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◆ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、

2015年06月30日 15時59分03秒 | 聖書

伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。(エレミヤ三二・一七)

カルデヤ人がエルサレムを囲み、剣と飢きんと疫病が国中を荒らしていた時、エレミヤは神によって、畑を買い、封印し署名した合法的な購入証書を作成するように命じられた。このような売買は、思慮のある人にとっては理解しにくいことである。このような売買は、およそ正当とは考えられない。なぜなら、ほとんど利用する可能性のない土地の購入だからである。
しかしエレミヤには、神が命じられたというだけで十分であった。彼は、神がすべての神の子どもたちに対して正しい取り扱いをなされることをよく知っていたからである。彼は次のように考えた。「おお、主なる神。あなたはこの小さな土地を私に使わせることがおできになります。あなたはこの国から、迫害者を取り除くことがおできになります。あなたは私が買った土地のぶどうやいちじくの陰で、私を憩わせることがおできになります。あなたは天地を造られた方であり、あなたにできないことは何一つないからです」と。
昔の聖徒はこのように偉大な考えをもっていた。すなわち彼らは、神のご命令があれば、肉の理性が受けつけないことをさえ、あえてしたのである。ノアは乾いた地面に舟を造り、アブラハムはひとり子をささげ、モーセはエジプトの富を軽んじ、ヨシュアはエリコを七日間包囲し、武器を用いないで雄羊の角笛を吹き鳴らした。これらの人々は、肉の理性が命じるところに反対して、神のご命令に従った。主は、彼らの従順な信仰の結果として、豊かな報いをお与えになった。
今日のキリスト教に欠けているのは、神に対するこの英雄的信仰である。もし私たちが神のお約束に対して、さらに素直な信頼を寄せるならば、私たちはかつて知らなかった驚異の世界に入るのである。エレミヤの信頼を、私たちのものにしようではないか。――天地を創造された神に何一つできないことはないからである。

 

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「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、

2015年06月30日 15時57分49秒 | 聖書

自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)

誰かに対する恨み、つらみ、憎しみがあるだろうか。
それが長い間、解決されていないだろうか。
そういう感情が巣くってしまったのは、それなりの事があったのだろう。
しかし、最も苦しいのは自分自身だ。
相手ではない。その相手が頭をよぎるだけで悶々状態だ。
又、家庭や職場の対人関係において、思い通りにならない相手を変えようとして、不毛の戦いをする。
相手は決して変わらない。自分が力尽きてしまう事になる。
神の御心は「自分を捨て」「自分に死に」だ。
自分サイドから、自分の思いで相手を見るなら、恨みつらみが当然になる。
どう動いてもそうしか見えず、そこから出られない。
自我にがんじがらめだ。
ある人がどうしても愛せず、嫌いで関わりたくない相手に、試練が臨んだ。
祈りを要請されるが、どうしても祈れない。
愛したくない。悶々状態だが、どうにもならず、自分を捨てる決心をした。
神にそのままの自分を明け渡した。
すると、不思議だが、自分の思いから離れ相手の対場に立てた。
相手の立場に立って見る事ができた。
その状況で、そうせざるを得なかった心持ちに思いが至った。
自然に赦す事ができた。御霊の働きだ。
自分に死ぬ時、相手が見えるようになる。
自我で一杯の間は何も見えず、信仰も働かない。
今、もしこの状態なら、「心を変えて下さって0Kです」と自分自身を主に持って行こう。
実は好きになりたくない自我から、自由にされる。
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人にはできないことが、神にはできる。
奇跡をされる。自分にはできませんと申し上げよう。
「本音は愛したくないが、主が私を用いて愛されるなら了承します」が、明け渡す事だ。
主がみわざをされる。

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今日の聖人の記念日

2015年06月30日 07時37分18秒 | キリスト教

ローマ教会最初の殉教者たち

64年

 64年7月、皇帝ネロの時代に、ローマの町が大火にみまわれた。ネロは、その原因をキリスト者による放火であるとして、彼らをバチカンの丘で処刑した。使徒ペトロとパウロを祝った次の日、教会は、 皇帝ネロによって虐殺されたローマのキリスト者たちを記念する。歴史家キトゥス(120年没)の年代記によると、キリスト者と呼ばれていた人々はおびただしい数で、彼らはネロの気晴らしのために殺されたという。野獣の毛皮を着せられて犬に引き裂かれたり、夜になると、十字架につけられた者が生きたまま暗闇を照らす松明とされた者もあった。一人の残忍さによって命を絶たれた多くのキリスト者には、多くのローマ市民も同情した。

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◆思慮は宝である

2015年06月30日 07時35分54秒 | 聖書

思慮のあるしもべは、恥知らずの子を治め、
その兄弟たちの間にあって、
資産の分け前を受け継ぐ。      (箴言一七2)

ほんとうの意味で人生で成功する人は、思慮深い人だと思います。思慮深い人は人を生かせる人なので、多くの人が集まってきて、人のリーダーになります。また、生きた物や金の使い方ができるので、物や金が集まってきます。そんな意味でも成功者になります。
思慮深い人とは、アイデアマンとか、単に頭がいい人ではありません。第一に、現在の目の前のことばかりでなく、人の見えない将来が見える人です。第二に、自分の都合・損得・気持ちがいい悪いに損なわれることなく、人の気持ち・立場・全体がよく見える人です。第三に、何が正しいか、何が価値のあることか、何がなすべきことかがはっきり分かる人です。
まとめて言えば、ほんとうの思慮深さとは、自分や人間のレベルの目ではなく神の目を持つことです。神がどう見ておられるかが分かり、神の目をもって自分を見、人を見ます。ですから、自分の弱さや罪深さを十分知りながら、人々をありのままに受け入れ、愛し尊ぶことができます。そこで、いつしか人々を生かすリーダーとなります。また、神の目をもって金や物をも見ます。それは神が与え、神から預けられたものであり、自分は正しい管理者だと心得るので、奪い、自分だけもうけることよりも、与え、よく用いることに心がけます。そこで、金と物を任せられ、成功者となるのです。このように思慮深い人は、人と神との信頼を受けて治める者となります。
ヨセフはしもべでしたが、主人の家を治め、ついにはエジプトの宰相となりました。ソロモンの思慮深いしもべヤロブアムは、ソロモンの恥知らずの子レハブアムと資産を分け、思慮深い少年サムエルは、祭司エリの恥多き子よりも抜きん出て、真の民の指導者となったのです。聖書は、思慮深い人を造りあげます。

 

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◆わたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、

2015年06月30日 07時34分34秒 | 聖書

彼らに与えました。(ヨハネ一七・二二)

見よ。主イエスの限りない心の広さを。主は私たちにその所有のすべてを与えられた。主がその所有のごくわずかを与えられるだけでも、天使の世界のすべてを限りなく富ませたことであろう。しかし主は、そのもっておられるすべてを私たちに与え尽くすまでは満足されなかった。もし私たちに、ご自身のあわれみの食卓からパンくずを食することを許されたとするならば、それすらも驚くべき恵みであろう。しかし主は中途半端なことはなさらない。私たちをご自身と共に食卓に着かせ、私たちと共にごちそうを食される。主がその宝庫よりごくわずかを与えられるとしても、それに応えて永遠までも主を愛すべきである。しかし実際は、それどころではなく、主はその花嫁をご自身のように富ませ、栄光と恵みを共に分かとうとされる。私たちを共同相続人とし、私たちがご自身と同じものを所有するようになるまでは満足をされない。
主はその財産のすべてを教会の倉に移し、すべてのものを贖われた民と共有される。主の家には、主がかぎを保管して、その民に任せられない部屋は一つとしてない。ご自分の所有物を民に自由に取らせ、彼らを愛し、その宝を自由に用いさせ、彼らがもち得る限りを自分たちのものとしてもたせられる。キリストは、その愛と恵みに満ちたびんを信者のくちびるに当て、永遠に飲み続けるようにと命ぜられるのである。それを飲みほすことができれば、それでよい。主はそれを望まれる。しかし飲みほすことができないので、主は十分に飲むようにと命ぜられる。それはすべて主にある者の所有だからである。天にも地にも、これにまさる真実な親しい交わりの証拠があるだろうか。
 自分のものではない美をまとい
 御座の前に立つとき
 あなたのありのままの姿を見
 汚れのない心であなたを愛するとき
 主よ。そのとき初めてほんとうに
 いかに多く与えられているかを知ります

 

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第2列王記20章1-7節

2015年06月30日 07時33分07秒 | 聖書

20:5 「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。
20:6 わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」



 人はいつか死ななければなりません。

信仰の人ヒゼキヤもそうでした。

イザヤを通して、その死が近いことを彼に告げられました。

病にかかっていたからです。

ですから身辺の整理をせよ、と言われたのです。

死への備えをすべきことが告げられたのです。

 しかし彼は、自分はまだなすべきことがあると思っていたようです。

そこで、主の前に泣いて助けを祈りました。

主はその叫びに答えてくださって、15年の寿命の延長をはかってくださいました。

必要があり、また主にそのことを求めたときに、主はお聞きくださったのです。


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エゼキエル47:9~11節(コリント人への手紙第二13章)

2015年06月30日 07時27分24秒 | 聖書

★この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。
漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。
しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。

■O:今日のコラム
神殿(神の臨在)から流れる生ける水の川は、死海に注ぎ込みます。すると命の無い死海に命の祝福が注がれます。
  この世の問題、争い、貧しさ、喜びの無さの中に、御霊の力が注がれる時、そこは癒されるのです。私たちは、御霊に聞き従いましょう!聖霊様は今日も私たちに語りかけて下さいます。御霊の与えて下さる神の言葉であるレーマを受け取りましょう!聖霊様は語るばかりではなく、実行する力も与えて下さいます。御霊に聞き従う時、私たちは、勝利を味わい、祝福を受け取り、神の栄光をあらわす事ができるのです。
  生ける水の川が流れ込んでも、沢と沼は癒されませんでした。ただし、御霊の声を聞いても聞き従わなければ、癒されません。聞いて実行する事がそこにいのちをもたらし、私たちをもいのち溢れる者とするのです。
「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:8)

■A:考えてみよう
御霊に聞き従う歩みをしよう!「聞いて、従う」、「受けて、流す」、「愛されて、愛する」という歩みをしよう!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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6月29日(月)のつぶやき

2015年06月30日 01時43分19秒 | キリスト教
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◆バビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、

2015年06月29日 17時08分18秒 | 聖書

この地に示されたしるしについて説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。(Ⅱ歴代三二・三一)

ヒゼキヤは心ひそかに増長し、神の恵みをもって高慢になったので、自らを義とする心が起こり、肉の安全に頼るようになった。その結果、活発に働いていた神の恵みが一時取り去られた。これは、彼のバビロニヤ人に対する愚行を説明するものである。神の恵みが最高のクリスチャンから離れるようなことがあるなら、その心にある罪は、彼を極悪な犯罪者にさえ変えてしまうからだ。あなたがもし捨てられるならば、あなたのキリストに対する熱心はたちまち冷却し、ラオデキヤ教会の「なまぬるさ」となるであろう。今主の御前に、立派な徳と節操をもって歩んでいるあなたが、よこしまな思いによろめくようになるであろう。
月のように、私たちの光は借りものである。恵みが私たちを照らす時、私たちは輝く。しかし義の太陽が沈むなら、私たちは暗黒になる。だから、神が私たちを決して見捨てられることのないように、神に向かって叫ぼう。
「主よ。あなたの御霊を私たちから取り去らないでください。あなたは『わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている』と言われました。それで、主よ。どこにいても絶えず私たちを守ってください。若くて熱情が強くなりすぎる時、私たちを守ってください。年老いて自分の知恵に思いあがり、それゆえ若者よりも愚かで尊大であることを露呈してしまうような時、私たちを守ってください。私たちが死に臨む時、私たちを守ってください。最後の瞬間になって、あなたを拒むことのありませんように。私たちが生きている間、死のうとする時、働いている時、苦しんでいる時、戦っている時、休息している時、私たちを守ってください。どこにいる時にもお守りください。神様。私たちはどこにおいてもあなたを必要としていますから。」

 

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「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、

2015年06月29日 17時07分15秒 | 聖書

御子といっしにすべてのものを…恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32

夫のいない一人の婦人が事情で仕事が出来なくなった。
小さな子供も抱えてもうパニックだった。
今まで、毎月定収入があり、無収入というのは初めての経験だった。
恐れと不安、思い煩いはほとんど恐怖となった。
数々の御言葉の約束に関わらず、もう心が立ち騒いでいて、どうにもならなかった。
しかし、憐れみ豊かな主は、上から横から斜めから、あちこちから与えられ、完全に必要は満たされた。
驚くばかりであった。
その後も、困窮の度に、必ず主のみわざが現わされ、栄光を拝した。
主は手取り足取り、信仰を導き、信仰に進ませて下さる方だ。毎回毎回、主の奇跡を見て、段々と問題や困窮が起きた時に「この事を主はどうして下さるかが楽しみだ」と言うように変えられた。
主は「ご自分ではしようとしていることを知って」おられる。
ご計画がある。万事益とされる。主のされる事に一つの無駄も間違いも無い。
過去を振り返る時、どんなに良くして下さった事だろう。
目の前の問題に押しつぶされそうな時、言おう。
「主はどうして下さるかが楽しみだ」。
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同じ時間を過ごすのに、真っ暗闇の不安と恐れより、主に信頼して期待して主に望みを置いて希望の中におればどんなに幸せだろう。
そして主はその信頼にに必ず応えて下さる。 

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今日の聖人の記念日

2015年06月29日 08時58分47秒 | キリスト教

聖ペトロ使徒

1世紀

 ペトロは、ゲネサレト湖畔のベトサイダの貧しい漁師ヨナとヨハンナの子として生まれ、弟アンドレと共に漁をしながら信心深い生活を送っていたといわれる。ペトロは、漁をしているとき、イエスから「人をすなどる者にしよう」と言われ、イエスの後に従った。彼の名は、初めはシモンであったが、イエスが「岩」を意味する「ペトロ」という名前をつけられた。のちにイエスから「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなくことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16.18-19)と約束された。復活されたイエスからは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、ローマ教会を導いた。

 67年、皇帝ネロによってキリスト教迫害が始まったとき、信者たちの勧めでローマを脱出しようとしたが、そのとき、十字架を背負ったイエスに出会った。ペトロが「クオ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、どこに行かれるのですか)と尋ねると、イエスは「わたしは、ふたたび十字架につけられるためにローマに行くところだ」と答えられたという。ペトロは、それを聞いて自分の使命を悟り、ローマにすぐに引き返し、進んで十字架に逆さまにつけられて殉教した。ペトロが処刑された場所に、サン・ピエトロ大聖堂が建てられている。

 ペトロは、ローマの司教として33年勤め、その最期をまっとうしたといわれる。後に、ローマの司教は全教会の司教団の頭、つまり教皇としてペトロの使命を受け継いでいくことになった。そのため教皇職は、ペトロの座とも呼ばれている。

聖パウロ使徒

1世紀

 パウロは、キリストの時代に、小アジアのタルソに生まれ、サウロと呼ばれていた。ユダヤの律法や母国語以外に、ギリシャ語、天幕作りなどを学んだ。エルサレムに遊学し、有名な律法学者ガマリエルから学び、生粋のファリサイ派となっていった。そしてサウロは、イエスの新しい教えが神への冒涜であるとの信念から、徹底的にキリスト教徒を迫害した(使徒言行録 9.4 参照)。

 ところがある日、キリスト教徒を捕らえるためにダマスコに行く途中、突然天から「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞き、地面に倒れた。この復活したイエスとの出会いによって、サウロは回心し、何が信ずべき道であるのかを悟り、「イエス・キリストこそ神の子である」と熱心に宣べ伝え始めた。しかし、イエスの弟子たちもサウロの回心を信じられず、彼は苦しい立場に置かれた。そんなサウロに力を貸したのが、バルナバであり、アンティオキアで共に宣教して、そこに初めて教会を建てた。そのころから、サウロは、パウロと呼ばれるようになった。

 パウロは宣教旅行に3回出かけ、小アジア、ギリシャ、ローマ、コリント、アテネに福音を伝えた。多くの難に遭いながらも、ゆらぐことのない信仰によって、キリストの愛を伝えるために力を注いだ。

 ペトロが殉教したのと同じころ、ネロ皇帝の迫害時代に、ローマで捕えられて殉教した。パウロはイスラエル以外の新しい地の人々に宣教したことから、「異邦人の使徒」と呼ばれる。新約聖書中にある彼の書いた書簡は、いかにキリストの愛がすばらしいかを私たちに伝えている。

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◆貧しくても平和

2015年06月29日 08時57分17秒 | 聖書

一切れのかわいたパンがあって、
平和であるのは、
ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言一七1)

これは、美しい宮殿に住み、美しい女たちに囲まれ、山海の珍味に飽いていたソロモン王のことばです。彼は、ごちそうはあっても争いに満ちた王宮の生活から逃げ出したかったに違いありません。ソロモン王でなくても、「ごちそうなんてなくていい。ぜいたくな邸宅なんてなくていい。ほんとうの平和・ほんとうに平和な家庭が欲しい」と思っている人は多いのではないでしょうか。
私は、感じやすい少年時代に、争いの絶えない家庭にいました。五十センチと離れず同じ食卓を囲んでいるのに、夫と妻の心が通わず、親と子の心が通じていなかったのです。針のむしろに座るような毎日。――とうとうこんな現実から逃げ出したくて、私は自殺未遂をしてしまったほどでした。
平和とは、ただ、争いがないということではありません。それは、いっしょにいるのがうれしく、いっしょに何かするのに張り合いがあり、楽しい。――つまり、愛で心と心とがつながっている状態です。そんなすばらしい、すてきで平和な交わりのために、次の三つの段階があることに、私は気がつきました。
・ ある一人の人が、自分勝手な生き方を心から悔い改めて神の前にへりくだると、その人の心と神とが、まず平和になる。
・ 神と平和になった人の心がくだけきって、からっぽになって神の前に出ていると、人工的な平和ではなく、人格的な神の平和・天来の平安が、その人の心の中に満ちる。
・ その人の心の中に神の平安が満ちると、今まで争い合ったり憎み合ったりしていた人々の間にも平和の力が及んで、人と人との間に平和が花を咲かせる。私の家庭が、まさしくこのプロセスを通らせていただいたのです。

 

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◆神は……

2015年06月29日 08時56分23秒 | 聖書

イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。(Ⅰテサロニケ四・一四)

世を去ったたましいが無感覚のままで眠っていると考えないようにしよう。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」というのが、すべての臨終の聖徒に対するキリストのささやきである。彼らは「イエスにあって眠っている」。しかし彼らのたましいは、神の御座の前で日夜イエスをほめたたえ、その血で彼らの罪を洗ってくださった方に対してハレルヤを歌っているのである。
肉体は、草におおわれた地下の寂しい寝床に眠っている。この眠りは何を意味するのであろうか。眠りと関連する概念は「安息」である。そしてそれは、神の御霊が私たちに伝えようと望まれる考え方である。眠りは夜を昼のための安息の時とする。眠りはたましいの戸を堅く閉ざして、すべて侵入する者に「しばし待て」と命じる。それは内なるいのちが新緑の園に憩うためである。働き疲れた信者は静かに眠る。それはあたかも疲れた幼子が母の胸に眠るのに似ている。
ああ、主にあって死ぬ人は幸いである。彼らはその労働を離れて休息する。そしてそのわざは彼らに従う。その静かな休息は、神が彼らに十分な報いを与えるため呼び覚まされる時までは、決して破られることはないであろう。天の使いに守られ、永遠の神秘に包まれて、栄光の相続人である彼らは眠り続ける。そして、やがて時が満ちて贖罪が全うされるのである。
彼らが目を覚ました時はどうであろう! 彼らは最後の憩いの場所に横たえられた時、疲れ果てていた。しかし起き上がる時はそうではない。安息に入った時は額にしわがあり、顔はやつれきっていた。しかし起き上がる時は美と栄光をまとっている。見るかげもないしなびた種が、美しい花となってちりの中から咲き出る。墓の中の冬は去り、贖いの春と栄光の夏が来る。
死は幸いである。なぜなら、その時神の力が私たちの仕事着を脱がせ、朽ちることのない結婚の晴れ着をまとわせるからである。「イエスにあって眠る」者は幸いである!

 

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第2列王記19章29-37節

2015年06月29日 08時54分31秒 | 聖書

19:35 その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。
19:36 アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。
19:37 彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、アララテの地へのがれた。それで彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。



 主を侮り、自らの力を誇るアッシリヤの王に対して、主は自らの力を持って、この王の誇りと権威をくじきました。

主の使いが主の元から遣わされ、その夜の内に、18万5千人の兵士達が撃ち殺されました。

アッシリヤの王セナケリブは、そのために帰国を余儀なくされました。

そればかりではありません。

自分の力を誇っていた彼は、帰国した地で、彼自身が拝んでいた神の宮で殺害されてしまいました。

自らより頼んだ神も、また自分自身も、真の神の前では何らの力も持たなかったのです。

 真の神のみを信じ、信頼すべきことを知るのです。

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2コリント12章8~9節

2015年06月29日 08時51分29秒 | 聖書

★このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。


■O:今日のコラム
忙しく慌ただしい日常生活の中で、自分自身に限界を感じたり、自分の弱さを見て自分自身を否定したり、責めたりすることがないでしょうか?日常の中で疲れたり、限界を感じる中で、私たちはついつい神様に対しての信頼を忘れ、神の介入を拒んで、「自分自身が一体どういうものであるか?」を忘れてしまいがちです。

しかし、そんな時に主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と励ましてくださいます。

主は私たちを「王である祭司」として生まれる前から選んでくださいました。それぞれの現在遣わされた場所に、御国を運んで行く「権威」を与えてくださっているのです。置かれている場所で間違いなくあなたは必要であり、天のお父さんがあなたを通して働かれようとしています。実際にそのことを思う時に、自分自身の無力さを感じることもあるでしょう。しかし、主に贖われた私たちは、もはや自分自身が生きているのではなく、主イエスにあって生きているのです。
今一度自分の心を吟味し、「天のお父さんに信頼する」とはどういうことなのか?
主からの答えを握ろうではありませんか。



■A:考えてみよう
・自分自身のいま感じている弱さとはなんでしょうか?
・主に信頼するとはどういうことでしょうか?



■P:祈り
お父さん。罪からの赦しと関係の回復、天の御国を解き放つ「王である祭司」の権威を与えてくださり感謝します。

その責務を覚える時に、恐れや忙しさの中にあって弱さを実感することもあります。
そんなときこそ、自分に死に、私の中にあなたが現れて下さい。
私の人生のすべての事柄の中にあなたをお迎えします。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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