座間コミニティー

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◆私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、

2016年11月27日 16時20分49秒 | 聖書
すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ一・七)
どの国語でも、「赦し」という語が罪人の耳に響く時ほど、快いものがあろうか。それは、捕われのイスラエル人に対して釈放の喜びを告げる銀鈴のようである。まことに、永遠に賛美すべきは、刑罰の監房の中にさし込む赦しの星明かりである。それは失望の真夜中に、滅びようとしている者に希望の光を与える!
罪、しかも私のような者の罪が赦され、全く永遠に赦されることがあり得るのだろうか。罪人である私にとって、地獄こそ相続分である。罪が私から離れない以上、地獄から逃れ得る可能性はない。罪の重荷を取り除き、深紅のしみを取り去ることができようか。主はあなたもきよめられると、私に告げられる。贖いの愛の啓示こそ、とこしえに賛美すべきものである。それは私に、赦しが可能であることを告げるだけでなく、イエスに憩うすべての者に対してそれが保証されていることを告げる。
私は、神が定められたなだめの供え物、十字架にかかられたイエスを信じた。それゆえ私の罪は、この瞬間にもまた永遠にわたっても、主の身代わりのご苦難と死によって赦されている。これは、なんという喜びであろう! 完全に罪赦されたたましいの幸いよ! 私のたましいは、すべての力を主におささげする。
主は金銭で買えない愛をもって、私の保証人となり、御血によって私を贖われた。この代価の赦しは、なんと豊かな恵みを示していることか! ここに美しくきらめく驚異の集まりがある。さらに私が自分の罪の大きさを思い、それをきよめられた血潮の尊さを思い、赦しが確保された方法がどんなにあわれみに満ちているかを思う時、私は驚嘆し、崇拝の思いに自らを忘れる。
私は、自分を赦された主の御座の前にひれ伏し、私を解放した十字架を抱き、この後の生涯をささげて、受肉された神にお仕えしたい。今夜、私は主によって赦されたたましいである。
 

「彼らは寄って行ってイエスを起こし、『先生、先生。

2016年11月27日 16時19分53秒 | 聖書

私たちはおぼれて死にそうです』と言った」(ルカ8:24)

弟子達は自力で舟をこいでいた。
プロのベテラン漁師であった彼らは、舟を自由自在に操作する事が出来た。

しかし、突然の突風に会い、プロの腕でもどうにもならない。
水をかぶり、身に危険を感じる状況に陥った。
このままでは沈没の危機に追い込まれて、舟の中でぐっすり眠っておられる主に助けを求めた。

主は最初に「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた。主のお言葉だ。
主が言われたからには、必ず向こう岸へ渡れる。
天地がひっくり返っても主の言葉は成し遂げられる。
それゆえ、主は嵐の中も平安に熟睡しておられた。

主は起き上がられ、ひと言葉で、ピタッとなぎになってしまった。
驚き恐れた弟子たち。「向こう岸へ渡ろう」の御言葉に立つべきであった。
途中何があろうと渡れるのだ。

又、舟に主がおられるのに、右往左往だ。
私達も、主に頼らなくても十分やって行けるので、普段は主を無視して、ともの方へ追いやっていないか。

そして何か事があると、主が吹っ飛んでパニックになる。
普段はわからず、主に頼らず自分で舟をこいでいる部分を、試練の時に明らかにされる。
自分で舵取りしている所を、気づかされるだろうか。

自分で何とかしようとしている、その所を主に委ねよう。
主が乗り出され、問題を解決に導いて下さる。
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主が必ず解決して下さると本気で信じているだろうか。
ああしなければ、こうしなければと動く前に、主に尋ねてみよう。
これでいいのでしょうか、平安ありませんと。
そこから、主が、正しい道を示してくださる。


今日の聖人の記念日

2016年11月27日 09時12分05秒 | キリスト教

聖ヤコボ・インテルチーズス

5世紀

 ヤコボは、ペルシャに生まれ、信仰深く育てられた。ペルシャ国王エディゲルド1世に仕えていたが、420年ころから王がキリスト教を迫害し始めると、王の信頼を失うことを恐れて棄教した。王の死後、ヤコボの両親は、信仰を捨てたことで彼を責め、彼との関係を断つという手紙を送った。ヤコボは、大きな衝撃を受け、宮廷を去って、回心することを誓った。それを聞いた次の王バーラムは、ヤコボが棄教しないなら彼を処刑せよと臣下に命じた。

 しかしヤコボは、決して信仰を捨てようとせず、「この苦しい死も、永遠の生命を得るためならば比べることなどできない」と言った。そのため、刑を執行する者たちは、王の命令通りに彼の体を切り始めた。多くの信者たちから見守られ、ヤコボは苦痛に耐え祈りながら、殉教した。「インテルチーズス」といわれるのは、「細かく切り刻む」という意味からである。


◆国を建てる王・滅ぼす王

2016年11月27日 09時10分56秒 | 聖書

王は正義によって国を建てる。
しかし重税を取り立てる者は国を滅ぼす。(箴言二九4)
「正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる」(箴言一四34)と聖書にありますが、それは、世界の歴史が裏書きしていることだと思います。
「重税を取り立てる者」=「貪欲な王」(D・W・トマス)、「金で動く王」(リビングバイブル)。つまり、自分の欲望の満足のためにのみ治める王は、国を滅ぼします。何億円わいろを受けとっても、「記憶にございません」「私を育てるための献金」などと平気で言える政治家のことを思い出します。こんな人は「国を滅ぼす」と、聖書は言います。
「王は正義によって国を建てる。」……そんな理想的な支配者の姿が、イザヤ書一一章に記されています。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる」(1―5節)。
これは、じっくりと勉強するなら、最高の帝王学です。神に立てられて王となったという深い自覚のもとに、神を恐れる精神。神に従って、正しく真実に生きる人格と生活。何が人民のために正しく幸福なことかを悟る知恵。将来を見通して計画を立てる能力。物事の表面でなく、深いところにある真実を見極めてさばく政治。貧しい者・寄るべのない者への行き届いた思いやりのある政治。信賞必罰のはっきりした政治。……ここには、実は、メシヤとして来られるイエス・キリストご自身のイメージが預言されているのです。
 

◆主の使いの前に立っている大祭司ヨシュア……。

2016年11月27日 09時10分07秒 | 聖書
(ゼカリヤ三・一)
「大祭司」ヨシュアの中に、神の子らの絵を見る。彼はキリストの血によって近づけられ、聖務に携わることを教えられ、幕の中に入る。イエスは私たちを神の前に祭司とし、王とされた。私たちは、地上においても、聖い生活と尊い奉仕によって祭司の務めをなす。
この大祭司は「主の使いの前に立っている」と言われているが、これは奉仕のためであった。これはすべての真の信者がとるべき態度である。すべての場所が今や神の宮であり、神の民は彼らの日々の仕事において、神の家におけるように真実に神に仕えることができる。彼らは常に祈りと賛美の霊の犠牲をささげて仕え、彼ら自身を、「生きた供え物」としてささげなければならない。
しかしヨシュアが仕えるために、どこに立っていたかに注意せよ。それは「主の使いの前」であった。私たちのように、あわれな汚れた者が神の前に祭司となることができるのは、ただ仲保者を通してのみである。
私は自分のもっているものを、使者であり契約の使いであられる主イエスの前にさし出す。私の祈りは主の祈りに包まれて受け入れられる。私の賛美は、キリストご自身の花園から取り出された没薬、アロエ、肉桂の袋に包まれて、尊い香りを放つ。もし私が涙のほかに何も主の前にもち出すことができないとすれば、主はそれをご自分の涙とともにその皮袋に蓄えられる。かつて主は涙を流されたからである。もし私がうめきと嘆息のほかは何も主の前にもち出すことができないとすれば、主はそれをみこころにかなう犠牲として受け入れてくださる。主はかつて断腸の思いをし、たましいの苦悩を経験されたからである。
私自身も主にあって立ち、愛する者によって受け入れられている。私のなすすべての汚れたわざは、それ自体は神の憎まれるものであるが、神はそれを受け入れ、それに良い香りさえつけてくださる。主は満足され、私は祝福される。それゆえ、「主の使いの前に立っている大祭司」であるクリスチャンの立場を考えよ。
 

ヨブ記33章29-33節

2016年11月27日 09時08分53秒 | 聖書


33:31 「耳を貸せ。ヨブ。私に聞け。黙れ。私が語ろう。
33:32 もし、言い分があるならば、私に言い返せ。言ってみよ。あなたの正しいことを示してほしいからだ。
33:33 そうでなければ私に聞け。黙れ。あなたに知恵を教えよう。」



 再びエリフは、ヨブに、自分の言葉に聞けと告げます。

彼は、ヨブは自分のことのみ語っているというのです。

ですから、自分のことを語るのではなくて、私の語ることを聞けというのです。

ここで彼は、「黙れ」と叫びます。

ヨブの口を封じようとするのです。

それは、自分の語ることを、彼に聞かせるためでした。

 彼にとっては自分の語ること、また、自分がヨブに告げる事こそ真実なこと、また、神の前に受け入れられることだと思っていました。

ですから、ヨブの語ることを自分が聞く必要はない、むしろヨブの方が、自分の語ることに耳を傾けろというのです。

誰でも、人は自分の言っていることが正しいと思います。

ですから語るのです。

しかし、その正しさは誰が証明するのでしょうか。

神のみです。


ヨハネの福音書11章40節 (詩篇89篇)

2016年11月27日 09時06分48秒 | 聖書


★イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」


■O:今日のコラム
神様の栄光を見たい!と願っているでしょうか?病人に手を置けば病が癒され、死人がよみがえるほどの奇跡を。
イエス様が、神様の栄光を見るための条件を、ここの箇所で教えてくれています。
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。」
とてもシンプルです。「あなたが信じるなら。」
私たちが、信じることが出来るなら、神様の栄光を見続けることになります。

この11章で、死んでいたラザロがよみがえります。
でも、マリヤ、マルタ、群衆も、死人がよみがえる信仰は持っていませんでした。ただお一人、イエス様だけが、死人のよみがえる信仰を持っていました。
それによって、ラザロはよみがえることになります。

イエス様はラザロをよみがえらせる前に、マルタにこのように言われました。

(ヨハネ11:25-26)
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
もし、マルタが本当の意味をここで悟り、この言葉を信じきることが出来ていたなら、マルタがラザロをよみがえらせていたかもしれません。


マタイ8章では、しもべの癒しを求めて来た百人隊長が、信仰ゆえに神様の栄光を見ることになります。
百人隊長がイエス様に求めたことはただ一つ、

(マタイ8:8)
ー ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。

そして、どうなったでしょうか?

(マタイ8:13)
それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。


私たちは、御言葉を受け取り、しっかりと握り続ける必要があります。御言葉には力があります。また、御言葉は生きて働きます。

(ヘブル4:12)
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

私たちは、日々の中で聖霊様を歓迎し、御言葉を朗読し、御言葉を受け取ったなら、信仰を持って握り、御言葉を宣言し続けましょう。
そうするなら、主の栄光を見ることになります。



■A:考えてみよう
神様から受け取っている御言葉の約束を、信仰を持って宣言し祈り続けているだろうか?

癒しの信仰を持って、人々に手を置き祈っているだろうか?


■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


11月26日(土)のつぶやき

2016年11月27日 01時35分15秒 | キリスト教