座間コミニティー

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◆彼らの祈りは、

2016年11月03日 16時24分45秒 | 聖書
主の聖なる御住まい、天に届いた。(Ⅱ歴代三〇・二七)
祈りは、キリスト者があらゆる苦境を切り開くのに成功する常勝の源泉である。剣を用いることができない時、あなたは「すべての祈り」という武器をとることができる。火薬はしめり、戦略は失敗するかもしれない。レビヤタンは投げ槍を笑うが、祈りの前にうち震える。刀や槍は磨く必要があるが、祈りは決してさびることがない。そして最も鈍いと思われる時に、最上の切れ味を見せるのである。
祈りは、だれも閉じることのできない開かれた門である。敵の軍勢があなたを完全に囲んでも、上に達する道は常に開かれている。この一つの道が閉ざされない限り、あなたが敵の手中に陥ることはない。防塞も城壁にかけるはしごも、地雷もあらしも何であろう。天の援兵がヤコブのはしごによって私たちを助けに来る限りは、安全なのである。
祈りは、決して季節はずれにはならない。この商品は夏冬を問わず貴重である。祈りは夜半に、仕事の時に、日中の炎暑に、また夕べの涼しさの中に天に届き、聞かれている。貧困、病床、暗黒、中傷、疑惑など、どのような状態にあっても、契約の神はあなたの祈りを歓迎し、聖なる御住まいから答えてくださる。
祈りは、決してむだにはならない。真の祈りは常に真の力である。求めたものが必ず与えられるとは限らないが、あなたが真に必要とするものは常に備えられる。神がその子の要求に文字どおり答えられない時は、心をくんで答えてくださる。粗食を求めたのに、最上の食物が与えられたと言って、あなたは怒るであろうか。肉体の健康を求めたが、神はたましいの欠陥をいやすため病床を与えられたと言って、あなたは不平を言うのか。十字架が取り去られることより、それを神にささげることができるのを喜ぶべきである。
私のたましいよ。今夜おまえの嘆願と求めとを、忘れずにささげよ。主はおまえの願いを聞くために待っておられる。
 

「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。

2016年11月03日 16時23分44秒 | 聖書


その行ないが悪かったからである」(ヨハネ3:19)

闇がわかるのは、闇の中に光が照らし出されることによってだ。
光が無く、闇だけならそれが闇という事すら認識できず、わからない。
光によって初めて闇が認識できる。闇の中にいるなら、そこが闇だとわからない。

ベテスダの池で、38年間病気で、池のそばに伏せっている人がいた。
主の使いが来て水面を動かすが、その時すぐに池に入れば、どんな病気でも治ったが、入れてくれる人がいないのだと。

その人に主は「よくなりたいか」と問われた。
病気の人に、よくなりたいかは不思議な質問だが、私達にも主は問われている「本当に闇から出たいのか」と。

闇の中にずっといると、闇は心地良い。自分は変わりたくないのだ。
自分を変えるには大変なエネルギーが要る。しんどい事はしたくない。楽な方へ流される。

自我は強固だ。あなたにもうすうす気づいている事があるだろうか。
悔い改め、改めなければならない事柄、そのうっすら気づいている事を、まず光の中に出そう。

闇にあるものを、ことごとく光の中に出す事だ。それは主の前に告白し、認める事だ。
「明るみにひき出されるものは、みな、光によって明らかにされます」
「明らかにされたものはみな、光だからです」御霊は働いておられる。

心を閉じさえしなければ、拒みさえしなければ、御霊の光はくまなくあなたを照らし出す。
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御霊の促しはあるが「入れてくれる人がいない」からと闇の中で楽々としていないだろうか。
闇から光に移して下さるのは、主だ。よくなりたいとの意志を向けてみよう。


今日の聖人の記念日

2016年11月03日 07時38分25秒 | キリスト教

聖フーベルト司教

655年ごろ-727年

 フーベルトは、フランス、トゥルーズの貴族の家に生まれた。20歳で王国の司法長官となって活躍したが、彼を快く思わない者の陰謀によって国王に訴えられ、出世の道は断ち切られた。その後フーベルトは、ペピン公爵に仕え、結婚し、子どもにも恵まれたが、685年に妻が亡くなったことを機に、今までの職務から退き、アルデンの森で隠遁生活を始めた。

 ある日、彼は狩猟に出かけ、十字架を持つ鹿の姿を見、そのとき神の声を聞いたことから、より徹底してキリストに従うようになった。そしてフーベルトは、ランベルト司教と出会い、彼に導かれて司祭となり、ともに熱心に宣教した。

 ランベルト司教が暗殺されるという不幸な出来事が起こったとき、フーベルトは、彼の後継者として選出され司教となった。アルデンの森の人びとの改宗のために力を注ぎ、近くの町リェージュに大聖堂を建てた。

 彼は、狩猟の守護の聖人とされ、十字架を持つ鹿との出会いのエピソードは、後世の画家が好んで描いたといわれる。リェージュの守護の聖人でもある。

 聖マルチノ・デ・ポレス修道者

1579年-1639年

 マルチノは1579年、ペルーのリマで生まれた。母親のアンナ・ベラスケスは、リマ出身のアフリカ系女性で、父親はスペイン西部アルカンタラ出身の軍人だった。マルチノが生まれたとき、当初父親は自分の子どもであることを認めなかったため、洗礼証明書には「父親不明」と書かれた。マルチノが8歳になったとき、父親は息子を認めたが、妹が生まれたときには、家族を捨てて去ってしまった。マルチノは、リマの貧しい環境で育った。

 12歳のときに、マルチノは母親の勧めで、理髪師としての訓練を受け、外科医の見習いとして傷の手当てや薬品についても学んだ。

 彼は修道者になることを望んでいたが、ふさわしくないと思い、15歳になって、リマにあるドミニコ会に信徒の協力者として志願した。9年後、彼の愛と謙遜、祈りと償いの生活が認められ、共同体に勧められて誓願を立てた。

 彼は外国に宣教に行って、殉教することを望んだが、それは叶わなかった。償いとして禁欲的な生活をし、祈りに多くの時間をささげ、人種や皮膚の色、社会的地位によらず、すべての人を大切にした。貧しい人たちに奉仕し、ペストなどの病人や身寄りのない子どもたち、アフリカから奴隷として連れてこられた人びとの世話をし、寛大に日々の糧を彼らに与えた。

 台所、洗濯場、病人の看護など日々の仕事をとおして、マルチノは神の恵みを観想していた。貧しい環境に育ち、神学を学ばなかったが、知恵と知識に恵まれ、彼によって病気が治るなどの奇跡も起こった。彼の愛は人だけにとどまらず、犬や猫、虫など身の回りの動物たちにも及んだ。

 彼のところには、多くの寄付が集まり、貧しい子どもたちのために学校を建てたり、貧しい女性たちが結婚するため、また修道院に入会するために使った。

 修道院の兄弟たちはマルチノを霊的同伴者として慕っていたが、彼は自らを「貧しい僕」と呼び、同じドミニコ会の第三会員であるリマのローザは、よき友人であった。

 1639年にリマで亡くなり、1962年、ヨハネ23世によって列聖された。1966年、パウロ6世は、理髪師の保護の聖人とした。


◆うぬぼれてはならない

2016年11月03日 07時37分30秒 | 聖書

自分の口でではなく、
ほかの者にあなたをほめさせよ。
自分のくちびるでではなく、よその人によって。(箴言二七2)
このことばは、自分に甘い「うぬぼれ」をいましめているのではないでしょうか。私など、私の話す講演会に人がたくさん集まると、やはり私が来たからだと思ったり、人が集まらないと雨のせいだと考えたりする。――これは、徹底的うぬぼれです。
自分で自分を推薦するこの「うぬぼれ」は知恵のないことで、それはほんとうの基準にならないと聖書は言っています(Ⅱコリント一〇12参照)。自己推薦よりも他人の評価には、耳を傾けるべき点があります。指導者を選ぶ一つの基準として聖書は、評判のよい人をもあげています。しかし、人の言うところも、当てにならないことがあります。
聖書の結論はこうです。「自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です」(Ⅱコリント一〇18)。神にほめられる人になりなさいということです。うぬぼれはもってのほか、人にほめられるのも大したことではない、ただ神に受け入れられたいと真剣に考えていた使徒パウロは、いつも自分自身を二つの面から徹底的に見ていました。
第一は、自分の肉の中には何一つよいものがない。私は罪人のかしらであり、私が今あるのは、ただ神の恵みとあわれみによるということです。パウロは言います。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』……私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ一15)。「救われたのは、ただ恵みによるのです」(エペソ二5)。
第二は、自分の持っているすべてのよいものは、神から与えられ、神から預かったもので、私のものとして誇るべきものは一つもないことです。私は、神の恵みの管理者として、神の栄光のため人の幸福のため、それを最大に活用すべきなのです。「誇る者は主にあって誇れ」(Ⅰコリント一31)と、パウロは言います。
 

◆そこで、彼は祈っています。

2016年11月03日 07時36分40秒 | 聖書
(使徒九・一一)
祈りはただちに天上の注意を引く。サウロが祈り始めた瞬間に、主はその祈りに耳を傾けられた。ここに悩みつつも祈るたましいへの慰めがある。悲嘆に沈む者が祈る時に出てくるのは、しばしば嘆息と涙と叫びのみである。しかし、そのうめきは天国のたてごとを妙なる音をもって鳴り響かせ、その涙は神に受け入れられ、天国の涙のつぼに大切に蓄えられている。「どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。」
おののきのため、もの言うこともできなくなった哀願者の心の中をも、主は深く洞察しておられる。祈る者は涙にかすむ目を上げて神を仰ぎ見るだけかもしれない。しかし、「祈りとは涙を流すこと」ではないか。涙は天国のダイヤモンドであり、嘆息は主の宮廷における音楽の一部であって、「神の栄光の御前に奏でる最も崇高な聖楽」の中に数えられている。
あなたの祈りがたとえいかに弱く、おののき震えるものであっても、無視され顧みられないことはない。ヤコブのはしごは高い。しかし、私たちの祈りは契約の天使によりすがって天に上る。
私たちの神は単に祈りを聞かれるだけでなく、聞くことをお喜びになる。主は「貧しい者の叫びをお忘れにならない」。主は立派な風貌、高尚なことばなどは顧みられない。主は王たちの華美に心を留めず、軍楽の響きにも耳を傾けられない。しかし悲しみおののく心があり、苦痛に震えるくちびるがあり、あるいは深いうめき、後悔の嘆息があるなら、主の心は常にそこに向かって開かれる。
主は私たちの祈りを、ばらの花びらのように、その覚え書きの間にさしはさまれるのである。ひとたびその書物が開かれる時が来れば、その中よりふくいくたる香りが生ずるであろう。
 信仰は、ささげられた祈りの答えを
 天に求めたりはしない
 私たちの大祭司は聖所におられ
 恵みの御座からお答えになる
 

ヨブ記24章21-25節

2016年11月03日 07時35分28秒 | 聖書


24:24 「彼らはしばらくの間、高められるが、消えうせる。彼らは低くされ、ほかのすべての者と同じように刈り集められる。麦の穂先のように枯れてしまう。
24:25 今そうでないからといって、だれが私をまやかし者だと言えよう。だれが私のことばをたわごとにしようとするのか。」



 神は、悪人を栄えさせ、悪がなされ放題にされて、彼らの繁栄を人に見させる。

しかし、そうした現実があったとしても、彼らの栄光は長く続くのかというと、そうではない。

彼らは、やがて消え失せてしまう。

彼らはやがて麦の穂先のように、変えられてしまう身であるのだ。

これをあなた方はどう見るのか?

1つの面からの判断だけでは、すべてのことを正確に計ることは出来ないのではないか。

今、間違っていると言っても、後に、それが正しかった、と言うことにもなるのではないか。

あなたは私のことで、「あなたは間違っている、悪を行っている。だから、神に裁かれて、苦しみにあっている。」と言う。

しかし、その判断は、後で変わることもあると、気がつかないのか。


2ペテロ2章9節

2016年11月03日 07時33分25秒 | 聖書


★これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。

■O:今日のコラム
ペテロの手紙は世の終わりに生きる私たちが、どのように歩んだら良いかが書かれている手紙です。
2章においては、神に敵対する「不義を行う者」がどのような者か書かれています。私たちもこの2章を読んでここに書かれている者にならないように気を付けなければなりません。
なぜなら、書簡は神を信じるクリスチャンに向けて書かれてあるからです。

20節ではこのように書かれています。
「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。」

主の恵みによって、私たちは救いを頂きました。
私たちは決してここに書かれてある状態になりたくはありません。

今日の箇所もそうですが、聖書の様々な箇所にも、世の終わりには信仰から離れる人々が出てくると聖書は言っています。背教とはイエスキリストの信仰を捨てて、他の教えに従うことです。

2テサロニケ2章3節
「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」

背教が起こるこのような時代において、私たちは信仰を守る必要があります。
信仰を守り通すことは簡単なことではありません。
イエスキリストに対する信仰を最後まで持ち続けるにはどうしたら良いのでしょうか?
次の御言葉を見てみましょう。
2ペテロ1章10節
「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまづくことなど決してありません。」

この御言葉は力強い御言葉です。
つまづかないで信仰を守り通す為には、召されたことと選ばれたこととを確かなものとすることが大切なのです。
どのようにして確かにして行くのでしょうか?

それは、もう一度福音を自分自身に語るということです。
私たちが信仰に入る前には必ず福音を聞いています。ローマ10章10節にあるようにクリスチャンは皆、福音を聞き、心で信じて義と認められ、口で告白して救われるという過程を通っています。この過程を一度きりのことではなく、日々の生活の中で確認して行く必要があります。自分が救いを受けていることがどれ程素晴らしく、感謝なことであるかを確認していくのです。毎日自分の口で「イエス様は私の救い主である」と告白して宣言していきましょう。

十字架の恵みは日々新たにされていきます。聖霊様が私たちの心にイエス様の十字架を啓示してくださいます。
そのような歩みをするならば、決して私たちはつまずくことがなく信仰から離れることはありません。

私たちが福音の土台の上にしっかりと立つならば、敬虔さが身につくことになります。
敬虔とは神を畏れ敬うことです。
2章9節には「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し」とあります。
神様は敬虔な者を誘惑から守ってくださるのです。

今の時代、様々な誘惑が私たちの周りには満ち溢れています。自分の力ではこの誘惑に立ち向かうことができません。
しかし、私たちが敬虔に歩むならば、主の力強い御手が私たちを誘惑から守ってくださいます。
そして、私たちに聖さが身につき、主を見ることができるようになります。

日々の信仰生活では様々な戦いがあります。しかし、私たちには信仰の創始者であり完成者であるイエス様が共におられます。イエス様をどんなときでも見つめ続け、この人生を歩んでいきましょう。

■A:考えてみよう
神の恵みによって与えられた救いとはどのようなものか、今一度吟味して行きましょう。

■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


11月2日(水)のつぶやき

2016年11月03日 01時33分35秒 | キリスト教