座間コミニティー

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◆このわたしは荒野で、

2017年10月31日 16時34分44秒 | 聖書
かわいた地で、あなたを知っていた。(ホセア一三・五)
しかり、主よ。あなたは私が堕落していた時の様を知っておられました。その時でさえ、あなたは私をあなたのものとして選ばれました。私が汚れ、自分自身を嫌悪するほかなかった時、子どもとして私を受け入れ、私の燃えるような心の要求を満たされました。この自由な、豊かな、あふれるばかりのあわれみよ。このために私はとこしえにあなたの御名をたたえます。
その後も私の内なる経験は、しばしば荒野でした。しかし、なお私を愛する者として所有され、愛と恵みの流れを注いで私を喜ばせ、実り多い者とされました。ああ、外の環境が最悪であり、私がかんばつの地にさまよい出た時にも、あなたの楽しいご臨在は私を慰めました。嘲笑が私を待っていた時、人々はそれを知りませんでしたが、あなたのみ、逆境の中にいる私のたましいを知っておられました。なぜなら、どのような苦難もあなたの愛の輝きを曇らせることはないからです。いと高き恵み深き主よ。試みの中にあった時、いつも誠実であられたあなたをほめたたえます。そして、私はあなたの柔和と愛に一切を負っているのに、あなたを忘れ、心に高ぶりを覚えていたことを嘆き悲しみます。主よ。あなたのしもべをあわれんでください。
私のたましいよ。おまえが卑しかった時、このようにイエスがおまえを顧みられたとすれば、繁栄している今も、主ご自身とそのみこころの支配下にあることを確信せよ。世の成功によって高慢になり、真理を恥じ、属する教会を恥じてはならない。主に従って荒野に行け。迫害の火の手が燃え上がっている時にも、主と共に十字架を負え。おまえが貧乏と恥辱の中にあった時も、主はおまえをご自身のものとして所有された。決して主を恥じて主にそむいてはならない。おお、私の愛する方を恥じるとは、思うだけでも恥辱である。イエス様。私のたましいはあなたにすがります。
 最も輝かしく、麗しき主よ
 私のたましいはあなたにすがります
 心労の夜にも、また光の昼にも
 
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「ああ、あなたの信仰はりっぱです。

2017年10月31日 16時33分21秒 | 聖書

その願いどおりになるように」(マタイ15:28)

カナン人女性が主に助けを求めた。娘が悪霊につかれていた。
彼女の求めは、切迫したものであった。
「ダビデの子よ」と求め、真剣に、必死に、叫び求めた。

この全身の叫びに、主は、答えて下さるはずでは、と私たちは思う。
しかし、主は「一言もお答えにならなかった」。
無視のようであり、沈黙されたままだ。

しかし諦めず、叫んでついて来る女性に、弟子たちが、帰して欲しいと苦情を言った。
それに答えて、ご自分はイスラエルの羊に遣わされていると言われた。
すると、女性は「ダビデの子」を、単に「主よ」と変えて、尚も助けを求めた。

カナン人の彼女はイスラエルではない。異邦人だ。
「ダビデの子よ」と言う権利は無い。彼女はへりくだって正しい位置に立った。
すると、主は「子犬に投げてやれない」と言われた。
何と冷たい言葉に聞こえそうだが、そうではない。

実は、主は彼女が正しく求める事ができるように手助けをしておられた。
女性は、「その通りです」と認め、へりくだり、「しかしパンくずは頂けます」と求めた。
その時、娘は癒された。彼女は主のあわれみを信じたから、諦めなかった。

それは主への信仰だった。「なら、いいわ。もう頼まない!」途中で怒ったり、ふて腐れたり、いじけて諦めたならどうだろう。
彼女は一心にへりくだった。そして、一見、拒絶に対して、主を信じて迫った。
その信仰を主は喜ばれ、賞賛された。立派な信仰と。
あなたも今、信仰を試されているだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
主の一見冷淡と見える対応が、実は、正しい位置に導き、心底の求めを引き出し、願いを叶えるためであった。
女性もへりくだった。
極みまで愛し、深くあわれんで下さり、自分は不真実でも、どこまでも真実な主、主はどんなお方かを覚え、その主ご自身を信頼して行きたい。

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おはようございます。

2017年10月31日 07時15分46秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2017年10月31日 07時14分46秒 | キリスト教

聖ウォルフガング司教

920年-994年

 ウォルフガングは、ドイツ南部スウェーベンの貴族の家に生まれた。少年時代はベネディクト会修道院で学び、ヴュルツブルクの神学校に入り、司祭となった。956年に、友人のヘンリーがトリーアの大司教に任命されると、その教区の神学校校長に招かれた。ヘンリーが964年に亡くなると、スイスのアインジーデルンで隠修士となり、ハンガリーへ宣教に行った。しかし972年に皇帝オットー2世からレーゲンスブルクの司教に任命され、司祭や修道士の生活を指導する一方、皇帝のよき相談相手となった。彼自身は質素で厳しい生活を続け、貧しい人びとや病人の援助に力を尽くした。
 レーゲンスブルクの守護の聖人とされている。

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◆人をのろわば穴二つ

2017年10月31日 07時13分30秒 | 聖書

穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、
石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。(箴言二六27)
小さい時、私たちはよく落とし穴を掘って遊びました。原っぱに穴を掘り、その上を木の枝や草でおおって擬装し、人が落ちるのを楽しみにしていたものです。でも次の日に、自分のしかけた落とし穴を忘れて、自分で落ちてしまったということなども、確かあったようです。こんなことは遊びです。しかし、「人をのろわば穴二つ。」――これは、深刻な現実です。
聖書の中に、いくつか顕著な実例があります。ハマンという高官は、憎いユダヤ人のモルデカイを王にざん言し、彼をはりつけにするために、柱を立てておきました。しかし、そのハマンの悪だくみが王妃エステルによってあばかれた時、ハマンは、自分が立てたはりつけ柱にかけられてしまいました。エステル記に出ていることです(五―七章参照)。
ユダヤ人の預言者ダニエルを憎み、彼を落とし入れようとした大臣たちは、ダニエルを投げこもうと計画した獅子の穴に、自分たちが投げこまれる破目になってしまいました。旧約聖書ダニエル書に書かれています(六章参照)。のろいや悪だくみは、必ず、自分自身へののろい・わざわいとなって返ってきます。
そして愛もまた、必ず、勝利と祝福を持って返ってくるのではないでしょうか。聖書は言います。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。……いつまでも残るものは……愛です」(Ⅰコリント一三4―813)。
 
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◆ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

2017年10月31日 07時12分37秒 | 聖書
(詩篇五一・一〇)
信仰後退者が、もしその内にわずかでも残りの火をとどめているならば、回復を求めてうめくであろう。彼が再び新たにされるには、回心と同様の恵みの働きが必要である。私たちは回心の時、悔い改めが必要であった。今もたしかに悔い改めが必要である。私たちは最初キリストのもとに来るため、信仰を求めた。今もこれと同じ恵みのみが私たちをイエスのもとに行かせる。私たちはその時、私たちの恐れに終止符を打つため、いと高き方のみことば、愛する者のくちびるより出るみことばを必要とした。私たちは現在罪の意識の下にある時、なおそれを要することを発見するだろう。だれでも、初めに感じたような聖霊の力の真の顕現がなければ、新たにされることは不可能である。なぜなら、それは難事業であり、血肉は今も変わることなく行く手をふさいでいるからである。
クリスチャンよ。あなたの弱いことを、神に熱心に助けを求める理由とせよ。ダビデが自らの無力を感じた時、手をこまねくことなく、くちびるを閉じることなく、恵みの座に駆けつけて、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と祈ったことを覚えよ。あなたが一人では何事もなし得ないという教えを、怠惰の理由とせず、イスラエルの保護者に熱心に駆けつける理由とせよ。あなたが命をかけて「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と神に嘆願する恵みを得られるように。神に向かって真剣にこのように祈る者は、神の働かれる手段を用いることによって、自分が誠実であることを証明するであろう。
多く祈れ。神のみことばに生きよ。あなたから主を追い出した肉欲を殺せ。罪が再び頭をもたげないように警戒せよ。主はご自身の定められた方法を用意される。道のかたわらに座せ。主がお通りになる時、あなたは備えができていよう。あなたの恵みを養い育てる信仰の務めを続けよ。そして、すべての力が主から来なければならないことを知り、「ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と叫ぶことをやめるな。
 
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詩篇71篇9-14節

2017年10月31日 07時11分05秒 | 聖書


71:9 年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。71:10 私の敵が私のことを話し合い、私のいのちをつけねらう者どもが共にたくらんでいるからです。


年をとると、人は力を失います。

また自分に敵対する人々は、人が年をとって弱くなった時に、苦しめます。

そんな時、老いた人は自分を守り、支える術をどこにも持ちません。

一人さみしくたたずむより、他にないと思うのです。

あきらめしかない、と思うのです。

 しかし、作者は語ります。

自分を頼ることも出来ないので、主に寄り頼みます、と。

主こそが、老いた彼にとっての真の助け、また喜びであることを知っているからです。

また主は、そのような老いて弱った人々を、捨てはいたしません。

主こそが、老いた者の友であり、また支えでいてくださるのです。

老いてますます人との交わりが減って寂しくなった時、主に祈り、主に寄り頼みましょう。

助けがどこから来るか私たちにはわかりませんが、主が導いて、主に求める者に支えを与えてくださるのです。


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2コリント2章 10~11節  (伝道者の書2章)

2017年10月31日 07時08分42秒 | 聖書


★もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。


■O:今日のコラム
赦さない心を持つことは、私たちの内にサタンに対して足場を作り、暗闇の力が要塞を築き上げるきっかけとなります。しかし、いきなり要塞が出来るわけでは無く、赦さない思いや苦味、傷や怒りを持ち続けることを通して絶えず悪魔に対して門を開いた状態となり、要塞が築きあげられて行きます。

悪魔にはベルゼブルと言う名がありその意味は「ハエの王」です。ハエがゴミや死体のある場所に集まる様に、悪魔は私たちの内にある赦さない思いや怒りの中に巣を作るのです。

今日の箇所でパウロは人を赦すこととサタンの策略に欺かれ無いことを合わせて書いています。赦すことは心の中に溜まったゴミを捨て、サタンの足場を取り除く作業です。

赦すこととは相手に対して怒り、罪に定め、訴えると言う権利を手放すことであり、これは主イエスの十字架の恵みと御霊の助け無くしては出来ないことです。

赦しはまず、赦すことが出来ない自分自身の頑固さや、肉と罪の性質を正直に主の御前で告白することから始まります。

「主よ。私はあの人に対して傷つき、怒りと赦せない思いがあります。赦すことは大切だと知っていますが、私の内にはその力が無いことを認めます。私自身のこの肉と罪の性質を赦し、主イエスの血潮により洗い、聖めて下さい。」と祈る時、主イエスの恵みとあわれみによって超自然的な赦しの力が私たちの内に臨むのです。

また赦すとは一度怒りを手放し解放されると同時に、継続して行うことでもあります。昨日赦しの祈りをして心に解放を経験しても、今日また怒りと悪感情が湧いてくる場合があります。その時は続けて赦しを宣言し、その相手を主イエスの御名によって祝福して祈ることが必要です。

赦すとは「許可する」と言う意味でもあります。つまり相手が主により祝福され、使命の中に生き、神の計画がその相手の内に回復することを許可することでもあります。赦しの祈りとは相手に対するとりなしの祈りであり、祭司のつとめを私たちがすることです。

この赦しの祈りを持って生きる時、私たちの内に「主イエスの心」と言う計り知れない宝が与えられることとなります。

主イエスの十字架の元で血潮の力を受け、赦しの祈りによりサタンの策略と要塞を打ち破りましょう。

「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」(2コリント10:4)


■A:考えてみよう
今日、赦しの祈りを具体的に祈りましょう。


■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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10月30日(月)のつぶやき

2017年10月31日 02時25分48秒 | キリスト教
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◆庭の中に住む仲間たちは、

2017年10月30日 17時03分50秒 | 聖書
あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせよ。(雅歌八・一三)
主イエスは、ゲツセマネの園を去り、今主の教会の園の中に住んでおられるが、あの園のことをよく覚えておられる。そして今住んでおられる教会の園においても、主の幸いな仲間に加わっている者に、御心を打ち明けてお語りになる。その御声には、すべての人間の音楽も及ばない愛のメロディーがある。
地上における何万の人々、天上における何百万の人々が、その調和のある音楽を楽しんでいる。私がよく知り、うらやましく思っていた人々は、今なつかしい御声に耳を傾けている。おお、私もその喜びにあずかることができたなら! これらの人々のうち、ある者は貧しく、他の者は長く病床にあり、さらにある者は死の門に近づいている。しかし、おお、私の主よ。あなたの御声さえ聞くことができるならば、私は喜んで彼らと共に飢え、やせ衰え、共に死にたい。
かつて私は、しばしばあなたの御声を聞いていました。しかし、あなたの御霊を悲しませました。私をあわれみ、私のところに帰ってください。再び「わたしがあなたの救いだ」と御声をかけてください。他のどのような声も私を満足させません。私はあなたの御声を知っています。私に御声を聞かせてください。あなたが何と言われるかは知りません。そして、条件をつけることをしません。愛する主よ。ただあなたの御声を聞かせてください。それが叱責ならば、そのためにあなたをあがめます。私の鈍い耳をきよめるために、肉にとって非常な苦痛である手術を要するかもしれません。しかし、どんな犠牲が必要でも、ただ、御声を聞くことができない者とはしないでください。
今夜、あなたの卑しいしもべの、この願いを許してください。私はあなたの血で贖われ、あなたのものなのですから。あなたが私の目を開き、あなたを見ることを得させてくださったために、私は救われました。主よ。私の耳を開いてください。私はあなたの御心を読みました。今、あなたのくちびるの御声に耳を傾けさせてください。
 
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「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに・・した。

2017年10月30日 17時02分38秒 | 聖書


すると彼のからだは元どおりになって・・きよくなった」(Ⅱ列王5:14)

ナアマンは、らい病を癒してもらうために、エリシャを訪れた。
しかし、将軍自ら訪ねているのに、エリシャは会う事もせず、使いの者に伝言した。
その扱いに、ナアマンはプライドをひどく傷つけられた。

ましてや、うやうやしく手を置いて癒すのではなく、ヨルダン川で七回身を洗えと。
とても受け入れられない。それを聞いて、ダマスコにもっと良い川があると怒った。
ナアマンはひどく傷ついたからだ。

神はこのナアマンのプライドをご存じで、エリシャを通して、砕こうとされた。
自分はいっぱしと思い、人よりは上、かなりましと思い、自分の思いに神を従わせようとする態度は、ナアマンだけだろうか。

人間のプライドは、神の恵みと相容れるところが無い。
神はナアマンに、真の救いを、真の癒しを与えるがために、そのところをあえて通された。
彼の高いプライドが取り扱われる必要があった。

しもべ達がナアマンに進言した。
難しい事を言われたなら、プライドが保てた。
しかし、余りにも単純で、又、人々の目にさらされる奇異な状況に、とてもプライドが許さない。
、とにかく言われる通りしてみたら、いかがなものかと。

ナアマンはその忠言に耳を傾け、プライドを捨てて従った。すると完全に癒された。
あなたも今、トラブルや悩みの渦中にいるか。問題はプライドだろうか。
それを捨てて従う時、大きな祝福が待ち構えている。

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神を捨て、自分が神になる事を選び取ったアダムとエバ。
その根源がプライドであり、このプライドにほんろうされるなら、どうなるかわからない。
「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった」御子を覚え、主に従えますように。

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おはようございます。

2017年10月30日 07時14分54秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2017年10月30日 07時14分12秒 | キリスト教

聖アルフォンソ・ロドリゲス

1531年-1617年

 アルフォンソは、スペイン、セゴビアの裕福な商人の家に生まれ、14歳のときに父を亡くして後を継いだ。26歳のとき結婚し、子どもにも恵まれたが、幸福な家庭生活も束の間、妻や子どもたちが次々と亡くなり、商売も不況という試練に見舞われた。アルフォンソはすべてを神に委ね、これからの人生を神に仕えたいと司祭になることを決心し、イエズス会への入会を望んだ。しかし、34歳という年齢の高さや、体力、学力などの理由で、6年間入会を断わられ続けた。しかし、とうとう管区長は、アルフォンソの熱心さとその徳の高さを認め、修道士として入会を許可した。翌年マジョルカ島のパルマに派遣され、その日から46年間イエズス会の学校の受付として仕事に励んだ。

 学校を訪れる客は、アルフォンソの優しく、礼儀正しい態度に感動し、彼が聖人だという評判が広まり、あらゆる階層の人びとが彼に助言や指導を求めに訪れた。その中に、当時神学生であり、のちに黒人奴隷の使徒となった聖ペトロ・クラヴェル司祭(9.9参照)もいた。

 「神のために忍んだ災難と繁栄の違いは、金と鉛の違いよりも大きい。」
               (聖アルフォンソ・ロドリゲス)

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◆巧言令色すくなし仁

2017年10月30日 07時12分41秒 | 聖書

声を和らげて語りかけても、それを信じるな。
その心には
七つの忌みきらわれるものがあるから。(箴言二六25)
「人を見たらどろぼうと思え」ということばがあります。
人間をそのことばどおり信じるな。人のことばは表面上のもので、「その心の中には七つもの忌まわしい思い・悪い心がひそんでいる」というのです。悲しいことです。しかし、悲しい現実ではないでしょうか。
ソロモンは、ことばがじょうずで、心が悪い人の姿を「銀の上薬を塗った土の器のようだ」(箴言二六23)と言いました。銀むくだと人に思わせますが、中味が違うのです。中国でも、「巧言令色すくなし仁」といって、ことば巧みな人は警戒せよ。真実の人は少ない、必ずといっていいほど裏があると警告しています。私たち人間には裏表がある、口と心の不一致がある。――このことは、人を判断するためによく知っておくべきでしょう。しかし、何よりもこれを自らに当てはめてみて、反省材料にすべきではないかと思います。
いったいどんな、いやな心・みにくい心・神に忌みきらわれる心が、私たちのうちにあるのでしょうか。
イエス・キリストは、こう言われました。「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。……内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(マルコ七15―23)。
イエス・キリストは、またこう言われました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四14)。忌まわしい、人をけがすものではなく、こんな新しい泉を心の中に持ちたいものです。
 
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◆私は心を尽くして主に感謝します。

2017年10月30日 07時11分47秒 | 聖書
(詩篇九・一)
祈りが答えられた時、いつでも感謝がなされなければならない。それはちょうど天上の愛の太陽が地を暖める時、地の感謝の霧が立ち上るようである。主はあなたにあわれみ深く、あなたの訴えに耳を傾けられたか。それならあなたは生きている限り主に感謝せよ。熟した果物を、それにいのちを与えた源である肥えた地の上に落とせ。あなたの祈りに答え、あなたの心の願いをかなえられた方に歌をささげることを拒んではならない。神のあわれみに対して沈黙を守ることは、忘恩の罪を犯すことになる。それは、病をいやされたのに、いやし主に感謝をしに帰らなかった九人と同様、卑しいことである。
神に対する感謝を忘れるのは、私たち自身を益することを拒むことである。なぜなら感謝は、祈りと同様、私たちの霊的生活の成長を促進する有力な手段だからである。感謝は私たちの重荷を去り、希望を盛んにし、信仰を増進させることを助ける。それは、信者の活力を盛んにし、主の御用のため新しいことを企てる勇気を与える、健全な、また活気ある活動である。
神に対し、受けた恵みを感謝することは、私たちの友をも益する道である。「貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。」もし私たちが「私とともに主をほめよ、共に、御名をあがめよう。私が主を求めると、主は答えてくださった」と言うことができれば、私たちと同様な事情の下にある者は慰められるであろう。私たちの「救いの歌」を聞いて、心の弱い者は強められ、うなだれた聖徒は力づけられるだろう。私たちが詩と賛美と霊の歌とにより、互いに教え、互いに戒めるならば、彼らの疑いや恐れは消え去るであろう。私たちが、主の聖なる御名をあがめるのを彼らが聞く時、彼らもまた「主の道について歌う」であろう。
クリスチャンの義務の中で最もすばらしいのは感謝である。天使は祈ることはしないが、昼も夜も感謝をやめない。贖われた者は白い衣を着、しゅろの枝を手に、うむことなく「小羊はふさわしい」とたたえる新しい歌を歌う。
 
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