座間コミニティー

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◆このわたしは荒野で、かわいた地で、

2016年10月31日 16時14分49秒 | 聖書
あなたを知っていた。(ホセア一三・五)
しかり、主よ。あなたは私が堕落していた時の様を知っておられました。その時でさえ、あなたは私をあなたのものとして選ばれました。私が汚れ、自分自身を嫌悪するほかなかった時、子どもとして私を受け入れ、私の燃えるような心の要求を満たされました。この自由な、豊かな、あふれるばかりのあわれみよ。このために私はとこしえにあなたの御名をたたえます。
その後も私の内なる経験は、しばしば荒野でした。しかし、なお私を愛する者として所有され、愛と恵みの流れを注いで私を喜ばせ、実り多い者とされました。ああ、外の環境が最悪であり、私がかんばつの地にさまよい出た時にも、あなたの楽しいご臨在は私を慰めました。嘲笑が私を待っていた時、人々はそれを知りませんでしたが、あなたのみ、逆境の中にいる私のたましいを知っておられました。なぜなら、どのような苦難もあなたの愛の輝きを曇らせることはないからです。いと高き恵み深き主よ。試みの中にあった時、いつも誠実であられたあなたをほめたたえます。そして、私はあなたの柔和と愛に一切を負っているのに、あなたを忘れ、心に高ぶりを覚えていたことを嘆き悲しみます。主よ。あなたのしもべをあわれんでください。
私のたましいよ。おまえが卑しかった時、このようにイエスがおまえを顧みられたとすれば、繁栄している今も、主ご自身とそのみこころの支配下にあることを確信せよ。世の成功によって高慢になり、真理を恥じ、属する教会を恥じてはならない。主に従って荒野に行け。迫害の火の手が燃え上がっている時にも、主と共に十字架を負え。おまえが貧乏と恥辱の中にあった時も、主はおまえをご自身のものとして所有された。決して主を恥じて主にそむいてはならない。おお、私の愛する方を恥じるとは、思うだけでも恥辱である。イエス様。私のたましいはあなたにすがります。
 最も輝かしく、麗しき主よ
 私のたましいはあなたにすがります
 心労の夜にも、また光の昼にも
 
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「イエスは彼に言われた。

2016年10月31日 16時13分54秒 | 聖書

『起きて、床を取り上げて歩きなさい』」(ヨハネ5:8)

もし人が病気になっても、それが普通であり、正常な状態だと思っているなら、病気が治ることはない。
病気が治るには、自分が病気だと認識しなければならない。
私達も癒されるためには、自分が病んでいる、この状態はまともではないと認識することが重要だ。

自分の自我や自己中心には目を向けないで、相手の欠点ばかり責めているなら、いつまでたっても、その状態は改善されず、延々同じ事の繰り返しのままだ。
何の成長もない。

私たちはどうだろう。
相手の欠点ではなく、それに反応して相手を攻撃し、責める「自分の問題」だと気づき、認めて行く時、変えられて行く。

この人は「池の中に私を入れてくれる人がいない」と、人のせいにしていた。
助けてくれる介助人がいない、だから自分は良くならない。
問題は介助人がいないことであり、そのゆえだと。

人に依存してしまっていた。人に依存すると無気力になる。うまく行かないのは
人のせい、人が悪い。その、人依存こそが問題だ。

主は「起きて」と言われた、床を取り上げて、自分の足で歩けと。
人はいっさい関係なく、問題は、人に、病気に、依存している「自分に」あると気づき、認める時、主のみわざはすでに始まっている。

自分の床って何だろう。
自己憐憫、諦め、不満、不信仰、偶像に依存する心・・その床を取り上げて、神を心底頼って歩く事を始めよう。
自立とは神だけに頼ること、神依存だ。
その時初めて、自分の人生に責任を持ち、喜びもって自分の足で歩ける。

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相手が悪いとしか見えず、ここがサタンの罠で、相手でなく「自分の問題」であることがなかなかわからない。
御霊に目が開かれて、目からうろこで、初めて悟る。
自分が変えられ、解放され、心が御霊の喜びと平安で満ちる。

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今日の聖人の記念日

2016年10月31日 07時51分08秒 | キリスト教

聖ウォルフガング司教

920年-994年

 ウォルフガングは、ドイツ南部スウェーベンの貴族の家に生まれた。少年時代はベネディクト会修道院で学び、ヴュルツブルクの神学校に入り、司祭となった。956年に、友人のヘンリーがトリーアの大司教に任命されると、その教区の神学校校長に招かれた。ヘンリーが964年に亡くなると、スイスのアインジーデルンで隠修士となり、ハンガリーへ宣教に行った。しかし972年に皇帝オットー2世からレーゲンスブルクの司教に任命され、司祭や修道士の生活を指導する一方、皇帝のよき相談相手となった。彼自身は質素で厳しい生活を続け、貧しい人びとや病人の援助に力を尽くした。
 レーゲンスブルクの守護の聖人とされている。

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◆人をのろわば穴二つ

2016年10月31日 07時49分53秒 | 聖書

穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、
石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。(箴言二六27)
小さい時、私たちはよく落とし穴を掘って遊びました。原っぱに穴を掘り、その上を木の枝や草でおおって擬装し、人が落ちるのを楽しみにしていたものです。でも次の日に、自分のしかけた落とし穴を忘れて、自分で落ちてしまったということなども、確かあったようです。こんなことは遊びです。しかし、「人をのろわば穴二つ。」――これは、深刻な現実です。
聖書の中に、いくつか顕著な実例があります。ハマンという高官は、憎いユダヤ人のモルデカイを王にざん言し、彼をはりつけにするために、柱を立てておきました。しかし、そのハマンの悪だくみが王妃エステルによってあばかれた時、ハマンは、自分が立てたはりつけ柱にかけられてしまいました。エステル記に出ていることです(五―七章参照)。
ユダヤ人の預言者ダニエルを憎み、彼を落とし入れようとした大臣たちは、ダニエルを投げこもうと計画した獅子の穴に、自分たちが投げこまれる破目になってしまいました。旧約聖書ダニエル書に書かれています(六章参照)。のろいや悪だくみは、必ず、自分自身へののろい・わざわいとなって返ってきます。
そして愛もまた、必ず、勝利と祝福を持って返ってくるのではないでしょうか。聖書は言います。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。……いつまでも残るものは……愛です」(Ⅰコリント一三4―813)。
 
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◆ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

2016年10月31日 07時49分01秒 | 聖書
(詩篇五一・一〇)
信仰後退者が、もしその内にわずかでも残りの火をとどめているならば、回復を求めてうめくであろう。彼が再び新たにされるには、回心と同様の恵みの働きが必要である。私たちは回心の時、悔い改めが必要であった。今もたしかに悔い改めが必要である。私たちは最初キリストのもとに来るため、信仰を求めた。今もこれと同じ恵みのみが私たちをイエスのもとに行かせる。私たちはその時、私たちの恐れに終止符を打つため、いと高き方のみことば、愛する者のくちびるより出るみことばを必要とした。私たちは現在罪の意識の下にある時、なおそれを要することを発見するだろう。だれでも、初めに感じたような聖霊の力の真の顕現がなければ、新たにされることは不可能である。なぜなら、それは難事業であり、血肉は今も変わることなく行く手をふさいでいるからである。
クリスチャンよ。あなたの弱いことを、神に熱心に助けを求める理由とせよ。ダビデが自らの無力を感じた時、手をこまねくことなく、くちびるを閉じることなく、恵みの座に駆けつけて、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と祈ったことを覚えよ。あなたが一人では何事もなし得ないという教えを、怠惰の理由とせず、イスラエルの保護者に熱心に駆けつける理由とせよ。あなたが命をかけて「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と神に嘆願する恵みを得られるように。神に向かって真剣にこのように祈る者は、神の働かれる手段を用いることによって、自分が誠実であることを証明するであろう。
多く祈れ。神のみことばに生きよ。あなたから主を追い出した肉欲を殺せ。罪が再び頭をもたげないように警戒せよ。主はご自身の定められた方法を用意される。道のかたわらに座せ。主がお通りになる時、あなたは備えができていよう。あなたの恵みを養い育てる信仰の務めを続けよ。そして、すべての力が主から来なければならないことを知り、「ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と叫ぶことをやめるな。
 
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ヨブ記23章8-17節

2016年10月31日 07時47分33秒 | 聖書


23:11 「私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それなかった。
23:12 私は神のくちびるの命令から離れず、私の定めよりも、御口のことばをたくわえた。
23:13 しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことができようか。神はこころの欲するところを行われる。」



 ヨブは、自分は罪を持たない人である、とは言わない。

彼は主にある者として、神を恐れて信仰に生き、そうした意味で正しい人でした。

しかもそれだけではありません。

彼は、神から言い知れない苦しみを受けました。

しかしそのことに対して、妻が彼に神を呪って死ねと言っても、彼は神を呪うことをしませんでした。

神には御心がある。

それが何であるのかはわからない。

でも、それを自分が知り得ないからと言って、自分が神に侮る言葉を吐き、神を呪うようなことはしない。

 私にとって神は唯一の拠り所、このお方以外に自分の救いはない。

だからどんなことがあっても、その苦しみに耐え、神からの返事を待ち望む、と言うのです。

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第一ペテロ4章7~8節

2016年10月31日 07時45分21秒 | 聖書


★万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

■O:今日のコラム
万物の終わり…それは、万物のゴールであり、目的であり、完成です。この万物の終わりこそ、創世記の信仰者たちがあこがれた天の故郷(へブル11:16)です。彼らが長い間夢見て来た時が、いよいよ目前に迫っているのです。なんと興奮すべき時代に生かされていることでしょうか。

しかし、このような終わりの時代にあって、私たちが現実逃避したり、冷静な判断を放棄することのないよう、また、派手なものや魅力的な教えに惑わされ、信仰が揺り動かされることのないよう、ペテロはここに重要なメッセージを記しました。それは、とてもシンプルで基礎的なことです。

万物の終わりにふさわしい生き方として第一にペテロが取り上げたことは「祈りの生活」(7節)です。父と子の関係、聖霊様との親しい歩みであり、日々、神の声を聞き、それに応答していく生き方です。

そして第二に挙げたのは、「互いに愛し合う」ことです。互いに親切にもてなし合う(9節)、賜物を用いて互いに仕え合う(10節)、神の言葉にふさわしく語る、奉仕する(11節)。第一の「祈り」が神に対する姿勢であるなら、ここで言っている「愛」は人に対するものです。

ペテロが挙げた第一のものと第二のもの、これらは、イエス様ご自身が語られたことでした。

「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ22章37~39節)

主ご自身を愛すること、そして、隣人を愛すること。万物の終わりにあって、この第一の戒めと第二の戒めが私たちの内でいよいよ回復されなければいけません。

様々な出来事やあらゆる教えの風に吹き回されたり波にもてあそばれたりすることのないよう、日々、みことばの朗読と祈りの生活に身を慎みましょう。そして、人々の愛が冷めゆく今の時代にあって、互いに熱心に愛し合うこと、この2つのことに集中していきたいと心から願います。


■A:考えてみよう
日々のことに心を留めるなら重要な日を見逃してしまいます。しっかりと目を覚まして、主の訪れを見張りましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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10月30日(日)のつぶやき

2016年10月31日 01時34分23秒 | キリスト教
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◆庭の中に住む仲間たちは、あなたの声に耳を傾けている。

2016年10月30日 16時55分10秒 | 聖書
私にそれを聞かせよ。(雅歌八・一三)
主イエスは、ゲツセマネの園を去り、今主の教会の園の中に住んでおられるが、あの園のことをよく覚えておられる。そして今住んでおられる教会の園においても、主の幸いな仲間に加わっている者に、御心を打ち明けてお語りになる。その御声には、すべての人間の音楽も及ばない愛のメロディーがある。
地上における何万の人々、天上における何百万の人々が、その調和のある音楽を楽しんでいる。私がよく知り、うらやましく思っていた人々は、今なつかしい御声に耳を傾けている。おお、私もその喜びにあずかることができたなら! これらの人々のうち、ある者は貧しく、他の者は長く病床にあり、さらにある者は死の門に近づいている。しかし、おお、私の主よ。あなたの御声さえ聞くことができるならば、私は喜んで彼らと共に飢え、やせ衰え、共に死にたい。
かつて私は、しばしばあなたの御声を聞いていました。しかし、あなたの御霊を悲しませました。私をあわれみ、私のところに帰ってください。再び「わたしがあなたの救いだ」と御声をかけてください。他のどのような声も私を満足させません。私はあなたの御声を知っています。私に御声を聞かせてください。あなたが何と言われるかは知りません。そして、条件をつけることをしません。愛する主よ。ただあなたの御声を聞かせてください。それが叱責ならば、そのためにあなたをあがめます。私の鈍い耳をきよめるために、肉にとって非常な苦痛である手術を要するかもしれません。しかし、どんな犠牲が必要でも、ただ、御声を聞くことができない者とはしないでください。
今夜、あなたの卑しいしもべの、この願いを許してください。私はあなたの血で贖われ、あなたのものなのですから。あなたが私の目を開き、あなたを見ることを得させてくださったために、私は救われました。主よ。私の耳を開いてください。私はあなたの御心を読みました。今、あなたのくちびるの御声に耳を傾けさせてください。
 
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「そのような知恵は、上から来たものではなく、

2016年10月30日 16時54分26秒 | 聖書

地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」(ヤコブ4:15)

思いは要注意だ、すべてが神からのものでなく、世、自分の肉、悪霊からの思いが混線している。
地のものとは、世の習慣や価値観だ。一見、善いものに見える。
ヒューマニズムは世界平和や人類愛をうたう。
しかし、人間中心であり、神否定、神無しの価値観だ。
神なしで愛と平和を作る。麗しく、好ましいものだけに要注意だ。

肉のものは、生まれつきの性質から出て来る欲望だ。
肉の行いは、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ・・の類だ。

悪霊のものは、サタンが吹き込んで来る思いであり、悪霊達の動機は神への妬みだ。
妬みは人間の性質に深く巣くっている。
私達の心の思いをよく見張って、神以外から来るこれらの思いを点検する必要がある。

サタンは思いに働く。まず思いを吹き込み、思いから行動へ駆り立て、秩序を乱して行く。
サタンのする事は破壊だ。教会、家庭・・分裂、秩序の混乱には、必ず神以外の知恵が働いている。
よく見張ろう。争いを引き起こし、分裂させる。

神からの思いは下心がなく、見せかけなく純真だ。
必ず平安があり、柔和で、あわれみに満ち、へりくだったものだ。
神以外からの思いには、妬み、敵対心、プライドからの誇り、真理に逆らったものだ。
神からの思いは、実を結び、祝福となり、栄光が現れる。
神以外の思いは、深刻なトラブルを生み出して行く。
今、問題と混乱があるなら、自らの思いを点検しよう。
どこからの知恵で突き進んでいるのだろう。放っておいてはならない。
邪悪な思いはますます膨らむ。神に正直にそのままを告白しよう。
上からのものへと変えて下さる。

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人への羨望、妬み、裁き、敵意があるなら、自分では気づかず、秩序を壊して行く。
自分も平安が無い。まず、それらを認めて、主の御前にそのまま告白しよう。
その時、そこに神が働くことができ、思いが変えられ、自分が変えられて行く。

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今日の聖人の記念日

2016年10月30日 09時38分37秒 | キリスト教

聖アルフォンソ・ロドリゲス

1531年-1617年

 アルフォンソは、スペイン、セゴビアの裕福な商人の家に生まれ、14歳のときに父を亡くして後を継いだ。26歳のとき結婚し、子どもにも恵まれたが、幸福な家庭生活も束の間、妻や子どもたちが次々と亡くなり、商売も不況という試練に見舞われた。アルフォンソはすべてを神に委ね、これからの人生を神に仕えたいと司祭になることを決心し、イエズス会への入会を望んだ。しかし、34歳という年齢の高さや、体力、学力などの理由で、6年間入会を断わられ続けた。しかし、とうとう管区長は、アルフォンソの熱心さとその徳の高さを認め、修道士として入会を許可した。翌年マジョルカ島のパルマに派遣され、その日から46年間イエズス会の学校の受付として仕事に励んだ。

 学校を訪れる客は、アルフォンソの優しく、礼儀正しい態度に感動し、彼が聖人だという評判が広まり、あらゆる階層の人びとが彼に助言や指導を求めに訪れた。その中に、当時神学生であり、のちに黒人奴隷の使徒となった聖ペトロ・クラヴェル司祭(9.9参照)もいた。

 「神のために忍んだ災難と繁栄の違いは、金と鉛の違いよりも大きい。」
               (聖アルフォンソ・ロドリゲス)

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◆巧言令色すくなし仁

2016年10月30日 09時37分39秒 | 聖書

声を和らげて語りかけても、それを信じるな。
その心には
七つの忌みきらわれるものがあるから。(箴言二六25)
「人を見たらどろぼうと思え」ということばがあります。
人間をそのことばどおり信じるな。人のことばは表面上のもので、「その心の中には七つもの忌まわしい思い・悪い心がひそんでいる」というのです。悲しいことです。しかし、悲しい現実ではないでしょうか。
ソロモンは、ことばがじょうずで、心が悪い人の姿を「銀の上薬を塗った土の器のようだ」(箴言二六23)と言いました。銀むくだと人に思わせますが、中味が違うのです。中国でも、「巧言令色すくなし仁」といって、ことば巧みな人は警戒せよ。真実の人は少ない、必ずといっていいほど裏があると警告しています。私たち人間には裏表がある、口と心の不一致がある。――このことは、人を判断するためによく知っておくべきでしょう。しかし、何よりもこれを自らに当てはめてみて、反省材料にすべきではないかと思います。
いったいどんな、いやな心・みにくい心・神に忌みきらわれる心が、私たちのうちにあるのでしょうか。
イエス・キリストは、こう言われました。「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。……内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(マルコ七15―23)。
イエス・キリストは、またこう言われました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四14)。忌まわしい、人をけがすものではなく、こんな新しい泉を心の中に持ちたいものです。
 
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◆私は心を尽くして主に感謝します。

2016年10月30日 09時36分51秒 | 聖書
(詩篇九・一)
祈りが答えられた時、いつでも感謝がなされなければならない。それはちょうど天上の愛の太陽が地を暖める時、地の感謝の霧が立ち上るようである。主はあなたにあわれみ深く、あなたの訴えに耳を傾けられたか。それならあなたは生きている限り主に感謝せよ。熟した果物を、それにいのちを与えた源である肥えた地の上に落とせ。あなたの祈りに答え、あなたの心の願いをかなえられた方に歌をささげることを拒んではならない。神のあわれみに対して沈黙を守ることは、忘恩の罪を犯すことになる。それは、病をいやされたのに、いやし主に感謝をしに帰らなかった九人と同様、卑しいことである。
神に対する感謝を忘れるのは、私たち自身を益することを拒むことである。なぜなら感謝は、祈りと同様、私たちの霊的生活の成長を促進する有力な手段だからである。感謝は私たちの重荷を去り、希望を盛んにし、信仰を増進させることを助ける。それは、信者の活力を盛んにし、主の御用のため新しいことを企てる勇気を与える、健全な、また活気ある活動である。
神に対し、受けた恵みを感謝することは、私たちの友をも益する道である。「貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。」もし私たちが「私とともに主をほめよ、共に、御名をあがめよう。私が主を求めると、主は答えてくださった」と言うことができれば、私たちと同様な事情の下にある者は慰められるであろう。私たちの「救いの歌」を聞いて、心の弱い者は強められ、うなだれた聖徒は力づけられるだろう。私たちが詩と賛美と霊の歌とにより、互いに教え、互いに戒めるならば、彼らの疑いや恐れは消え去るであろう。私たちが、主の聖なる御名をあがめるのを彼らが聞く時、彼らもまた「主の道について歌う」であろう。
クリスチャンの義務の中で最もすばらしいのは感謝である。天使は祈ることはしないが、昼も夜も感謝をやめない。贖われた者は白い衣を着、しゅろの枝を手に、うむことなく「小羊はふさわしい」とたたえる新しい歌を歌う。
 
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ヨブ記23章1-7節

2016年10月30日 09時35分37秒 | 聖書


23:3 「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。
23:4 私は御前に訴えを並べたて、ことばの限り討論したい。
23:5 私は神が答えることばを知り、私に言われることが何であるかを悟りたい。」



 ヨブは、人との議論の中では、自分の苦しみの理由を知ることができないので、彼は神と論議をしたいと語っています。

しかし、どこに行って神に会うことができるのかわからないので、その論議もおぼつかないと言います。

神様は霊ですので人の目には見えませんし、また目を持ってみることができません。

従って、神様と論議をする時には、神様の方から彼に語ってくださるのでなければ、彼は神と語ることができません。

ですから、どこに行ったら語り合えるのかというのです。

彼にとっては、神のみが真に自分の苦しみの理由を知り、またそれを告げることができるお方であると知っています。

ですから彼は、鹿が谷川の水を慕いあえぐように、生ける神を慕っているのです。

彼にとっては、神がすべてであったのです。

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第一ペテロ3章9節

2016年10月30日 09時33分26秒 | 聖書


★悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのですから。

■O:今日のコラム
第一ペテロ3章はいろいろなトピックについて書かれています。1節では妻たちがどのように生活すべきか、8節では家族、兄弟たち(教会の兄弟姉妹も含め)同士がどのように過ごすべきか、15節では内なる希望について、21節ではバプテスマについての説明がされています。この一章を通してペテロは何を言いたかったのでしょう。この章でペテロは度々「心の中の隠れた人」「うちにある希望」など、「内なる人」について語っています。ペテロは神の教会を完成させるために、外面的でなく、朽ちることのないものを完成させなさいと励ましているのです。
今回あげた9節の「悪をもって悪に報いず…」の後には、どのようにしたら祝福を与えることができるか、の幾つかのキーポイントが書かれてあります。
「舌を押さえて悪を言わず」「くちびるを閉ざして偽りを語らず」と出てきます。どの様にすれば、くちびるを閉ざすことができるのでしょうか、どの様にすれば偽りを語らずに過ごせるのでしょうか。
マタイ15章18節
「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。」と言っています。口を守るには心を見張らないといけないのです。しかし、ただ心を見張っているだけでは、良いものも悪いものも入ってきます。私たちは良いものを入れなければなりません。そうです。良いものとは何でしょうか。いのちなるみことばです。
みことばが私たちを生かし、心を突き刺し、正しい良心を与え、正しい道へと導いてくださるのです。
人を祝福するとは、どのようにできることでしょうか、その相手が悪を行ってきたらどうするのでしょうか。侮辱をもってきたらどうすれば祝福で返せるのでしょうか。その相手に本来の姿であるみことばをもって祈り、宣言することができます。それが、舌を押さえて悪をいうどころか、舌をもって祈ることができます。
くちびるを閉ざして偽りを語るどころかくちびるをもってみことばを宣言するのです。その時、相手は祝福を受けることができるのです。私たちは「祝福を受け継ぐために召されたのですから。」とペテロが言う通り、祝福を受け継ぐ民として召されてしまっているのです。このみことばが私たちのものとなりますように。内なる人が完成するとはどういうことでしょうか。
ガラテヤ5章22-23節
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
ペテロは手紙の中でこのみことばにある御霊の実について具体的にどのようにすれば良いのか励まし語ってくれているのです。



■A:考えてみよう
祝福が私たちの内にあるだろうか。祝福なるみことばがわたしたちの内に満ちているだろうか。


■P:祈り
内なる人が日々造り変えられ、完成していくこと願います。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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