座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆エリヤを通して言われた主のことばのとおり、

2018年02月28日 16時55分56秒 | 聖書
かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。(Ⅰ列王一七・一六)
神の愛の真実を見よ。この婦人は日ごとの糧を得た。彼女は飢きんの時、自分自身と子どもを養わなければならなかった。そのうえ預言者エリヤが加わったのである。こうして必要は三倍になった。しかし食物はなくならなかった。絶えず供給があったからである。彼女は、毎日粉を入れるかめを見た。そこには、いつでも同じ量の粉が残っていた。
愛する友よ。あなたには日ごとに必要なものがある。それが豊かに与えられるので、いつかかめの粉がなくなるのではないか、つぼの油は尽きるのではないかと心配してはならない。神のみことばである聖書によれば、そんなことは決してないとある。日々、さまざまな困難とともに助けが与えられる。あなたがメトシェラよりも長く生き、あなたの必要が浜辺の砂よりも多くても、神の恵みとあわれみはあなたの必要の一切を満たす。あなたは決して欠乏を覚えることはない。
このやもめの時代には、三年もの間空には一片の雲もなく、天の星は、よこしまなこの地上に一滴のきよい涙も注がなかった。飢きんと荒廃と死が、この世を寂しい荒野と変えた。しかしこの婦人は、決して飢えることなく、豊かな供給を絶えず喜んでいた。
あなたも同じである。あなたは罪人の望みがむなしくなるのを見るであろう。罪人は自分の生来の力に頼っているからである。あなたは高慢なパリサイ人の確信の揺らぐのを見るであろう。パリサイ人がその望みを砂の上に置いているからである。あなたは、あなた自身の計画すら損なわれ、しおれてしまうのを見るであろう。しかし、あなた自身は堅い岩のとりでに囲まれ、守られていることを見いだすであろう。
「そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」イングランド銀行を所有するよりも、神をあなたの導き手としてもつほうが、はるかによい。あなたは、インドの富を使い尽くすことができるかもしれない。しかし、神の無限の富を用い尽くすことは、決してできない。
 

「ここにはパンが、五つと魚が二匹よりほかありません・・

2018年02月28日 16時54分43秒 | 聖書

それを、ここに持って来なさい」(マタイ14:17)

私たちの手にあるものは、5つのパンと2匹の魚であり、極めて小さなものだ。
しかし、手にあるものがどんなに小さくても、無きに等しいようなものでも、主の御手に握られて、神の栄光を現わすものへと変えられる。

こんな微力が、こんな小さなものが、何になろうかと思ってはならない。
その小さなものを受け止め、主が主のお役に立つものとして下さる。
又、主はご自身で配られたのではなく、「弟子たちに渡しては配らせ」と、5つのパンと2匹の魚を祝福して裂かれ、それを弟子たちの手に渡された。

弟子たちが人々にそれらを配って回った。主が大きなみわざをされたが、実際に配って働いたのは弟子たちだった。
主は弟子たちにその働きを任せられた。人々に糧を届けるために、私たちをも用いて下さる。

こんな微力な者をも、主が用い、主がみわざをされ、人々に与える者として下さる。
自らの知恵、資質、力でなく、人々に与えるものを、主が与えて下さるということだ。

手元に5つのパンと2匹の魚しかなくても、主にお献げする時に、主が働かれ、人々を満腹させられる。
手持ちがどれだけかは関係無い。人々の祝福のために、祝福の器として用いられるとは、どんなに嬉しい事だろう。
そのために、主のもとへ自分自身を、持てるものを携えよう。

---------------
手持ちが、小さければ、小さいほど、主の栄光が、より大きく現れる。
何と感謝な事だろう。問題は、それが主の御手の中にあるかどうかだけだ。
自分の手にあるなら、微少のままで終わってしまう。
小さなものを主にお献げしよう。


今日の聖人の記念日

2018年02月28日 07時01分01秒 | キリスト教

聖レミジオ司教

437年-535年ごろ

 レミジオは、フランス、ランスの貴族の家に生まれ、信仰深く育てられた。ランスで教育を受け、豊かな学識と優れた人格の持ち主であったレミジオは、多くの人々から慕われ、458年にわずか21歳で司教に選ばれた。自分には厳しく人々には慈悲深く、当時ガリア地方に広まっていた異端アリウス派と戰い正当信仰を擁護し、多くの人々を信仰に導いた。

 フランク王国クロヴィスもその1人であり、熱心なカトリック信徒であった妻のクロティルジス皇后(6月3日 参照)の影響もあって496年にレミジオから洗礼を受けた。王はレミジオの指導を受けながら、熱心に信仰を守り国を治め教会や修道院の建設を援助した。

 その後、レミジオは教皇使節として宣教に力を尽くし、生涯を神と人々のためにささげた。「フランク人の使徒」と呼ばれている。


◆目 を さ ま せ

2018年02月28日 06時59分59秒 | 聖書

なまけ者よ。いつまで寝ているのか。
いつ目をさまして起きるのか。
しばらく眠り、しばらくまどろみ、
しばらく手をこまねいて、また休む。
だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、
あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言六9―11)
いつか駅の職員が寝坊して、駅のシャッターをおろしたままで一番電車を通らせてしまい、お客さんが電車に乗れなかったという事件がありました。しかし、これはニュースになるほど特別なことでした。日本人は勤勉で清潔です。
ところが、その私たち日本人の怠惰でだらしがない点は、「神」とか「愛」「永遠」「きよさ」についてです。
ある時ホテルにとまって、朝早く出発しなければならないことがありました。フロントに行ってみると、ボーイさんがフロントの向こうで横になって寝ています。声をかけると起きあがったのですが、寝ぼけまなこで、こちらが何を言っても要領を得なかったことがあります。
人生も、寝ぼけているとそのとおりです。絶対にきよく正しい神の前に立つと、どうしていいか分かりません。愛とか永遠とかの前におどおどしてしまうのです。
いつも一生懸命働き、勤勉に商売しているように見えても、神の愛が分からず、神のきよさ・永遠も分からず、死とさばきも何のことかと目をこすっているようでは困ります。やがてすべてを神が分からせられる「死」を待っているのではおそいのです。私はまっすぐ歩いている、一生懸命やっていると思っても、愛がなければ曲がっています。きよくなければ、よろめいているのです。神の愛と神のきよさに目ざめましょう。
「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます」(Ⅰコリント一五34)。
 

◆私の望みは神から来るからだ。

2018年02月28日 06時59分21秒 | 聖書
(詩篇六二・五)
このことばを用いることは信者の特権である。彼がこの世からなんらかの望みを期待しているとすれば、それはまことにつまらない望みである。しかし、この地上の祝福であると霊的な祝福であるとを問わず、神によって欠乏を満たされたいと望むなら、その望みは決してむだになることはない。彼は信仰の銀行から常に資金を引き出し、神の恵みによってその必要を満たされる。私がこのことを心得ているならば、大金持ちのロスチャイルドに金を預けるよりも、神と取り引きしたいと思う。私の主は、決して約束を破られることはない。約束を御座に携えて行くならば、神は決してそれを無視されることはない。だから、私は神の戸口に立って、豊かな恵みの御手をもって戸を開かれるまで待とう。その時に約束の真偽ははっきりする。
さらに、私たちは、この世以上の望みをもっている。やがて、私たちは死ぬだろう。そうすれば「私の望みは神から来る」。私たちが病の床にある時、神が御前の使いを遣わして神のふところに運ばれることを期待しないだろうか。脈が衰え、呼吸が乱れた時に、天使は私たちの枕もとに立ち、あわれみの目を注いで、「私の愛するたましいよ。私とともに来なさい」とささやく時のあることを私たちは知っている。私たちが天の都の門に近づく時、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」という歓迎の声を聞くことを期待する。さらに、私たちは黄金の琴と栄光の冠を期待し、まもなく御座の前の輝く群衆の中に入ることを望む。私たちは栄光の主に似せられる時の来ることを心待ちにしている。なぜなら「私たちはキリストのありのままの姿を見る」と書かれてあるからである。
私のたましいよ。もし以上のことがおまえの望みであるならば、ただ神のためにのみ生きよ。おまえの必要をすべて満たし、その恵みによっておまえを召し、贖い、救われた神の栄光を現すことを願い、かつ決意して生きよ。これがおまえのもつべき、来るべき栄光の望みである。
 

詩篇92篇7-9節

2018年02月28日 06時57分27秒 | 聖書

92:7 悪者どもが青草のようにもえいでようと、不法を行う者どもがみな栄えようと、それは彼らが永遠に滅ぼされるためです。


悪者共というのは、悪意を持ってことをはかる人々のことです。

人を騙したり、盗んだりして、自分が富み栄えることを求める人々のことです。

人の人格を無視して歩む人のことです。

不法の人というのは、神の戒めを無視したり、軽視して歩む人のことです。

「神を愛し、また人を愛しなさい」と言われる主の御心を思いもしないし、考えることもしない人のことです。

こうした人々でも、その賢さ、あるいはまた力の故に、この世で栄えることがあります。

しかし作者は、それはこの地上だけのことだというのです。

その力が、青草が燃えて生えるように思えても、いつしかそれは枯れるというのです。

その枯れる時は、いつでしょうか。

人が主の前に立たされる時です。

その時に人は、自分がなしてきたことの責任を問われて、その結果、滅ぼされるのです。

目を留めるべきことは、「主の御心に従って生きることだ」というのです。



黙示録3章20節

2018年02月28日 06時54分59秒 | 聖書

★見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。


■O:今日のコラム
黙示録3章の最後には、ラオデキヤの教会が出てきます。この教会は名前の通り、人々を喜ばせる教会を意味します。なんと、イエス様は戸の外に締め出されています。教会に、本来中心であるべきお方、イエス様がいないとは、なんと悲しく、むなしいことでしょうか。

私たちの教会は(実際に通う教会も、私たちの内なる宮も)どうでしょう。誰が中心にいるのでしょう。誰の心を喜ばせているのでしょう。人々でしょうか?自分でしょうか?教会も、私たちの心も、ただ一人、イエス様の心を喜ばせたい、イエス様の心を満たしたいと願うのではないでしょうか。

私自身、これまで早天の賛美奉仕をさせていただく恵みに預かっている中で、ある人の反応や態度に自分の心が沈みそうになる時がありました。それが続く時「誰のために?」「何のために?」と自分に問いました。そして、変わる必要があったのは私自身の心でした。

私は、私の心がどこに向いているか「絶えず」点検する必要がありました。なぜなら、私の心の向かうものが、私の神であり、礼拝の対象となっているからです。

主の心を喜ばせたい、満たしたいと願いながら、まだまだ自分の心には、人々の心を喜ばせよう、満たそうとしてしまう性質があったこと、人々の評価や態度に心が向いてしまっていたことに気付かされ、悔い改めへと導かれました。

心が変わるために必要なのは悔い改めであるということを、私たちは何度もメッセージで聞いていると思います。悔い改めによって、私たちの心が方向転換し、主に向くとき、そのおおいは取り除かれるからです。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」(2コリント3:16)

しかし、悔い改めて終わりではありません。「火で精錬された金」「白い衣」「目に塗る目薬」を買うということです。私たちの心を日々新しく造り変え、内なる人を建て上げていくために「御言葉」「血潮」「聖霊様」が絶えず必要なのです。

私たちは、必要なものがあれば、お金を支払って買います。お金を支払わないで買うことはできません。私たちが支払うことの出来る代価、それは時間です。「時は金なり」ということわざもあるように、時間はお金と同じように大事に使うもの、限りがあるものです。

私たちは与えられている時間をどのように使っているでしょうか?私自身も、SHOPで祈る時間だけではなく、他の時間も、私に与えられた時間のすべてを無駄にすることなく、本当に主のために使うことができるようにと祈ります。

「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」(エペソ5:15-16)

私たちが生かされている今の時代はどうでしょう。ここにある「機会を十分に生かして用いなさい。」とは別訳で「時間を主のために買い戻しなさい。」という意味があります。

私たちは、今の時代、敵に、人々に、あらゆるこの世の思い煩いや欲に時間を奪われるのではなく、限りある時間を主のために買い戻していきましょう。

何より、イエス様ご自身が私たちと共に食事をすること、時間を共に過ごしたいと願っておられると思います。

私たちの心が変わり、絶えずイエス様を中心とするなら、家庭でも、職場でも、学校でも、教会でも、どこにいても、イエス様の心を喜ばせ、イエス様と共に食事をするという親密な交わりの中に入っていくことが出来ると信じます。



■A:考えてみよう
・教会の中心に、私たちの心の中心にイエス様がいるでしょうか。自分の喜び、人々の喜びを優先させて、本来喜ばせるお方であるイエス様を戸の外に締め出していないでしょうか。

・主は愛する者を懲らしめられるとあります。悔い改めも、父の愛からきていること、すべてはこの愛の中で導かれていくことを覚えます。日々、悔い改めと御言葉、血潮、御霊によるきよめを受け取り、私たちの古い自分が死に、新しく造り変えられ続けていきますように。

・今日与えられている時間を主のために買い戻していきましょう。主との交わり、食卓を囲む幸い、恵みを私たち一人一人が味わうことが出来ますように!



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


2月27日(火)のつぶやき

2018年02月28日 02時34分40秒 | 仏教

◆その出ることは、

2018年02月27日 16時24分30秒 | 聖書
昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ五・二)
主イエスは民の代表として御座の前に進んで出られた。それは民が時の舞台に現れるより、はるか以前のことであった。民のために主が父なる神と契約を結ばれ、血を流さなければならない者のために自ら血を流し、苦しむ者、死すべき者に代わって苦しんで死なれることは、「永遠の昔からの定め」であった。主が頭の先から足の先まで血のしたたりにおおわれ、つばきをかけられ、四肢を釘で貫かれ、あざけられ、引き裂かれて死の苦痛の中で砕かれることは、「永遠の昔からの定め」であった。私たちの保証人として出られたのは、「永遠の昔からの定め」であった。
私のたましいよ。立ち止まれ。驚け。おまえはイエスにおいて「永遠の昔から」出ることが定められていた。この世に生まれ出た時にキリストが愛されただけでなく、人が地上に一人もいなかった時から、キリストは私たちを喜ばれた。人の子たちを絶えず心にかけ、永遠の昔から永遠の未来に至るまで、愛を注がれる。
私のたましいよ。主が永遠の昔からおまえの救いのために心を砕かれているのに、その救いを完成されないことがあろうか。私を救うために永遠の昔から出て行かれたのに、今私を見捨てられることがあろうか。山々が生まれる前から、海がまだ造られなかったころから私を選ばれたのに、今になって拒まれるだろうか。否、そのようなことは決してあり得ない。
私は堅く信じる。もし主が変わることのない愛に満ちたお方でないなら、決してそのように長く愛を注がれるはずはないということを。もし主が私を見限られるとすれば、永遠の昔からそれをなさったであろう。もし主が、地獄のように深く、死のように強い愛をもって愛しておられなかったなら、はるか以前に私に背を向けられたことであろう。なんという喜びであろう。私が、主の永遠の譲渡されることのない相続地であり、地の造られる永遠の昔に、父なる神によって主に与えられたことを知るのは。今夜、この永遠の愛を枕として眠りにつきたい。
 

「『私がおまえをあわれんでやったように、

2018年02月27日 16時23分33秒 | 聖書

おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した」(マタイ18:33)

6千億の負債のあるしもべがいた。到底返済不可能だ。
猶予を願うしもべを可哀想に思い、主人は全額免除にしてやった。
押しつぶされるばかりの重荷がきれいに失せた。
その帰りに、百万貸しのある相手に出会った。
ひれ伏して、少し猶予をと願う相手を容赦せず投獄に。

それを聞いた主人は怒り、彼を牢に投げ入れた。
私達も人を赦さないならこのようになると。
6千億の負債がチャラにされた。同様に、私達は主の十字架の贖いにより、すべての罪が赦された。

「わたしは、彼らの罪を二度と思い出さない」と。
これほどまでの恵みを受けているのに人を赦せない。それは牢獄に入る事になる。
牢獄は四六時中、憎しみと復讐心で真っ暗闇だ。
憎しみにがんじがらめで、出る事ができない。心は常に苦しい。
楽しいはずの時も、決して楽しめない。一生その相手に拘束される。

どうしたら牢獄から出られるのか。解決は一つだ。赦せない人を赦す事だ。
牢獄から出る道はそれだけだ。わかるが自分では出来ない。神がさせて下さる。
赦そうとの意志を向ける事だ。ある人は親が絶対に赦せなかったが、「赦しますから、私も赦して下さい」の祈りから主の取り扱いが始まった。

そして親を赦せた。牢獄から解放された。あなたも赦せない相手がいるなら、祈って行こう。主が取り扱って下さる。
----------
赦せないと、いつも心の中で攻撃しているなら何時間でもその憎い人の虜となり、自分は牢獄の中だ。
人を憎み、裁いている自分が問題だと気づけますように。そこを神様が取り扱って下さる。


今日の聖人の記念日

2018年02月27日 07時13分03秒 | キリスト教

聖ガブリエル・ポセンティ

1838年-1862年

 ガブリエルは、イタリア、アッシジの裕福な信仰深い家庭に生まれ育った。才能に恵まれていた彼は、上流社会の仲間入りをし、名誉と富を求める生活に甘んじていた。しかし重い病にかかったことで今までの人生を振り返り、より超越的なものを求める生活として修道生活をしたいと誓った。

 病が全快したガブリエルは18歳で御受難会に入り、「悲しみの聖母のガブリエル」という修道名を与えられた。以後6年間、祈りと苦行によって十字架につけられたイエス・キリストの苦難を味わい、黙想した。また悲しみの聖母に対する優れた信心を表した。彼はどんな小さなことでも神に対して忠実であることをモットーに自己の聖化に励んだ。

 彼の遺体は、イタリアのグラン・サッソの修道院に眠っており、現在では有名な巡礼地となっている。


◆蟻  を  見  よ

2018年02月27日 07時11分34秒 | 聖書

なまけ者よ。蟻のところへ行き、
そのやり方を見て、知恵を得よ。
蟻には首領もつかさも支配者もいないが、
夏のうちに食物を確保し、
刈り入れ時に食糧を集める。    (箴言六6―8)
日本人は蟻のように働きます。それが現在の富を築いたわけです。勤勉でよく働く日本人はほめられもしますが、「働きすぎだ」とねたまれてもいます。
ねたまれて悪口をいわれても、やはり、勤勉で働くことが好きな日本人であり続けたいと思います。健康で、やるべき仕事・働きがあって精いっぱい働けるなら、これはすばらしいことです。
イソップ物語のキリギリスのように歌ってばかりいて働かず、備えをしないでなまけていると大変です。
ところが日本人には、キリギリスよりももっと仕方のないなまけ者で、いざという時の蓄えをせず、だらしがない点があります。それは「永遠」「永遠のいのち」という点についてです。
死が一人一人に迫ってきます。人生の冬が近づいています。ところが、だれも用意していません。雪の降るきびしい冬の夜もたきぎがあり暖炉があるなら、「雪の降る夜は楽しいペチカ」です。しかし、備えがなかったらどうでしょう。
私たちは勤勉な蟻から学ばねばなりません。いま見えないからといって冬は「ない」と思ってはならないのです。蟻に冬は見えませんが、冬のために備えています。永遠の世界が見えないから「ない」といってはなりません。死のかなたに永遠のいのちが、または永遠の滅びが待っているのです。
死のかなたは、完全に神のみが支配する世界です。神の愛の中で永遠の喜びを味わうか、神の怒りの中で永遠に孤独で過ごすかの選択を、冬になる前にしなければなりません。「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(アモス四12)と、聖書はすすめます。
 

◆それはあなたが私の避け所である主を、

2018年02月27日 07時10分51秒 | 聖書
いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。(詩篇九一・九)
荒野におけるイスラエル人は絶えず変化にさらされていた。雲の柱が止まるたびに天幕が広げられた。しかし翌朝、太陽が上らないうちにラッパが鳴り、契約の箱が前進を始め、燃えている雲の柱に導かれて山の狭い道を通り、丘を越え、あるいは無人の荒野を旅するのであった。少し休んだかと思うと、すぐに命令が下って「前進せよ。あなたはここに休んでいてはならない。あなたがたはカナンに向かって旅を続けなけれはならない」と促されるのであった。
彼らは決して一つの場所に長くとどまってはいなかった。泉があっても、なつめやしの木があっても、彼らはとどまることができなかった。それでも彼らは神を彼らの家とし、雲の柱をその棟木と思い、夜になって燃えるその柱を家庭の炉の火と思っていた。
彼らは一つの場所から次の場所へと前進しなければならなかった。彼らは絶えず変化を経験し、落ち着く暇もなく、「今こそ私たちは安全である。この場所に定住しよう」と言うことはなかった。モーセは、「主よ。私たちは絶えず変わりますが、あなたは代々にわたって私たちの住まいです」と言った。
クリスチャンは、神は少しも変わらない方であると知っている。人は今日富んでいても、明日は貧しいかもしれない。今日は病み、明日は健康になることもあろう。今日は幸福でも、明日は患難に会うかもしれない。しかし私たちにとって、神との関係は少しも変わらない。昨日私を愛された神は今日も愛してくださる。私の、動くことのない憩いの家は恵み深い主である。前途は曇り、希望は吹き散らされ、喜びは失われ、かびがすべてのものをだいなしにしてしまっても、私が神のうちにもっているものは何も失われない。
神は「私の住まいの岩……強いとりで」である。世にあっては私は寄留者である。しかし神にあって安住している。地にあっては私は放浪者である。しかし神のうちに静かな住まいをもっている。