座間コミニティー

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「片手に安楽を満たすことは、

2013年12月31日 20時38分38秒 | 聖書

両手に労苦を満たして風を追うのにまさる」伝道4:6

片手で満足できないで、両手を満たさなければ気が済まず、あれもこれも追いかけていると、まるで風を追うようだ。
決して満ち足りることない。
いつまでも満足と安らぎの無い人生になると言っている。
何もかもが欲しい、もっと手に入れたい貪欲の罪だ。
不足を見るのではなく、与えられているものを感謝して行くなら、両手に満たさなくても、片手で「幸せ」になれる。
あなたは幸せか。
心の内はどうだろう。今、不満だろうか。
何か不足感で悶々状態か。心満たされず、何か足らなくて、もっと得なければ、頑張らねばと懸命に走り回るが、やってもやっても足らない。
そこには永遠に満足は無い。そうでなく、視点を変えるのだ。
神を見、手に与えられているものを見る。
すると感謝が湧き、与えられている一つ一つが、こんなにも与えられている事に驚く。
満足と幸福感が来る。
片手で十分幸せだ。現状は全く同じなのに、不足感と満足感、この大きな違いは、心の問題であり、視点の問題だ。
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もっと、もっとと現状に満足せず走り回るのが美徳だと勘違いする。
今与えられているものをしっかり感謝して受けよう。
片手で十分だと示される。


◆刈り入れ時は過ぎ、

2013年12月31日 08時38分48秒 | 聖書

夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。(エレミヤ八・二〇)

救われない! 愛する読者よ。これがあなたの悲しむべき状態か。来るべきさばきが警告され、命がけで逃げよと命じられているこの時に、あなたは救われていないのか! あなたは、救いの道を知っている。あなたはそれを聖書の中で読む。あなたはそれが、講壇の上から話されるのを聞く。友人を通して、それがあなたに説かれる。それにもかかわらず、あなたはそれを無視しており、そのゆえに救われていない。主が生きている者と死んだ者とをさばかれる時、あなたは弁解のことばもないであろう。聖霊は、あなたがかつて聞いた説教のことばに多少でも祝福を与えられた。そして神のご臨在によってあなたが力づけられた時もあった。しかし、あなたはまだキリストなしである。
これらのすべての望みの多い季節は、来て、また去っていった。――あなたの刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。――しかしあなたはまだ救われていない。歳月は次々と来て、また去り、永遠に至る。そしてあなたの最後の年も、すぐにやって来るであろう。青年期は過ぎ、壮年期も過ぎようとしている。しかし、あなたはまだ救われていない。
私に質問させていただきたい。あなたは結局は救われるのか、と。そのような見込みがあるだろうか。最も幸運な季節はすでに去ったが、あなたはまだ救われていない。これから先、他の社会があなたの状態を変えるだろうか。あなたに対して尽くされた数々の手段は失敗に終わった。忍耐強く、この上ない愛情をもって尽くされた最善の手段が、失敗に終わったのである。
あなたに対して、これ以上いったいどうすればよいであろう。患難も繁栄も、あなたに何の印象も与えなかった。涙も祈りも説教も、あなたの荒れ果てた心にはむだであった。あなたが救われる可能性は、もうなくなってしまってはいないか。あなたは、死が希望の戸を永久に閉ざしてしまうまで、現状を続けるのではないか。このような想像から、あなたは後ずさりするのか。しかし、それは最も合理的な考え方なのである。何度となく入浴を拒んだ者は、結局最後まで汚れたままでいるのではないか。好機がこれまで決して来なかった人間に、どうしてこれから先、それが来ることがあろう。それが決して来ないとして恐れることは、論理的である。そしてあのペリクスのように、あなたは地獄に行くまで好機を見いだすことはないであろう。
おお、その地獄はどんなものか。そしてあなたが、まもなくそこへ投ぜられる恐るべき可能性について考えてみよ!
読者よ。あなたが救われないで死んだと想像してみよ。あなたの運命は、どのようなことばによっても描写することはできない。あなたの恐るべき状態を涙と血をもって書き、うめきと歯ぎしりをもって語れ。あなたは主の栄光からの、そして主の御力の栄光からの、永遠の破滅をもって罰せられるであろう。私は願う。主にある者としての私の声が、あなたを驚かせ、神の必要をあなたに悟らせるように。
おお、賢明になれ。遅くならないうちに……。そして新しい年の始まらないうちに、全く救うことのできるイエスを信じよ。この最後の時間を黙想のために聖別せよ。そしてもし、深い悔い改めの心があなたのうちに起こされればよい。そしてもしその結果、イエスにある謙遜な信仰に導かれるならば、それにまさるすばらしいことはない。あなたの罪が赦されないうちに、この年を去らせてはならない。真夜中の新年の鐘の音を、喜びのない霊の上に響かせるな!
今、今、今、信じなさい。そして生きなさい。
いのちがけで逃げなさい。
うしろを振り返ってはいけない。
この低地のどこででも立ち止
まってはならない。
山に逃げなさい。
さもないと滅ぼされてしまう。

 


◆祭りの終わりの大いなる日に、

2013年12月31日 08時37分55秒 | 聖書

イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ七・三七)

主イエスは全き忍耐を保ち、祭りの終わりの日に至るまでユダヤ人の心に訴えられた。同じようにこの一年の最後の日においても、主は私たちの心に訴えられ、私たちに恵みを与えようとして待っておられるのである。主が年々私たちのある者に対してなされる忍耐は、まことに驚くほかない。主は、私たちの挑戦、反逆、そして聖霊に対する反抗さえ耐え忍ばれる。私たちが、なおあわれみの国にいるということは、実に驚異中の驚異である。
あわれみはきわめて明白に表された。なぜなら、イエスは叫ばれたからである。主は単に声を大にされたというのではなく、優しく語りかけられたのである。主は私たちに和解を訴えておられる。パウロは「神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います」と言っている。なんという熱烈な、心に迫ることばであろう。主は罪人たちのために泣き、母親がその子どもを愛するように私たちを御胸に抱き寄せられる。主の愛のなんと深いことか。このような呼びかけに対し、心を動かさないでいられるだろうか。
備えは十二分になされている。人がたましいの渇きをいやすのに必要なものはすべて備えられている。贖いは私たちの良心に平安をもたらし、福音は私たちの悟性に豊かな教訓をもたらす。またイエスのご人格は、私たちの心に最も気高い愛の対象を刻み、イエスにある真理は、私たちの全人格に最も純粋な栄養を供給する。渇きは激しい。しかし、イエスはそれを取り去ることができる。イエスはたましいが全く飢えていても、それを満ち足らせてくださる。
この宣言は最も自由なものである。すなわち、渇いている者はだれでも歓迎するというのである。そこには渇いているという以外に、何の差別も設けられていない。それが貪欲、野心、快楽、知識、安楽などの渇きであろうと、渇いている者はすべて招かれているのである。渇きそのものは、悪いものであるかもしれない。そこには、恵みのしるしはいささかもなく、肉欲をさらに満足させようとする罪のしるしのみが見られるかもしれない。しかし、主イエスが招かれるのは、人のうちに美徳があるからではない。主は自由に、だれかれの区別なく招かれるのである。
また、イエスご自身のみもとに来るということが、ここにおいて明白に宣言されている。罪人はイエスのもとに来なければならない。善行や、儀式や、教理に来るのではなく、十字架上で自らのからだの上に私たちの罪を負ってくださった贖い主のみもとに来なければならない。血を流して死に、かつよみがえられた救い主は、罪人にとって唯一の希望の星である。ああ、一年の最後の日において、太陽が沈む前に今、イエスのみもとに行って、主から飲む恵みを得たい。
ここには待つことも準備することも言われていない。飲むことのためには、何らの資格も要求されていない。だれが飲んでもよいのである。品性が罪に汚れているということは、イエスを信じる上でいささかも妨げとなりはしない。私たちはこの水を飲んで渇きをいやすために、金の杯も、宝石を散りばめた杯も必要としない。貧しい者も、ただかがんで口を流れにつけさえすればよいのである。どんなに汚れたくちびるであっても、神の愛の流れに触れることができる。そのくちびるは流れを汚さないばかりか、かえってその水によって清められるのである。
イエスは希望の泉である。愛する読者よ。優しい贖い主が、私たち一人一人に向かって叫ばれる愛の御声を聞け。
「だれでも渇いているなら、
わたしのもとに来て
飲みなさい。」

 


士師記18章14-20節

2013年12月31日 08時34分57秒 | 聖書

18:19 彼らは祭司に言った。「黙っていてください。あなたの手を口に当てて、私たちといっしょに来て、私たちのために父となり、また祭司となってください。あなたはひとりの家の祭司になるのと、イスラエルで部族または氏族の祭司になるのと、どちらがよいですか。」
18:20 祭司の心ははずんだ。彼はエポデとテラフィムと彫像を取り、この人々の中に入って行った。


 彼等は北上する旅の途中で、ミカの家に寄りました。

そしてミカの家に彫像やエポテなどがあることを知っていましたから、先にこの所に寄った5人は、ミカの家からそれらの物を黙って奪い取ってしまいました。

またその時に、ミカの家にいた若者の祭司に向かって、私たちについてきて私たちの祭司になってはどうかと提案しました。

1つの家の祭司であるよりも、1部族の祭司となった方が得策であろうと伝えたのです。

彼そのことに喜びました。

そして彼は、そのままダン族について行きました。

 ミカが勝手にたてた祭司であったために、その人もまた勝手な行動にでたのでした。



マラキ書3章2節(ヨハネの黙示録21章)

2013年12月31日 08時33分02秒 | 聖書

★  だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。

■O:今日のコラム

イエス様は、恵みとまことに満ちておられる方です。

2000年前に誰一人さばくことなく、恵みを注ぎに来られた方は、今度はさばき主として来られます。

恵みの後にはまことなのです。

モーセの幕屋を見ても分かりますが、主は、いけにえによって受け入れてくださいますが、その後にはきよめがなければ先へは進めません。

私達も、神の子羊イエス様という、いけにえによって受け入れられてから、先へ進むには、きよめられなければならないのです。主の御心は、私達がきよめられることです。

きよめは、共同作業です。主の力が私達をきよめ続けてくださいますが、私達が拒むなら、そのきよめは遅々として進みません。

主は強制的に私達をご自分のものとはされません。私たちを尊重してくださっているからです。私達がきよめられることを願い、神の力が注がれて事はなされていきます。

このきよめは、大きく分けて2種類あります。それは、精練する火と布をさらす者の灰汁です。

精錬は不純物を取り除くことです。灰汁で漂白するなどやった人は現代の日本にはいないでしょうが、真っ白に汚れを取り除くことです。言い換えるなら、純粋さという清さと、汚れない神の性質という聖さです。 

今、神は、恵みの時代に終止符を打とうとしておられます。それはさばき主として再び来られる日が近いということです。だから主の御手は、いま急速に私達をきよめようとしておられる状況であると信じます。

主に対してより純粋に求める事を願うなら、それは急速になされるでしょう!

自分の所有権を完全に主に明け渡し、神の所有であることを認めるなら、そのことは急速にかなっていくでしょう! 今がその時だからです。

主が再び来られるその時は、傷もシミもシワもないキリストの花嫁が建て上がる時です。

■A:考えてみよう

自分の成功、自分の快楽に目を向けず、純粋に主を慕い求める心を、絶えず主の御前に捧げましょう!

自分自身を生きたきよい供え物として捧げ、『私の全てはあなたのものです。』という告白と心をもって一日を過ごしましょう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


◆その果ては、

2013年12月30日 08時42分21秒 | 聖書

ひどいことになるのを知らないのか。(Ⅱサムエル二・二六)

読者よ。もしあなたが、ただの自称信者であって、キリスト・イエスにある信仰をもっていないならば、次に述べるのが、あなたの終局の真の描写である。
あなたは礼拝に忠実に出席する。あなたの心が神と共にあるから出席するのではなく、他の人々が行くからあなたも行くのである。これがあなたの振り出しである。次の二十年か三十年、今のような状態が続くとしよう。外見は集会に出席して信者らしく見せかけているが、心は真の信仰をもっていない。
静かに聞いてほしい。あなたに、あなたのような人の臨終の床の有様を見せなければならないからである。彼の額は汗にぬれている。彼は目を覚まして叫ぶ。「神よ。死ぬのはつらいことです。……牧師を呼びに行ったか。」「はい。今来られます。」牧師が来る。「先生。私は死ぬのが恐ろしいのです。」「希望がないのですか。」「希望をもっているとは言えません。神の前に立つのが恐ろしいのです。ああ、どうか私のために祈ってください。」彼のために熱心な心からの祈りがささげられ、救いの道が何度も彼の前に示される。しかし、救いの綱を握らないうちに、私は彼が沈んでいくのを見る。その冷たくなったまぶたの上に、私は自分の指を置く。そのまぶたは、もう決してこの地上のものを見ることがないからである。その男はどこにいるのか。そして、その男の真の目はどこにあるのか。「ハデスで苦しみながら目を上げると……」とある。
ああ、なぜもっと早く目を上げなかったのか。それは、福音を聞くことに慣れきって、たましいがその下で眠っていたからである。ああ、もしあなたがかしこで目を上げることになるとすれば、あなたの嘆き、悲しみはどれほどであろう。それを救い主のみことばによって表そう。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」
どうかあなたが神の御怒りのもとで、このことばを発することが決してないように。

 


◆事の終わりは、

2013年12月30日 08時41分20秒 | 聖書

その初めにまさり……。(伝道者七・八)

ダビデの主を仰ぎ見よ。その初めがどうであったかを思え。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」あなたはその終わりを見るか。主は父なる神の右に座し、その敵を足台にしようとしておられる。「私たちもこの世にあってキリストと同じような者である」なら、当然十字架を負わなければならない。そうしなければ、決して冠を得ることはできない。あなたが泥の中をはって進むのでなければ、決して黄金の大通りを歩むことはできない。それゆえ、クリスチャンよ。雄々しかれ。「事の終わりは、その初めにまさり……」とある。
うごめく毛虫を見よ。なんと卑しい姿だろう。それが事の初めである。しかし、あの目の覚めるような羽をもち、日光の中にたわむれ、花の杯より蜜を吸い、幸福といのちに満たされている蝶を見るがよい。それが事の終わりである。あなたは死のさなぎになるまでは毛虫なのである。しかし、キリストが現れたなら、キリストのありのままの姿を見るので、キリストに似た者となる。主に似た者となることを覚えて心を安んぜよ。あなたが目を覚ますその時には、主のようになっていることを見いだして満ち足りるであろう。
天然のダイヤモンドは、研磨機にかけられてその全面を削り取られ、一見貴重と思われる部分までも失わなければならない。王の戴冠の際には、喜びのラッパとともに王冠が王の頭上に置かれ、その冠からはまばゆいばかりの光が輝く。しかしその光は、直前まで研磨機によって悩まされ痛めつけられていたあのダイヤモンドから出ている。このダイヤモンドに、あなた自身をなぞらえてみるがよい。あなたは神の民の一人であり、今は玉を磨く時なのである。信仰と忍耐をもって待て。王冠が永遠不朽の王の頭上に置かれるとき、一条の栄光の光があなたからも流れ出るであろう。
「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。」まことに「事の終わりは、その初めにまさる」のである。

 


士師記18章7-13節

2013年12月30日 08時40分02秒 | 聖書

18:7 五人の者は進んで行って、ライシュに着き、そこの住民を見ると、彼らは安らかに住んでおり、シドン人のならわしに従って、平穏で安心しきっていた。この地には足りないものは何もなく、押さえつける者もなかった。彼らはシドン人から遠く離れており、そのうえ、だれとも交渉がなかった。


 5人の人々は、土地を探るために北部に行きました。

そしてライシュという所に来ました。

そこの地には何も足りない物がなく、また他の支配者がその地に住む人々を支配していることもありませんでした。

人々は他の民から干渉されることがなかったために、平穏に暮らしていました。

 偵察に行った人々は、元の所に戻って、その地のことを報告しました。

その地が広々として足りない物がなく、また誰もその地に干渉する人がいないと語りました。

また、自分たちがそこを攻め入って、自分たちの住むべき地としようと提案しました。

 彼等の報告を受けて、600人の武器を持つ者が遣わされ、その地に向かいました。


ヨハネの黙示録20章12、15節(マラキ書2章)

2013年12月30日 08時38分15秒 | 聖書

★黙20:12  また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それらは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
   
★黙20:15  いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

■O:今日のコラム

最近、伝道に開かれているということを何人かの方から聞きました。開かれた天があり、油注ぎをもって御国の福音があかしされていることを感謝します。

個人的なことですが、私も先日、兄に会ってイエス様を伝える機会が与えられました。会う前、聖霊さまが語るべきことを語ってくださるように祈りました。
   
その中で兄ちゃんがこのまま好き勝手な道を歩き続けていったらその先は滅びであることと、イエス様がいのちに至る道を開いてくださり、他のどんな神でもなくイエス・キリストだけに救いがあるということをはっきりと伝えました。

無宗教でどんな神を信じていても構わないと言う兄にとっては、いかにも耳障りで聞き心地の悪い排他的なものだったでしょう。案の定、聖書を知らない人に始めからそんな風に言ったらだめだよと、逆にダメだしをもらってしまいました。

しかし、その後の兄との関係がどうなってもいい、むしろ大好きだからこそ本当のことを知っておいてほしいと思っていましたから、時が良いかどうかに関わらず、オブラートに包むのではないストレートな信仰の種を蒔けたことを主に感謝しています。主が来られる日が近いからです。

■A:考えてみよう

神さまの御座に開かれた数々の書物とは何でしょうか。

知恵の書、才能の書、成功の書、良い行いの書、富の書、などなど色々とあるかもしれませんね。
そこに名が記されているなら誰でも誇らしく思うでしょう。

しかし残念ながらそれらは、第二の死を免れるチケットとはならないのです。
大切な事はいのちの書に名が記されているかどうかです。

イエス・キリストの救いをまだ知らない人たちに伝え、蒔かれた種が良い地に落ち耕され芽を出し実を実らせるように熱心に祈りましょう。

■P:祈り

■P:祈り

主の御名をほめたたえます。

愛する家族、友人、職場の人、自分と関わるすべての人々がイエス様を信じいのちの書に名が記されますように。
   
人生のあらゆる機会を用いて個人的にイエス様と出会わせてください。
私たちが人々のために手を置いて祈るとき、癒し解放がなされ神さまの栄光、神さまが生きていることを知ることができるように祝福してください。
   
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


士師記18章1-6節

2013年12月29日 09時37分49秒 | 聖書

18:2 そこで、ダン族は、彼らの諸氏族全体のうちから五人の者、ツォルアとエシュタオルからの勇士たちを派遣して、土地を偵察し、調べることにした。それで、彼らに言った。「行って、あの地を調べなさい。」彼らはエフライムの山地のミカの家に行って、そこで一夜を明かした。


 イスラエルの部族の内、ダン族は自分たちの土地を持っていませんでした。

以前、彼らはヨシュアによって相続地を割り当てられていたのですが、その地
を戦い取ることが出来なかったのです。

 そこで彼等は、まだ知られていない土地に行って、自分たちが住むべき地を得よう思いました。

そこで5人の偵察隊を遣わして、土地を調べさせました。

彼等はその土地を探しに出かけた時、ミカのいる所に来ました。

そして、そこで祭司として働いているレビ人の若者に出会いました。

彼等はこの若者に向かって、自分たちの旅が成功するかどうかを主に伺ってくれと要請しました。

彼はその願いを聞いて、主が彼等の旅を認めてくれていると答えて、彼等に安心感をもたせました。


◆ここまで主が私たちを助けてくださった。

2013年12月29日 09時34分56秒 | 聖書

(Ⅰサムエル七・一二)

「ここまで」とのことばは、過去のすべてを指すように思われる。二十年あるいは七十年の間、それぞれ「ここまで主が私たちを助けてくださった」のである。貧しい時、富める時、病気の時、健康の時、国内で、外国で、陸上、または海上において、名誉の時、不名誉の時、当惑の時、喜びの時、試練の時、勝利の時、祈りの時、誘惑の時において「ここまで主が私たちを助けてくださった」のである。
並木道の端から端までの長い景色をながめるのは楽しい。それは、枝の柱、葉のアーチでできた緑の宮である。あなたも過去の長い年月を振り返り、その頭上をおおうあわれみの緑の大枝、あなたの喜びを支えるいつくしみと誠実の強い幹を見よ。かなたの枝には多くの小鳥がいて、みな「ここまで」受けたあわれみについて歌っているに相違ない。
しかし、このことばはまた前方をも指し示している。なぜなら人がある目標まで来て、「ここまで」と書く時、まだ終点まで来ているのではなく、なお進むべき道のりをもっているからである。なお多くの試練と喜び、誘惑と勝利、祈りと応答、労苦と支え、戦いと凱歌を経験してから、病気、老衰、そして死が訪れる。
それで終わりであろうか。否、まだ先がある。イエスに似た者になって目を覚まし、御座に着き、たてごとをとり、賛美し、白い衣をまとい、イエスの御顔を拝し、聖徒と交わり、神の栄光を受け、永遠の満たしを与えられ、無限の祝福にあずかる。
おお、信者よ。勇気を出せ。そして感謝に満たされ、確信をもって「エベン・エゼル」と呼べ。なぜなら、
 これまであなたを助けられた方は
 あなたが旅を終えるまで伴ってくださる
からである。
天国の光に照らして見る時、あなたの「ここまで」はなんと輝かしく、またなんと驚くべき前途の眺望を、あなたの感謝に満ちた目の前に展開することであろう。

 


◆わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。

2013年12月28日 16時23分54秒 | 聖書

わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

(マタイ一〇・三四)

クリスチャンには必ず敵ができる。一人も敵を作らないことがクリスチャンの目的の一つであるが、もし正しいことをし、真実を信じようとするならば、この地上の友をすべて失うことになる。クリスチャンはそれを、小さな損失と見る。なぜなら、天におられる大いなる友がさらに親しいお方となり、これまで以上に、さらに恵み深くご自身を啓示されるからである。
おお、主の十字架を担う者よ。あなたは主が言われたことを知らないのか。「わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」キリストは、平和を作り出す偉大なお方である。しかし平和に先立って、戦いをもたらされる。
真理のあるところ、偽りは逃げ去らなければならない。真理はその標準を下げることができないし、虚偽を足下に踏みつけなければならない。もしあなたがキリストに従うならば、世俗の犬がみなあなたの後ろからほえつくであろう。あなたが、最後の審判の法廷のテストに耐え得る生活をしようとするならば、この世は必ず、あなたのことをよく言わないであろう。この世と親交ある者は、神に敵対している。もしあなたが、いと高きお方に対して真実であり忠実であれば、人々はあなたの断固たる誠実に対して怒りを発するであろう。なぜなら、それは彼らの悪に反対する証しだからである。
しかしあらゆる結果を恐れずに、あなたは正しいことをしなければならない。真理のためには自分の名声と骨肉への愛すら危険にさらすが、このような危機と対決するには、あなたのうちに聖霊のみが作られる節操を絶えず必要とする。
雄々しく、主の御足の跡に従え。なぜなら、主はあなたに先立ってこの険しい道を行かれたからである。しばしの戦いの後、永遠の安息を得るのは、偽りの平和と永遠の呵責にはるかにまさる。

 


◆勤勉な家庭のマネージャー  Ⅱ

2013年12月28日 08時57分27秒 | 聖書


(箴言三一13―19)

すばらしい妻の第二点、忠実で勤勉な家庭の管理者について、もう一度学びましょう。ここでまず気がつくことは、よい妻が、自分の欲望の満足とか名誉のために損得で働いているのではないことです。
私たちが持っているもので、受けなかったもの、神から与えられなかったものは何一つありません。ところが私たちは、できるだけ自分のものだと主張し、自分のために用いようとします。自分が、自分のために、自分によってが、私たちの哲学のようです。戦争のような大きな罪も、人殺しのような残忍な罪も、また、そんなはっきりした形をとらない、私たちの間のもやもや・不調和・争い・不作法・ねたみ・そねみ・さいぎ心・疑い・裏切り・悪口も、みなこのエゴイズムが原因となっています。
よい妻は、家庭の中でエゴイズムの自分を主張しません。自分の夫も子どもたちも使用人も、家畜も畑も家屋も、全部神から預けられたものとして、忠実に守り、育て、あるいは使います。みなの平和と幸福と成長という目的に従い、自分は家庭の管理者として、ただ、勤勉な仕える人となろうとしています。
ですから、人に仕えられようとせず、自分から率先して働きます。朝早く起き、夜おそくまで勤勉に働きます。夫や子どもはもちろん、使用人の一人一人や家畜にも気を配ります。冬が来る前に冬の準備をし、破れてだめになる前に、家族の着物を整えておきます。子どもたちが、やはり同じように、神からいただいた人生のよい管理者になるように、助け育てていくのです。
「こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます」(Ⅰコリント四1―2)。