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レビ記15章31-33節

2012年05月31日 10時35分08秒 | 聖書

15:31 「あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。彼らの間にあるわたしの幕屋を汚し、その汚れたままで彼らが死ぬことのないためである。」
  聖書が汚れということを問題にしている時、単に衛生上の問題だけで語っているのではありません。
そこには、神様との関わりがあって、それが一番大切なこととして、この問題が取り上げられているのです。
 神様は聖なる方です。
従って、罪も汚れもないお方です。
ですから、このお方の前に立つためには、その人も罪と汚れが消えさられている必要があります。
汚れを持っているままでは、礼拝に出ることが許されなかったのです。
そして、もし、その汚れのままで礼拝に出るならば、神様がその人を滅ぼしてしまわれることが、起こりえたのです。
ですから、清められよと命じているのです。
 私たちも、罪と汚れに満ちている者です。
このままでは、主を拝することが、全く出来ない出来ない者です。
そうした者が今、礼拝に出て、主を我が神として礼拝させて戴くことが出来るのは、イエス様による罪の赦しと、清めを戴いているからです。
ただ、主の恵みに寄っているのです。


◆利 益 と 欠 損

2012年05月31日 10時19分28秒 | 聖書

すべての勤労には利益がある。
おしゃべりは欠損を招くだけだ。   (箴言一四23)

石油ショック以来、いろいろの国や国民や会社が石油問題で苦しんでいます。
ところで三年近く前のこと、ある産油国の様子をテレビで見ました。採掘や精製に使う設備が保全や修理がされないで、ほったらかしになっています。そこで、自分の国で使う灯油にまで事欠いて輸入しなければならない情況になるだろうと、くさったりさびたりした設備の写真が映し出された時には、心を刺されました。産油国であるその国にも、いろいろむずかしい複雑な事情もあることでしょう。しかし、石油でもうけて、なまけていて全く働かなかった結果を見せつけられたような気がしました。
勤労と労働は、人間に神が与えてくださった祝福です。
「働かざる者は食うべからず」(Ⅱテサロニケ三10参照)も、聖書のことばです。働くことをいやがったり憎んだりするのではなく、神からの贈り物とすることは、どんなに大切なことか分かりません。こう考えて、社会が必要とするものを骨身を惜しまずに生み出し、社会が必要とする仕事につく時、人は、自分の値打ちを認識できます。
そこには、働く喜びが伴います。自分のしていることが、教えることであれ生産であれ商売であれ、神の任命によっていることが分かり、生きていく力が与えられます。経済的な収入面ばかりではなく、目に見えないその他の点や目に見える多くの面で、利益・収益を得るのです。勤労と労働を尊ばない時、人生に必ず何かの欠損が生じるでしょう。
愛してくださる神のもとで、神から与えられ預けられた人生を、神から与えられた仕事のために労する勤労は尊いのです。

 


◆王はキデロン川を渡り……。

2012年05月31日 10時17分54秒 | 聖書

(Ⅱサムエル一五・二三)

ダビデは裏切りの子アブシャロムに追われ、悲しみのうちに部下とともに陰気な川を渡った。神のみこころを求めていた彼は、困難から除外されていたのではなく、むしろその生涯は患難に満ちていた。彼は主に油注がれた者であると同時に、主の悩みを負う者であった。それなのにどうして私たちが困難を免れることを期待できるだろう。悲哀の門の前で、最も気高い人々が灰をかぶって座していたのに、私たちは困難に際して全く予期しないことが起こったかのように不平を言うことができようか。
王の王も楽しい立派な道を歩まれなかった。エルサレムの汚物が流れているキデロンの濁流を渡られたのである。神は罪のない子をただ一人もっておられたが、むちを加えられない子は一人ももたれなかった。イエスがすべての点において私たちのように試みられたことを信じるのは、私たちにとって大きな喜びである。
今朝私たちの渡るべきキデロンは何か。不信の友か。悲しい死別か。中傷か。暗黒の前兆か。私たちの王はこれらのすべてを渡られた。肉体の苦痛、貧困、迫害、侮辱か。私たちの王は先に立ってこれらすべてのキデロンの上を行かれた。私たちの試練が特珠なものであるとの考えは、ただちに、また永遠に捨てなければならない。なぜならすべての聖徒のかしらなるお方が、そのご体験により、私たちが特別なものと考えているその悲しみを知っておられるからである。すべてのシオンの民は、インマヌエルがかしらであり隊長である名誉ある哀悼者の群れに加わらなければならない。
ダビデは一時卑しい身分に下ったが、やがて勝利を得て都に帰り、またダビデの主は勝利を得て墓からよみがえられた。だから私たちも勇気を奮い起こそうではないか。なぜなら、私たちもまたいつの日にか勝利を得るからだ。今しばらくの間は罪と悲しみの汚れた流れを渡らなければならないが、やがて喜びにあふれて救いの井戸から水をくむのである。十字架の兵士よ。勇敢であれ。王ご自身がキデロンを越えて勝利を得られた。あなたもまた同様に勝利を与えられる。

 


レビ記15章25-30節

2012年05月30日 09時41分52秒 | 聖書

15:25 「もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。」
  女性の出血でも、通常の月経に寄る場合と、異常な在り方による出血の場合があります。ここでは、その異常な出血の場合の事を語っています。
つまり、病による出血の場合です。
 このような汚れがある場合、その人はその期間中「汚れた者」とされる事を語っています。
つまり、その期間が長ければ長い人ほど、礼拝に集うことが出来ないで、悲しみと苦しみの時を持たなければならないことです。
 病から解放される時には、定められた儀式を行って、その清めの宣言を受けなさいと命じています
 福音書は、12年間も長血を患っていた婦人が、イエス様の衣に触った時に癒されたことを、告げています。
婦人にとって、長血が、人の手前、いかにつらいことであったかを知るのです。
ですから「密かに」触ったのです。
イエス様はその女性を、いやし、清めて下さいました。


◆隣人をどう見るか

2012年05月30日 09時31分38秒 | 聖書

自分の隣人をさげすむ人は罪人。
貧しい者をあわれむ人は幸いだ。   (箴言一四21)

何年か前、カンボジアの難民の有様を視察する日本人視察団が派遣されました。女の方が団長さんでした。その報告の第一声として、「こんなひどいことが、隣の国にあるのに、日本人は行って助けていない。日本人も、お金だ政策だと言うより、まず第一に行って助けるべきです」と話されました。ほんの数えるほどしか、日本人は行っていないとのことです。
その報告がのった次の朝、新聞の漫画を見ました。「ルック」とか「ヨーロッパ二週間の旅」の旗をたてて、毎年何十万と出かける日本人旅行団が、旗を塗り替えて、「カンボジア難民を助ける旅」を組織して出かけるところでした。
日本人には、自分の家庭・職場・会社を守り、他人に迷惑をかけなければそれでいいという考えがあるのかもしれません。しかしほんとうの愛は、利害関係を越えて、隣人に助けの手をさし伸べないでしょうか。日本人の親は、関係のない人、いいえ、あなたの兄弟姉妹である世界の、国内の同胞たちに、無条件で愛の手をさし伸べる模範を、子どもたちに示していないのではないかと、私自身も反省しています。
三浦綾子さんは、長い病床の苦しい経験の中から、同じく病床で苦しんでいる病人の方たちに慰めの手紙をせっせと書き始められました。そして、このように言われたのです。「他人を慰めようとすること以上に、自分自身が慰められることはほかにない。」こうして具体的に隣人に愛の手をさし伸ベさせるものは、自然に心からわき出るものです。ほんとうの愛の行為は、ほんとうの愛の心から出てくるのです。そんな愛は、無条件で愛し、すべての人のためにいのちを捨てられた神を知り神に従うへりくだった心に、神から注がれます。そして、そのような人はことばで表せない幸せを経験するのです。

 


◆私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕えておくれ。

2012年05月30日 09時30分06秒 | 聖書

(雅歌二・一五)

小さなとげが大きな苦痛を与え、小さな雲が太陽を隠すことがある。小狐がぶどう園を荒らし、小さい罪が柔らかい心に害を与える。小さい罪がたましいの中に巣を作り、キリストの憎まれるもので満たすので、キリストは私たちと親しい交わりを続けるのをやめられる。大きな罪はクリスチャンを滅ぼすことはできないが、小さい罪は彼をみじめにすることができる。
イエスは、その民が身に覚えのあるすべての罪をことごとく捨てなければ、共に歩まれない。主は言われる。「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです」と。
あるクリスチャンは、ごくまれに救い主のご臨在を経験するにすぎない。これはなぜか。たしかに弱い幼児が父親から離れているのは苦痛に違いないのに。あなたは神の子でありながら、父の顔を見ないで満足していられるのか。おお、あなたはキリストの花嫁でありながら、一緒でなくても満足していると言うのか。たしかに、あなたは悲しむべき状態に陥っている。なぜならキリストの貞節な花嫁ならば、夫が去ってしまえば、鳩のように嘆き悲しむはずだからである。
それゆえ、なぜキリストが去られてしまうかを考えてみよ。主はあなたの罪の塀の背後に身を隠された。塀は大石でも小石でも作れる。海は一滴の水が集まって、岩は砂の集まりによってできたものである。あなたを主から隔てている海も、あなたの小さな罪が集まったものかもしれない。あなたの船に致命的な大損害を与えた暗礁は、あなたの小さな罪というさんご虫の日ごとの働きによって造られたものかもしれない。
もしあなたがキリストと共に生き、共に歩み、キリストを見、そして交わりたいと願うなら、花盛りのぶどう畑を荒らす小狐に注意せよ。イエスは、共に狐を捕えに行こうと言われる。主はサムソンのように、ただちに狐を捕えられるだろう。主と共に猟に行け。

 


世界難民の日

2012年05月30日 09時29分49秒 | 予定・告知

世界難民の日にちなんで、下記の通り、
「入管法が変わる!難民の子供たちの未来は?」
をテーマに東京集会を開催いたします。
http://sekainanmi.exblog.jp/
(日本語、英文案内)

賛同・当日のスタッフ募集中です。(難キ連佐藤 090-6012-8252 まで)

日時:2012年6月30日 土曜日 午後1時半〰4時
会場:早稲田奉仕園 リバティホール(バプテスト同盟東京平和教会)
   〒169-8616 新宿区西早稲田2-3-1
   東西線早稲田駅 徒歩5分
   http://www.hoshien.or.jp/map/map.html
主催:2012年世界難民の日東京集会実行委員会

資料代:500円
 午後1時開場 午後1時半開会
プログラム
第1部  1、講演 参議院議員 今野 東 先生
     2、証言 難民、難民申請者、
      「庇護を求めた日本で生まれ、無国籍者として成長するわが子の未来は…」
休憩…  コーヒー(クッキー付)…100円(難民申請者の子供たちのためにカンパ)
     難民ミニバザール … 難民の方々のさまざまな作品を販売します。
    (収益はすべて難民申請者の生活支援に用いられます。)
              書籍、カード、などなど。
第2部 1、難民の子供たちの声を聞く… 作文の朗読、リレートーク
     2、劇
     3、全体を通して質疑応答
     4、歌  子供たち、会場の皆さんとともに
 午後4時 閉会

2012年世界難民の日 東京集会 趣旨
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
7月から入管法が変わります、在日難民の皆さんは、不安でいっぱいです。
難民の子どもたちはどうなるのでしょうか?
私たちには縁遠いと感じられる入国管理法ですが、日本にいる移民や難民の方々にとっ
ては、その運用次第で運命が大きく変わるほどのものです。
日本の企業はいま、海外での生産や販売を増やすことに活路を求め、政治も国際社会の
一員としての存在感を目指しています。つまり日本は今後、国際社会の一員としてやっ
ていくほかないということです。
しかし日本は、世界から見て「難民鎖国」といわれるほど、特殊で片寄った難民行政を
やってきました。
そのため、これまで多くの在日難民が悩み苦しんできました。

さて、この7月から、60年ぶりに改定された新しい入国管理法が施行される予定です
。しかし残念ながら、とくに難民申請者の方たちにとっては「良い方向」への改正では
なく、さまざまな問題を引き起こしそうです。なかでも最大の犠牲者は、何の罪もない
難民申請者の子どもたちでしょう。

皆さん、この改定入管法の中身を、ちょっぴりでも知っておいて下さい。
そして、難民の子どもたちがどうなるのかを考えてください。
日本人の人権感覚が、国際社会から問われています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2012年世界難民の日東京集会 賛同者を募っております。
難民申請者の、特に子供たちのためにご賛同をお願いいたします。
賛同者のお名前は東京集会ブログhttp://sekainanmi.exblog.jp /に掲載させて頂きます。
匿名希望、イニシアル希望はその旨お知らせください。
多くの賛同を心からお願い申し上げます。
2012 年世界難民の日東京集会実行委員会 連絡先 
酒井  042( 998) 5501
佐藤 nankirensato@jcom.home.ne.jp


レビ記15章19-24節

2012年05月29日 11時48分10秒 | 聖書

15:19 「女に漏出があって、その漏出物がからだからの血であるならば、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる。」
  次に語られているのは、女性の漏出の場合です。
この場合は、漏出と言うよりは、出血ということです。
 まず、ここでは、その女性の生理の時のことが語られています。
月経が始まったならば、7日間の間、汚れた者とされるといっています。
その彼女に触れる者のみではなくて、彼女の衣服や床、そして彼女が触れた所の物に触れた人も皆、汚れることを語っています。
又その月経の間に、彼女と交わった男性も同じように汚れることを告げています。
これは、その出血の時の女性を守るために、このように言われているのです。
 このような人々は皆、その日の夕方まで汚れた者とされます。
ですから、皆その汚れから清められるために、身体、あるいは衣服などを、洗う必要があることを命じています。
血の重要性から、出血ということが汚れとして問われるのです。
主は何時も、主の前に清い者であることが求められるので、このことが命じられるのです。


◆人  間  の  愛

2012年05月29日 11時37分53秒 | 聖書

貧しい者はその隣人にさえ憎まれるが、
富む者を愛する人は多い。     (箴言一四20)

前にも申し上げたことですが、現代ほど、「愛」ということばが氾濫している時代はないでしょう。しかし、現代ほど、愛のない時代はないのかもしれません。都会の片すみで、数かぎりない人が、自分が見忘れられ顧みられないことを寂しく感じています。けたたましく忙しい一日の活動の後にベッドに横たわる時、人々は、しみじみそれを感じるのです。
どこかが狂っています。どこかに間違いがあります。何がおかしいのでしょう。
家庭での愛情はひとまず置くとして、一歩外に出ると、人間の愛は、相手の利用価値に動かされています。相手に利用価値があれば愛し、そうでないと見向きもしないのです。富んでいる人のまわりには人が群がり、みな心のこもったようないいことを言います。貧しい人のまわりには、だれも集まりません。だれも、慰めも励ましも愛のことばもかけません。いや、それどころか、意地悪する人もあります。人が悩んでいたり苦しんでいるのを、ひそかに喜ぶ者すらいるのです。
家庭の中の愛だけは、無条件のほんとうの愛でしょうか。いつの間にか、ここでもやはり、自分で利用できるもの・自分の役に立つもの・自分の名誉や喜びになるものだけが愛され、そうでないものはポイと捨てられています。ですから、いま家庭の中で、夫婦の間・親子の間でさえ、争いの絶えない冷たい家庭が増えているのです。
ほんとうの愛とは、無条件で相手を受け入れ、相手の喜びを喜びとし、相手の悲しみを悲しみとする愛です。そんなほんものの愛は、神にあるのです。富める者も貧しい者も無条件で愛し、一人一人の最善を願うばかりか、それを備えてくださいます。そんな神の愛を知って、初めて私たちの愛もほんものに近づいていきます。

 


◆あなたは……悪を憎んだ。

2012年05月29日 11時36分15秒 | 聖書

(詩篇四五・七)

「怒っても、罪を犯してはなりません。」もし人が罪を怒らないとすれば、その人の中に善があるとは思えない。真理を愛する者は、一切の偽りを憎むはずである。私たちの主イエスは、誘惑が襲ってきた時、どれほどそれを憎まれたことであろう。それは三度手を変えて襲ったが、主は「引き下がれ、サタン」とのことばをもって撃退された。主は他人の中にある罪を憎み、叱責のことばよりはさらに熱烈なあわれみの涙をもって、罪に対する憎しみを示された。
しかし、主の次のみことばほど、エリヤを思わせるような激しさをもつものはない。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。」主はこの上なく悪を憎まれ、悪に致命傷を与えるためにご自身の血を流し、悪が死ぬためにご自身が死に、悪をご自身の墓に葬るために葬られ、永久に悪を御足の下に踏みにじるためによみがえられた。キリストは福音の中におられ、福音はあらゆる悪に反対する。悪は美服をまとい、聖いことばをまねる。しかし、イエスの教えは、有名な宮潔めの縄のむちのように、悪を宮から追い出し、それが主のからだである教会の中に存在するのを黙認されない。それゆえ、イエスの支配下にある心の中では、キリストとサタンのなんと激しい戦いがあることだろう。
さらに、私たちの贖い主がさばき主としておいでになる時には、「のろわれた者ども。わたしから離れよ」との雷のようなみことばが――これは主のご生涯を通じての罪に関する教えの延長にすぎないものだが――罪に対する主の憎しみを表すことだろう。主は罪人に対して温かい愛をもたれるだけに、罪に対しては燃えるような憎しみをもたれるのである。主の義が完全であられるだけに、あらゆる種類の悪を残らず破壊される。
ああ、栄光ある正義の闘士、悪の破壊者よ。それゆえ神、すなわちあなたの神は、あなたの友にまさって喜びの油を多く注がれたのである。

 


●不当労働行為と解雇●

2012年05月28日 08時27分03秒 | 労働法

 不当労働行為とは、労働組合法第7条で、労働組合の活動を妨害するような行為として、そうした行為を会社はしてはならないと規定しています。
 例えば、従業員が労働組合に加入したり、労働組合を結成しようとしたことを理由にその従業員を解雇することは、不当労働行為とされています。
 会社の行為がこの不当労働行為に該当するかどうかは、通常まずは各都道府県の労働委員会で判断され、救済命令が出されます。それに不服のある場合は、中央労働委員会に再審査請求をすることができます。この結果にも不服のある場合には、裁判に訴えなければその判断が確定します。
 組合員である従業員の解雇が不当労働行為とされた場合、その解雇を会社は撤回しなければなりません。この救済命令に従わない場合には罰金などのペナルティーが課せられます。これは不当労働行為という制度が、行政上の救済制度だからです。
 ということは、労働委員会から会社に発せられた救済命令は、労働委員会と会社の問題であって、解雇された従業員の関係は別に考えなければならないということになります。
 しかし判例では、不当労働行為を理由に解雇された従業員が求めた解雇無効を認めています。


レビ記15章16-18節

2012年05月28日 08時19分58秒 | 聖書

15:18 「男が女と寝て交わるなら、ふたりは共に水を浴びる。彼らは夕方まで汚れる。」
  ここでは男女の性の交わりにおける、精の漏出のことを語っています。
これは、男性が漏らすことになりますが、その時には、そのことによって汚れをもたらすので、その人と相手の女性も共に、夕方まで汚れた者とされる事を告げています。
従って、その汚れを取り除くためには、男女ともに全身を水で洗い、又、漏れた精のついた服は皆、洗うことを命じています。
こうして、その汚れが取り除かれると語っています。
これは、この行為に関わった男女ともに、同じであることを告げています。
正当な結婚による男女の性の交わりというのは、神様が与えて下さった正当な行為です。
ですから、それを非難しているのではありません。
しかし、そこから漏れる精の流失という場合には、行為に関わる両方の人がその流失という問題に関わるので、それを洗えと告げているのです。
また、これはあくまで個人的な行為ですので、その清めも、単に、その漏らしたものを洗うということのみで、清められることを告げています。


◆自 信 家

2012年05月28日 08時10分03秒 | 聖書

知恵のある者は用心深くて悪を避け、
愚かな者は怒りやすくて自信が強い。(箴言一四16)

自信がないのは困りものです。
・ いつもおどおどして、人の気持ちばかり気にしている。
・ 自分というものを持っていない。独立していない。力が出しきれない。
しかし、自信がありすぎるのも、また困りものです。
・ 人を押しのける。まずくいくと、いつも人のせいにして怒ったり非難する。自分が用いられないと気分を損ねる。
・ 事がうまくいくと、おれのせいだと、すぐ自己賛美をする。
・ 何事にも謙虚な自己反省がない。
人間にとって大切なことは、自分の力を過小にも過大にも評価しないことです。正確に、あるがままの姿を認め、つかむことです。その上で、自分の未来の姿が進歩し改革され生まれ変わる可能性に向かって、明るい希望をもって努力することが肝要です。
自分のほんとうの姿を認めることは、こわいこと・つらいことでしょう。だれでも、自分の弱さ・欠点・失敗は認めたくないのです。
私も、自分の弱点や失敗を知られた時は、母にまで反抗したことがありました。しかし母は、私のみじめさを知りながら、弱点・欠点も十分承知した上で、やはり私を受け入れ、愛し期待し、私を守ってくれていたことが、だんだんと私にも分かってきたのです。ところが、神は母親どころではありません。すべてをご承知の上で、私たちを受け入れ愛し導き、期待し力を与えてくださるのです。
神の前に自分が罪人であることを認めると共に、自分がまた、神に愛され選ばれており、神の愛と導きの中に、すばらしい可能性があることをはっきり認めること。――これこそ、人生のすばらしい力です。

 


◆神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、

2012年05月28日 08時07分58秒 | 聖書

召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ八・三〇)

ここに、あなたのために尊い真理がある。あなたは貧しく、苦しんでおり、また人に認められていないかもしれない。しかし、あなたへの「召し」とそれから来る結果を思い出し、特にここに語られているすばらしい結果を思って、あなたの励ましとせよ。
今日、あなたが神の子であることは確かな事実であるが、それと同じ確実さであなたの試練はまもなく終わり、あなたはすべての祝福を豊かに受けるようになる。しばらく待て。そうすれば、あなたの疲れた顔は栄光の冠をいただき、苦しい働きについていた手は勝利のしゅろの枝を握るであろう。あなたの患難を嘆かず、まもなくあなたが「悲しみ、叫び、苦しみもない」ようになるのを喜べ。火の車があなたの戸口にあり、一瞬のうちにあなたを栄光の場所に連れて行くのだ。永遠の歌はあなたのくちびるから出ようとしている。天国の門があなたのために開かれている。安息に入りそこねるなどと思ってはいけない。
もし主があなたを召してくださるならば、何者も主の愛からあなたを離すことはできない。逆境もその結び目を断つことはできず、迫害の炎もそのきずなを焼き尽くすことはなく、地獄の鉄槌もそのくさりを断ち切ることはできない。あなたは安全である。初めにあなたを召された声は、再びあなたを地より天に召し、死の暗黒から不朽の栄光にまで移すのである。安心せよ。あなたを義とされたお方の心は、あなたに対する無限の愛によって脈打っている。
あなたはまもなく栄光を受けた者とともになるだろう。そこにあなたの受ける資産がある。あなたは資産を受ける準備をするため、しばしこの地上にいるのであり、ここでのわざが完了したら、天使の翼があなたを遠く平和と喜びと祝福の峰に運んで行くのである。
 そこで、悲しみと罪の世を遠く離れ
 とこしえに神とともになる
こうしてあなたは永遠の安息を得る。

 


レビ記15章13-15節

2012年05月27日 07時46分02秒 | 聖書

15:15 「祭司はそれを、一羽を罪のためのいけにえとして、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、祭司はその漏出物のために、主の前でその者のために贖いをする。」
  この漏出に寄る病の結果、汚れた者とされた人は、その病が癒された時には、清い者として扱われて、礼拝に出ることが出来るようにされます。
しかし、そのためには儀式的な行為が行われて、その清めの業が正当に成されなければならないことを命じられています。
そうしなければ、神の前に清い者と認められないのです。
 その人がなすべき事は、まず、7日目に自分の着ている服を洗い、身体を洗うことです。そして、8日目に、山鳩か家鳩を2羽とって、祭司の所に持って行きます。
祭司はそれを受け取って、1羽は罪の赦しを求めるための犠牲の供え物として献げ、もう1羽は神様への献身の思いを示す全焼に生け贄として献げるようにすることです。
こうして彼は、この漏出の汚れから清められた者として、正式に宣言されるのです。
 この時の献げ物が鳩であるということは、その病が個人的なものであるということに関係があるようです。