座間コミニティー

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◆生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。

2011年09月30日 17時18分20秒 | 福祉
(伝道者九・四)

いのちは尊い。それがどんなに卑しい形のものでも死よりはまさる。これは、霊的なことにおいてたしかに真理である。天国で最も小さい者となることは、天国の外で最大な者となるよりもまさる。恵みの最低の段階は、生まれ変わらない性質の最高の発展段階よりすぐれている。聖霊が神のいのちをたましいの中に植えつけられたところには、洗練された教育も匹敵できない尊いものがある。十字架上の犯罪人は、王座にいるカエサルにまさり、犬に囲まれるラザロは、元老院議員の中にいるキケロにまさり、さらに最も無学なクリスチャンは、神の目から見ればプラトンよりもまさっている。いのちは霊の領域において高貴さのしるしである。それをもっていない人々は、質の良い悪いにかかわらず、いずれもいのちのないものの実例であり、いのちを与えられる必要がある。彼らは咎と罪の中に死んでいるのだから。
生き生きとして愛に満ちている福音の説教は、無学で形式が整わなくても、聖霊の油と力のない最高に洗練された大講演にはるかにまさる。生きている犬は見張りをし、主人にとっては死んだ獅子よりも役に立つ。そのように最も貧弱な霊的説教者も、大雄弁家の、ことばがあっても知恵がなく、響きがあっても活力のないのに比べれば、どんなにすぐれているかわからない。私たちの祈りや礼拝についても同様である。もし私たちが、それらの中で聖霊によって力づけられているならば、神は、それをイエス・キリストによって受け入れてくださる。しかし、私たちの心のこもらない壮大な儀式は、死んだ獅子のようであり、生ける神の目から見れば、腐敗したしかばねにすぎない。
おお、いのちのない歌や、死んだ安静よりも、むしろ生きたうめき、生きた嘆息、生きた失望を得たい。どのようなものでも死よりはまさる。地獄の犬のうなり声は、少なくとも私たちの目を覚まさせる効果はもつ。しかし、人のもつことのできるのろいの中で、死んだ信仰と死んだ告白より大いなるものがあろうか。
おお、主よ。私たちを生かしてください。


出エジプト記15章20-21節

2011年09月30日 08時14分17秒 | 聖書
15:21 ミリヤムは人々に答えて歌った。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」 ミリアムは、アロンの姉であると言われています。また彼女は、女預言者でありました。主からみ言葉を与えられて、それを人々に伝える働きをしていた人です。その人が今、タンバリンを手にとって、他の女性達と共に、踊りながら出てきたのです。彼女は言いました。「主に向かって歌え」と。歌うというのは、賛美をすると言うことです。主の御名を覚えて称えるということです。それは、主がなして下さった素晴らしい救いのみ業の故に、出てきた言葉でした。私たちも礼拝で、主の御名を覚えて賛美歌を歌います。その賛美歌は、色々な内容があります。また、歌う人の心の状況によって、賛美に力があったり、なかったりする時もあります。しかし、私たちがキリストによる罪の贖いの恵みを覚えるならば、どんな時にも、感謝と喜びを持って、主を賛美できるのです。賛美を持って、称えるに相応しいお方の名は、ただ恵み深い、主の御名のみです。

◆食 欲 の 問 題

2011年09月30日 08時06分46秒 | 聖書
わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。
蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。
知恵もあなたのたましいにとっては、
そうだと知れ。
それを見つけると、良い終わりがあり、
あなたの望みは断たれることがない。(箴言二四13―14)

聖書の中に、蜂蜜が何回も出てきます。甘いものの少なかった時代に、蜂蜜がどんなに貴重であったかが想像できます。信州育ちの友人から、子どものころ、蜂をつかまえて細いひもを結んで放し、蜂の行方を追って、それこそ野越え山越えして、蜂の巣を捜し当てたという経験を聞いたことがあります。イスラエルの昔の人たちも、一生懸命蜂の巣を捜し、したたる蜜を求めたことでしょう。
蜜を恋い慕うと同じように、神の知識を恋い慕いなさいと、聖書は言っているのです。ペテロも、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」(Ⅰペテロ二2)とすすめ、ダビデも、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩篇一一九103)と告白しました。
しかし、あなたにとってどうでしょうか。「良薬口に苦し」ということばがありますが、聖書のことばとか、神とか永遠とかの話には食欲を感じない。苦いとは感じても、とても蜜とは思えない。――これが、私たち多くの人間の問題となっています。きよいこと・永遠のこと・神・神の知識に対して飢え渇きや食欲がないのは、なぜでしょうか。おいしいごちそうを前にしても、ほかのものでおなかがいっぱいで入らなかった経験はありませんか。卑しいもので、腹を満たしている時、貴いものへの食欲がわいてきません。そこで、ペテロは、「すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」(Ⅰペテロ二1)みことばを慕い求めなさいと言ったのです。


◆全地よ。神に向かって喜び叫べ。

2011年09月30日 08時02分39秒 | 聖書
御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。(詩篇六六・一、二)

神を賛美するかしないかは、私たちの勝手ではない。神は賛美を受けるべき方であられ、すべてのクリスチャンは、神の恵みを受けた者として、日々神を賛美すべきである。私たちは、日ごとに神を賛美するようにとの高圧的な命令は受けず、ある一定の時に歌い、感謝をささげるようにとも言われていない。しかし、私たちの心に記された律法は、神を賛美するのが正しいことだと教える。この不文律は、石の板に記されたような、あるいは雷鳴とどろくシナイ山頂から直接私たちに渡されたような力をもって迫ってくる。
そうだ。神を賛美することはクリスチャンの義務である。これは単なる楽しい行事であるだけではなく、クリスチャンの生涯の絶対的義務である。絶えず嘆き悲しむ者よ。この点に関して自分に罪がないと思ってはいけない。また賛美の歌なしにあなたの神に対する義務を果たすことができると考えるな。あなたは生きる限り、主の御名をほめたたえるために、愛のひもをもってつながれている。そして、主に対する賛美が常にあなたの口になければならない。神を祝福するために、あなたは祝福を受けているのである。「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
もしあなたが神を賛美しないならば、あなたは、農夫である神があなたに期待される実を、まだ結んでいないのである。だからあなたのたてごとを柳にかけたままにせず、それを下ろし、感謝の心をこめて高らかにかき鳴らせ。立って、神への賛美を歌え。夜明けのたびに感謝の叫びを上げ、夕日の沈むごとにあなたの賛美の歌を歌え。あなたの賛美をもって地をおおい、美しい調べによって地を包め。そうすれば神は天から聞いてくださって、あなたの音楽を受け入れてくださるだろう。
 私はあなたを愛し、心より愛し続け
 あなたに、賛美の歌をささげる
 あなたは私の愛する神であられ
 私の贖い主であられるからだ


◆私の愛している人を私は見つけました。

2011年09月29日 19時14分52秒 | 聖書
この方をしっかりつかまえて、放さず……。(雅歌三・四)

キリストは、私たちがみもとに行く時、過去の罪がどうであろうと、受け入れてくださるだろうか。私たちは、他のあらゆる避け所を試してみたが、そのために主が私たちをお叱りになることはないであろうか。この地上に、主のようなお方がほかにあるだろうか。すべての善の中で主は最善であられ、すべての美の中で最上の美ではないだろうか。
おお、それなら主をほめたたえよう。エルサレムの娘たちよ。タンバリンとたてごとをもって主をたたえよ。あなたの偶像を打ち倒して、主イエスをあがめよ。誇りと傲慢の旗を足下に踏みにじり、この世がまゆをひそめ、あざける十字架を高く掲げよ。主をとこしえにあがめ、私の霊を主の足台の下に座らせ、主の御足に口づけし、私の涙をもって御足を洗おう。
ああ、キリストの尊さよ! なぜ私は、主のことをわずかしか考えていなかったのか。主がこれほどに私を満たし、富ませ、満足を与えられたのに、なぜ主以外のものに喜びや慰めを求めたりするのか。主にある友よ。決して主を離れないという誓いを自分の心と結び、主の批准を求めよ。主に願い求めよ。あなた自身を主の指のしるしとし、主の腕の腕輪としてくださるようにと。花嫁がその身を美しく飾り、花婿が宝石をつけるように、主があなたをご自身につけられるように求めよ。私はキリストの心の中に生きたい。
すずめがすみかを見つけ、つばめがひなを入れる巣を得るように、万軍の主、私の王、私の神様、あなたの祭壇のかたわらに住まいを得させてください。私もまたあなたの中に、私の巣、私の家を造り、あなたの鳩のたましいである私が、決してあなたから飛び出すことなく、おお、イエス様、私の唯一の安息所であるあなたに、よりそっていたいのです。
 尊い主にお会いした時
 私の愛のすべてが燃え上がり
 愛のきずなで主を縛った
 私は主を引き止めて行かせない


出エジプト記15章1-19節

2011年09月29日 12時38分24秒 | 聖書
15:2 「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。15:3 主はいくさびと。その御名は主。」 モーセとイスラエルの民は、エジプトの軍隊から解放された時に、守りの働きをなして下さった主を覚えて御業を褒め称え、感謝の歌を歌いました。主はわたしの力であり、救いであると語っています。主によって私たちは守られ、主によって私たちは敵から救われたというのです。ですから、私たちはこの主を褒め称えると告げています。さらに、「この方こそ我が神」と語っています。神は全能であられ、また全知であられ、すべてのことを成しえるお方です。そして、この方のみが、真の神であられます。ですから、この方を褒め称えますと歌っています。私たちも同じように、この主なる方を私たちの神として、また父として崇めています。このお方によって、私たちも守られ、導かれているのです。私たちも、このお方を、私の神として、心から信頼して称えて参りましょう。

◆見 た も う 神

2011年09月29日 12時33分29秒 | 聖書
もしあなたが、
「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、
人の心を評価する方は、
それを見抜いておられないだろうか。
あなたのたましいを見守る方は、
それを知らないだろうか。
この方は
おのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(箴言二四12)

神が見ていらっしゃる。――これは、何という単純で明快な真理でしょう。ある男が子どもを見張りに立てて、スイカ畑に盗みに入りました。「だれかが来たら、すぐ知らせるんだぞ。」しばらくすると、「お父さん、見ているよ」と子どもが呼びました。「だれが見てる。」「神さまが見てるよ。」すると父親が、「ばか。神さまに見えるもんか」と言ったという話があります。「天網恢々疎にしてもらさず」「天知る地知る我知る」とも言われます。この単純な真理ほど、実際の生活で無視されている真理はないでしょう。
私の尊敬するマックスエル博士が話してくださったことです。「子どものころ母に教えられた『ご覧になる神』(創世一六13欄外注)という聖書のことばは、初めは恐ろしかった。しかし年月がたち、この真理の深みが分かるにつれ、この真理が平安で喜びにあふれた私の人生をつくりあげたのだと思う」というのでした。
神に背いて、自分勝手で、いんちきで、言いわけばかり言う二枚舌の偽り者にとって、神は恐ろしいお方でしょう。しかし、落ちこぼれた者・悩んでいる者・弱く失望している者であっても、正直に自分の弱さやみにくさを認めて神に目をあげる者にとって、神は何と優しく、慰め・ゆるし・励ましに富んだお方でいらっしゃいましょうか。
神は、何でも見抜き、何でも正しく評価なさいます。しかし神に身を寄せるあなたにとって、神は、見守ってくださるお方、その愛と恵みを傾けて報いてくださるお方なのです。神を敵として勝ち目はありません。神をあなたの心の父としてごらんなさい。


◆もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、

2011年09月29日 12時30分09秒 | 聖書
祭司はその患者をきよいと宣言する。(レビ一三・一三)

この規則は一見奇妙だが、その中には深い知恵が隠されている。なぜなら病毒を外に出すことは、からだが健全な証拠だからである。今朝、この奇妙な規則の象徴的な教えを学ぶことは、私たちに有益であろう。
私たちもまた病者である。そしてこの病に関する律法は、私たちにも適用できる。人が自分を全く失われた破滅した者と見、全身がことごとく罪におおわれ、義であるものが一つもないことを知って、主なる神の前に罪があると告白するならば、イエスの血と神の恵みによってきよめられるのである。心中に隠れていて感じることのない告白されない罪が、真の病である。しかし罪があばかれ、罪が感じられた時には、すでに罪は致命的打撃を受けており、主はあわれみの目をもって罪に苦しむたましいをご覧になるのである。
自己を義とすることほど致命的なものはなく、悔恨よりも望みのあるものはない。私たちは罪以外の何ものでもないことを告白しなければならない。これ以下の告白は真実のものと言うことができないからである。もし聖霊が私たちに働かれて、罪を自覚させられれば、前述のことを認めるのに何の困難もない。
引用の聖句は、深い罪の意識のもとにある人に、なんという慰めを与えることだろう。どれほど黒く汚れていても、嘆き悲しんで告白された罪は、決して人をイエスから閉め出すことはない。主イエスのもとに来る者を、だれであろうと神は決して拒まれることはない。犯罪人のように不正直であり、罪を犯した女のように不貞であり、タルソのサウロのように凶悪であり、マナセのように残忍で、放蕩息子のように反抗的であっても、自分によいものが全くないことを感じる人々には、神の愛が注がれる。そして彼が十字架につけられたイエスを信じた時、きよい者という宣告が与えられる。それゆえに、主のみもとに来れ。
「来れ。乏しき者。来れ。罪ある者。そして忌まわしき裸なる者よ。おまえは決して汚れすぎてはいない。あるがままの姿で来れ。」


●会社からの損害賠償請求●

2011年09月29日 12時08分03秒 | 労働法
会社からの損害賠償請求は、労働者に重大な過失が場合に限り認められるもので、そのときにも会社の損害額全額が認められるわけではなく、過去の裁判では1/4にとどまるものがあります。会社を害することを意図して行った場合であれば格別、そうでない場合には、認められないと考えて良いでしょう。軽微なミスなどによる会社が受ける損害に対しては、これは会社が負担すべき損害であって、業務遂行上避けられるものではないわけで、労務提供に従事する労働者がその責めを負う理由はありません。とくに退職時などに嫌がらせのような賠償請求をされることがあるようですが、全く無視すべきものです。

◆七たびくり返しなさい

2011年09月28日 20時40分31秒 | 聖書
(Ⅰ列王一八・四三)

主が約束された時には、成功は確実である。あなたが幾月か祈っても、答えのきざしのないことがあるかもしれない。しかし、主の民が主のご栄光に関することを熱心に祈っているのに、主が耳を貸さないということはあり得ないことである。
カルメル山上の預言者は神と格闘し続けた。そして一瞬たりとも、主の法廷で自分の訴えが却下されはしないかと恐れたことはなかった。しもべは、六度まで帰って来た。そのたびに「もう一度行きなさい」とのことばだけがあった。私たちは、七度を七十倍するまで信仰を固守すべきである。信仰はカルメル山から眺めさせるために、待ち望みの希望を送り出し、もし何も見えなければ、何度でも見に行かせる。
信仰は度重なる失望に挫折せず、むしろいっそう熱心に神に嘆願をする。信仰は謙遜を与える。しかし決して恥じ入っているのではない。信仰のうめきは深くなり、その嘆息はさらに激しさを増す。しかし決してその手をゆるめない。祈りの答えがすぐに得られることは、血肉にとっては快い。しかし信仰深いたましいは従順を学んでいる。そして主にお仕えすることと同様に、主を待ち望むことがよいことであるのを見いだしている。答えが遅れることは、しばしば自分の心を反省させて悔い改めに導き、霊的改革をもたらす。
こうして、私たちの腐敗に致命的な打撃が加えられ、よこしまな思いの部屋がきよめられる。最大の危険は、人が気力を失って祝福を受け損なうことである。友よ。そのような罪に陥ることなく、祈りと見張りとを続けよ。ついに小さな雲が見えた。大雨の前触れである。あなたの場合も同様である。よい事のしるしはたしかに与えられる。そして、求めてきた恵みを受けるために、あなたは王侯のように立ち上がるだろう。
エリヤは私たちと同じような人であった。神を動かした力は、彼の功績のうちにはなかった。彼の信仰の祈りがそのように力があったとすれば、あなたの祈りがそうでないことがあろうか。絶えず執拗に尊い血潮によって嘆願せよ。必ずやあなたの願いのようになる。


●メール監視の当否●

2011年09月28日 19時34分14秒 | 労働法
たいていの就業規則では、私用メールを原則禁止し、会社による監視や調査する旨の規定がありますが、だからといって無制限に監視調査が認められるわけではありません。監視や調査ができるのは、規定された監視、調査権限のある部署の担当者であって、直属の上司が勝手に部下のメールを監視することはできません。プライバシー侵害の可能性があります。また監視、調査は、私用メールの濫用によって業務に支障がないかを確認することが目的ですから、個人的な目的で勝手に他人のメールを見ることが許されるわけではありません。とはいうものの、原則私用禁止なのですから、節度を越えた利用や、その内容に不適切なものがある場合には、就業規則の規定によって懲戒処分を受ける可能性もありますから注意が必要です。

出エジプト記14章26-31節

2011年09月28日 06時45分42秒 | 聖書
14:27 モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主はエジプト人を海の真中に投げ込まれた。 朝の見張りの時刻に、主はエジプトの軍隊に混乱を起こさせました。続いて今度は、モ-セに命じて、手を海の方に、また伸ばすように命じられました。すると海は、翌日の夜明け前に、元の状況に戻っていきました。すると、その結果、エジプトの軍隊は、海の水に飲まれてしまいました。 こうしてイスラエルの民は、追い迫るエジプトの軍隊から解放され、助けを得ることが出来ました。これは、主がなされた業で、主の力による助けの、奇跡の業でありました。イスラエルの民は、困難な状況から、全く思わぬ方法によって救われ、その不安と恐れから解放されたのです。私たちにも、時にこうした不安と恐れが到来します。自分ではどうしようもないと思える時もあります。特に、人が直面する死と、死の恐れの時がそうです。しかし、その死と死の恐れに対しても、主は、イエス様を通して、永遠の命と復活の喜びで、信じる者に希望をもたらして下さっているのです。それは全く、主の働きです。

◆助  け  出  せ

2011年09月28日 06時37分02秒 | 聖書
捕えられて殺されようとする者を救い出し、
虐殺されようとする貧困者を助け出せ。(箴言二四11)

ベイリー・モアさんというカナダの伝道者から聞いた話です。あらしの晩に、イギリスのある海岸で近くの暗礁に乗りあげて、船が沈没しました。村人は総出で小舟を出し、海に浮かぶ一人一人を助けました。女たちや年寄りや子どもは、砂浜にたき火をどんどんたいて待っていました。さて、最後の舟がもどってきました。聞いてみると切り立った岩の上に一人の男が声のかぎり助けを求めていたのですが、波がすさまじく、どうしても舟を近づけることができません。そこで、ひとまず浜に帰ってきたのです。
若者たちは額を集めて、見捨てるか、助けに行くかを相談しました。いのちがけで助けに行こうと話が決まって、舟を出そうとしました。すると一人の婦人が髪をふりみだしてかけ寄り、一人の青年に抱きつきました。「行かないでおくれ、息子や。お父さんも海で死んで、お前の兄さんも海で行方不明じゃないか。行かないで――。」しかしその青年は、優しく言いました。「お母さん、大丈夫だよ。あの人を見殺しにゃできない。」出かけていった舟は、長いことしてから浜を指して帰ってきました。「助かったかぁ。」「ああ、助かったぞー。」浜に着いて母親が駆け寄ってみると、何と助けられた男は、行方不明になっていた兄息子だったというのです。
この実話を聞いて、心が締めつけられる思いがしました。イエス・キリストは、体を張って十字架の上で血を流し、私たちを滅びから助け出してくださいました。ヨハネは、このように言っています。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(Ⅰヨハネ三16)。人を見殺しにする心が私の中にもあることを感じて、恐れおののきます。


◆主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。

2011年09月28日 06時33分26秒 | 聖書
(詩篇三三・一三)

恵み深い神を表すことばのうち、神が天の御座を降りて人類の欠けを助け、わざわいを免れさせるために親しくおいでになるという表現ほど、それにふさわしいものはないだろう。ソドムとゴモラが悪に満ちている時にも、親しくその地を訪れて検分するまでは、それを滅ぼされなかった神を私たちは愛する。臨終の床にある罪人が神との和解を求める時、栄光の御座より耳を傾け、その耳を罪人のくちびるにつけて聞いてくださる神に、私たちは心からの愛情を感じる。
神が私たちの髪の毛をも数えきり、行く手を指し示して導いてくださることを知る時、どうして私たちは神を愛さないでおられるだろうか。神がその被造物の物質的要求だけでなく、霊的要求に対してどれほどの配慮をなさるかを思う時、この偉大な真理はさらに近く私たちに迫る。
有限な被造物と無限な造り主との間には、大きな隔たりがあるが、なおこの二つを結ぶ鎖の輪が存在する。あなたが涙を流すとき、神がそれを見ておられないと思うのか。否、「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」。あなたの嘆息は、主の御心を動かし、あなたのささやく声は主の耳を傾けさせ、あなたの祈りは主の御手をとどめ、あなたの信仰は主の御腕を動かすことができる。
神が高い御座におられて、あなたのことなどかまっておられないなどと思ってはならない。あなたがどれほど貧しくても、主はあなたを御心にかけてくださることを覚えよ。なぜなら、主の目は、全地をあまねく見そなわして、ご自身に向かって心を注ぐ者に御力を現してくださるからである。
 おお、疲れることを知らない真理を反復せよ
 私のたましいの慕う神のような神は
  ほかにおられない
 主の御声に、天も震えおののく
 主は大いなる方
 しかし私のために身をかがめることを
  ご存じの方だ


◆私の愛する方が戸の穴から手を差し入れました。

2011年09月27日 19時57分35秒 | 聖書
私の心は、あの方のために立ち騒ぎました。(雅歌五・四)

私の心は、あまりに眠気に満たされていたので、戸をたたかれるだけでは不十分であった。私は、立ち上がって戸を開けるには、あまりに心が冷たく、恩知らずだったからである。しかし私のたましいは、主の有効な恵みに触れたためにかきたてられた。私の愛する方の忍耐よ。主が戸の外に閉め出された時、私は怠惰の床にいたのに、主は戸の外で待っていてくださった。主は幾たびとなく戸をたたき、声をかけて、戸を開くようにと願われた。どうして私は、主を拒むことができたのだろう! 卑しい私の心よ。赤面し、ろうばいせよ! しかし、これはなんと大いなる親切であろう。主ご自身が門番となり、戸の穴から手を差し入れてくださるとは! かけ金をはずし、かぎを回してくださるそのへりくだりの御手は幸いである。
今、私は知る。主の御力以外の何ものも、邪悪のかたまりのような私を救うことはできないことを。私にとって儀式は効果をもたない。福音すら、主の御手が私に差し伸べられなければ、何の効力も発しない。他の何ものをもっても開けられなかったのに、主は開かれた。主の御名はほむべきかな。私は今も、主の恵み深いご臨在を感じる。
主が私のために耐えられた一切の苦しみを思い、私の卑劣な仕打ちを思う時、私の心が主に向かって動かされるのは当然のことではないか。私は愛情をほかに移していた。そして主を悲しませた。不貞な妻がその夫を扱うようにしてきた。おお、私の残忍な罪よ。私の無慈悲な自我よ! 私はどうすればよいのだろう。私の悔い改めを表すには涙も足りず、私の全心は私に対する憤りに燃える。ああ私は、私のこよなき喜びであるお方を、あたかも未知の人のように扱った。
イエス様。あなたは赦しを与えてくださいます。しかし、それだけでなく、この私が不忠実な者にならないようにしてください。私の涙をぬぐって、心をきよめ、それを七重の綱をもってあなたに縛り、再び迷い出さないようにしてください。