座間コミニティー

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◆それはユダヤ人モルデカイが……

2016年11月28日 16時41分00秒 | 聖書
自分の民の幸福を求め……。(エステル一〇・三)
モルデカイは真の愛国者であった。そのため、アハシュエロス王によって最高の地位に上ったが、その高い地位を、イスラエルの繁栄を促進するために用いた。この点において彼はイエスに似ている。イエスは、栄光の御座にあって、ご自身のことを求めないで、その御力をご自身の民のために用いておられる。
もしクリスチャンが、教会に対してモルデカイのようになり、能力に応じて教会の繁栄のために尽くすならば、それはよいことである。ある人たちは豊かであり、権力のある地位についている。彼らに、この地上の高い位において、彼らの主をあがめ、人々の前でイエスのために証しをさせよ。他の人々ははるかによいものをもっている。それは、王の王なるお方との親密な交わりである。彼らに日ごとのとりなしをさせよ。主の民のうちの弱い者、疑う者、誘惑のうちにある者、慰めのない者のために。もし彼らが、暗やみの中にあって恵みの御座に近づくことのできない者たちのために多くのとりなしをするなら、それは彼らの名誉となるだろう。教養ある信仰者が、その才能をよい事のために用い、人々に神のことを教えることによって、彼らの天の学問の富を人々に与えるならば、彼らは主のために力のある奉仕をすることができる。私たちイスラエル人のうちで最も小さい者も、神の民の幸いを求めることができる。そして彼の願いは、ほかに何もすることができなくても受け入れられる。
信者が自分のために生きることをやめるのは、キリストに最も近いことであり、しかも最も幸いな道である。他の人々に祝福を与える者は、必ず自らも祝福を受ける。それに反して、自分自身が大きくなろうと求めるのは、邪悪で不幸な人生の計画であり、その行路は悲痛、その終局は致命的である。
友よ。あなたに問う。あなたは教会が富むことを求めて、最善を尽くしているか。友よ。主にある貧しい者と一体となり、彼らの十字架を負い、できる限りの益を与えよ。その報いをあなたが失うことはない。
 

「あなたがたの身をきよめなさい。

2016年11月28日 16時40分08秒 | 聖書

あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから」(ヨシュア3:5)

ヨルダン渡渉だ。イスラエルの民はいよいよ約束の地カナンを目前にした。
乳と蜜の流れる地だ。しかし、目の前にはヨルダン川が横たわっている。
雪解けと春の雨で、一年で一番増水の時だ。

濁流が、岸いっばいに溢れていた。
圧倒的な目の前の状況に、人間の力では完全に不可能だ。
しかし、神がすべての指示を与えられた。
まず主は「契約の箱を見、その後ろを進むよう」命じられた。
それは、主と主の言葉を、第一にして歩むという事だ。

自分の思いや判断でなく、主と主の言葉に従う歩みだ。
生活の中で、祈りつつ、いつも主の御心を探り求めながら、歩むことだ。
次に「あなたがたの身をきよめなさい」、主に従う民に最も大切なものが「聖さ」であり、偶像礼拝者には無い、主の民の特徴だ。

罪は悔い改めること、罪から離れ、罪を捨てることだ。
「主が、あなたがたのうちで不思議をされる」。「主が、される」自分の力ではいっさい無い。
私たちは、完全不可能の状況において、「主こそ神」であることを真に知る。

祭司達の足が水ぎわに浸った時に、水がせき止められた。水際に浸った時だった。
従順の一歩を踏み出した時、奇跡が起きた。踏み出す前ではなかった。
あなたにとってのヨルダン川は、何だろう?

難しい対人関係か、誰かとの和解か、御心に一歩前進する事か。
自分に死んで、信仰により、「前進せよ」と主は言われる。
そうすれば、目の前でみわざを見て行く。
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渡らなければならないヨルダン川を神様は、私達の前に置かれる。
信仰を持って進んでみよう。
意志を向けてみよう。神の栄光を必ず見ることができる。
私の前のヨルダン川は何だろう


今日の聖人の記念日

2016年11月28日 07時21分30秒 | キリスト教

聖カタリナ・ラブレ

1806年-1876年

 カタリナは、フランス、ブルゴーニュの裕福な農家に17人兄弟の9番目の子として生まれた。9歳のときに母と死別し、その後は彼女が家事を手伝った。父の反対があったが、1830年に愛徳姉妹会に入り、パリの修道院に派遣され、そこで祈りと修業に励んだ。ある晩祈っていると聖母マリアが現われ、彼女の使命について語った。2度目のマリア出現の際に、カタリナは「不思議なメダイ」(聖母マリアが刻まれたメダル)を作り、その信心を広めるようにと言われた。彼女の体験した2つの示幻は、2年後の1836年に、パリ大司教区の調査委員会によって認められた。メダイは、パリの大司教の奨励で製造されるようになり、メダイの普及に伴って病気の全快や回心など多くの奇跡が世界の至るところで起こったといわれる。

 彼女の遺体は、パリのバック街の修道会本部に安置されている。現在もその不思議なメダイは、多くの人びとから大切にされ、親しまれている。


◆へ  つ  ら  い

2016年11月28日 07時20分32秒 | 聖書

自分の友人にへつらう者は、
自分の足もとに網を張る。      (箴言二九5)
「よい人間関係をつくるために、お世辞を言いましょう」という講習会が開かれたことがありました。確かに、「きたねえガキだ」と言うより、「お元気そうなおぼっちゃんですね」とちょっぴりお世辞を言ったほうが、隣の人とうまくいくでしょう。
私の友人は、汽車の中で隣のおじいさんに、イエス・キリストのお話をしたくてたまりませんでした。ところが、話しかける前に「一杯どうですか」と、ウイスキーをさし出されました。その時、「お宅は、気前がいいんですね。ところで、私はクリスチャンで無調法なのですが……」と応対して、うまく会話ができたというのです。「昼間っからお酒ですか」と言うよりも、確かによかったと思います。お世辞というより、人のあら捜しをせずに美点や長所を見ていく日常の態度が、人間関係をよくしていきます。へつらいは、そんな態度とは全く違います。へつらいを言う人の心の動機や心の姿は、この三つに要約されます。
・ 真実がない。平気でうそをつき、ただ自分のために生きる。
・ 自分をよく思われたい一心で、人の顔色をうかがっている。
・ 相手を手玉にとり、できるなら利用しようとする。
へつらいを言う人ののどは「開いた墓」(詩篇五9)だと、ダビデは言いました。また、その舌は「鋭い刃物のよう」(五二2)で、人をわなにかけて破滅させるというのです。
しかし「へつらう者」は、実は、自分の足もとに自分で網を張っています。それは、「人をのろわば穴二つ」ということばのとおりです。そのような人は、他人からもだまされ、おだてられ利用されるだけで、いつまでたっても真実の友が得られないのです。
 

◆兄弟たちがやって来ては、

2016年11月28日 07時19分52秒 | 聖書
あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。(Ⅲヨハネ三節)
真理はガイオのうちにあり、ガイオは真理のうちを歩んだ。もし前半が真実でなければ、後半の事実は決して起こり得なかったであろう。もし第二のことがガイオに当てはまらないとすれば、初めのことは単なる見せかけにすぎなかったであろう。
真理はたましいの中に入り、しみこまなければならない。そうでなければ無価値である。信条としての教理は、手に持っているパンのようなもので、からだの栄養にはならない。だが、心で受け入れられた教理は、消化された食物と同じで、吸収されてからだを強くする。真理は私たちの中で、生ける力、活動する力、内住の現実、存在の経験とならなければならない。
もしそれが私たちの中に入るなら、その時から私たちはそれと別れられなくなる。人は衣を失い、また手足を失うかもしれない。しかし、彼の内なる部分が生きており、いのちの存在している限り、これは彼から奪い去ることのできないものである。クリスチャンも死ぬだろう。しかし、彼は真理を否むことはできない。
明かりの中心から出る光がガラスを通って外に輝き出るように、内にあるものが外のものに影響を与えるのは自然の法則である。真理が内に燃える時、その光はすぐことばとなって外なる生活に輝き出るのである。
ある種の虫は、その食べる食物によって、まゆの色が異なるという。これと同様に、人の内なる性質を育てる養分が、その外に出るあらゆることば、行為に色づけをする。真理にあって歩めば、誠実、聖潔、忠実、単純な生活をもたらす。これは福音の教える真理の原則が自然に生み出すものであり、聖霊が私たちに受けることを得させるものである。外に現れる会話によってその人の内なるたましいの秘密を知ることができる。
いつくしみ深い御霊なる主よ。どうか今日、私たちを神の権威の支配下に置いてください。そして偽りと罪とが私たちの心を支配し、日々の歩みにおいて悪い感化を人々に及ぼすことのないようにしてください。
 

ヨブ記34章1-9節

2016年11月28日 07時18分28秒 | 聖書


34:5 ヨブはかつてこう言った。「私は正しい。神が私の正義を取り去った。
34:6 私は自分の正義に反して、まやかしを言えようか。私はそむきの罪を犯していないが、私の矢傷は直らない。」



 エリフは、ヨブが語ったことを取り上げます。

ヨブが友人達に語ったこと、それを繰り返すのです。

ヨブが語ったことそれは、自分には誤りはない、自分は神の戒めに背くようなことはしていない。

それにもかかわらず、神は私に痛みと苦しみをもたらされる。

私は、その苦しみによってもたらされた傷から、癒やされることがない。

なぜ自分が、このように苦しまなければならないのか。

それは、神が私の正義を取り去ったからだ。

これは、私が真実に語り得ることだ。

私が悪いのではない。

神が私から正義を取り去り、私を悪人となし、その結果、このような苦しみを受けているのだ。

私の苦しみは、私によっているのではない、神ご自身の思いによっているのだ。

しかも、神は私に敵対しておられるのだ。

これが、ヨブの語ったことだというのです。


ヨハネ12:24~25

2016年11月28日 07時16分28秒 | 聖書


★まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

■O:今日のコラム
麦の粒が地に蒔かれなければ、一粒の麦は一粒のままである。しかし、一粒の麦が地に蒔かれて、それから芽がでて、穂を出すならば、新しい実がたくさん結ばれるのです。この御言葉の描写は、イエス様の生き方を彷彿させてくれます。イエス様が十字架に架かって下さったからこそ、信じる者はその血によって贖われ、義と認められるのです。

ローマ5:15
ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの人の違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、ひとつの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。

恵みが増し加わるために罪をあえて犯したり、罪の中にとどまって良いということではありませんが…(ローマ6:1~2)イエス様が十字架にかかられ、その血を流されたからこそ、その恵みが多くの人におよび、また私たちの多くの違反も義と認められるのです。

私たちもイエス様の足跡に従う者として、日々自分に死に、自分のいのちを愛するのではなく、そのいのちを失う歩みをして行きたいです。例えば、山上の垂訓を読む中においても、自分には実践するのが、またそう生きるのが難しいと思えるみことばに遭遇することもあるでしょう。しかし、その歩みの中にこそ、本当にいのちを保ち永遠のいのち至る道なのです。

マタイ7:13~14
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。

■A:考えてみよう
みことばを日々朗読し、御霊によって祈り、みことばを実践する歩みをしていこう!!自分に難しいと思えることでも、日々悔い改め、血潮を宣言し、みことばを己のたましいに宣言して行こう!!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


11月27日(日)のつぶやき

2016年11月28日 01時35分00秒 | キリスト教