もしクリスチャンが、教会に対してモルデカイのようになり、能力に応じて教会の繁栄のために尽くすならば、それはよいことである。ある人たちは豊かであり、権力のある地位についている。彼らに、この地上の高い位において、彼らの主をあがめ、人々の前でイエスのために証しをさせよ。他の人々ははるかによいものをもっている。それは、王の王なるお方との親密な交わりである。彼らに日ごとのとりなしをさせよ。主の民のうちの弱い者、疑う者、誘惑のうちにある者、慰めのない者のために。もし彼らが、暗やみの中にあって恵みの御座に近づくことのできない者たちのために多くのとりなしをするなら、それは彼らの名誉となるだろう。教養ある信仰者が、その才能をよい事のために用い、人々に神のことを教えることによって、彼らの天の学問の富を人々に与えるならば、彼らは主のために力のある奉仕をすることができる。私たちイスラエル人のうちで最も小さい者も、神の民の幸いを求めることができる。そして彼の願いは、ほかに何もすることができなくても受け入れられる。
信者が自分のために生きることをやめるのは、キリストに最も近いことであり、しかも最も幸いな道である。他の人々に祝福を与える者は、必ず自らも祝福を受ける。それに反して、自分自身が大きくなろうと求めるのは、邪悪で不幸な人生の計画であり、その行路は悲痛、その終局は致命的である。
友よ。あなたに問う。あなたは教会が富むことを求めて、最善を尽くしているか。友よ。主にある貧しい者と一体となり、彼らの十字架を負い、できる限りの益を与えよ。その報いをあなたが失うことはない。