座間コミニティー

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◆岩だぬきは強くない種族だが、

2016年11月20日 16時38分49秒 | 聖書
その巣を岩間に設ける。(箴言三〇・二六)
岩だぬきは自分が弱いことを知っているため、岩間に避け所を求め、敵の手からの安全を守っている。私の心よ。この弱い動物から喜んで教訓を学べ。おまえは臆病な岩だぬきのように弱く、危険にさらされている。それゆえ、岩だぬきのように賢明に避け所を求めよ。私の最上の安全は、変わられることのない主の武器庫の中にある。主の永遠に変わらない約束が、巨大な絶壁のようにそそり立っている。私の心よ。おまえが常に主の輝かしい属性のとりでの中に身を隠すことができるならば、それは良いことである。それらの属性はすべて、主に信頼する者にとって安全の保証である。主の御名はほむべきかな。私はそのようにした。そして、アドラムのほら穴の中のダビデのように、残酷な敵から安全に守られた。
私は今初めて、主に信頼する人の祝福を見いだすのではない。はるか以前、サタンと私の罪が追いかけてきた時、私は、岩であるキリスト・イエスの裂け目に逃れ、主の裂かれた脇腹を楽しい安息所とした。
私の心よ。おまえの現在の悲しみがどのようなものであっても、今夜、新たに主のみもとに走って行け。イエスはおまえに同情し、慰め、助けてくださる。
難攻不落の要塞にたてこもる君主も、岩間にいる岩だぬきほど安全ではない。一万の戦車の将軍も、岩の裂け目の小さな居住者よりも安全とは言えない。イエスにあるなら、弱い者は強く、防御のない者も安全である。たとえ彼らが天国にあっても、それ以上に安全なわけではない。信仰は、地上の人々に天上の神の保護を与える。彼らはそれ以上のものは要せず、また願う必要もない。
岩だぬきは城を築くことができない。しかし、すでにそこにあるものを利用する。私は自分で避け所を作ることはできない。しかし、イエスはそれを備えてくださる。御父がそれを与え、御霊がそれを啓示された。
見よ、今夜再び私はその中に入る。そして、すべての敵から安全なのである。
 

「やめよ。

2016年11月20日 16時38分08秒 | 聖書

わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)

この「やめよ」の意味は、他の訳では「静まって、わたしこそ神であることを」になっている。

「静まって」という意味は、言葉を発せず、黙ってという意味ではなく、自分で立ち、動き回るなという意味だ。
人間的な力に頼るなという事だ。

危急の時、突然の事態発生の時、どうするだろう。
まず驚き慌て、パニックになり、走り回り、自分を救うための、できうる限りの対処をし、その後、神を思い出すだろうか。

又は、神に祈る事は一応祈るが、対応は自分の力でしているだろうか。
又、すべてを委ねてのつもりだが、後ろの橋を焼き尽くせず、万一の場合の逃げ道を残しているか。

つまりは、信じきれないので、委ねきれない。全部を明け渡すことはできない。
いざという時のためにと、一部を握って取っておく。

結局は自分の力でしている事になる。目に見えないものを信じるのは勇気がいる。
今一度よく静まって、自分の心を探ってみよう。本当は何に頼っているのだろう。

人は被造物なので、必ず何か頼らねば生きて行けない。
もし神に頼らなければ、間違ったものに頼ることになる。
自分に頼り、人に頼り、物に頼ることになる。

正しく神に頼ればどんなに幸いだろう。その時、神が神であられることを、真に
知って行く。自らの心を吟味してみよう。
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トラブルが起きた時、一番欲しいものはなんだろう。
即刻の解決だろうか。
人の励まし、人の同意、助言を求めて右往左往する。
目の前のものにすがりつくのをやめよう。
静まって最善の解決が神様から来る事を信じよう。


今日の聖人の記念日

2016年11月20日 10時01分07秒 | キリスト教

 聖フェリクス(ヴァロア)

1127年-1212年

 フェリクスは、フランスのヴァロアの貴族の家に生まれた。敬虔な両親のもとで信仰深く育てられ、聖ベルナルドのクレルヴォの修道院で教育を受けた。その後、フランスの宮廷で仕え、皇帝とともに十字軍に参加し、聖地エルサレムの奪回に奮闘した。帰国後は宮廷を退き、司祭となり、荒野で隠遁生活を始めた。

 20年たったのち、荒野でパリ大学教授ヨハネ・デ・マタと出会い、ともに祈りと修行に励んだ。そして自分たちの使命が奴隷解放のために働くことであると悟り、時の教皇の認可を受け、「三位一体会」を創立した。1198年に、フランスのセルフロアに修道院を建て、ヨハネはアフリカに渡って奴隷解放のために働き、一方フェリクスは、各地に修道院を建て同志を集め、彼らを養成した。

 三位一体会は、奴隷解放のほかに、十字軍の従軍看護、捕虜解放、療養所の設立などに貢献した。


◆自分を調べる人

2016年11月20日 10時00分03秒 | 聖書

富む者は自分を知恵のある者と思い込む。
分別のある貧しい者は、自分を調べる。(箴言二八11)
私たちには、思いこみがたくさんあると思います。ことに、自分の力・金力・権力・知力に自信を持っている時は、ひどい見当はずれの思いこみをするものです。ですからパウロは、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(Ⅰコリント一〇12)と言いました。
私たちの思いこみは、私たち自身を裏切ります。自分で自分に背負い投げを食わせるものです。イエス・キリストは、一人の大金持ちのたとえ話をされました。倉を建て直して大きくし、それにぎっしり収穫物をつめこんだ彼は言いました。「何年居食いをしても、もう大丈夫。さあこれからは、食べて飲んで楽しもう。」ところが神は、「愚か者よ。今晩お前のいのちはとられる。そうしたら、たよりにしている財産はだれのものになるのだ」と言われたのです(ルカ一二16―20参照)。
では、「分別のある貧しい者は、自分を調べる」とは、どういうことでしょう。あの有名な山上の垂訓の「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ五3)ということばが、一番ぴったりした注釈です。心の貧しいへりくだった魂は、高ぶった思いこみをしません。自分自身に神の光を当てて調べ、試してみます。自分の罪深さ・悟りのなさ・力なさをはっきり認めて、神にゆるしを求め、知恵と力をも求めます。そして、求めるものは与えられます。このように、天の御国は心の貧しい人のものなのです。
だからダビデは、詩篇一三九篇でこう祈りました。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」(23―24節)。
 

◆主よ。あなたは、私のたましいの訴えを弁護して……

2016年11月20日 09時59分23秒 | 聖書
くださいました。(哀歌三・五八)
ここで預言者があからさまに語っていることに心せよ。彼は、「主が私の訴えを弁護してくださることを望む」とか、信じるとか、思うとか言っているのではない。彼は議論の余地のない事実として、「あなたは、私のたましいの訴えを弁護してくださいました」と断言している。私たちは主の助けによって、自分の平和や慰めを完全に破壊する、祈りについての疑いや恐れを打ち払おうではないか。私たちは推測や疑いの耳ざわりな声で祈るのではなく、確信に満ちた美しい声で祈ろう。
ここで預言者がいかに感謝に満たされて、すべての栄光を神にのみ帰しているかを見よ。あなたは、預言者が自分自身のことを一言も述べていないことを見るであろう。彼は自分の救いを、自分自身はもちろん他の何もののいさおしによるともしていない。「主よ。あなたは、私のたましいの訴えを弁護して、私のいのちを贖ってくださいました」と述べて、栄光を主に帰している。クリスチャンは感謝の精神を養うべきであり、特に救われて後、神に感謝の歌をささげなければならない。地は聖徒たちの感謝の歌で満たされた宮であり、日々麗しい感謝の香りを放つ香炉でなければならない。
エレミヤは、なんと喜びにあふれて主のあわれみを記していることだろう。なんと彼は勝利に満ちていることか。彼は今日でも涙の預言者として知られているように、深い穴の中に入れられていた。しかし、それにもかかわらず、「哀歌」と呼ばれているこの書の中で、私たちはミリヤムがタンバリンを手に取って歌った歌のように明るく、またデボラが勝利の叫びをもってバラクを迎えた時の歌のように鋭く、「主よ。あなたは、私のたましいの訴えを弁護して、私のいのちを贖ってくださいました」という、天に上っていくエレミヤの声を聞く。
おお、神の子たちよ。主のいつくしみの生きた経験を求めよ。そしてそれを得たならば、明白に言い表し、感謝の心をもって歌い、勝利の歓声を上げよ。
 

ヨブ記31章1-15節

2016年11月20日 09時58分10秒 | 聖書


31:7 「もし、私の歩みが道からそれ、私の心が自分の目に従って歩み、私の手によごれがついていたなら、
31:8 私が種を蒔いて他の人が食べるがよい。私の作物は根こぎにされるがよい。」



 神は、私に対して何もなさらない。

私の問いかけに対しても、お答えくださらさない。

その理由が私の悪にあるのであったら、それは、私にとっては当然のことであろうと思う。

ですから、そのように扱ってくださっても構わない。

 しかし今、そのように神から交わりを断たれるような悪を、自分の内には見いだすことができない。

もし、そのような悪を自分の内に見いだすのであれば、自分が耕作した時に得る収穫の実を他の人が食べても良い、私が得た作物は皆、他の人が根こそぎ持って行っても構わないというのです。

 彼は、自分の罪の責任を負うというのです。

しかし、今この時、自分には、自分が受けているほどの苦しみの理由を、自分の内に見いだすことができないと嘆くのです。

そんなに重い罪があるのかと、叫ぶのです。


★ヨハネ4章23節

2016年11月20日 09時55分59秒 | 聖書


しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

■O:今日のコラム
誰でも一度は読んだことがある御言葉ですね。
イエス様は天の父がどのような人々を求めているのか、サマリヤの女に言われました。サマリヤの女は『私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。』と言いました。礼拝する場所がどこであるかが大事であるということを言っています。
イエス様が再び来られる時の時代のことで、イエス様は注意を促しています。マタイの24章26節に「だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、部屋にいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。」と言われました。
人々のこころは「どこでなにをするか」ということに心が傾きすぎてしまうからではないでしょうか。もちろん、その場所に行きとりなしたり、礼拝を捧げたりすることは大事でしょう。しかし、その前に天の父が求めているのは霊とまことによって礼拝する礼拝者であることを今一度覚えましょう。天の父が求めているのは、あの人、この場所、とかではなく私自身の心なのです。
ルカ17章21節『そら、そこにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

真の礼拝者とはどんな人でしょう。「霊」と「まこと」によって礼拝する者と言っています。霊で礼拝しなければならない理由が24節にあります。「神は霊ですから...」では、まことによって、とはどのようなことでしょうか。まことはどこからくるのでしょうか。まことはたましいの部分からきます。
わたしたちのたましいの部分が汚ければ、神に向いていなければ、まことをもって礼拝することができません。英語の聖書ではまことは「真実」と訳されています。どんな状況であろうと、主の御前に心を注ぎ出すことが大切であるのです。神を礼拝する者は神の真実さを体験して礼拝することでもあります。天の父だけが真実な方であり、その真実さを体験し、天の父をあがめていきましょう。

■A:考えてみよう
今日主を礼拝しているだろうか。言葉や口先でなく、行いと真実をもって神をあがめているだろうか。神の心にかなういけにえを捧げているだろうか。

■P:祈り
神様あなたのこころにかなう礼拝者となりたいです。どんな時でも、神様真実さをもって主の御前にでたいです。天のお父さんが求めておられる礼拝者になりたいです。それが私の願いです。聖霊様助けてください。神の喜ばれるいけにえを携えることができますように。イエス様ありがとうございます。
イエシュアの尊き御名で祈ります。アーメン。


11月19日(土)のつぶやき

2016年11月20日 01時39分50秒 | キリスト教