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み言葉の糧

2023年12月02日 20時32分35秒 | 聖書

「彼の右手を取って立たせた。
するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした」(使徒3:7)

ペテロとヨハネが宮に上った時に「美しの門」で、生まれつき足のきかない男性に出会った。
彼は、毎日、門の前に「運ばれ」「置いてもらった」。
自分では何もできず、人にすがらなければならなかった。
人に依存した人生であった。
人からの施しとお恵みで生きていた。
辛さ、怒り、悲しみや寂しさは、諦めになっていたかも知れない。

ペテロとヨハネを見た彼は、施しを求めた。
「私を見なさい」と言われ、お金がもらえるものと、二人に目を注いだ。
すると、ペテロは「金銀は無い、しかし私にあるものがある。
それを上げよう。イエス・キリストの名によって歩け」と言われた。
生まれてから一度も歩いた事が無いのに。
だが、彼はその言葉を信じ、主にすがった。
すると、足とくるぶしが強くなり、おどり上がり、まっすぐに立ち、歩き出した。

歩き出した彼は、神を賛美した。今まで、人に運ばれて、置いてもらっていたのが、自分の足で立ち、歩き出した。
「イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、この人を強くした」。
彼は主を信じ、いやされた。
私たちも、主を求めていると思いながら、実は、他のものを求めているかも知れない。

名誉、地位、人からの賞賛、自己実現・・・だろうか。
しかし、それも同じく依存の人生だ。
主は、御名を信じる信仰に立って歩めと言われている。
主を信じ、主にのみ拠り頼むことが、私たちの真の自立だ。
そして、そこにこそ本当の生きがいと喜びがある。
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信仰を持ちながらも、人からの「お恵み施し」を求めて座り込んでいるところを示される。
主にのみ頼る生き方だろうか。
すでに主に頼れる祝福に預かっている。
喜び賛美しながら主について行きたい。


「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」(ヤコブ1: 20)

2021年04月25日 20時05分33秒 | 聖書



怒りがすべて罪なのではない。正しい怒りがある。
主はパリサイ人の偽善に怒り、又、神殿で商売がなされている事にひどく怒られた。
悪や罪を憎まずして、主を愛する事は出来ない。
神を愛するとは罪を憎む事だ。
怒りに二種類あり、正しい怒りと自我から出る怒りがある。

では、肉の怒りはどのように対処すればよいのか。
まず、自分の怒りをきちんと認める事だ。
腹を立てているのに、怒っていない振りをしてはいけない。
怒っているのに、怒りは良くない事と、抑え込む。
しかし、封じ込められた怒りは、無くなるのでなく、心の底に存在する。
溜め込んで行く。

自分はクリスチャンだからと、自分の怒りを認めない事がある。
そうではなく、怒っている事実をまず認める事だ。
次にその怒りの原因をよく考えてみる。
なぜ怒っているのか。自分の何に触れるのか。
プライドか、虚栄心か、自分の名誉、メンツが損なわれるのか。

次に、その怒りはそのまま表現してはならない。
感情的なままで人に対応すると、相手を傷つけ、自分も傷つき、必ず後悔する。
怒りに任せてしまい失敗した経験が何度もあるだろう。

自分の怒りを抑え込む事も、爆発させる事もよくない。
まず人ではなく神の御前に行き、怒りを神に告げよう。
ことごとく心の内を告げて、そして、十字架のもとへ行き、豊かな赦しを受け取ろう。

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何で怒っているのか冷静に考えてみよう。
義憤か、単に自分に都合の良い正義か。
又、自我に触れるなら、どの部分なのか。
主とよく交わり、必要なら悔い改め、そして主にお委ねしよう。
又、この事で、主に近づけていることを感謝しよう。
平安へと導いて下さる。


ヘブル10:19

2021年04月25日 06時15分36秒 | 聖書

「こういうわけですから、兄弟たち。
私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」(ヘブル10:19)


私たちはどうだろう。主に喜ばれる事を行なおうと決心するが、何度挫折した事だろう。
日毎に、聖書を読むことが良いとはわかっているが、なかなか読めない。
祈りが大切だと知っているが、何度も失敗する。
朝、バタバタして、時間に追われ、つい御言葉と祈りをパスしてしまう。
祈りが大切だと知らなくて、祈らないのではない。
御言葉に従って生きる事の大切さを知っている。
わかっているが、出来ない。

しかし、そこで落ち込んで、自分を責め、落胆するのでなく、だからこそ主がおられることを覚えよう。
もし自分の力で、日々デボーションができて、良い行ないができるなら、主は必要無いことになる。
あなたも「〜ねばならない」で心が縛られているだろうか。
主を信じて、休息するのでなく、返って重荷にあえいでいるだろうか。
ありのまま来なさいと言われているのに、良い行ないで御前に出ようとするだろうか。

祈り聖書を読み、御心に従っている事によって、大手を振って御前に出るだろうか。
そうなら罪を犯すと、途端に出られなくなる。こういう状態だろうか。
これなら、主によってではなく、自分の功績によって御前に出ている事になる。
そうでなく、自分の状態に関係無く、イエスの血によって大胆に恐れなく、御前に出る事ができる。
今日も、今も、自分のわざによってでなく、主イエスの血のゆえに、今のままで御前に受け入れられている。
血によって御前に行ける。
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主の十字架の血潮が、良心の呵責から解放してくれる。
ああすれば良かった、こうしなければ、の思いもそのまま持って24時間いつも主の前にいられる。


◆こうして夕があり、

2018年07月10日 20時16分41秒 | 聖書
朝があった。第一日。(創世一・五)
夕は「やみ」であり、朝は「光」であった。しかしながら、この二つを一緒にして、光のみに与えられる「日」という名称で呼んでいる。霊的経験においても、これと同じ類比がある。すべての信者の中には、やみと光がある。しかし、彼は罪をもつために罪人と呼ばれるのではなく、ある程度の聖さをもつゆえに聖徒と呼ばれるのである。
これは自己の弱さを嘆き、「私はこんなに多くのやみをもっているのに、神の子であり得るのか」と言う人々には、最も慰めとなる思想であろう。そう、あなたは日のように、あなたの名前を夕からは取らず、朝から取らなければならない。そしてあなたは、神のみことばの中においては――あなたはまもなく全く聖なるものとされるが――今、完全に聖なるものであるかのように呼ばれている。あなたの中にはなおやみがあるが、あなたは光の子と呼ばれている。あなたは、神の目から見て最も著しい性質によってそう名づけられている。そしてその性質は、いつの日にか、あなたの中の唯一の原則となる。
夕が先に来ていることに注意せよ。生来の私たちは、時の順序から言えば、最初はやみである。暗やみが、私たちの悲しみに沈む不安な心の中にあって、初めにしばしば私たちを駆り立て、深いへりくだりのうちに、「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください」と叫ばせる。次には朝が来る。恵みが生まれつきの性質に打ち勝つ時に夜が明ける。「終わりに来るものは永遠に続く」とは、ジョン・バニヤンの尊い格言である。最初のものは、時が来れば最後のものにゆずる。しかし、最後のものの後には何も来ない。あなたの生まれつきの性質はやみであるが、一度あなたが主にあって光となるならば、その後に夕が続くことはない。「あなたの太陽はもう沈まず……。」
人生の第一日は、夕があり、朝があった。しかし第二日は、私たちが永遠に神とともにあろうとする時、夕はなく、一つの、聖く、尊い、永遠なる昼があるだけとなる。
 

箴言4:23

2018年07月10日 20時14分17秒 | 聖書

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」(箴言4:23)

自分の心を見張るのは誰だろう。誰かが見張ってくれるのだろうか。
そうではない、他人が見張ってくれない。
自分が自分の心を見張らねばならない。
自由意志が与えられており、神もそこを支配されない。
あなたの心の態度は、あなたの自由な選択の結果だ。

神はあなたの態度をコントロール出来ないし、されない。どこまでも自由だ。
次から次へと問題は起きる。私たちを悩ませる対人関係が出て来る。
環境を変えれば何とかなるのでは、職場を変われば・・、相手が変われば何とかなる・・、

又、困難な事態が目の目に生じると、ちょっと時間を置けば何とかなる・・、環境、相手、時の問題にしようとするが、そうではなく、最大の問題は自らの心の態度だ。

苦難の人ヨセフは、兄達の妬みを買い、エジプトに売り飛ばされ、大変な苦しみに会う。
そこで、主人の好意を得、認められるが、又、苦難が来て、無実の罪で投獄される。
しかし、そこでも、模範囚となり、監獄長に認められる。

「主はヨセフと共におられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた」。
神がそのようにされた。しかし、そこに、ヨセフの神の御前における正しい態度があった。

環境、状況がどうであろうと、どんなに悲惨であろうと、心を歪ませないで、屈折させず、真っ直ぐに神を見て行く時、立って行ける。
ヨセフが自分の心を歪ませないよう、心をガードしたように、私たちも心を堅く見張っていよう。

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信仰生活で重要なものが、心の態度だ。自分次第だ。
心を屈折させて、いじけたり、すねたり、反抗する事ができる。
しかし、どんな中でも、自己憐憫、自己卑下せずに、主を信じて行こうとすることができる。
態度は自分の選択だ。
苦しい中で、素直に主を信じて行く選択が出来るよう祈ろう。


◆閉ざされた心・開かれた心

2018年07月10日 08時02分21秒 | 聖書

おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、
すべてのすぐれた知性と仲たがいする。(箴言一八1)
以前「私は貝になりたい」というテレビドラマが話題になったことがあります。人々にかかわるたびに問題に巻き込まれて苦しむと、いっそ貝のように心を閉じて、人に干渉しないし、干渉されたくないという人の気持ちを表したものでしょうか。
自分の心を閉じてしまうことは、恐ろしい結果になります。独りぼっちで、ある時は劣等感に悩み、ある時は挫折感にうちひしがれます。また、独り善がりの独善家は、自分ではよいと思っても、人に捨てられるのです。開いた心が持てないで、自分のからの中に閉じこもってしまうことを悩んでいる人は非常に多いと思います。そのような閉ざされた心の一つの秘密を、聖書ははっきり語っています。それは、「自分の欲望のままに求める」ということです。
「おのれを閉ざす者」は、自分以外に他者を持たない心のことです。ここには、人間としての本質に問題があります。それは、けっして小さな問題ではありません。神は、人間を造られました。それは、人間が神に対して愛と喜びの交わりをするためであり、人を愛し、人と分け合い、助け合う、人と人との交わりのためでした。独立独歩の精神はよいでしょう。しかし、孤立独善は感心したものではありません。反対に、心が結び合って、よいことのために協力して重荷を負い合うなら、そこにこそ人生の力も喜びもあります。
アウグスティヌスは、「大きなことでは一致、小さなことでは自由、すべてのことに愛」と、人との一致と交わりの原則を教えたそうです。イエス・キリストは、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ一八20)と言われました。神の愛を認め、神によって心が開かれる時、大きな祝福が与えられます。
 

◆今は聖徒たちと同じ国民であり……。

2018年07月10日 08時01分15秒 | 聖書
(エペソ二・一九)
私たちが天国の市民であることは、私たちが天の支配下にあることを意味する。天国の王であるキリストは、私たちの心の中にあって、支配しておられる。私たちの日ごとの祈りは、「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」である。栄光の御座からの布告を、私たちは何のためらいもなく受け入れ、大王の命令に喜んで従う。
私たちは新しいエルサレムの市民として天国の誉れにあずかる。世を去った聖徒たちが受けている栄光は、私たちのものでもある。私たちはすでに神の子であり、王族であり、すでに汚れのないイエスの義の衣をまとっているからだ。すでに天使を従者とし聖徒を友としている。キリストは私たちの長兄であり、神は父であり、朽ちない冠は私たちの報酬である。私たちは市民の誉れをになう。天に登録されている長子たちの教会の会員となったからである。また市民として天国のすべての財産に対して共同の権利をもつ。天国の真珠の門と碧玉の城壁も、ろうそくの光も日の光もいらない天国における明るい光も、私たちのものである。いのちの水の川、またその対岸のいのちの木に結ぶ十二種の実も、私たちのものである。天上にあるもので、私たちのものでないものはない。「現在のものであれ、未来のものであれ」すべて私たちのものである。
さらにまた、天国の市民として私たちは天国の喜びを味わう。天国にいる者たちは、罪人が悔い改めた時――放蕩息子が帰ってきた時喜ぶであろうか。そうだ。私たちもまたそれを喜ぶ。彼らは勝利の恵みの栄光をたたえて歌うであろうか。そうだ。同じように私たちも歌うのである。彼らは、自分の冠をイエスの足もとに投げ出すであろうか。私たちもまた自分のもっている誉れを御前に投げ出す。彼らはイエスのほほえみに心を奪われるか。地上に住む私たちにとっても、イエスのほほえみはそれに劣らず美しい。彼らは主の再臨を待ち望むか。私たちとてそうである。
このように天国の市民ならば、私たちの歩みや行動が、それにふさわしいものであるよう心がけよう。
 

詩篇105篇1-7節

2018年07月10日 07時57分12秒 | 聖書

105:4 主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。
105:5 主が行われた奇しいみわざを思い起こせ。その奇蹟と御口のさばきとを。


作者は主を褒め称えよ、主を讃美せよと語ります。

その讃美のあり方は、主が行われた奇しいみ業を思い越すことによってであると言います。

 私たちは日常生活で苦しみや困難に遭いますと、主を褒め称えることが出来ず、讃美もなくなってしまいます。

それは、自分に降りかかっている現実に、圧倒されてしまうからです。

これは、旧約の時代の人でも同じでした。

ですから、そうした中にあって、讃美をもたらす力を与えられ、また励ましを与えられたのは、主がなされた素晴らしい御業を思い起こすことにあると言っているのです。

その主の素晴らしいみ業を思い起こす時に、讃美が湧いてくると言うのです。

私たちは今までに、沢山の恵みを与えられています。

それを数えることによって、心の内に感謝と喜びと讃美が湧いてくると言うのです。

主の恵みを数えること、それが私たちに主への讃美の歌をもたらすのです。


創世記45章28節

2018年07月10日 07時50分56秒 | 聖書

★ イスラエルは言った。「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」


■O:今日のコラム
ヨセフはもう死んだと思っていたヤコブでしたが、そのヨセフがエジプトで生きているということを聞いて元気を取り戻しました。

それは、年老いたヤコブに飛び込んできた思いもかけない希望のニュースでした。ヤコブは元気を取り戻し、気を取り直して、これから待っている新しい人生、希望の人生に期待を寄せているそんなヤコブの姿が目に浮かびます。

息子たちからは、「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」(創世記45:26)そのような報告を受けた時も、信じることができないでいたヤコブでしたが、そこには息子ヨセフがエジプトから子どもたちを遣わしたという事実がありました。

おそらく話を聞くだけでは、相変わらずヤコブはボーっとしていたことでしょう。しかし息子たちは、話だけではなくヨセフがヤコブを乗せるために送ってくれた車を見せたのです。するとヤコブは元気づいたのです。

現実を受け入れるのに多少の時間が必要だったでしょう。しかし、納得と同時に彼の心の中には新しい希望の光が差し込んできたのです。

神様のなさる事は本当に不思議です。人生はいつどのように進んでしまったとしても、そこには希望があります。人生の土壇場にいる状態から、信じられないほどの大逆転を神様が用意しておられることを私たちは期待して信じていきましょう。

暗いニュースから一変して、年老いたヤコブの生活に明るい希望のニュースが飛び込んできて、ヤコブの中には希望の光が差し込み、信じられないくらいの元気を取り戻したことでしょう。心の中で神様をほめたたえたのではないでしょうか。それと同時に、ヤコブの霊が生き返り、神様との関係が復活したと信じます。

飢饉という緊迫した状況の中で大切な息子を1人失い、また1人失うという家族の崩壊の危機から一変して、失った息子までが回復して、完璧なかたちで家族が回復されるという希望の世界へと移されたのです。



■A:考えてみよう
人生の大逆転は神様を信じる者への特権です。どんな下り坂でも神様が用意された最後の大逆転があることを私たちは信じ、期待して、主に委ねていきましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


◆熱心になって……。

2018年06月07日 17時05分39秒 | 聖書
(黙示録三・一九)
もしあなたがたましいの回心を見、「この世の国は、私たちの主の国になった」という叫びを聞きたいと思うなら、また、冠を救い主の頭に置き、その御座が高められることを願うなら、熱心になれ。神のご支配の下におけるこの世の回心の道は、教会の熱心によるほかないからだ。すべての徳はそれぞれの働きをする。が、熱心が第一である。深慮、知識、忍耐および勇気はそれぞれの役目をもつ。が、熱心が先頭に立たなければならない。あなたの知識は役立つ。あなたの才能を軽く見てはいけない。しかし、重要な役割を果たすのは知識でも才能でもなく、あなたの熱心なのである。
この熱心は、聖霊の実である。熱心は、心の中における聖霊の不断の働きから、その活力を引き出す。もし私たちの内なるいのちが衰えるならば、もし私たちの心臓が神の前にゆっくりと脈を打っているならば、私たちは熱心ということを知らないであろう。しかしもし、私たちの内なるものがすべてたくましく、活発になるならば、私たちは、キリストの王国が来るのを見、みこころが天で行われるように地でも行われるのを見ようとする愛の熱情に燃えないわけにはいかない。
深い感謝の思いが信者の熱心を養う。私たちが掘り出された穴を見るなら、なぜ生涯を神のために費やさなければならないかの十分な理由を見いだす。
そして熱心はまた、永遠の未来を思うことによってかきたてられる。熱心は涙にかすむ目で地獄の炎をながめるので、まどろむことがない。憧憬のまなざしで天の栄光を見つめるので、奮い立たずにはいられない。熱心は、しなければならない仕事が山積みしているのに、時はわずかしかないことを感じている。したがって、そのもっているすべてを主のためにささげる。
熱心はまた、キリストの模範を思い起こすことで、絶えず強められる。キリストは衣をまとうように熱心をまとわれた。義務の車輪は、なんと速く主と共に進んだことだろう。主は道草することを知っておられなかった。私たちは、これと同じ熱情を表すことで、主の弟子であることを証明しようではないか。
 

「しかし、

2018年06月07日 17時04分33秒 | 聖書

サマリヤを通って行かなければならなかった」(ヨハネ4:4)

主は、わざわざ迂回して「サマリアを通らねばならなかった」。
それは、心が飢え渇いて救いを求めている、一人の女性に会うためであった。
主は「旅の疲れで」井戸のかたわらに座っておられた。
非常に疲れて、座り込んでおられた。

通常の旅行の日程を変更し、わざわざ遠回りし、身体もクタクタに疲れながら、多大な犠牲を払い、一人の魂を追い求めて下さる。
サマリヤの女性は偶然、主に出会ったのではない。主が彼女を求められたからだ。
「わたしに水を飲ませてください」とへりくだって頼まれ、会話の糸口を作り、個人伝道をされた。
彼女の心の渇きに生ける水を与え、応えられた。

同様に、私たちも、主が追い求めて下さったから救われた。
主に出会うまでに、色々な布石があったはずだ。
不思議に主に出会うように、導かれていた。
つまり、主が求めて下さったゆえだ。
この、主が私たちを一心に求めて下さった愛が、救霊の愛だ。
この愛に突き動かされた宣教師や働き人を通して、福音が全世界に宣べ伝えられて行った。

困難な異文化の中で、又、難しい田舎伝道など、義務で出来ることではない。
主のご愛に応えて、主から与えられた魂への愛だ。
私たちも、魂の救いのために、働きたいと願う者に、主は主からの愛を下さる。
遣わされた場で用いて下さる。
主が追い求められた魂の救いに、私たちも用いられる。何と光栄な事だろう。
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伝えてくれる人がいたから私達も救われた。
嫌な質問にも喜んで答え、主のご愛をそのまま与えて下さった。
主の失われた魂に対する悲しみやご愛を自分のものと出来るよう祈ろう。そ
して主に用いていただこう。


◆富とわずらい

2018年06月07日 08時10分50秒 | 聖書

正しい者の家には多くの富がある。
悪者の収穫は煩いをもたらす。    (箴言一五6)
財産・大きな屋敷・広大な土地・莫大な預金がかえって人生のわずらいをもたらしている例は、たくさんあります。あなたも、身近にそんな姿を見ておられるかもしれません。私も、一代で何十億の財産を築いた人が自殺をしたのを聞きました。豪華なお屋敷に妻は独りいて、とても寂しそうだったそうです。夫は愛人の別宅にいました。そして、憂いとわずらいとに満ちた人生は、自殺にまで追いつめられてしまったのです。
私たちは金持ちになって、金の不自由などしたくないと思います。しかし、なぜみな財産や金を求めるのですか。それは、金や財産が、安心・安定・満足・平和をもたらすと思うからではないでしょうか。本命は金ではなく、ほんとうの満足・ほんとうの幸せ・ほんとうの平安・ほんとうの喜びなのです。
聖書は、「正しい者の家には」、そんなほんものの富がどっさりあると言います。正しい者・悪者というと、すぐどたばたドラマの善玉・悪玉を考えてしまいます。けれども聖書の言う正しい人は、第一に、神を正しいと認める人。第二に、神の正しさが実現することを心から期待する人なのです。反対に、神を度外視し問題にしないで、自分中心・自分の欲望中心だけで生きる人が悪者です。
自分の罪深さや弱さを深く感じる謙遜な心を持って、神を第一として神にすべてをゆだね、神のゆるし・満たし・慰め・助けを期待しきる時、どうなるでしょうか。キリストは約束されました。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ六33)。
 

◆主を愛する者たちよ。

2018年06月07日 08時10分04秒 | 聖書
悪を憎め。(詩篇九七・一〇)
悪があなたにどれほどの害を与えてきたかを考えるだけでも、あなたが「悪を憎む」のは当然である。ああ、罪は、なんというわざわいの世界をあなたの心にもち込んだことか。罪は、あなたが救い主の美を見られないように、あなたの目を見えなくし、贖い主の招きを聞けないように、あなたの耳を聞こえなくする。あなたの足を死の道に向けさせ、あなたの心の泉に毒を流し込む。それは、あなたの心を腐らせ、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と言われるまでにした。神の恵みによるご干渉の前に、悪があなたを勝手にほんろうしたとしたら、いったいあなたはどうなっていたことか。あなたは他の人のように御怒りを受けるべき子であり、多くの人々と共に悪に走っていた。私たちのすべてはそうであった。しかし、パウロは私たちに告げる。「しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」と。
私たちが過去を顧み、悪のなした害を思うならば、悪を憎む理由は十分ある。だから、もし全能の神が干渉し、私たちを贖い出さなければ、たましいは当然滅びていたであろう。現在も悪は私たちの強敵であり、常に害を与え、滅びに陥れようとすきをねらっている。だから、主にある友よ。苦しみを望まないなら、「悪を憎め」。もしあなたの行く手にいばらを散らし、死の枕にいらくさを植えることを望むなら、悪を憎まなくてよい。しかし、あなたが幸福な生涯を送り、平和な死を遂げることを望むならば、聖潔の大道を歩み、終わりに至るまで悪を憎め。もし真実に主を愛し、主をあがめようとするなら、「悪を憎め」。
悪を愛するクリスチャンをいやす道は、主イエスとの親しい交わりに入ること以外にない。主と共に住め。そうすれば罪と親しくすることはできない。
 みことばによって私の歩みを整え
 私の心を真実なものとして
 罪に支配させず、主よ
 私の良心を聖く保ってください
 

詩篇104篇31-35節

2018年06月07日 08時08分01秒 | 聖書

104:34 私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。
104:35 罪人らが地から絶え果て、悪者どもが、もはやいなくなりますように。わがたましいよ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。


この地に混乱と不安とをもたらしたのは、人です。

特に、人の罪です。

ですから、その罪がなくなることを求めるのです。

そして、その時の実現は、イエス様が再びこの地にお越しになられる時に実現します。

その時には「罪人らが絶え果て、悪者どもが、いなくなる」ことが起こります。

しかし、それまでの間、私たちのなすべきことは何でしょう。

それは、ただ呆然として、その到来の時を待つのではありません。

弟子達が、天に上られたイエス様のみ姿を見つめていた時に、み使いが彼らに告げたことは、「あのお方は同じ有様で、またお出でになります。」ということでした。

つまり、またお出でになるのですから、そのお方の御心を心に置いてこの世で生き、働きなさいということでした。

主を仰ぎみつつ歩むことが、大切なのです。


創世記42章1節

2018年06月07日 07時56分09秒 | 聖書

★ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」


■O:今日のコラム
兄たちがヨセフを売った時から既に20年以上経っているのですが、父ヤコブが「エジプトに行きなさい」と言った時、兄たちが顔を見合わせました。自分たちがヨセフに対してしたことを思い出したからです。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)

いくら時間が経っても、蒔かれたものは良いものも悪いものも必ず刈り取るということが、御言葉の中に約束されています。ヨセフのストーリーを読んでいて、さらに聖霊様がこの御言葉を思い起こさせてくださいました。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(1ヨハネ4:20)

この御言葉は、私が中学生の時に参加したキャンプで当時とても仲の悪かった姉との関係を示され、悔い改めの祈りに導かれた御言葉でした。小さい頃から教会に連れられていましたが、自分の「罪」が分かりませんでした。

イエス様の十字架が他の誰でもない、この私のためであったということが、この時この御言葉を通して初めてわかり、涙がとまらず「イエス様ごめんなさい」と祈ったことを覚えています。



■A:考えてみよう
今年、新宿シャローム教会においては「神の約束の完成を見る年となる」ということがテーマで掲げられています。私たちに与えられている人間関係、「家庭」に「学校」に「職場」に、2017年の歩みにおいて蒔かれてきた悪い種はあるでしょうか。放置して、その種が成長し、どんどん根深くなってしまっているものがあるでしょうか。見て見ぬ振りをせず、諦めることなく、全てをご存知な神様に差し出していきましょう。

私は今、自分自身の取り扱いとともに「家族の回復」を願い、神様に祈っています。ヨセフは、のちの章においては、自分を売った兄弟たちを赦し、和解しています。それは、ヨセフが自分に対する神様の約束・計画を悟っていったからです。

目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。私たちは、心から神様を愛したいと願います。であるなら、絶えず自分を顧み、悔い改めによって私たちの心の地を、主に取り扱っていただきましょう。イエス様だけが、すべての悪感情から、苦味から、傷から、自己中心から、癒し、解放してくださるお方です。

聖霊様の火によって燃やされ、イエス様の十字架の血潮によって抜き取っていただいたら、いよいよ、真実な主の約束を握り、神様の計画・約束の成就を見るまで、約束の御言葉の種を蒔き続けていきましょう!




■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。