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◆生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。

2014年09月30日 16時14分46秒 | 聖書

(伝道者九・四)

いのちは尊い。それがどんなに卑しい形のものでも死よりはまさる。これは、霊的なことにおいてたしかに真理である。天国で最も小さい者となることは、天国の外で最大な者となるよりもまさる。恵みの最低の段階は、生まれ変わらない性質の最高の発展段階よりすぐれている。聖霊が神のいのちをたましいの中に植えつけられたところには、洗練された教育も匹敵できない尊いものがある。十字架上の犯罪人は、王座にいるカエサルにまさり、犬に囲まれるラザロは、元老院議員の中にいるキケロにまさり、さらに最も無学なクリスチャンは、神の目から見ればプラトンよりもまさっている。いのちは霊の領域において高貴さのしるしである。それをもっていない人々は、質の良い悪いにかかわらず、いずれもいのちのないものの実例であり、いのちを与えられる必要がある。彼らは咎と罪の中に死んでいるのだから。
生き生きとして愛に満ちている福音の説教は、無学で形式が整わなくても、聖霊の油と力のない最高に洗練された大講演にはるかにまさる。生きている犬は見張りをし、主人にとっては死んだ獅子よりも役に立つ。そのように最も貧弱な霊的説教者も、大雄弁家の、ことばがあっても知恵がなく、響きがあっても活力のないのに比べれば、どんなにすぐれているかわからない。私たちの祈りや礼拝についても同様である。もし私たちが、それらの中で聖霊によって力づけられているならば、神は、それをイエス・キリストによって受け入れてくださる。しかし、私たちの心のこもらない壮大な儀式は、死んだ獅子のようであり、生ける神の目から見れば、腐敗したしかばねにすぎない。
おお、いのちのない歌や、死んだ安静よりも、むしろ生きたうめき、生きた嘆息、生きた失望を得たい。どのようなものでも死よりはまさる。地獄の犬のうなり声は、少なくとも私たちの目を覚まさせる効果はもつ。しかし、人のもつことのできるのろいの中で、死んだ信仰と死んだ告白より大いなるものがあろうか。
おお、主よ。私たちを生かしてください。

 


「あなたのみことばは、

2014年09月30日 16時13分45秒 | 聖書

私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)

御言葉が人生の歩みを、方向を示してくれる指針であり、進むべき道を教えてくれるのは、誰しも経験してきたところだ。
しかし、人間はどうしても不完全なので、間違いもある。
自らの強い期待、強い願望がある場合、自分の願望を御言葉に読み込んでしまう。
そして、神に語られたと勘違いする。
ある異端でもよく耳にすると思うが、前後関係の意味合いを無視して、1節の御言葉だけをポンと取って来くるのは危険だ。
御言葉には、前後関係の中での意味と解釈があるからだ。
それをあちこちから1節だけを取って来て、つなぎ合わせると、自分の都合の良いみこころが作られてしまう。
幾らでも自分の願望に合ったみこころが出来上がってしまう。
それは私的解釈だ。初心者の頃には、誰しも経験あるだろう。
実際に環境がそうはならないので、自分の間違いであったと学んで行く。
よく祈り、前後関係の文脈をとらえ、聖書の1節は聖書全体から見て行くことが大切だ。
一番大切なことは、御言葉は進路標識でなく、主ご自身の霊であり、いのちであり、そこに心があるという事だ。
へりくだって、みことばを愛して、向き合う時、御霊により正しく導かれる。
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デボーションもできたら一章単位で読んで行きたい。
全体の脈絡、背景なども考えながら意味をよく考え悟っていきたい。
みことばを悟るとは、素直な心でみことばを聞き、みことばを信頼し、保つことだと学んだ。


今日の聖人の記念日

2014年09月30日 07時56分12秒 | キリスト教

聖ヒエロニモ司祭教会博士

347年-420年

 古代教会の重要なラテン教父であるヒエロニモは、ダルマチア(現オーストリア)の裕福なキリスト信者の家に生まれた。恵まれた環境と豊かな才能によって、短期間でギリシャ語とラテン語を習得し、ローマに留学して8年間修辞学を勉強した。

 そのころ、修道生活に入ることを望み、アクィレアで隠修士の仲間に入り、その後東シリアの荒野に行き、聖書を研究しヘブライ語を学んだ。そしてアンチオキアに戻ってから司祭に叙階され、380年ころ司教とともにコンスタンチノープルに行って、ニッサのグレゴリオなどと親交をもった。

 382年から385年まで教皇ダマソ1世に仕え、聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳したブルガタ聖書を完成し、聖書の注釈書も著わした。教皇の死後、ヒエロニモの反対者によってローマを追われ、仲間とともにベトレヘムに行き、男子と女子の修道院を創立し、また聖地巡礼者のための宿泊所も建てた。晩年は、民族大移動時代と重なり、多くの困難に見舞われたが、修道院を守り抜き、著作活動に励んだ。

 現在もカトリック教会で使われているラテン語訳聖書は、彼によるものである。ヒエロニモは、大学、神学科の守護の聖人とされている。


◆食 欲 の 問 題

2014年09月30日 07時54分57秒 | 聖書

わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。
蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。
知恵もあなたのたましいにとっては、
そうだと知れ。
それを見つけると、良い終わりがあり、
あなたの望みは断たれることがない。(箴言二四13―14)

聖書の中に、蜂蜜が何回も出てきます。甘いものの少なかった時代に、蜂蜜がどんなに貴重であったかが想像できます。信州育ちの友人から、子どものころ、蜂をつかまえて細いひもを結んで放し、蜂の行方を追って、それこそ野越え山越えして、蜂の巣を捜し当てたという経験を聞いたことがあります。イスラエルの昔の人たちも、一生懸命蜂の巣を捜し、したたる蜜を求めたことでしょう。
蜜を恋い慕うと同じように、神の知識を恋い慕いなさいと、聖書は言っているのです。ペテロも、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」(Ⅰペテロ二2)とすすめ、ダビデも、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩篇一一九103)と告白しました。
しかし、あなたにとってどうでしょうか。「良薬口に苦し」ということばがありますが、聖書のことばとか、神とか永遠とかの話には食欲を感じない。苦いとは感じても、とても蜜とは思えない。――これが、私たち多くの人間の問題となっています。きよいこと・永遠のこと・神・神の知識に対して飢え渇きや食欲がないのは、なぜでしょうか。おいしいごちそうを前にしても、ほかのものでおなかがいっぱいで入らなかった経験はありませんか。卑しいもので、腹を満たしている時、貴いものへの食欲がわいてきません。そこで、ペテロは、「すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」(Ⅰペテロ二1)みことばを慕い求めなさいと言ったのです。

 


◆全地よ。神に向かって喜び叫べ。

2014年09月30日 07時54分04秒 | 聖書

御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。(詩篇六六・一、二)

神を賛美するかしないかは、私たちの勝手ではない。神は賛美を受けるべき方であられ、すべてのクリスチャンは、神の恵みを受けた者として、日々神を賛美すべきである。私たちは、日ごとに神を賛美するようにとの高圧的な命令は受けず、ある一定の時に歌い、感謝をささげるようにとも言われていない。しかし、私たちの心に記された律法は、神を賛美するのが正しいことだと教える。この不文律は、石の板に記されたような、あるいは雷鳴とどろくシナイ山頂から直接私たちに渡されたような力をもって迫ってくる。
そうだ。神を賛美することはクリスチャンの義務である。これは単なる楽しい行事であるだけではなく、クリスチャンの生涯の絶対的義務である。絶えず嘆き悲しむ者よ。この点に関して自分に罪がないと思ってはいけない。また賛美の歌なしにあなたの神に対する義務を果たすことができると考えるな。あなたは生きる限り、主の御名をほめたたえるために、愛のひもをもってつながれている。そして、主に対する賛美が常にあなたの口になければならない。神を祝福するために、あなたは祝福を受けているのである。「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
もしあなたが神を賛美しないならば、あなたは、農夫である神があなたに期待される実を、まだ結んでいないのである。だからあなたのたてごとを柳にかけたままにせず、それを下ろし、感謝の心をこめて高らかにかき鳴らせ。立って、神への賛美を歌え。夜明けのたびに感謝の叫びを上げ、夕日の沈むごとにあなたの賛美の歌を歌え。あなたの賛美をもって地をおおい、美しい調べによって地を包め。そうすれば神は天から聞いてくださって、あなたの音楽を受け入れてくださるだろう。
 私はあなたを愛し、心より愛し続け
 あなたに、賛美の歌をささげる
 あなたは私の愛する神であられ
 私の贖い主であられるからだ

 


2014年9月25日

2014年09月30日 07時52分47秒 | 聖書

第2サムエル記19章16-23節

19:21 ツェルヤの子アビシャイは口をはさんで言った。「シムイは、主に油そそがれた方をのろったので、そのために死に値するのではありませんか。」
19:22 しかしダビデは言った。「ツェルヤの子らよ。あれは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。あなたがたは、きょう、私に敵対しようとでもするのか。きょう、イスラエルのうちで、人が殺されてよいだろうか。私が、きょう、イスラエルの王であることを、私が知らないとでもいうのか。」



 先に、ダビデに背いてアブシャロムについていたシムイが、自ら犯した罪を悔いて、ダビデがヨルダン川を渡る前に彼の元に行って、赦しを求めました。

その時アビシャイは、主が油注いだ者を呪ったシムイのような者は赦すべきではない、とダビデに告げました。

しかしダビデは、彼の口をとどめ、こう語りました。

この問題は私に関わることで、あなたに関わることではない。

また、私は今日、全イスラエルの王として立ち上がったのだ。

そのような時に、人を殺害するというようなことをすべきであるのかと語ったのです。

彼は、シムイを赦しました。


テモテへの手紙 第二 2章1節、イザヤ書44章6、21-22節

2014年09月30日 07時48分17秒 | 聖書

 ★2テモ2:1  そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。

★イザ44:6  イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである 。わたしのほかに神はない。

★イザ44:21-22  ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。 わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。

わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、 あなたを贖ったからだ。」

■O:今日のコラム

9月30日の朝です。今日1日もイエス様を求めていきましょう。主は初めと終わりの方だからです。主によって、事がはじまり、主によって、事が終わるからです。

主は、僕らを贖ってくださるお方です。僕らが勝手に主に背を向けていたのに、主は、僕らを買い戻してくださいました。僕らを、忘れることはなく、僕らの罪さえもぬぐい去ってくださいました。ありえない祝福です。これが恵みです。

この恵みの源は、キリスト・イエス様です。救い主なるイエス様の十字架と復活によって買い戻しが成立しました。この買い戻しは、今までの罪と、これから起こすであろう罪の代価を請求する証書を無効にするものです。

このありえない祝福を、僕らは、キリスト・イエス様を聖霊様の力によって信じる信仰によって、恵みとして受け取る者とされました。

だから、今日1日も罪を犯し続けても大丈夫だよ。とはなりません!!(危ない危ない)

僕らには、罪があります。僕らを命懸けで愛してくださったイエス様と全く同じ心になれない者です。僕は、この現実を真摯に受け入れ、ますます主を求める者へとなっていきたいです。恵みを無駄に受けることをしたくありません。ありえない祝福があるのならば、その祝福を少しも無駄にしたくありません。

主が造り上げた通りの人生を歩んでいきたいです。僕らは、主に仕える者として、主から愛される者として、主を愛する者として、生きていきたいです。天地を創造された主は、僕らを母の胎内にいる時から形造られた方です。主が、初めであり、終わりを支配されるお方です。

主の贖いを受け取り、ますます増す増す益々恵みを受け取っていきましょう。

■A:考えてみよう

恵みを受け取るならば、あなたは、今日1日、どのように歩みますか?
どのように歩めますか?

テモテへの手紙 第二 2章2節(口語訳)

そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。

恵みによって強められ、『そして、』恵みを伝える者となっていきたいです。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月29日(月)のつぶやき

2014年09月30日 01時49分41秒 | キリスト教

テモテへの手紙 第一 6章12節(イザヤ書42章) goo.gl/d9hvzt


第2サムエル記19章11-15節 goo.gl/pvk7rG


◆もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、 goo.gl/b2KgJb


◆私の愛している人を私は見つけました。 goo.gl/Zz1Eq8



◆私の愛している人を私は見つけました。

2014年09月29日 15時54分21秒 | 聖書

この方をしっかりつかまえて、放さず……。(雅歌三・四)

キリストは、私たちがみもとに行く時、過去の罪がどうであろうと、受け入れてくださるだろうか。私たちは、他のあらゆる避け所を試してみたが、そのために主が私たちをお叱りになることはないであろうか。この地上に、主のようなお方がほかにあるだろうか。すべての善の中で主は最善であられ、すべての美の中で最上の美ではないだろうか。
おお、それなら主をほめたたえよう。エルサレムの娘たちよ。タンバリンとたてごとをもって主をたたえよ。あなたの偶像を打ち倒して、主イエスをあがめよ。誇りと傲慢の旗を足下に踏みにじり、この世がまゆをひそめ、あざける十字架を高く掲げよ。主をとこしえにあがめ、私の霊を主の足台の下に座らせ、主の御足に口づけし、私の涙をもって御足を洗おう。
ああ、キリストの尊さよ! なぜ私は、主のことをわずかしか考えていなかったのか。主がこれほどに私を満たし、富ませ、満足を与えられたのに、なぜ主以外のものに喜びや慰めを求めたりするのか。主にある友よ。決して主を離れないという誓いを自分の心と結び、主の批准を求めよ。主に願い求めよ。あなた自身を主の指のしるしとし、主の腕の腕輪としてくださるようにと。花嫁がその身を美しく飾り、花婿が宝石をつけるように、主があなたをご自身につけられるように求めよ。私はキリストの心の中に生きたい。
すずめがすみかを見つけ、つばめがひなを入れる巣を得るように、万軍の主、私の王、私の神様、あなたの祭壇のかたわらに住まいを得させてください。私もまたあなたの中に、私の巣、私の家を造り、あなたの鳩のたましいである私が、決してあなたから飛び出すことなく、おお、イエス様、私の唯一の安息所であるあなたに、よりそっていたいのです。
 尊い主にお会いした時
 私の愛のすべてが燃え上がり
 愛のきずなで主を縛った
 私は主を引き止めて行かせない

 


「そこで主は仰せられた。

2014年09月29日 15時53分34秒 | 聖書

「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。
彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない」(イザヤ29:13)

多くの民が神殿へ行き、献げものを献げていた。
沢山の人々が宮もうでをしていた。
今で言えば、人々は皆、教会へ来ていた。しかし、形だけであった。
形だけで神をあがめ、すべてを儀式的に執り行っていた。
形は整っているが、イザヤの時代の民達も、今の時代の形式的な人々も、決して神の言葉を受け入れてはいなかった。
口では受け入れていると言うが、心ではそうでは無かった。
彼らはやみの中で事を行ない、そして言う。
『だれが、私たちを見ていよう。
だれが、私たちを知っていよう』と」民は神が見ていない、知らないとの前提に立ち、生活していた。
その心は神から遠く離れ、御言葉は聞きたくない。
神に従うより、自分の思い通りに、好きなように、自分を神として生きて行きたい。
干渉されたくない。教会に来て礼拝しているが、私達も心の底はそのようだろうか。
しかし、神は外側でなく心を見られる。
その頃、神の言葉が封じられた書物のようになった。
なぜか。民が御言葉に聞かないため、神が彼らの心を閉じられたと。
私達の態度はどうだろう。
へりくだってまず御言葉に聞こう。
神は語られ、生き生きとした愛の交わりに入る。
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礼拝が習慣となってはいないか。
神様によって、世から取り出され愛する神様に霊とまことをもって賛美と祈りをささげられることを感謝し、自分自身を献げていこう。


今日の聖人の記念日

2014年09月29日 07時55分47秒 | キリスト教

 聖ミカエル 聖ガブリエル 聖ラファエル大天使

 

 ミカエルは、「神と似た者」という意味で、ダニエル書(10.13)に、イスラエルを助ける天使として描かれ、ヨハネ黙示録(12.7)でも悪魔に対して戦ったと記されている。聖フランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝えられたのは1549年であるが、キリスト教宣教の許可が出たのは同年の9月29日であったことから、ザビエルは聖ミカエルを日本の守護者と定めた。

 ガブリエルは、「神の力」という意味で、ダニエル書では神のメッセージを預言者に伝えている。新約聖書の中では特別な役割をもち、ザカリアに洗者ヨハネの誕生を、聖母マリアに救い主イエスの誕生を伝えている。通信・報道の保護者といわれる。

 ラファエルは、「神はいやされた」という意味で、神のみ前にいる7位の天使の1位である。トビト書では、人びとの祈りを聞き入れて神にとりなし、エノク書では、堕落した天使たちに汚された地を清らかにする天使として描かれている。旅人、薬関係の仕事に携わる人、パイロットの保護者といわれている。


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◆見 た も う 神

2014年09月29日 07時54分25秒 | 聖書

もしあなたが、
「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、
人の心を評価する方は、
それを見抜いておられないだろうか。
あなたのたましいを見守る方は、
それを知らないだろうか。
この方は
おのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(箴言二四12)

神が見ていらっしゃる。――これは、何という単純で明快な真理でしょう。ある男が子どもを見張りに立てて、スイカ畑に盗みに入りました。「だれかが来たら、すぐ知らせるんだぞ。」しばらくすると、「お父さん、見ているよ」と子どもが呼びました。「だれが見てる。」「神さまが見てるよ。」すると父親が、「ばか。神さまに見えるもんか」と言ったという話があります。「天網恢々疎にしてもらさず」「天知る地知る我知る」とも言われます。この単純な真理ほど、実際の生活で無視されている真理はないでしょう。
私の尊敬するマックスエル博士が話してくださったことです。「子どものころ母に教えられた『ご覧になる神』(創世一六13欄外注)という聖書のことばは、初めは恐ろしかった。しかし年月がたち、この真理の深みが分かるにつれ、この真理が平安で喜びにあふれた私の人生をつくりあげたのだと思う」というのでした。
神に背いて、自分勝手で、いんちきで、言いわけばかり言う二枚舌の偽り者にとって、神は恐ろしいお方でしょう。しかし、落ちこぼれた者・悩んでいる者・弱く失望している者であっても、正直に自分の弱さやみにくさを認めて神に目をあげる者にとって、神は何と優しく、慰め・ゆるし・励ましに富んだお方でいらっしゃいましょうか。
神は、何でも見抜き、何でも正しく評価なさいます。しかし神に身を寄せるあなたにとって、神は、見守ってくださるお方、その愛と恵みを傾けて報いてくださるお方なのです。神を敵として勝ち目はありません。神をあなたの心の父としてごらんなさい。

 


◆もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、

2014年09月29日 07時53分16秒 | 聖書

祭司はその患者をきよいと宣言する。(レビ一三・一三)

この規則は一見奇妙だが、その中には深い知恵が隠されている。なぜなら病毒を外に出すことは、からだが健全な証拠だからである。今朝、この奇妙な規則の象徴的な教えを学ぶことは、私たちに有益であろう。
私たちもまた病者である。そしてこの病に関する律法は、私たちにも適用できる。人が自分を全く失われた破滅した者と見、全身がことごとく罪におおわれ、義であるものが一つもないことを知って、主なる神の前に罪があると告白するならば、イエスの血と神の恵みによってきよめられるのである。心中に隠れていて感じることのない告白されない罪が、真の病である。しかし罪があばかれ、罪が感じられた時には、すでに罪は致命的打撃を受けており、主はあわれみの目をもって罪に苦しむたましいをご覧になるのである。
自己を義とすることほど致命的なものはなく、悔恨よりも望みのあるものはない。私たちは罪以外の何ものでもないことを告白しなければならない。これ以下の告白は真実のものと言うことができないからである。もし聖霊が私たちに働かれて、罪を自覚させられれば、前述のことを認めるのに何の困難もない。
引用の聖句は、深い罪の意識のもとにある人に、なんという慰めを与えることだろう。どれほど黒く汚れていても、嘆き悲しんで告白された罪は、決して人をイエスから閉め出すことはない。主イエスのもとに来る者を、だれであろうと神は決して拒まれることはない。犯罪人のように不正直であり、罪を犯した女のように不貞であり、タルソのサウロのように凶悪であり、マナセのように残忍で、放蕩息子のように反抗的であっても、自分によいものが全くないことを感じる人々には、神の愛が注がれる。そして彼が十字架につけられたイエスを信じた時、きよい者という宣告が与えられる。それゆえに、主のみもとに来れ。
「来れ。乏しき者。来れ。罪ある者。そして忌まわしき裸なる者よ。おまえは決して汚れすぎてはいない。あるがままの姿で来れ。」

 


第2サムエル記19章11-15節

2014年09月29日 07時51分54秒 | 聖書

19:14 こうしてダビデは、すべてのユダの人々を、あたかもひとりの人の心のように自分になびかせた。ユダの人々は王のもとに人をやって、「あなたも、あなたの家来たちもみな、お帰りください」と言った。
19:15 そこで王は帰途につき、ヨルダン川に着くと、ユダの人々は、王を迎えてヨルダン川を渡らせるためにギルガルに来た。



 ダビデはヨアブの言葉を聞いて悟り、悲しみの中から立ち上がりました。

そして、エルサレムにいる家来達に、ダビデを王として迎えるよう、伝言するように伝えました。

その結果、人々は、自分たちの王であったアブシャロムが死んだ今、王はダビデしかいないことを覚えて、ダビデを自分たちの王として迎えることを決めたのでした。

彼らはダビデを迎えるために、ギルガルに来て、王にヨルダン川を渡らせて、エルサレムに迎えました。

こうして民の心は1つになって、ついにダビデを全イスラエルの王として立てることに同意したのでした。

そこには紆余曲折があり、ヨアブのような賢い人の助言がありました。

それらがすべて生かされたのでした。


テモテへの手紙 第一 6章12節(イザヤ書42章)

2014年09月29日 07時48分59秒 | 聖書

 ★「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」

■O:今日のコラム

クリスチャンの人生はまさに信仰の戦いです。
私たちの日々の生活の中で信仰の戦いが常にやって来ます。

日々の祈りもそうでしょう。
祈る事は信仰が必要です。
なぜなら目に見えない神に対して祈り、霊の領域で戦って行くわけですから。

御言葉に従うことも信仰の戦いです。
御言葉を読むのは簡単ですが、いざ実践するとなると難しいものがあります。
信仰が必要です。

また、私たちが誘惑と戦い、清さを保ち続けるのにも信仰が必要です。
私たちはすぐに誘惑に負けてしまいますから。

人を愛するのにも信仰が必要です。
自分が好きな人を愛するのは簡単ですが、自分が苦手な人を愛するのには信仰が必要です。

まだこの他にも信仰を働かせる場面はたくさんあると思います。
しかし、私たちはなぜこのように忍耐しながら信仰の戦いを戦い続けていくのでしょうか?

それは永遠のいのちが約束されているからです。
永遠のいのちとはイエスキリストの事です。

私たちにイエス様が与えられているから忍耐することができるのです。
イエス様が命がけで私たちのことを愛してくれた、だからその愛に答えたくて信仰を働かせる力が湧いてくるのです。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」という御言葉があります。(ヘブル人への手紙12章2節)

私たちには信仰は無いが、イエス様には信仰があります。
信仰を完成されたお方がイエス様です。

信仰の戦いに勝利して行く為にはイエス様を見続けなければいけないのです。
イエス様から目を離してしまうと、すぐに信仰は無くなります。

私たちのゴールであるイエス様から目を反らさないで生きていれば、信仰の戦いに勝利する事は決して難しいことではありません。

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(ヨハネの手紙 第一 5章3節)

祈りも、御言葉に従う事も、清さを保つことも、隣人を愛することも、全部イエス様を愛することが動機になれば重荷にはならないということです。

ヘブル人への手紙に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」とあります。(ヘブル人への手紙11章6a節)

聖書に出て来る偉人たちも信仰によって神様が喜んでいます。
ノア、アブラハム、ダビデ、みんなそうです。

ときには、信仰を働かせて行動すると世の人からばかにされることもあります。
そのような時に神様の喜んでいる顔を見ましょう。
信仰の偉人たちも皆信仰のゆえに馬鹿にされてきました。

私たちのどんな小さな信仰も、神様は見て喜んでくださっています。
だから、恐れないでください。

私たちの生活のあらゆる領域で信仰を働かせ、神様に喜んで頂きましょう!

■A:考えてみよう

私たちは救われて天国がゴールではありません。

この人生を通して神の御国をこの地に解き放つ責任があります。

イエスの御名で、大胆に解き放ちましょう!

■P:祈り

主よ感謝します。
私たちの信仰の目を開いて下さい。

イエス様から決して目をそらす事が無いように守って下さい。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン