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◆神よ。

2014年04月30日 16時15分43秒 | 聖書

あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。(詩篇一三九・一七)

神の全知は、不信仰な人の心には何の慰めも与えない。しかし、神の子どもに対しては、あふれるばかりの慰めを与える。神は常に私たちのことを考えておられ、常に目の前に私たちを置いてくださる。これは、私たちにとっても願うところである。たとえ一瞬でも、天の父の御目の届かない所で生きるのは、私たちにとって実に恐ろしいことだからである。主の御思いは常に優しく、愛に富み、賢明であり、思慮深く、広範囲に及び、数えきれない益を私たちにもたらしている。したがって、それらを思い出すことは何よりの喜びである。主は常にご自分の民のことを考えておられた。それゆえにこそ、彼らの選びがあり、彼らの救いをもたらす恵みの契約があった。主は、これからも常に彼らのことをお考えになる。したがって、彼らは最後まで支えられ、安全に最後の安息にまで導かれる。
私たちがさまよう時、永遠の見張りの者の絶えることのない視線が私たちの上に注がれており、私たちは決して、羊飼いの目の届かない所に迷い出ることはない。私たちの悲しみの時、主は絶えず私たちを見つめ、ただ一つの苦しみさえ逃されない。私たちが労苦する時にも、私たちのすべての疲れに心を配り、主の忠実な子どもたちのすべての戦いを記録される。これらの主の思いは、私たちが歩むすべての道で私たちを囲み、心の奥底まで見通してくださる。
愛する友よ。これはあなたにとって尊いことではないか。ではそれをしっかり守れ。非人格的な神などを信じてはならない。主は生きておられ、私たちのことを思っていてくださる。この真理は、軽々しく奪われるにはあまりにも大きい。高貴な人に知られるということは非常に価値のあることであり、そのようにされるならば、自分の運命が開かれたと思う。しかし、王の王によって自らの存在が知られることは、なんとすばらしいことか。主が私たちを念頭に置かれるならば、すべてはよく、私たちは永久に喜ぶ。

 


「神である主は、

2014年04月30日 16時14分12秒 | 聖書

アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創世記3:21)

アダムとエバは互いが裸でおれなくなった。
罪が入り、ありのままの自分が出せなくなった。
アダムの罪以来、私達も同様だ。
本当の自分を誰にも見せる事が出来なくなった。
誰にも言えない、心の底に潜む、妬み、憎しみ、敵対心、虚栄、コンプレックス、プライド…。
自己中心、人を見下げる高慢、人には言えないが自分の心は知っている。
皆が、本音をひた隠して生きている。
本当の自分は弱くて、劣等感のかたまりで、恥で知られたくない。
それでいちじくの葉でおおい隠す。
そのいちじくの葉とは、富、名誉、地位、成功…。
虚勢を張って生きているが、本当は弱い、もろい自分。
主の十字架により罪の代価が支払われ、隔てが取り除かれた。
罪が完全に赦されている。この本音の部分こそが受け入れられている。
弱さがありのまま愛されていて、ありのまま神のもとへ行ける。
いちじくの葉が不要となり、主がおおいとなって下さった。
---------------
弱くて汚い自分の本当の姿をすべて神様は知っていて下さる。
示される事も神様の憐み、素直に受け入れ十字架を感謝して歩んで行こう。


◆家族への態度

2014年04月30日 08時22分16秒 | 聖書

自分の家族を煩わせる者は風を相続し、
愚か者は心に知恵のある者のしもべとなる。(箴言一一29)

家庭がうまくいかないということは、私たちのまわりを見まわすと、それこそどこにもあるようです。
家庭の中心となるべきものは愛です。愛によって、家庭はやすらぎの場となります。ここでやすらぎを得てこそ、外で活躍する力が私たちに与えられましょう。家庭が平和でないと、外での対人関係もスムースにいきません。家の中がいびつなら、外に出てもいびつです。
「自分の家族を煩わせる者」=家族にひずみを与える者です。家庭にひずみを与える子がいると、その家庭はどんなに苦しく、また暗いことでしょう。また、父親が家庭を顧みず、家庭に仕える愛の責任を果たさない時、どんなにその家庭は、冷たく寂しくうつろなことでしょう。家族の一人一人の心に与える傷は深く、家庭をだめにしてしまうのです。
「風を相続する」=人生をうつろにしてしまうことです。心の一番奥底に、後ろめたさ・寂しさがつきまといます。その結果、対人関係も自信がなくなり、うまくいかなくなります。他人なら逃げ出すことができても、家族は互いに逃げ出せません。苦しめたり苦しんだりするのです。そして、もし逃げ出せばおしまいです。そんな情況の原因となる人は、それ以外のことでもうまくいかないでしょう。
人の実力とは、単なる能力だけではありません。頭が切れること・仕事ができること・人が使えること・先が読めること・計画がよく立てられることでもありません。まわりの人を愛し受け入れていけることではないでしょうか。
現代ほど愛の歌をうたう時代はありません。しかし、愛はどこにあるのでしょう。「ここに愛がある」(Ⅰヨハネ四10)と聖書は言います。神に、キリストに、その十字架に、現代の奇蹟があります。

 


◆イスラエル人はみな……

2014年04月30日 08時21分34秒 | 聖書

つぶやき……。(民数一四・二)

昔イスラエルの宿営に不平があったように、今もクリスチャンの中に不平がある。彼らはむちが加えられると患難の時をのろう。彼らは尋ねる。「なぜこんなに苦しむのだろう。私がどんな悪事をしたというので、このように罰せられるのだろう」と。つぶやく者よ。なぜ天の父のご配慮をうらむのか。主があなたを苛酷に扱いすぎることがあり得るのか。あなたはかつていかに神に反抗したことか。しかし神はあなたを赦された。もし神がその知恵によりあなたを懲らしめるのをよしとされたなら、あなたは不平を言うべきではない。
あなたは自分の罪に相当する厳罰を受けているか。あなたの心中の腐敗を考えてみよ。そうすれば、腐敗が除かれるために、そのように多くのむちが加えられなければならないことに驚くであろうか。あなた自身を量りにかけて、自分の金の中にいかに多量の不純物が含まれているかを確かめよ。それなら、多くの不純物をきよめるため、火が熱すぎると思うであろうか。あなたの高慢な反抗的精神は、あなたの心が全くきよめられていないことを証明しているではないか。その不平のことばは、神の子たちの聖い従順な性質に反するものではないか。それの矯正が必要ないであろうか。しかし、もしあなたが懲らしめに対して不平をもつならば、つぶやく者にはいっそう激しい罰が下ることに注意せよ。神は最初のむちを素直に受けない子どもに、いつでも再び懲らしめを加えられる。しかし次の一事を知れ。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」
主の矯正はすべて愛から出ており、あなたをきよめ、ご自身に引きよせようとされるためである。もしその懲らしめが父から来ることを認めるならば、たしかに素直に受けるべきである。「『主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」「彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」

 


第1サムエル記18章6-9節

2014年04月30日 08時20分20秒 | 聖書

18:7 女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」
18:8 サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。 「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」


 ダビデは、サウルの所で大きくなっていったようです。

ダビデがいろいろな戦いで勝利を得るものですから、サウルは彼を戦士達の長に任命しました。

ところが、ある時ダビデがペリシテ人の戦いに出て、いつものように勝利を得て民の所に帰ってくると、彼を迎えた女性達がダビデのことを褒め称えて、このように言いました。

「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と。

そのことを繰り返して歌ったのです。

その歌を聞いたサウルは、不愉快になりました。

自分よりもダビデの方が人々から称えられたからです。

彼にはおおらかな心がありませんでした。

この時から、彼の思いが変わりました。

ダビデを疑い始めたと語られています。

ダビデに対するねたみを引きずる者となったのです。

ねたみほど人を引き裂くものはありません。

悲しい現実がおこったのです。


民数記11章1、10-11節、12章1節

2014年04月30日 08時18分50秒 | 聖書

★11:1  さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。

★11:10  モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。

★11:11  モーセは主に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。

★12:1  そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の 女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。

■O:今日のコラム

4月29日、昭和の日の朝です。今日1日、神様が与えてくださる恵みに感謝し、主に信頼していきましょう。僕らは、苦しみの中を通る時に次のステージへと行くことができるからです。

イスラエルの民たちとミリアム姉さんとアロン兄さんたちの愚痴とモーセさんの主への訴えの違いは、目線です。

前者は、自分中心、自分はこうしたい、あれが食べたい、マナ(神様の御言葉)よりもあっちの方が自分は満足する、人よりも自分の方が優っているという高慢な訴え、愚痴です。人を傷つけ、神様を自分の欲望を満たすための神様としての見方です。

後者は、主が与えてくださったモノを自分の力では治めることができない辛さ、正しいことをしようとしてるのに周りに理解してもらえない辛さ、神様の目線で歩みたいのに歩めない辛さ、そして何より、神様と一緒に同じ方向を向いての腹の立て方でした。

モーセさんも腹を立てたのでした。『も』。そして、神様に、この問題解決を持っていきました。不平不満をモーセさんと神様に言った民にではなく、神様に告白したのです。

イエス様も腹を立てたことがありました。

『それから、イエスは宮に入って、宮の 中で売り買いする者たちをみな追い出し 、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」』(マタイによる福音書21章12-13節)

天のお父さんと同じ考え、同じ目線、同じ方向を向いての行動でした。一般的には人のものを壊して… と思ってしまうかもしれませんが、神様の前では、これは罪とはなりませんでした。

『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです 。』(ヘブル人への手紙4章15節)

イエス様は、いつでも天のお父さんの御心を求め、いつでも天のお父さんに聴き従っていました。十字架と復活の御業も、ゲッセマネでの天のお父さんへの訴えから、御心を求めていました。

イエス様は、僕らに、この世での生き方と、天のお父さんとの関係をいつも教えてくださいます。愚痴を言ってしまう時、僕らは、天のお父さんの方向を向いていきましょう。一呼吸おいてからでも、自分のペースで、自分の声で、イエス様に求めていきましょう。イエス様に、訴えていきましょう。自分の弱さを隠さず、イエス様に取り扱っていただきましょう。

■A:考えてみよう

愚痴を言わないためにはあなたは何ができますか?

それでも、感謝が口から出ない時、誰に、どのように愚痴を言いますか?

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


◆主は、ご自分の民を愛し……。

2014年04月29日 17時13分58秒 | 聖書

(詩篇一四九・四)

イエスの愛は、なんと広い愛であろう! 民の関心事で、主がみこころを煩わされないものはなく、民の幸福に関することで重視されないものはない。信者よ。主はあなたを滅びない者として考えておられるだけでなく、死ななければならない者としても考えておられる。それを否定したり疑ったりしてはならない。「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」
この愛の衣が、私たちの心遣いの一切を包んでくれなかったら、それは私たちにとって悲しむべきことであろう。私たちの務めの一部が、恵み深い主の検分からもれていたならば、どのような不幸が私たちの上に降るかわからないからである。信者よ。安心せよ。イエスはあなたの一身上のごく細かなことすら、心にかけておられる。主の優しい愛の範囲はこのように広いから、あなたはすべてのことを主に訴えてよい。主はあなたのすべての悩みを悩み、父が子をあわれむようにあなたをあわれんでくださるからだ。
神の御子の胸には、単にその民の一人一人が覚えられているのみか、すべての民の種々雑多な数えきれない関心事がみな覚えられている! おお、クリスチャンよ。あなたはキリストの愛を測ることができると思うか。主の愛があなたに何をもたらしたかを考えよ。あなたは義とせられ、子とせられ、聖化せられ、そして永遠のいのちを与えられた! 主の善の富は数えきれない。否、それらを心に描くことすらできない。
キリストの愛の広さよ! 私たちはそのような愛に対して、自分の心の半分でもささげているだろうか。そのような愛に応えるのは、冷たい愛だけであろうか。イエスの驚くべき愛と優しい心遣いとは、かすかな応答と仕方なしの感謝を受けるだけなのか。私のたましいよ。おまえのたてごとを感謝をこめた喜びの歌に合わせよ。喜びに満たされて休息せよ。なぜなら、おまえは頼りとするもののないさすらい人ではなく、愛される神の子どもであり、主によって見守られ、心に留められ、支えられ、保護されているからである。

 


「私が子どもであったときには、

2014年04月29日 17時12分19秒 | 聖書

子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました」(Ⅰコリント13:11)

主は子供のような信仰を持つようにと言われた。
しかし、子供のような素直な信仰とは、子供っぽい信仰の事ではない。
子供っぽい信仰とは、自分が受ける事、もらう事しか考えない。
神は良くして下さらなければならない。
困難が来るとすぐ不平不満が出てきてしまう。
思い通りにならないと、すねて、いじけて、自己憐憫に陥る。神を責め、人を責め、環境のせいにする。
友が、忠告し間違いを正そうとすると、自分を受け入れないと怒る。
どこまでも「自分、自分、自分」自己中心なのだ。
あなたはどうか。大人の信仰か子供っぽい信仰か。
神は大人の信仰へと成長させたい。困難が次から次へと来るのは愛のゆえだ。
ああしてくれない、こうしてくれない、自分が中心に世界が回っているか。
一生それで終わるなら哀しい。
あれが欲しいこれが欲しいに終始するのでなく「あなたは私に何を望んでおられますか」に祈りを変えよう。
--------------
焦点と関心が自分の事のみだろうか。
神は私に何を求め、何を望んでおられるのだろう。
焦点を「自分」から「神」に変えて、祈り、発想し、行動をしてみよう。
違う世界が見えて来る。


そうだ醍醐寺に行こう

2014年04月29日 17時08分40秒 | 予定・告知

■□醍醐寺だより□■

 新緑のまぶしい季節となりました。
 気候が良くなり、毎朝上醍醐へお参りされる方も、かなり薄着になられたようです。
 朝の御挨拶をしていると、「お参りすると、御縁をいただくだけでなく、森林浴もできて、運動にもなり、健康にとってもいいね」とおっしゃいます。
 運動不足ぎみの方も、そうでない方も、新緑に包まれた醍醐寺にお参りして、リフレッシュしてみませんか?


◆「めぐり合い」◆

 世の中何時も思い通りになんて行きません。
 しかし、日頃から仏さまに心を寄せていると
 思い通りに行かなくても、今ある現実を受け入れ、
 的確に対処していく、智恵にめぐり合えると 思います。

◆お知らせ

●「Diners Club Japan (ダイナースクラブ)」の
   フェイスブックで醍醐寺が紹介されています。
  「Diners Club Japan (ダイナースクラブ)」のフェイスブックのアドレスは以下の通りです。
https://www.facebook.com/dinersclub.jp/

「Diners Club Japan (ダイナースクラブ)」のフェイスブックでは、今年、一年を通じて、様々な形で醍醐寺の紹介することになりました。
 ぜひ訪問してみてください。

●行事のご案内

◎醍醐寺宝聚院(霊宝館)
 2014年春期展
 「醍醐の花見」

会 期:平成26年3月21日(金・祝)~5月18日(日)

開館時間: 9:00~17:00(入館は16:30まで)
休 館 日:期間中休館なし

◎西国第11番札所本尊
   准胝観音総供養
○開白法要 於 下醍醐 観音堂
准胝観世音菩薩 曼荼羅供法要
 5月15日(木) 午前10時30分

○中日法要 於 下醍醐 観音堂
 5月18日(日) 午前10時30分

○結願法要 於 下醍醐 観音堂
 5月21日(水) 午後2時

◎醍醐山・春の回峰行
 5月24日(土)
 醍醐山行場 他

◎写経会
 日時:平成26年5月18日(日)
 9:00~13:00(11:30受付終了)
 12:00~
 写経奉納のお勤め。
 その後、法話。

◆写経会の参加には2000円の奉納料が必要となります。
◆写経会に参加された方には軽食をご用意いたします。
◆写経会に参加された方は、写経会当日の三宝院、伽藍の拝観ができます。
◆お問い合わせは醍醐寺寺務所まで。


行事の詳細はこちらから↓
http://daigoji.jp/daigo/4718/

★納経所の移動のお知らせ★
西国三十三所十一番の御朱印、納経等は下醍醐観音堂にてお受け致しております。

◆総本山醍醐寺
◆真言宗十八本山
◆西国三十三所第十一番札所
◆西国薬師四十九霊場第三十九番
◆近畿三十六不動尊霊場第二十三番
◆役行者霊蹟札所
◆神仏霊場会
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●このメールは、購読を希望された方の同意にもとづいて配信しております。
●このメールは配信専用のメールアドレスから配信しています。このメールに返信いただきましても対応はいたしかねます。
…◆…◆…◆…◆…

配信元
601-1325
京都府京都市伏見区
醍醐東大路町22
總本山醍醐寺
http://www.daigoji.jp/


◆何をたよりにするか

2014年04月29日 07時35分11秒 | 聖書

自分の富に拠り頼む者は倒れる。
しかし正しい者は若葉のように芽を出す。(箴言一一28)

年末に売り出されるジャンボ宝くじは、予約をしないと買えないほどの人気だそうです。夢を買うつもりなら、一枚ぐらい買ってみてもいいかもしれませんが、「富に拠り頼む」のは絶対にだめです。
何年か前、二千万円の宝くじに当たった人の悲劇物語が新聞に出ていました。ああ、これでおれも人生一息つけると思ったことでしょう。ところが、今まで知らん顔だった親戚や友人まで、砂糖にたかる蟻のようにやってきます。彼は人間不信に陥り、おれのものはおれのものと、その二千万円をかかえこみました。やがて、心の中に巣くうみにくい欲望にしてやられて、悪とけがれに転落し、三年後には、水死体となって川に浮かびあがったのです。
遠いお話と聞かないでください。お金には力があります。正しい心で用いれば、どんなにあってもいいものでしょう。しかし、お金に「拠り頼む人は倒れる」のです。石油をドルに換えても、ドルはさがればおしまいです。お金を金に換えて、大損をした人の話も聞きました。持っていると思っていたのに、一夜明けるともう持っていなかった。――これがお金です。
私たちは裸で生まれ裸でこの世を去ると、聖書は言います(ヨブ一21参照)。生まれてくる前・現在の人生・死後の世界のすべてを支配しているのは神の力であって、お金ではありません。
目に見えない大切な愛・誠実さ・偽りのないやりとり・そこから出る信頼感、こういうものなしに人生は成り立っていきません。そして、これらのものは、何一つとして金では買えないのです。このようなものはみな、自分の誠実さであがなうものです。そして、神の助けなしには誠実に生きることはできません。しかし、神にたより神に助けられて誠実に生きる時、人生は若葉のように生え茂り繁栄するのです。

 


◆あなたは、わざわいの日の、

2014年04月29日 07時34分06秒 | 聖書

私の身の避け所です。(エレミヤ一七・一七)

クリスチャンの道は、いつも太陽が輝いているわけではない。時にはやみもあらしもある。なるほど神のみことばには、「その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である」と記されている。まことにそれは一大真理であり、信仰は人に天上の喜びのみならず、地上の幸福をも与えるものだと考えられている。しかし、「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」にしても、時にその光がさえぎられることを経験する。ある期間、雲が信者の太陽をおおい、信者はやみの中を歩き、全く光を見ないことがある。
しばらくの間、神の臨在を喜んだ人は多い。彼らが信者となったころ、彼らは十分な日光を浴び、「いこいの水のほとり」の「緑の牧場」を歩んだ。しかし突然、彼らは晴れた空が雲におおわれるのを発見し、ゴシェンの地に代わって砂漠を歩かなければならない。甘い水の場所には困難な川が流れ、彼らはその苦い水をなめて、「もし私が神の子なら、こういうことは断じてあってはならない」と言う。ああ、暗い道を歩む者よ。そういうことを言ってはならない。すぐれた神の聖徒は苦よもぎを飲まなければならない。神の最も愛される子どもたちは、十字架を負うべきである。クリスチャンはだれであっても繁栄ばかりを楽しむものではなく、常にたてごとを柳の木に掛けないでいられるわけではない。
おそらくあなたが弱く臆病であったために、主は初めのうち、やわらかく日の当たる道を与えてくださったのであろう。主は毛を切った小羊に強い風が当たらないように配慮される。しかしあなたは、霊的生活において強くなったので、神の成長した子どもとして円熟した激しい経験に入らなければならない。私たちは自分の信仰を鍛練し、自己依存の腐敗した枝を除き、さらによくキリストに根を下ろすために、風とあらしを必要とするのである。わざわいの時が、私たちの輝かしい希望の価値を示すのである。

 


第1サムエル記18章1-5節

2014年04月29日 07時32分20秒 | 聖書

18:1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。
18:2 サウルはその日、ダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった。


 人が友達になるということは、不思議なことです。

多くの人々がいる中で、自分が気に入った人、また自分の思いに会う人が、友達となっていきます。

サウルの子のヨナタンも、ダビデが気に入りました。

ダビデがサウルと話しおえた時、ヨナタンの心がダビデに結びついたと語られています。

恐らく、ダビデがしっかりとサウルに自分のことを語り、またその信仰のことを語っているのを見て感動し、ヨナタンは友達になろうとしたのではないかと思います。

同じ信仰と同じ考えに生きるということが、彼の結びつきへの思いであったようです。

彼はその結果、契約を結びました。

いわば、自分の友達としての真実さを互いに示すことを決めたようです。

 この時以来、ダビデはサウルのお気に入りとなって、王の所に住むようになりました。

サウルは、ダビデがいつも自分と一緒にいることを、望みました。


民数記10章33節(民数記9章)

2014年04月29日 07時29分30秒 | 聖書

★  こうして、彼らは主の山を出て、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した。

■O:今日のコラム

『主の山を出て』とありますが、おかしいですよね。彼らは、シナイの荒野からパランの荒野への旅であったはずです。主の山とは、祈りの山、主との交わりの場所のことです。

彼らは、約束の地という目的地、安息の地を目指していましたが、その道中にも宿営する場所が必要でした。主は、そのための休息の場所を探して下さる方です。ハレルヤ!

私たちが最高に憩えるのは、主の山です。だから毎日、主の山に登ります。

しかし、登ったものは降りる時がやってきます。そこで神の計画を前進させ、御国を前進させていくのです。

しかし、その中にあっても主は、私たちに小さな憩いが必要であることを知っておられます。主はその休息の場所を探して下さる方です。

私たちは、自分で休息の場所を探してしまいがちです。しかし、私たちにとって本当にぴったりの休息の場所は、主が見つけてくださいます。

私たちに必要なのは、主の仰せに従って行動することです。その時に、良い場所、良い時間、良い交わりなどの自分にぴったりの休息を得ることができます。

大切なのは、主に信頼して従順することです。彼らも、主の雲に従って行く中でこのことを味わっていったのですから。

『あなたは、私をみどりのまきばに伏させ、憩いの水のほとりにともなわれます。』

■A:考えてみよう

自分の休息の場所は、主が見つけて下さると信じて、喜んで従順する。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。