座間コミニティー

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◆キリストとその復活の力……。

2016年11月22日 17時06分37秒 | 聖書
(ピリピ三・一〇)
よみがえられた救い主の教理は非常に尊い。復活はキリスト教の建築物全体の礎石である。私たちの救いの門のかなめ石である。この一つの聖なる源――私たちの愛する主、また救い主なるイエス・キリストの復活――から流れ出る生ける水のすべての流れを述べるには、一巻の書を要することであろう。しかし、主がよみがえられたことを知り、よみがえられた主と交わること――復活のいのちを所有することにより、復活した救い主と交わること――、私たち自身が世俗の墓から出ることによって主が墓を出られるのを見ることはさらに尊い。教理は経験の基礎である。しかし、花が根よりも美しいように、よみがえられた救い主との交わりの経験は、教理そのものよりもさらに美しい。
私は願う。あなたが、キリストが死からよみがえられたことを信じ、それを賛美し、さらに、この十分に確かめられ立証された事実から得ることのできる一切の慰めを引き出すことを。しかしあなたがその点にとどまることに満足しないことを私は願う。あなたは弟子たちのように主を肉眼で見ることはできない。しかし私はお勧めする。信仰の目をもってキリスト・イエスを見ることを熱望するように。あなたはマグダラのマリヤのように主に触れることはできない。しかしどうかあなたが主と交わる特権を与えられ、主がよみがえられたこと、あなた自身が主にあってよみがえらされたことを知るように。十字架につけられた救い主が私のすべての罪を十字架につけられたことを知るのは、高い知識である。しかし、よみがえられたキリストが私を義とされたことを知るのは、そして主が私に新しいいのちを与えられたこと――主の新しいいのちによって私を新しい被造物とされたこと――を悟るのは、崇高な経験である。人はこの経験に達しないうちは満足してはならない。
どうかあなたが「キリストとその復活の力」を知るように。イエスとともに生かされたたましいが、なぜ世俗と不信仰の衣服をまとっていなければならないのか。よみがえれ。主はよみがえられた。
 

「夜が明けそめたとき、

2016年11月22日 17時05分37秒 | 聖書

イエスは岸べに立たれた」(ヨハネ21:4)

主を裏切ってしまったペテロの心は、どんなものだったろう。
主に顔向けができない、どんな顔をして会えばよいのか。
暗たんたるものだったろう。

深い痛みと後悔、虚しさの中にあった。
暗く重い心でなすすべなく、かつて捨てた網をもう一度取り、漁に出たが魚は一匹もとれない。

かつてはプロのベテラン漁師であり、追い打ちをかけられるように、ますます惨めで、無力で、どん底だった。

そんな時、主の方から語りかけが来た。
「食べる物がありませんね」正直に自分の現状を認めて告げた。
「はい、ありません」

まさに実情だ。そして、これがいつも回復への秘訣だ。
自分には無い事を、無力であることを、主の御前に正直に告白し、認める事だ。

愛が無い、真実が無い、能力が無い・・。
その時「右側に網をおろしなさい」との指示が臨んだ。
彼らは、ただ言われる通りに従い、網を右側に下ろした。

すると網が引き上げられないほどの大漁だった。
主の御声に従う事が大切だ。
無力で構わない。無力のまま、御声に従う時、神の力が臨み、みわざを見る。

主の方からご自身を現わし、ペテロを回復させて下さった。
「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです」と、ペテロは「いっさい」を、何もかもを主に明け渡した。
主はペテロを回復させ、聖霊に満たし、再び主の大いなる働きのために立てられた。
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これまでの信仰人生も、今までの失敗も、自らの無力と哀れと惨めさも、「いっさいのことをご存じ」でいて下さる方が、愛し慈しんでいて下さる。
この方が共に歩んで下さるとは、何という嬉しさだろう。



今日の聖人の記念日

2016年11月22日 11時17分34秒 | キリスト教

 聖セシリアおとめ殉教者

2-3世紀ごろ

 セシリアは、ローマの裕福な貴族の家に生まれた。父の意志により、信者でない青年バレリアノと結婚したが、彼女は、神のために生涯貞潔を守ることを彼に話した。彼女の熱心な信仰態度に心を打たれたバレリアノは、弟ティブルツィオとももに洗礼を受けた。そして彼らは迫害されて殉教した人びとの遺体を引き取り、手厚く葬った。このことがローマ総督の耳に入り、バレリアノと弟は捕えられ、信仰を捨てるように命じられたが拒んだため、2人は斬首の刑を受けた。

 セシリアは、彼らの遺体を引き取り埋葬した。その後、自分の家をカタコンブ(地下墓地)にしたり、聖堂(のちに聖セシリア教会と呼ばれる)にしたことが総督に知られ、捕えられ、棄教するように強要された。彼女がむし風呂の刑にあっても、苦痛もなく、汗ひとつかかなかったので、最後は首を切りつけられて、3日間の苦しみののち殉教した。

 信者たちはセシリアの遺体をカタコンブに葬った。1599年に、腐敗していない彼女の遺体が発見されたといわれている。その姿をもとに、彼女の墓の上には、当時の有名な彫刻家によって造られた像が置かれている。

 彼女は、「心のうちで神に音楽を奏でていた」といわれる伝承があることから、音楽家の保護の聖人として人びとから親しまれている。


◆幸いなことよ。

2016年11月22日 11時16分07秒 | 聖書

いつも主を恐れている人は。
しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。(箴言二八14)
かたくなな心はいやなものです。
第一に、それは閉ざされた攻撃的な心です。聞こうとせず、疑い、証拠を見せろといいます。第二に、ごめんなさいと言えない心です。心の底からハイと言うこともできません。かたくなな心は、人の心に愛や真実を見ることができないので、人から見放されて孤独です。そして、人からばかりでなく神の怒りをもひき起こすのです。
どうして私たちは、心をかたくなにするのでしょうか。それは生まれつきの自分の性格だと思っている人も多いと思います。さて、二つの理由があると考えられます。
第一は、世の中の罪深い様子や人々の偽りに満ちた心を見る時、私たちの心はかたくなになります。
第二に考えられることは、私たち自身がねたみ・憎しみ・むさぼり・欲情・悪意・自分勝手さに満ちており、人もそうだとしか思えないということです。愛したりゆるしたりできないし、人の心の中に飛びこむこともできません。罪にまどわされて私たちは心をかたくなにすると、聖書は言います(ヘブル三13参照)。
しかし、こんなかたくなな罪深い魂にも、罪をゆるして、神は声をかけてくださるのです。十字架のことばを語り、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ一一28)と呼びかけておられます。
私の好きな賛美歌の一つに、このようなのがあります。
「重荷を負いて悩む時
『我に来れ』と呼びたもう
 み声を聞かば今すぐに
 御霊の言えるごとくせよ」(聖歌四一四番)
 

◆イスラエルは妻をめとるために働いた。

2016年11月22日 11時15分23秒 | 聖書
彼は妻をめとるために羊の番をした。(ホセア一二・一二)
ヤコブはラバンと言い争って、自分の労苦を次のように語っている。「私はこの二十年間、あなたといっしょにいましたが……野獣に裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かないで、私が罪を負いました。あなたは私に責任を負わせました。昼盗まれたものにも、夜盗まれたものにも。私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした」と。
この心労よりはるかに大きいのは、私たちの救い主の地上におけるそれである。主はご自分の羊のすべてを守り、最後に「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」と言われた。主の髪は露にぬれ、夜気にしめっていた。主は夜を徹して民のために祈りをささげられた。今夜ペテロのために祈られると、次の夜は他の者が主の涙のとりなしを求めるというふうであった。イエス・キリストが花嫁を得るためになされたご労苦を思うならば、寒空に星を仰いで座っている羊飼いも、自分の労苦をかこつことはできない。
 寒い山の頂も、夜の大気も
 目の当たりに主の熱い祈りを見た
 荒野は主の試みを知り
 またその戦いと勝利を知った
ラバンがヤコブのもつすべての羊を要求した霊的意義を考えることは、興味深い。もし羊が野獣にかみ裂かれたならば、ヤコブはそれを償わなければならなかった。もし羊が死んだら、彼はそれを償って全体を保証しなければならなかった。そのように、教会のために働かれるイエスの労苦は、すべて信じる者をことごとく、父なる神のもとに携えるという、保証の責務を負うものでなかろうか。労苦せるヤコブを見よ。あなたはそれが、「主は羊飼いのように、その群れを飼い……」と記されているご自身の象徴であることを知るだろう。
 

ヨブ記31章29-40節

2016年11月22日 11時14分09秒 | 聖書


31:29 「あるいは、私を憎む者の衰えているのを私が見て喜び、彼にわざわいが下ったとき、喜び勇んだことがあろうか。
31:30 私は自分の口に罪を犯させなかった。のろって彼のいのちを求めようともしなかった。」



 彼は、自分の過去の歩みを顧みます。

そこに、自分の大きな罪と過ちがあったのであろうか、と。

私は、私を憎む者がいたことを覚える。

しかし、そうした人が衰えて力を失い、その結果、地位と権威を奪い取られていった時に、私はそのことを喜んだであろうか。

また、彼らの上に、財産が奪われたり病に陥るといった苦しみが到来した時、私はそのことを喜び、嬉しく思ったであろうか。

多くの人々はこうしたことを喜びとし、自分の勝利を祝うことであろうと思うのです。

 しかしヨブは、私はそうではないというのです。

自分は、たとえ小さな事であっても、人の不幸を喜び、また敵の衰弱を見て、心を躍らすような者ではなかったと語るのです。
 
自分は豊かであった。

しかし、それと同じように、憐れみの心にも溢れていたというのです。


ヨハネの福音書6章27節(士師記20章)

2016年11月22日 11時12分26秒 | 聖書


★なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」


■O:今日のコラム
私たちは、何のために働いているのでしょうか?お金のためでしょうか?確かにお金は必要ですが、お金は死んだ後には持っていけません。名誉のためでしょうか?名誉も天国に持っていけないし、得た名誉を失わないためにどれだけ苦労する事でしょう。私たちは永遠に残るもののために働くべきです。この箇所では、それは『永遠のいのちに至る食物のために』とあります。それは何でしょうか?それはこの後の箇所に、天からのパンでありイエス・キリストであるとあります。私たちが働く目的はイエス・キリストです。イエス・キリスト
は、私たちの祝福された望みです!
  主に愛されるために働くのでは無いのです。すでに私たちは、命を捨てる程の愛で愛されています。しかし、私たちはイエス・キリストと完全に一つになっていないのです。もっとイエスと一つになりたい。その願いを大切にし、その愛の情熱を燃やし続けましょう!
  御言葉を読んだら、御言葉と一つになれますか?それは大切な事です。御言葉を聞くことから信仰が始まります。だから御言葉を毎日朗読してください。でもそれで完了しません。その聞いた御言葉に従順する事、それが『永遠のいのちのために働く』事です。主はそのために『働きなさい』と仰せになりました。
    主は御言葉を聞いて信じたならば、その人々今度は、こう語られます。

『イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
      そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとう 
  にわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」』(ヨハネ8:31~32)

    聞いた御言葉にとどまりましょう。その御言葉を反すうし、従順をし続けるのです。そうすると私たちの生活が御言葉そのものになり、私たちは本当の自由を味わうでしょう!御言葉が蒔かれただけで満足するなら、蒔かれた種が奪われてしまいます。実が実りません。実を実らせるまで、無意識にできるまで、意識的に握るのです。

■A:考えてみよう
イエス様と一つになるために働く。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


11月21日(月)のつぶやき

2016年11月22日 01時32分56秒 | キリスト教