座間コミニティー

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◆あなたがたは……

2016年11月07日 18時07分02秒 | 聖書
わたしの証人となります。(使徒一・八)
キリストの証人としての務めを全うしようと願うならば、主ご自身の模範を見よ。主は絶えず証しをされた。サマリヤの井戸のかたわらで、エルサレムの宮で、ゲネサレの湖畔で、あるいは山の上で、夜も昼も証しをされた。さらに主の力ある祈りは、主の日ごとの務めと同じように神に受け入れられた。あらゆる環境の中で主は証しされた。学者もパリサイ人も主の口を閉ざすことはできなかった。ピラトの前でさえも良い言い表しをされた。非常に明確に証しをされたため、誤解を招く余地は一点もなかった。
キリスト者よ。あなたの生活を、あざやかな証しとせよ。あなた自身を、川底の石がみな見えるまでに澄み切った小川のようにせよ。ただ表面のみが見える濁った流れのようにではなく、底まで透き通る流れとなれ。こうして、神と人とに対するあなたの愛をすべての人に見せよ。あなたが自ら「私は真実だ」と言う必要はない。真実な者となれ。自分の正しさを誇らず、正しい者となれ。人々はあなたの証しを見ないわけにいかなくなる。
弱い人間を恐れて、証しをやめるようなことが決してあってはならない。あなたのくちびるは祭壇の炭火で熱くされたのだから、天の炎に触れられたように語らなければならない。雲を見つめず、風にも問うな。時が良くても悪くても、救い主のために証しをせよ。
キリストと福音のため、何らかの苦難を忍ばなければならなくなっても恐れるな。むしろ、主とともに苦しむに足る者とされた栄誉が自分のものになったのを覚えて喜べ。さらに、あなたが受ける苦難、損失、迫害があなたを講壇とし、そこからあなたが以前にまさる熱情と力とをもって、キリスト・イエスのために証しのできることを覚えて喜べ。主の偉大な模範を学び、主の御霊に満たされよ。
自分の証しが主の栄光のためになることを願うなら、あなたはさらに多く教えられ、支えられ、恵まれ、へりくだらなければならないことを心に銘記せよ。
 

「互いに忍び合い、

2016年11月07日 18時06分08秒 | 聖書

だれか他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい」(コロサイ3:13)

対人関係で、ギクシャクしたり、トラブルのあった相手があるだろう。
クリスチャンは赦さねばならないと思っているので、しばしば赦した「つもり」になっている事がある。

しかし、実際は赦してはいない。相手への恨みつらみを言葉や態度で表わさない。
だが、相手に関わる事に出会うと、感情が出て来るのだ。平静でおれず、苦々しい感情が出て来る事によってわかる。

相手への怒りがあり、裁いている。しかし、赦すべきと思っているので、言葉や行動には決して出さない。
それゆえ、表に出ないので、自分でも気づかない。気づかないので、まず認めない。
赦している「つもり」があるだろうか。

しかし、何かに触発されると、苦々しい感情が出て来るだろうか。
まず、赦していない自分とその事実をはっきり認める事だ。
心の底にある怒り、恨み、憎しみを認めて、悔い改める時、解放される。
自由になる。

赦していない事を認める事から解放が始まる。
それを認めないなら、罪は無いのだから、十字架は不要と言っている事になり、赦しも無い。

十字架で罪が赦されるのは罪人だけだ。
赦せない心の裏をよく見ると、高慢、わがまま、プライド、自己中心がある。

それを認めて、悔い改めよう。そして自分自身が、まずはっきり赦しを受け取ろう。
赦されるとは何という喜びだろう。
真に自分が赦される時、必ず人を赦して行く。無意識だが、赦していない相手がないか、御霊に探って頂こう。

人を赦して行く時、大海のような平安に満たされ、自分自身が自由にされ喜びに溢れる。


今日の聖人の記念日

2016年11月07日 11時22分01秒 | キリスト教

エンゲルベルド1世(ケルン)

1185年ごろ-1225年

 エンゲルベルドは、ドイツのベルクの貴族の家に生まれた。若いころ、皇帝オットー4世に武器を持って対抗したために破門されたが、その後異端に反対する運動を熱心に行って信仰を擁護したので、その罪を赦された。1217年にケルンの大司教に、数年後ドイツの行政官に任ぜられ、ベルクに平和を確立しようと力を尽くした。彼自身、厳しい修道生活を送りその模範を示して、司祭、修道者、信者を導いた。

 あるとき、彼の従兄イーゼンベルクのフリードリヒが、エッセンの女子修道院の土地、財産などを奪おうとした。エンゲルベルドはそれをやめさせようとして、フリードリヒに殺害された。

 彼の遺物は、ケルンとアルテンベルクの大聖堂に安置されている。


◆慰められて慰める

2016年11月07日 11時20分39秒 | 聖書

香油と香料は心を喜ばせ、
友の慰めはたましいを力づける。 (箴言二七9)
慰めを必要としている人が満ち満ちています。ただ肩をぽんとたたき、「がんばりなさい」という慰めや励ましのことばも、意味がないことはありません。けれども、魂の傷をいやし、衰えはてた心を力づけ生かし、挫折した人生を立ち直らせるような「ほんものの慰め」が必要なのです。
明るく楽になったように見える現代の生活の中で、どんなに苦しみ、あえいでいる魂が多いことでしょう。大会社の社長夫人ですが、息子は暴走族で何回も警察に逮捕されているために、死にたいと言っている人を知っています。人生の目的が分からず、自殺ばかりを考えている若者たち、疎外され、ころりと安楽に死ぬことばかり願っている老人たち、壊れかかった家庭の中で悲鳴をあげている夫婦、罪の力の下であえぎ、死の恐怖におののいている多くの人。――この人々のすべてに、ほんものの慰めと救いが必要なのです。
どうしたら私たちは、口先のことばではない、ほんとうの慰めを与える友となれるでしょうか。使徒パウロは、こう言っています。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(Ⅱコリント一4)。パウロは、神の中に、罪のゆるしと人生の再出発を経験しました。人は変わっても、変わることのない神のことば・力・愛を日々受けて、味わっていったのです。この経験に基づいて、パウロの生活と口から、ほんものの慰めが人の魂に伝えられたことでしょう。無尽蔵な慰めに満ちた神の愛の心の真ん中に管をさしこんで、豊かに愛をいただく人こそ、慰める人となれます。私たちは、自分が経験した以上の慰めを人に分け与えられないのです。
 

◆見よ。

2016年11月07日 11時19分29秒 | 聖書
わたしは手のひらにあなたを刻んだ。(イザヤ四九・一六)
「見よ」ということばの中に表れている神の驚きは、その一部が前の句にある不信仰への嘆きから来ている。シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。この不信仰のことばを聞いて、神はどんなに驚かれたことであろう。神の愛された民の口から出る根拠のない疑いや恐れほど、驚くべきものがあろうか。
主の優しいお叱りのことばを聞くと、私たちは赤面する。主は、声を大にして言われる。「わたしは手のひらにあなたを刻んだのに、どうして忘れることができようか。おまえの思い出がわたしの肉に刻まれているのに、どうしてわたしが常におまえを思っていることを疑うのか」と。
不信仰な者よ。あなたはなんと不可解な人間か。私たちは神の誠実とその民の不信仰とのどちらが驚くべきものであるかを知らない。神はこれまで、数え切れないほど多くの約束を守られた。それにもかかわらず、次の試練が来ると私たちは神を疑う。神は決して失敗されない。神は決して、空井戸、落日、流星、またかげろうのようなお方ではない。それにもかかわらず私たちは、あたかも私たちの神が砂漠の蜃気楼ででもあるかのように思って、悩み、疑い、かつ恐れている。
「見よ」ということばは、驚嘆を呼び起こすために発せられたことばである。事実ここには、私たちにとって真に驚きに値することがある。私たち反逆者が、神の手のひらに刻まれるほどに無限の愛をもっておられる神に近づけられるとは、天地が驚嘆したとしても無理のないことである。ここには「わたしはあなたを刻んだ」とあって、「あなたの名前を」とは記されていない。もちろん名前も刻まれているであろうが、それだけではない。「わたしはあなたを刻んだ」のである。このことばの含む完全性を見よ。「わたしはあなたの人格、姿、事情、環境、罪、誘惑、弱さ、欠乏、働きを刻んだ。わたしはあなたを刻んだ」と言われるのである。神がこのようにあなたを手のひらに刻んでおられるというのに、あなたはなおも、主は私を捨てられた、と言うのか。
 

ヨブ記27章1-7節

2016年11月07日 11時17分55秒 | 聖書


27:3 「私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり、
27:4 私のくちびるは不正を言わず、私の舌は決して欺きを告げない。
27:5 あなたがたを義と認めることは、私には絶対にできない。私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。」



 ヨブは、自分の決意と意志を明確にしています。

私は、神が自分に命を与えて下さっている限りは、2つのことで心を守る。

1つは、自分は誠の神の御心に反して、神を侮るようなことは、どんなことがあってもしないということ。

もう1つは、ヨブを侮ってその不正を語り、神の前に彼の罪と不義を告げて、ヨブを断罪する友達の言葉を、ヨブは絶対に受け入れないし、また受け付けないというのです。

私は神の前に正しい人間ではない。

しかし今、私が担っている苦しみの理由が、単に私の罪の故であると、単純に考えて答えを出そうとする友の考え方、そのあり方に、絶対に同意は出来ないというのです。

彼らは、それによって神を義と認めさせようとしているのですが、しかし、もっと真実で確かなことが、神の内にはあるというのです。


第一ヨハネ3章2節

2016年11月07日 11時15分48秒 | 聖書


愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。

■O:今日のコラム
私たちが神の子されたこと、そのことに主の愛が凝縮されていて、私たちはそのことを通して、自分が愛されていることを悟ることができることを感謝します。
同じ章の一節には、「私たちが神の子と呼ばれるために、-事実、いま私たちは神の子どもです。(第一ヨハネ3:1)とありました。「事実」と記載がありましたが、原語でみると「見なさい」とありました。神は私たちを子どもとし、かつその事実は私たちがこの世界の中で、実際に見ることのできるような特権が与えられていることは、素晴らしいことだと思います。

■A:考えてみよう
広岡浅子さんという、女性事業家は、60歳で乳がんになり、そのことをきっかけに、神に会い、クリスチャンとなりました。
男性にも負けず劣らずの気力と体力で戦後の日本で生命保険会社設立、日本で最初の女子大学設立に尽力し、その生涯で大仕事を成し遂げた彼女は、クリスチャンになったのちにこんな言葉を残しているようです。「今まで、父も夫も頼れる存在でなかったが、天の父に出会ってから初めて心の底から頼ることができて、安心を感じた。」私たちも、御父の子として、心の底からの平安を今日も感じつつ、生きることができることを感謝します。

■P:祈り




イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


11月6日(日)のつぶやき

2016年11月07日 01時33分14秒 | キリスト教