6:3 「あなたがた、いくさびとはみな、町を巡って、町の周囲を一度回らなければならない。六日の間そのようにしなければならない。
6:4 七人の祭司たちは、おのおの雄羊の角のラッパを携えて、箱に先立たなければならない。そして七日目には七度町を巡り、祭司たちはラッパを吹き鳴らさなければならない。」
エリコの町の攻略は、主の命令に従うことによってなされました。
それは、戦いに出るべきいくさ人が何をするかというと、町を毎日一度、先頭としんがりに立って巡ることでした。
その時には、7人の祭司達が角笛を携えて吹き、神の箱の前を進んで歩くように命じられました。
7日目には、町の周りを同じようにして7度回り、回り終わった時に、叫び声を上げるように命じられました。
まさにこれは、主が命じられた戦術でした。
後には、イスラエルの民は、この地に住む人々と自分たちの手で戦い抜いていかなければならなりませんでした。
しかし、初めから戦って苦しんでしまって、民が意気消沈してしまうことがないために、主が共にいて戦ってくださるという事実を、まずここで示してくださったのです。
思慮のあるしもべは、恥知らずの子を治め、
その兄弟たちの間にあって、
資産の分け前を受け継ぐ。 (箴言一七2)
ほんとうの意味で人生で成功する人は、思慮深い人だと思います。思慮深い人は人を生かせる人なので、多くの人が集まってきて、人のリーダーになります。また、生きた物や金の使い方ができるので、物や金が集まってきます。そんな意味でも成功者になります。
思慮深い人とは、アイデアマンとか、単に頭がいい人ではありません。第一に、現在の目の前のことばかりでなく、人の見えない将来が見える人です。第二に、自分の都合・損得・気持ちがいい悪いに損なわれることなく、人の気持ち・立場・全体がよく見える人です。第三に、何が正しいか、何が価値のあることか、何がなすべきことかがはっきり分かる人です。
まとめて言えば、ほんとうの思慮深さとは、自分や人間のレベルの目ではなく神の目を持つことです。神がどう見ておられるかが分かり、神の目をもって自分を見、人を見ます。ですから、自分の弱さや罪深さを十分知りながら、人々をありのままに受け入れ、愛し尊ぶことができます。そこで、いつしか人々を生かすリーダーとなります。また、神の目をもって金や物をも見ます。それは神が与え、神から預けられたものであり、自分は正しい管理者だと心得るので、奪い、自分だけもうけることよりも、与え、よく用いることに心がけます。そこで、金と物を任せられ、成功者となるのです。このように思慮深い人は、人と神との信頼を受けて治める者となります。
ヨセフはしもべでしたが、主人の家を治め、ついにはエジプトの宰相となりました。ソロモンの思慮深いしもべヤロブアムは、ソロモンの恥知らずの子レハブアムと資産を分け、思慮深い少年サムエルは、祭司エリの恥多き子よりも抜きん出て、真の民の指導者となったのです。聖書は、思慮深い人を造りあげます。
彼らに与えました。(ヨハネ一七・二二)
見よ。主イエスの限りない心の広さを。主は私たちにその所有のすべてを与えられた。主がその所有のごくわずかを与えられるだけでも、天使の世界のすべてを限りなく富ませたことであろう。しかし主は、そのもっておられるすべてを私たちに与え尽くすまでは満足されなかった。もし私たちに、ご自身のあわれみの食卓からパンくずを食することを許されたとするならば、それすらも驚くべき恵みであろう。しかし主は中途半端なことはなさらない。私たちをご自身と共に食卓に着かせ、私たちと共にごちそうを食される。主がその宝庫よりごくわずかを与えられるとしても、それに応えて永遠までも主を愛すべきである。しかし実際は、それどころではなく、主はその花嫁をご自身のように富ませ、栄光と恵みを共に分かとうとされる。私たちを共同相続人とし、私たちがご自身と同じものを所有するようになるまでは満足をされない。
主はその財産のすべてを教会の倉に移し、すべてのものを贖われた民と共有される。主の家には、主がかぎを保管して、その民に任せられない部屋は一つとしてない。ご自分の所有物を民に自由に取らせ、彼らを愛し、その宝を自由に用いさせ、彼らがもち得る限りを自分たちのものとしてもたせられる。キリストは、その愛と恵みに満ちたびんを信者のくちびるに当て、永遠に飲み続けるようにと命ぜられるのである。それを飲みほすことができれば、それでよい。主はそれを望まれる。しかし飲みほすことができないので、主は十分に飲むようにと命ぜられる。それはすべて主にある者の所有だからである。天にも地にも、これにまさる真実な親しい交わりの証拠があるだろうか。
自分のものではない美をまとい
御座の前に立つとき
あなたのありのままの姿を見
汚れのない心であなたを愛するとき
主よ。そのとき初めてほんとうに
いかに多く与えられているかを知ります
5:14 彼は言った、「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか。」
5:15 すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である。」ヨシュアはそのようにした。
ヨシュアが最初の攻略すべきエリコの町の近くに来た時、彼が見上げると、一人の人が抜き身の剣を持って立っていました。
ヨシュアは誰だかわかりませんので、あなたは味方ですか敵ですかと問いました。
するとその人は、私は主の軍勢の将として今来たのだと告げました。
つまり、神様が戦いの時に遣わされる軍隊の将軍として来たというのです。
そこでヨシュアは驚いて地にひれ伏し、どうしたら良いのですかと尋ねました。
すると、ここは聖なるところであるからあなたの靴を脱ぎなさい、と命じられました。
彼はその通りにしました。
ヨシュアにとっては、戦いは自分たちの力による戦いであると思ったことでしょう。
しかし主は、ご自分が共にいて敵と戦う戦いである、と告げられたのです。
一切れのかわいたパンがあって、
平和であるのは、
ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言一七1)
これは、美しい宮殿に住み、美しい女たちに囲まれ、山海の珍味に飽いていたソロモン王のことばです。彼は、ごちそうはあっても争いに満ちた王宮の生活から逃げ出したかったに違いありません。ソロモン王でなくても、「ごちそうなんてなくていい。ぜいたくな邸宅なんてなくていい。ほんとうの平和・ほんとうに平和な家庭が欲しい」と思っている人は多いのではないでしょうか。
私は、感じやすい少年時代に、争いの絶えない家庭にいました。五十センチと離れず同じ食卓を囲んでいるのに、夫と妻の心が通わず、親と子の心が通じていなかったのです。針のむしろに座るような毎日。――とうとうこんな現実から逃げ出したくて、私は自殺未遂をしてしまったほどでした。
平和とは、ただ、争いがないということではありません。それは、いっしょにいるのがうれしく、いっしょに何かするのに張り合いがあり、楽しい。――つまり、愛で心と心とがつながっている状態です。そんなすばらしい、すてきで平和な交わりのために、次の三つの段階があることに、私は気がつきました。
・ ある一人の人が、自分勝手な生き方を心から悔い改めて神の前にへりくだると、その人の心と神とが、まず平和になる。
・ 神と平和になった人の心がくだけきって、からっぽになって神の前に出ていると、人工的な平和ではなく、人格的な神の平和・天来の平安が、その人の心の中に満ちる。
・ その人の心の中に神の平安が満ちると、今まで争い合ったり憎み合ったりしていた人々の間にも平和の力が及んで、人と人との間に平和が花を咲かせる。私の家庭が、まさしくこのプロセスを通らせていただいたのです。
(Ⅰテサロニケ四・一四)
世を去ったたましいが無感覚のままで眠っていると考えないようにしよう。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」というのが、すべての臨終の聖徒に対するキリストのささやきである。彼らは「イエスにあって眠っている」。しかし彼らのたましいは、神の御座の前で日夜イエスをほめたたえ、その血で彼らの罪を洗ってくださった方に対してハレルヤを歌っているのである。
肉体は、草におおわれた地下の寂しい寝床に眠っている。この眠りは何を意味するのであろうか。眠りと関連する概念は「安息」である。そしてそれは、神の御霊が私たちに伝えようと望まれる考え方である。眠りは夜を昼のための安息の時とする。眠りはたましいの戸を堅く閉ざして、すべて侵入する者に「しばし待て」と命じる。それは内なるいのちが新緑の園に憩うためである。働き疲れた信者は静かに眠る。それはあたかも疲れた幼子が母の胸に眠るのに似ている。
ああ、主にあって死ぬ人は幸いである。彼らはその労働を離れて休息する。そしてそのわざは彼らに従う。その静かな休息は、神が彼らに十分な報いを与えるため呼び覚まされる時までは、決して破られることはないであろう。天の使いに守られ、永遠の神秘に包まれて、栄光の相続人である彼らは眠り続ける。そして、やがて時が満ちて贖罪が全うされるのである。
彼らが目を覚ました時はどうであろう! 彼らは最後の憩いの場所に横たえられた時、疲れ果てていた。しかし起き上がる時はそうではない。安息に入った時は額にしわがあり、顔はやつれきっていた。しかし起き上がる時は美と栄光をまとっている。見るかげもないしなびた種が、美しい花となってちりの中から咲き出る。墓の中の冬は去り、贖いの春と栄光の夏が来る。
死は幸いである。なぜなら、その時神の力が私たちの仕事着を脱がせ、朽ちることのない結婚の晴れ着をまとわせるからである。「イエスにあって眠る」者は幸いである!
5:11 そして過越の祭の翌日、その地の穀物、すなわち種入れぬパンおよびいり麦を、その日に食べたが、
5:12 その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。
荒れ野を放浪していた時、食べるパンがないと言って民がつぶやいたために、神様は天からのパンであるマナを備えてくださって、民を養ってくださいました。
ところで、このイスラエルの民がカナンの地に入って初めての宿泊地であるギルガルに宿営した時に、エジプトから出たことを記念するためになされる、過越こしの犠牲を献げました。
同時にその地でとれた煎り麦とイースト菌を入れないパンを作って、それを食べて過越こしの祭りをいたしました。
それは、主がエジプトから民を導き出してくださった主の恵みを覚える、感謝の祭りでした。
そしてそのことが終わると、今まで民が養われてきたマナを与えられることが終わりました。
これから後、彼らはこの地でとれる産物によって養われることができたからです。
民への主の約束が、ここに実現したのです。
怒りをおそくする者は勇士にまさり、
自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。(箴言一六32)
あなたは怒りっぽいでしょうか。
自分の感情のコントロールができないで「怒る」ことと、正しい愛の心をもって、条理にかなったきびしいことばで「叱る」こととは違います。怒り方にもタイプがあります。かんしゃく持ちの爆発型もあるし、ねちねち怒る人もいます。
いずれにしても怒る人は、人の上に立てませんし、責任をもって事に当たることに不向きです。怒る人は、他人のした仕事の責任をとることもせず、他人にやる気を起こさせて、この人とならやるぞと人を動かすこともできません。ですから、家庭も職場も治めることができないでしょう。
すぐ怒る人は、自分の心が支配できない人です。反対に、自分の心を治める人は、「町を攻め取る者にまさる」といわれています。その置かれた立場は、たとえ大将でなくても、社長でなくても、人生のいろいろの場面でのリーダーになれるのです。
付け焼き刃や修養などでは、この心のコントロールはできません。昔から「山中の賊は治めやすく、心中の賊は治めにくい」といいます。中国人もインド人も西欧人も、皆このことを認めているようです。
聖書は、「内住のキリストこそ奥義」と述べています。へりくだって心をからっぽにして、その心の王座に、限りなく謙遜で柔和で愛のある真の王者、キリストに入って治めていただくことです。自分の意志を強くしてもだめでしょう。ものすごいワンマンの親分を、それより強いワンマンのやくざの親分が追い出して座っても、変わりがありません。心の中に神を迎えなければなりません。くだけた心に、信仰によってキリストを迎え入れることこそ、怒りをおそくする奥の手でしょう。怒りをおそくできる人こそ、真の人生の勇者です。
(ヘブル一二・二)
私たちの目を自分からイエスに移させるのは、聖霊の不断の働きである。サタンの働きはその正反対である。サタンは、常にキリストを見させず、私たち自身を見させようとするからだ。そしてこうほのめかす。「おまえの罪は、ゆるされるにはあまりにも大きい。おまえは信仰を全然もっていない。悔い改めがなっていない。長続きするはずがない。神の子としての喜びもない。ただ気まぐれにキリストにすがりついているにすぎない」と。これらはすべて私たち自身についての考えであり、私たちは自分の内を見ることによっては、決して慰めや確信を見いだすことはない。
しかし聖霊は、私たちの目を私たち自身から全く移される。主は私たちが無であり、「キリストがすべてである」ことを告げられる。だから次のことを覚えよ。あなたが救われるのは、あなたがキリストをとらえていることによってではない。キリストがあなたをお救いになったのである。あなたが救われるのは、キリストのうちにあるあなたの喜びによるのではない。キリストがあなたを救われたのである。またあなたが救われるのは、キリストへの信仰によるのでさえない。それは手段ではあるが、あなたを救うのはキリストの御血といさおしなのである。キリストをとらえているあなたの手を見ず、希望の源泉であるイエスを見よ。あなたの信仰を見ず、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離すな。
私たちは自らの祈り、行為、感情を見ることによっては、決して幸福を見いだすことはない。たましいに平安を与えるのは私たちではなく、イエスである。ただちにサタンを征服し、神との平和を得たいと望むならば、「イエスから目を離さない」以外に道はない。あなたの目を単純にイエスに注ぎ、主の死、苦難、いさおし、栄光、とりなしをあなたの心にあざやかにせよ。
朝目が覚める時イエスを見つめ、夜休む時もイエスを見つめよ。おお、あなたの希望や恐れで、イエスとの間を隔てないようにせよ。しっかりとイエスについて行け。主は決してあなたを裏切られることはない。
5:7 ヨシュアが割礼を行ったのは、この人々についで起されたその子どもたちであった。彼らは途中で割礼を受けていなかったので、無割礼の者であったからである。
ヨシュアは神様から命じられて、イスラエルの民に割礼を施しました。
この割礼は、神の民であるという、目に見える印でした。
この割礼は、アブラハムの時代から命じられていたことでした。
それによって、神の民の一員であるという印とされたのです。
イスラエルの民は、こうした割礼を、生まれて8日目に受けていました。
エジプトから出た時には、民は割礼を受けていた人々でしたが、40年間の荒れ野の放浪中、ヨシュアとカレブ以外は、不信仰のために滅ぼされてしまいました。
そして、20歳以下の男子が約束の地に入ることができたのですが、その人々はまだ割礼を受けていませんでした。
そこで、神様はヨシュアに命じて割礼を受けさせたのです。
改めて、神の約束を信じて、このカナンの地に入った民こそ、主の民であるという印を与えられたのです。
後に割礼は、キリスト者にとっては、洗礼に代わりました。
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しらがは光栄の冠、
それは正義の道に見いだされる。 (箴言一六31)
日本の社会は、ものすごい勢いで老齢化していきます。国をあげて幸福に老いるというか、幸福な老人になることが課題ではないでしょうか。社会福祉も、もちろん大切です。しかし、私たち一人一人の生き方にかかわる根本問題として、このことをとらえなければなりません。
「しらがは光栄の冠」といえるような老い方が確かにあります。ところが、大方はどうでしょう。年をとると、力を失います。今まで自分の力でやり抜いたのができなくなります。今までの地位や権力の座をほかの人にゆずりわたし、今まで受けてきた尊敬や興味や関心を失ってしまいます。人の世話にならなければ、どうすることもできません。生きがいを見失い、豊かな平安もゆとりもなくなります。ただ食い気だけの生き物になりさがっていきます。失う、そして果てるのです。
しかし、栄光に満ちた老年もあります。それは、若い時から自分の肉の力や知恵で得て、つかんで、ためこんできたのでなく、神の知恵・神の力で生き、与え続け、仕え続けてきて迎えた老年です。そんな老年には、豊かに備えられたものがあります。
第一に、老年になっても生きる目的や生きがいを、神がいつでも与えてくださいます。第二に、神に与えられた生きる目的が分かると、老年で寝たきりになっても、人に喜ばれ神に仕える仕事が与えられるものです。第三に、神と人の愛を受け、満足することができます。第四に、最後に神の愛と輝きの胸のもとに帰る望みに満ちています。
今、あなたの心はどうでしょうか。神は見ておられます。輝かしい老年への道・正義の道を歩んでいるでしょうか。
(出エジプト八・二八)
これは、暴君パロの口から発せられたずる賢いことばである。パロは、もしあわれな奴隷の境遇にあるイスラエル人が、エジプトから出て行かなければならないとすれば、あまり遠くへは行かせないようにしようと思った。すなわち、その武力の届かない所、そのスパイたちの目の及ばない所へは行かせまいとしたのである。同様に、世の人々は、私たちが旗色を鮮明にすることを好まず、もっと寛大であり、厳格すぎないようにと言うのである。
この世に対して死に、キリストと共に葬られることは、世の人に嘲笑される経験である。だから、この教えはすべて無視され、軽蔑さえされる。この世の知恵は妥協の道を勧め、何ごとも「ほどほどにせよ」と言う。この世の意見によれば、純潔であることは望ましいが、あまり厳しすぎてはならない。真実であることはもちろん良いことであるに違いないが、過ちを厳しく非難するのはいけないと言う。この世は言う。「信仰深いことはよいことだ。でもにぎやかな社交を拒んではいけない。時にはダンス・パーティーにも行き、クリスマスの時に劇場へ行くぐらいのことはさしつかえない。流行をけなしたり、世の人たちが皆していることに、声を大きくして反対して何になるのか」と。多くの信仰告白者は、このずる賢いことばにつり込まれて、永遠の滅亡に陥る。
もし私たちがすべてを打ち捨てて主に従いたいと思うならば、ただちに孤立の荒野に行き、肉の世のエジプトを後にしなければならない。この世の格言を捨て、この世の快楽、この世の宗教を捨て、主がそのきよめられた民を召された場所へ、遠く旅立たなければならない。町が火炎に包まれる時、私たちの家は町から遠く離れていればいるほどよい。疫病がはやる時、その地から遠く離れていればいるほどよい。毒蛇からは遠く離れていればいるほど安全である。そして世の俗習からは、離れていればいるほどよいのである。すべての真の信者に向かって、「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ」とのラッパを吹き鳴らせ。
覚 書
横浜防衛施設局長高村清(以下甲という)と座間町長鹿野文三郎(以下乙という)は、在日米陸軍司令部キャン
プ座間(座間町行政区域内)の自衛隊一部使用について協議の成立をみたので、ここに双方は文書を交換し別記条
件を誠実に履行することを約する。
記
第1条 施設部隊(約300名)の一部使用とし、その範囲は「施設584号(YFA)昭和46 年2 月13 日付
横浜防衛施設局長」名文書記載のとおりとする。(別添図示)
第2条 (甲)は、キャンプ座間の基地縮少について最大限の努力をする。
第3条 キャンプ座間の内、座間町行政区域の約半分に近い地域(別添図示)を、米軍縮少又は撤退の際は(甲)
は人口急増と公共施設の必要に迫られている(乙)の今後計画にあたり、住民の都市公共施設の利用に
全面的且つ積極的な援助と協力をする。
第4条 上記地域内に(乙)が今後設置しようとする都市施設について、都市計画上必要があるときは(甲)は
米軍撤退以前でも、計画決定及び事業実施につき積極的な援助と協力をする。
第5条 (甲)は、米軍管理の水道施設の早期移管を積極的に米軍当局と協議し最善の努力をする。
第6条 (甲)は、当面県道仮称相武台バイパスの事業計画及び実施につき(用地及び国庫補助)全面的に協力
をする。
尚、県道町田厚木線沿い両側の土地を公園緑道として利用できるよう(甲)は積極的に援助と協力を
する。
第7条 (甲)は、現体育施設(座間神社東側)を返還時に町の体育施設として利用できるよう、その実現に積
極的に努力をする。尚、自衛隊の使用中においても支障のない限り住民の利用に便宜を図るものとする。
第8条 (甲)は(乙)の要請に依り、災害.救急.公共施設の造成工事等に自衛隊の随時積極的な出動を約す
る。
第9条 (甲)は、自衛隊の日常生活の必需品については(乙)の町内業者を優先することとし、具体的事項に
ついては、自衛隊当局と町商工会関係者と協議する。
第10条 (甲)は、基地周辺地域の民生安定のため「防衛施設周辺整備法」を今後十分活用し、基地対策の要望
に応えるよう努力する。
第11条 (甲)は、基地交付金並びに調整交付金の増額については(甲)の所轄外であるが、今後十分(乙)の
意向に添うよう自治省に要請する。
第12条 (甲)は(乙)が交通安全対策上すでに米軍司令部に申し入れ、一応理解されている文化福祉会館と消
防本部前の米軍基地の一部を現在進められている県道相武台入谷線の計画街路事業に併せて、バス待合
所設置のため一部土地提供につき、直ちに米軍当局と協議を進め実現を図る。
第13条 (甲)は(乙)の本覚書の条項に基づき、施設及び土地の取得又は利用にあたり、国有財産処理上必要
な関係省庁間の調整に積極的に努力する。
昭和 46 年6 月25 日
(甲) 横浜防衛施設局
局 長 高村 清
(乙) 神奈川県座間町
町 長 鹿野 文三郎
自衛隊移駐に伴う防衛施設局長との締結文(覚書)
横浜防衛施設局高村清(以下甲という)と座間町長鹿野文三郎(以下乙という)は、キャンプ座間(座間町行政
区域内)の自衛隊の一部使用に関する覚書の交換にあたり甲、乙双方下記事項につき合意に達したので、これを証
するため覚書とともにここに確認書2通を作成し甲、乙記名押印の上各自それぞれ1通を保有する。
記
第1条 (甲)またはその他の理由により、覚書記載の各条項のいづれかについて将来共実現不可能の場合は、覚
書は無効とし自衛隊の使用は取消す。
ただし、(乙)がその理由を理解した場合はこの限りではない。
第2条 前条の規定により覚書が無効になった場合において生ずる(甲)のいかなる費用について(乙)は何らの
責も負わない。
第3条 覚書または確認書の規定に関し甲と乙との間に疑義が生じたとき、または定めのない事項については、(
甲)、(乙)協議して定める。
昭和 46 年6 月25 日
(甲)横浜防衛施設局
局 長 高村 清
(乙)神奈川県座間町
町 長 鹿野 文三郎
確認書
自民党の人が「政党・組織として一番まとも」と認めているんです、共産党のことを。
「原発反対という政策は共産党しかない」・・・これは民主党の国会議員が言ったこと。
「自共対決が現実のものであることを否定できない」・・・これはマスコミの言ったこと。
自民党はだめだ、、、そう思ったら、共産党に入れるのがいちばん良い選択肢だということです。
参議院選挙は共産党ですよ。