチャンを誘惑して、正しくないことに手を出させるのだろう。あるいは、重大な損失をもたらすことが明らかな時、良心的な行動をちゅうちょさせるのだろう。この問題を信仰の光に照らして見ることは難しい。イエスに従う人々にとってさえ、「私は生きなければならない」という原則が大きな比重をもっている。
「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」これは私たちの心配への完全な解答である。私たちの父は全世界の財宝の管理権をもっておられる。そして私たちが主のために失うものを、千倍にもして返される。主のみこころに従うのが私たちのなすべき分であり、従う時、主は必ず私たちのために備えられるのである。主は何びとに対しても債務者の地位には立たれない。
聖徒たちは、一粒の平安が一トンの黄金よりも尊いことを知っている。真実な心は、たとえ牢獄であろうと、神のほほえみさえあれば満足する。祝福に満ちたたましいは、宮殿にあっても神の不興にあえば地獄にいるように感じる。最悪の事態がやってこようと、すべての金銭を失おうと、私たちは自分の宝を失うことはない。神の右に座するキリストのもとにあるからである。現在においても、主は柔和な者に地を相続させ、正しく歩む者に良いものを拒まれることはない。
 

ヨブ記34章16-30節

2016年11月30日 07時13分34秒 | 聖書


34:24 「神は力ある者を取り調べることなく打ち滅ぼし、これに代えて他の者を立てられる。
34:25 神は彼らのしたことを知っておられるので、夜、彼らをくつがえされ
る。こうして彼らは砕かれる。」



 エリフは、ヨブが神の裁きにあっているのだと判断しています。

そして、神による裁きは、人がそのすべてを知り得ることではないので、人は自分の義をそこで立てることはできないと告げます。

神は人を取り調べなくても、そのすべてを知っておられるので、その人を討ち滅ぼして他の人を立てられる。

たとえ人はその人が正しいと思っても、神はそうは見ておられない。

だから、その扱いに人は驚くであろう。

しかし、神は人のすべてを知っておられるお方であるのだ。

そのすべてを知っておられる神があなたを裁き、あなたを苦しめておられるのだ。

そこには、神の側に不正があるのではない。

人は知らず、またヨブも語ろうとしないけれども、しかし神はすべてを知っておられるので、そのヨブの悪しきことを知られて、ヨブを裁いて苦しめておられるのだ、というのです。


ヨハネの福音書14章26節

2016年11月30日 07時11分40秒 | 聖書


★ しかし、助け主、すなわち、父がわてしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

詩篇92篇4~6節
★ 主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの見計らいは、いとも深いのです。まぬけ者は知らず、愚か者にはこれがわかりません。


■O:今日のコラム
しゃろーむ!11月29日の朝です。今日一日も、天のお父さん、イエス様、聖霊様を歓迎していきましょう。そして、主に感謝のほめ歌を歌い、言い表していきましょう。聖霊様が僕らに、天のお父さんとイエス様についての奥深すぎる御技を教えてくださるからです。

「主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表すことは。十弦の琴や六弦の琴、それに立琴によるたえなる調べに合わせて。」(詩篇92篇1~3節)


主のなさることは、人間には思いつくことのできない本当に不思議なことをなされていきます。その一つ一つには、ハッキリとした主の理由があります。目的があります。しかし、僕らには、その目的がわからず、なぜ、どうして、とつぶやいてしまうかもしれません。だから、聖霊様が必要です。

イエス様が十字架に架かられ、僕らの全てのマイナスを背負ってくださいました。そして、地に下られてから、3日目に復活されました。復活されたイエス様は、今も生きています。生きているイエス様が天に戻られたことで、今、僕らの内側には、助け主なる聖霊様が住んでくださっています。驚くべきことです。聖霊様は、「あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」のです。この御技は、人間的に考えると理解できない内容です。しかし、聖霊様は、イエス様を信じる信仰を僕らに与えてくださいます。すべてのことを思い起こさせてくださいます。

だから、聖霊様を歓迎していきましょう。聖霊様が自由に働いてくださるように、聖霊様の宮である僕らの内側を、イエス様の十字架による血潮できよめていきましょう。悔い改めへと導いていただきましょう。御言葉を朗読していきましょう。絶えず賛美を口ずさんでいきましょう。イエス様の御言葉を愛し、とどまっていきましょう。


■A:考えてみよう
主はあなたを喜ばせてくださいましたか?
主を喜び歌いましょう。
聖霊様を歓迎していきましょう。
聖霊様によって、御言葉を朗読していきましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


11月29日(火)のつぶやき

2016年11月30日 01時36分58秒 | キリスト教