座間コミニティー

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◆アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、

2016年03月31日 15時57分07秒 | 聖書
それを岩の上に敷いてすわり、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。(Ⅱサムエル二一・一〇)
 
殺された息子たちに対する一人の女の愛が、かくも長い間悲しみの徹夜を続けさせたとすれば、私たちが尊い主のお苦しみを思うことに飽きるようであってよいであろうか。彼女は猛鳥を追い払ったのに、私たちは、自分の心を汚し、黙想の主題を汚す世的な罪深い思いを自分のうちから追い払わなくてもよいものであろうか。妄想雑念の鳥よ、去れ。ささげものを汚すな。
彼女は夏の暑さと夜の雨露とを受けて戸外で過ごした。眠りは彼女の泣きはらした目から去り、彼女の胸は少しもまどろむことがなかった。見よ。彼女がいかに子どもたちを愛していたかを。リツパはこのように耐えていたのに、私たちが些細な不都合や試みに驚いていてよいだろうか。主と共に苦しむことができないほど私たちは臆病でよいのか。
彼女は勇気をふるって野獣すらも追い払った。私たちはイエスのために、すべての敵と戦う準備ができていないのか。この息子たちは、彼女にではなく、他の者の手によって殺された。にもかかわらず、彼女は泣きながら見守った。では、自分たちの主を自らの罪によって十字架につけた私たちはどうすればよいのか。
私たちの義務は無限であり、愛は熱烈であり、悔い改めは徹底的でなければならない。主と共に目を覚ましていることが私たちの務めであり、主の誉れを守ることが私たちの仕事であり、主の十字架の下にいることが、私たちの慰めでなければならない。死体は、特に夜など、リツパを恐れさせたことであろう。しかし、主の十字架の下に座す私たちにとって、いやなものは何もなく、心を引きつけるもののみである。十字架上の救い主は生ける美の極みであられる。
イエス様。私たちはなおしばらく、あなたと共に見張りをいたします。すると、あなたはあわれみによってご自身を現してくださいます。その時、私たちはもはや荒布の下に座らず、王の幕屋の中に座するのです。
 
 
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今日の聖人の記念日

2016年03月31日 07時18分52秒 | キリスト教

聖バルビナおとめ

2世紀

 バルビナは、ローマに生まれた。父クイリノはローマの職業軍人であった。バルビナは、美貌と才能に恵まれ、結婚の申し込みが多かったが、あるとき顔に腫瘍ができて以来治らず、醜い容貌となってしまった。

 途方にくれていた親子は、キリストとその弟子たちの行っている奇跡を知り、バルビナの病気が治るならば家族でキリスト信徒になることを誓った。

 そのころローマは、皇帝ハドリアヌスのキリスト教迫害下にあり、教皇アレクサンデルも牢獄につながれていた。クイリノはバルビナを連れて牢獄を訪ね、教皇とともに神に祈ると、バルビナの顔はもとの美しい顔に戻った。家族はすぐに洗礼を受け、キリストの宣教に力を注いだ。バルビナは、キリストに生涯をささげたいと願い、終生独身を守ることを決意し、貧しい人々や、苦しむ人々の助けに力を尽くした。

 しかし迫害の手を逃れることはできず、法廷に連行された父とバルビナは、信仰を守りぬき殉教した。信徒たちは、彼女を記念してローマのアヴェンチノの丘に聖堂を建てた。

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◆正しい者の祝福

2016年03月31日 07時17分11秒 | 聖書

正しい者の頭には祝福があり、
悪者の口は暴虐を隠す。      (箴言一〇6)
 
暴虐と祝福、何というコントラストでしょう。
自分の運転手を次々と殺して保険金をごまかしていた会社社長の犯罪が、新聞に出ていました。海に連れていき、酒を飲ませて水の中で殺し、事故に見せかけたのです。ブラジルまで逃げて、とうとう警官隊に射殺されました。
暴虐な世相になってきました。自分の子を伸び伸び遊ばせられないような寂しい冷たい世の中です。
しかし私は、あるクリスチャンを知っています。その人は、金持ちでも有名でもありません。小ぢんまりした家に住んでいます。ところが、近所の人は、悩み事があるとこの家を訪ねていきます。この人の前に出ると、何でも打ち明けられるのです。話をよーく聞いてくれます。いけないことは、それはいけないとはっきり言ってくれるけれど、励まして自信を持たせてくれます。相談に来た人は心の重荷がおりて、ほっとして帰っていきます。まわりの人は、この家を尊敬をもって見ています。この家から祝福が流れてくるからです。神がその方の頭に祝福を注ぎかけ、その祝福が流れ出して、ご近所の人々までうるおしています。
神は、あなたを祝福の泉とされたいのです。そのためにイエス・キリストは十字架にかかり、あなたの罪をゆるされました。そのために、イエス・キリストはあなたを造り変えてくださいます。あなたを祝福のもとにし、神の国の仕事のため有用な存在とするために、生まれ変わらせてくださるのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント五17)。
 
 
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◆彼の打ち傷によって、

2016年03月31日 07時16分14秒 | 聖書
私たちはいやされた。(イザヤ五三・五)
 
ピラトは主を兵士に渡してむち打たせた。当時ローマのむちは最も残酷な拷問に使われた。それは牡牛の皮で作られ、あちこちにとがった骨が入れてあるので、打ち下ろされるたびに、骨の小片が恐ろしい裂傷を与え、肉を骨からむしり取るのであった。救い主はもちろん柱に縛りつけられて、このようにむち打たれたのである。主はその以前にもむちで打たれたことがあった。しかしおそらく、このローマの兵士のものが、一番耐えがたかったであろう。私のたましいよ。ここに立ち、打たれた救い主のおからだのために泣け。
主にあるたましいよ。イエスがあなたの前に苦悶という愛の鏡を立てられる時、あなたは涙なしにイエスを直視することができるだろうか。純潔なゆりよりも美しい主が、ご自身の鮮血のために、ばらよりも赤くなられたのである。イエスがむち打たれたことによって、祝福に満ちたいやしが与えられたことを感じる時、私たちに愛と悲しみが共にわくのではないか。もし私たちが主を愛しているならば、今主の燃えるような愛を感じなければならない。
 見よ。忍耐深い主がいかに立たれるかを
 見よ。主は侮辱の極みを受けられた
 罪人らは全能なる主の御手をしばり
 造り主である主の御顔につばきした
 主の額には深くいばらがくい込み
 傷口より真紅の血がほとばしる
 背に鋭いむちを受けられたが
 そのむちが主の心を引き裂いた
一室に閉じこもって、私たちは泣いていたい。しかし日々の仕事をもっている。それなら、主が血潮を流された御姿が心に深く銘記されるように祈り、夕べには主との交わりのために帰り、私たちの罪が主をお苦しめしたことを思って嘆こう。
 
 
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第2歴代誌32章24-26節

2016年03月31日 07時14分48秒 | 聖書


32:24 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかったが、彼が主に祈ったとき、主は彼に答え、しるしを与えられた。
32:25 ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。



 ヒゼキヤ王も、重い病にかかりました。

彼の死の15年ほど前のことです。

彼は主に助けを求めて聞き入れられて、命は長らえさせられました。

ところが、こうしたことで、彼の心は高慢になりました。

自分はすごいと思ったようです。

彼は、病の回復を祝って使わされてきたバビロン王の使者に、自分の宝物が入った倉を見せて自慢しました。

神の恵みを、自分の権力の印としたのです。

 その結果、神の怒りが彼の上に告げられ、後に、宝物がバビロンに移されること、子供も捕虜となること、それらのことがイザヤによって告げられました。

ヒゼキヤは、聞いて恐れ、自らその高慢さを悔い改めました。

 ヒゼキヤも完全な人ではありません。

いつでも罪を犯してしまいます。

ですから、人にはいつも注意がいるのです。

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出エジプト記40章33~35節(出エジプト記39章)

2016年03月31日 07時12分30秒 | 聖書


★『また、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。
そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。』


■O:今日のコラム
シャカイナ・グローリーというと、ソロモン神殿完成時が有名ですが、元祖はこちらです。モーセの幕屋の完成時にもシャカイナ・グローリーが起きました。
 幕屋とは、ヘブル語で『臨在が住まう(ここでは『とどまる』と訳されている)場所』という意味なのです。幕屋の本来の目的が達成された訳です。
 現代において主の臨在の住まわれる場所はどこなのでしょう?それは、神の家である教会と私たち自身です。ペテロは自分の体の事を『幕屋』と呼んでいます。
 私たちにも住む家があります。居心地の良い家はノビノビと住むことができます。それは主にとっても同じことです。主はご自身の憩いの家を探しておられます。

『主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。』(イザヤ66:1)

 この40章全体を見てみるとモーセの幕屋は、内側から外側に向かって建て上げられていっていることが分かります。私たちは外側から整えたがります。しかし主は内側から建て上げていきたいのです。
これは自分自身のチャレンジでもありますが、内側から湧き出る、御霊によって私たちに注がれている愛を行動のモチベーションにする事です。特に男性は頭で考える理論を行動のモチベーションにしやすいです。確かに論理的で無駄が無いでしょう。しかし、自分の頭で考える論理が生き方を主導するなら、人生は無味乾燥でいのちの無いものになってしまうでしょう。
 私たちの心を御霊が導いてくださる事を信じておられるでしょうか?心の奥底に宮を設けておられる御霊は、私たちの心を導いて、神の愛によって生きることを教えてくれます。

 『どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。』(2テサロニケ3:5)

 イスラエルの民は祭司アロンの裁きの胸当てに入っていた『ウリム』と『トンミム』によって民の方向性を決定していました。
新約の時代では、みなが祭司であり、この胸には義の胸当てが置かれています。(エペソ6章)そしてこの義の胸当てには、2つのものが備えられています。それは、愛と信仰です。

『 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。』(1テサロニケ5:8)

 愛によって働く信仰だけが大切なのです、と言ったパウロの言葉は真実です。この心を愛によって働く信仰によって導いていただいて、考え方はそれを支えるのです。体はそれを行うのです。
 これはつまり第一の戒めなのです。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ、です。この順番は重要なのです。


■A:考えてみよう
愛によって働く信仰によって行動する。

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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3月30日(水)のつぶやき

2016年03月31日 01時42分35秒 | キリスト教
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◆私たちの道を尋ね調べて、

2016年03月30日 18時06分40秒 | 聖書
主のみもとに立ち返ろう。(哀歌三・四〇)
 
旅にある夫を優しく愛する妻は、その帰りを待ちわびている。主人と長く別れていることは、彼女のたましいにとって死に等しい苦痛である。救い主を愛するたましいにとっても同様である。彼らは主の御顔を見なければならない。主が険しい山々に出て行かれて、二度と彼らと交わりをされないのは、彼らには耐えられない。優しい父を怒らせることを恐れ、その笑顔を見る時にだけ幸福を感じる子らにとって、叱責のまなざしや上げられた手は悲しいのである。
愛する友よ。あなたもかつてはそうであった。聖書の一節、脅し、苦難のむちのために、「なぜ私と争われるかを、知らせてください」と叫びながら、父なる神の足もとに走った。あなたは今もそのようであろうか。それとも遠く離れてイエスに従うことで満足しているか。キリストとの交わりが中断されていても、平気でいられるのか。あなたが主と反対の方向を歩いているため、愛するお方が次第に遠ざかっていかれるのに耐え得るのか。あなたの罪があなたと神との間を隔てているのに、心の平安を得ることができるのか。
あなたが救い主の御顔を見なくても満足しているとは、悲しむべきことである。十字架の私たちの救い主の御顔を見なくても満足していることは、悲しむべきことである。私たちのために死なれた救い主に対してほとんど愛をもっていないこと、私たちの尊いイエスに対してほとんど喜びをもっていないこと、神の愛される御子とほとんど交わりをもっていないこと、これらがいかに悪いことであるかを感じるように努めよう。
自らの心がかたくななのを嘆き、たましいの中で真の受難節を守れ。悲しむだけでやめてはならない。あなたが初めて救いを受けた場所を思い出せ。ただちに十字架に行け。そこにおいてのみ、たましいは生かされる。いかに無感覚であり、また死んでいても、ぼろをまとった、貧乏な、汚れたままで、再び行こう。十字架を抱き、主を見つめ、血の泉にひたろう。そうすれば、私たちは初めの愛に帰り、単純な信仰と優しい心とを取り戻すことができるであろう。
 
 
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「しかし、驚くには及びません。

2016年03月30日 18時05分46秒 | 聖書

サタンさえ光の御使いに変装するのです」(Ⅱコリント11:14)

サタンの特に巧妙さは、誘惑する時に、神に変装する事だ。神に見せかける、正しい、麗しい事に見せかける。
目的のために、手段を正当化させてしまう。
目的が正しいのだから、どんな手段でも構わない、目的さえ達成すればよいのだと誘惑して来る。
子供のためだと思い、親のエゴを平気で突き進める。
家族に楽をさせるためだと、金銭的に、貪欲に誤った方向に走ってしまう。
間違ってはいけない。これはサタンの誘惑であり、攻撃を受けている。
神は目的も手段も、きよい正しい事をされる。
神は人に自由意志を与えられた。この自由意志は、神もサタンも関与できない。
サタンはこの自由意志に触れる事ができず、強制する事が不可能なので、巧妙な手段を取る。
何度も何度も、繰り返し、繰り返し、執拗に誘惑する事によって、いつしか罪に引き込んでしまうのだ。
絶えず、絶えず欲望をかき立てられ続けるなら、必ず行動に至ってしまう。
必至だ。人は見続けている事を必ず行動に移す。
私たちを神から引き離そうとしている、サタンが絶えず鵜の目鷹の目で、獲物を狙っている事を、片時も意識から離してはならない。
悪魔が「策略」を持って、臨んで来ている事に心していよう。
今、偽装光の御使いからの誘惑が来ているだろうか。
御霊の光が気づかせてくれる。
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悪ならすぐにわかるが、良い事をもって、神から離す。
サタンの偽装をわきまえていよう。
神から離せばよいので、善でも悪でも構わないわけだ。御霊が気づかせて下さる。祈っていよう。

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今日の聖人の記念日

2016年03月30日 06時53分28秒 | キリスト教

聖ヨハネ・クリマコ修道者

570年ごろ-649年

 ヨハネは、パレスチナで生まれた。16歳のときに、シナイ山の修道院に入った。ヨハネは体こそ弱かったが、マルチリオ修道士の指導のもと、忍耐と謙遜をもって修道院の規則に従い、人一倍勉強をし、神への追従に努めた。その後、恩師であるマルチリオの勧めに従ってシナイ山麓に小屋を建て、独居生活を始めた。そこで黙想、苦行、労働を行ない、徳を磨いていき、多くの人々に影響を与えた。

 その後、シナイ山の修道院の修道者たちに推薦され、修道院長となった。彼は、『天国への梯子』という本を著わした。(ギリシャ語で梯子を「クリマコ」という。)本の内容は、イエスが洗礼を受けた年齢(30歳)にちなんで30の段階に分けられ、聖化の過程が示されている。自らの体験や他のすぐれた聖人たちの言葉が引用されており、後代に大きな影響を与えたといわれている。

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◆時を惜しんで働く人

2016年03月30日 06時52分26秒 | 聖書

夏のうちに集める者は思慮深い子であり、
刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である。(箴言一〇5)
 
長野県のある中学校のPTAで、三年生にアンケートをとりました。それを整理して、PTAの総会で発表しました。「困った時だれに訴えるか」という項目で、約二百人の中学生のほとんどが「父・母・おじ・教師」などと答えた中に、たった一人「神」と書いた中学生がありました。この発表を読みあげた時、出席していた母親たちが思わずドッと笑ったとのことを聞きました。
このことには、私たち日本人の平均的な気持ちが表れていないでしょうか。けっして、悪気があったり軽蔑したから笑ったのではないでしょう。思わず笑ったのです。
しかし思わず笑ったその中には、「神のこと・霊的なこと・永遠のこと」を人生の中・頭の中から押し出そうとしている私たちの生き方が映し出されているのではないでしょうか。ほんとうに困った時に、なぜ私たちは、「神さま」と神の前にひざまずこうとしないのでしょうか。
働き盛りの人生の夏のうちに、健康で働けるうちに、今は見えていないもの、つまり永遠の神の存在を認め、その神のみこころを知ることに努力を傾けないでよいはずはありません。また人生の刈り入れ時を迎え、人生の結論をそろそろ出さなければならないころ、やがて永遠の世界と正面きって対面しなければならないのに、何の用意もせず、眠りこけているのです。
これは大変なことではないでしょうか。「恥知らず」といわれても返すことばがありません。
 
 
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◆彼が……

2016年03月30日 06時51分39秒 | 聖書
そむいた人たちとともに数えられたからである。(イザヤ五三・一二)
 
なぜイエスは、自分が罪人とみなされることを忍ばれたのであろうか。この驚くべき謙遜は、多くの有力な理由によって解くことができる。
こうされたため、主は罪人の代弁者となることができた。ある種の裁判で弁護士は被告と同一視され、法律的に二者は分離されない。さて罪人が法廷に引き出される時、イエスはご自身でそこへ出て来られる。主は審問に答えるために立たれる。ご自身の脇腹、両手両足を指さして、ご自分が代わられた罪人のために、正義の糾弾に答えられる。ご自身の流された血をもって抗弁し、自ら罪人となり、完全に弁護の任を果たし、裁判官は「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た」と宣告する。
私たちの主イエスは、罪人の心をご自分のほうに引きつけるために、背いた人たちとともに数えられた。私たちは、同じリストに載せられている方をどうして恐れることがあろうか。私たちは、はばからず主のもとに行き、自分の罪を告白することができる。私たちとともに数えられている方が、私たちに罪を宣告することはおできにならない。
主が罪人のリストに載せられたのは、私たちが聖徒として登録されるためではなかったか。主は聖く、聖い者の中に名を記され、私たちは罪人であり、罪ある者の中に数えられていた。主はご自分の名前を向こうの聖なる表からこちらの起訴状に移され、一方私たちの名前は、起訴状から取り去られて、受け入れられる者の表に記される。ここでイエスとその民とは、完全に入れ替わるのである。イエスは自らを私たちのあらゆる不幸と罪の状態に置かれ、私たちにはイエスの所有されるすべてのものが与えられる。主は私たちに、主の義、主の血、また他の一切の所有物を持参金として与えられる。主にある友よ。背いた人たちとともに数えられた主とあなたが結合されることを喜べ。また明らかに主にある新しき者の中に数えられることにより、あなたが真実に救われたことを証しせよ。
 
 
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第2歴代誌32章20-23節

2016年03月30日 06時50分15秒 | 聖書


32:20 そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。
32:21 すると、主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの王の陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させた。そこで、彼は恥じて国へ帰り、彼の神の宮に入ったが、自分の身から出た子どもたちが、その所で、彼を剣にかけて倒した。



 自分たちの力を持ってしては対抗できないことを見た時、また自分たちの知恵を持って対策を練ることもできないということを悟った時、ヒゼキヤのしたことは何であったのでしょう。

祈ったのです。

顔を天に向けて、預言者のイザヤと共に、主に助けを求めて祈ったのです。

自分たちにとってあなたのみが頼りですと祈って、主に助けを願ったのです。

祈りを通して主を仰いだのです。

 主は答えて、御使いを遣わされました。

しかも、たった一人です。

ところが、その一人の御使いが、強大な国の力をすべて挫いたのです。

彼らは帰国せざるを得ませんでした。

王も帰国しました。

しかもその王は、自分が祭った神殿の中で、自分の子供たちによって殺害されました。

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ルカ24:6~7

2016年03月30日 06時47分39秒 | 聖書


★ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」

■O:今日のコラム
イエス様は、十字架につけられ、葬られ、三日目によみがえられました。復活の真理は、私たちクリスチャンにとって大きな希望です。死の先によみがえりがあることを知っていることは喜びです。

パウロもこの復活の力を理解していました。
「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ3:10~11)と語っています。

また、「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なお救い出してくださるという望みをこの神においているのです。」(2コリント1:9~10)と書かれています。

キリストの苦しみにあずかり、キリストの死と同じ状態を通されることを通して、復活に達することができる、たとえ死を覚悟するような状況の中にあっても、神様は死者をよみがえらせてくださる方であることを信じることができるのは信じる者の喜びです。

旧約聖書の中に登場する信仰の父であるアブラハムも然りでした。「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。……彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。」(ヘブル11:17~19)

このような死者をよみがえらせることのできる神様が私たちの内に生きておられ、働かれているのは驚くべきことです。私たちの主がよみがえりの主であることを感謝します。あらゆる状況の中において、よみがえりの主を見上げ、死の先に用意されているものを見て喜ぶことができるからです。日々、死と葬りを通して新しいいのち、喜びに満たされる恵みが与えられていることを感謝します。


■A:考えてみよう
状況や環境に失望や落胆したことを悔い改める。それを超えて働かれる主を見上げて喜び、感謝する。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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3月29日(火)のつぶやき

2016年03月30日 01時44分46秒 | キリスト教
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