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◆生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。

2013年09月30日 16時27分26秒 | 聖書

(伝道者九・四)

いのちは尊い。それがどんなに卑しい形のものでも死よりはまさる。これは、霊的なことにおいてたしかに真理である。天国で最も小さい者となることは、天国の外で最大な者となるよりもまさる。恵みの最低の段階は、生まれ変わらない性質の最高の発展段階よりすぐれている。聖霊が神のいのちをたましいの中に植えつけられたところには、洗練された教育も匹敵できない尊いものがある。十字架上の犯罪人は、王座にいるカエサルにまさり、犬に囲まれるラザロは、元老院議員の中にいるキケロにまさり、さらに最も無学なクリスチャンは、神の目から見ればプラトンよりもまさっている。いのちは霊の領域において高貴さのしるしである。それをもっていない人々は、質の良い悪いにかかわらず、いずれもいのちのないものの実例であり、いのちを与えられる必要がある。彼らは咎と罪の中に死んでいるのだから。
生き生きとして愛に満ちている福音の説教は、無学で形式が整わなくても、聖霊の油と力のない最高に洗練された大講演にはるかにまさる。生きている犬は見張りをし、主人にとっては死んだ獅子よりも役に立つ。そのように最も貧弱な霊的説教者も、大雄弁家の、ことばがあっても知恵がなく、響きがあっても活力のないのに比べれば、どんなにすぐれているかわからない。私たちの祈りや礼拝についても同様である。もし私たちが、それらの中で聖霊によって力づけられているならば、神は、それをイエス・キリストによって受け入れてくださる。しかし、私たちの心のこもらない壮大な儀式は、死んだ獅子のようであり、生ける神の目から見れば、腐敗したしかばねにすぎない。
おお、いのちのない歌や、死んだ安静よりも、むしろ生きたうめき、生きた嘆息、生きた失望を得たい。どのようなものでも死よりはまさる。地獄の犬のうなり声は、少なくとも私たちの目を覚まさせる効果はもつ。しかし、人のもつことのできるのろいの中で、死んだ信仰と死んだ告白より大いなるものがあろうか。
おお、主よ。私たちを生かしてください。

 


士師記1章22-26節

2013年09月30日 07時20分47秒 | 聖書

1:24 見張りの者は、ひとりの人がその町から出て来るのを見て、その者に言った。「この町の出入口を教えてくれないか。私たちは、あなたにまことを尽くすから。」
1:25 彼が町の出入口を教えたので、彼らは剣の刃でこの町を打った。しかし、その者とその氏族の者全部は自由にしてやった。


ヨセフの一族であるエフライムとマナセの半部族も、導かれて戦いに出ました。

彼らは山地の中央にあるベテルの町に攻め上りました。

偵察をしていた人が、町から出る一人の人を見つけました。

その人に町の出入り口を教えてくれと頼みました。

いくつかの出入り口があって、その攻略しやすいところを教えてもらったようです。

 その時その人に対して、あなた方は自分たちが守ることを保証すると告げました。

そのことによって、安心してその出入り口を教えてもらうようにしたのです。

かつて民がエリコの町を攻略した時に、ラハブという遊女の人が偵察をしに来た人々に協力して働きを助けてくれたことに似ています。

主は思わぬところで、様々な人を、助手として備えてくださっていたのです。



◆食 欲 の 問 題

2013年09月30日 07時18分35秒 | 聖書

わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。
蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。
知恵もあなたのたましいにとっては、
そうだと知れ。
それを見つけると、良い終わりがあり、
あなたの望みは断たれることがない。(箴言二四13―14)

聖書の中に、蜂蜜が何回も出てきます。甘いものの少なかった時代に、蜂蜜がどんなに貴重であったかが想像できます。信州育ちの友人から、子どものころ、蜂をつかまえて細いひもを結んで放し、蜂の行方を追って、それこそ野越え山越えして、蜂の巣を捜し当てたという経験を聞いたことがあります。イスラエルの昔の人たちも、一生懸命蜂の巣を捜し、したたる蜜を求めたことでしょう。
蜜を恋い慕うと同じように、神の知識を恋い慕いなさいと、聖書は言っているのです。ペテロも、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」(Ⅰペテロ二2)とすすめ、ダビデも、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩篇一一九103)と告白しました。
しかし、あなたにとってどうでしょうか。「良薬口に苦し」ということばがありますが、聖書のことばとか、神とか永遠とかの話には食欲を感じない。苦いとは感じても、とても蜜とは思えない。――これが、私たち多くの人間の問題となっています。きよいこと・永遠のこと・神・神の知識に対して飢え渇きや食欲がないのは、なぜでしょうか。おいしいごちそうを前にしても、ほかのものでおなかがいっぱいで入らなかった経験はありませんか。卑しいもので、腹を満たしている時、貴いものへの食欲がわいてきません。そこで、ペテロは、「すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」(Ⅰペテロ二1)みことばを慕い求めなさいと言ったのです。

 


◆全地よ。神に向かって喜び叫べ。

2013年09月30日 07時17分45秒 | 聖書

御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。(詩篇六六・一、二)

神を賛美するかしないかは、私たちの勝手ではない。神は賛美を受けるべき方であられ、すべてのクリスチャンは、神の恵みを受けた者として、日々神を賛美すべきである。私たちは、日ごとに神を賛美するようにとの高圧的な命令は受けず、ある一定の時に歌い、感謝をささげるようにとも言われていない。しかし、私たちの心に記された律法は、神を賛美するのが正しいことだと教える。この不文律は、石の板に記されたような、あるいは雷鳴とどろくシナイ山頂から直接私たちに渡されたような力をもって迫ってくる。
そうだ。神を賛美することはクリスチャンの義務である。これは単なる楽しい行事であるだけではなく、クリスチャンの生涯の絶対的義務である。絶えず嘆き悲しむ者よ。この点に関して自分に罪がないと思ってはいけない。また賛美の歌なしにあなたの神に対する義務を果たすことができると考えるな。あなたは生きる限り、主の御名をほめたたえるために、愛のひもをもってつながれている。そして、主に対する賛美が常にあなたの口になければならない。神を祝福するために、あなたは祝福を受けているのである。「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
もしあなたが神を賛美しないならば、あなたは、農夫である神があなたに期待される実を、まだ結んでいないのである。だからあなたのたてごとを柳にかけたままにせず、それを下ろし、感謝の心をこめて高らかにかき鳴らせ。立って、神への賛美を歌え。夜明けのたびに感謝の叫びを上げ、夕日の沈むごとにあなたの賛美の歌を歌え。あなたの賛美をもって地をおおい、美しい調べによって地を包め。そうすれば神は天から聞いてくださって、あなたの音楽を受け入れてくださるだろう。
 私はあなたを愛し、心より愛し続け
 あなたに、賛美の歌をささげる
 あなたは私の愛する神であられ
 私の贖い主であられるからだ

 


伝道者の書2章20節、ピリピ人への手紙2章14節、16節b

2013年09月30日 07時14分55秒 | 聖書

★  伝2:20  私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。
 
★  ピリ2:14  すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

★  ピリ2:16b  ~そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

■O:今日のコラム

ソロモンは栄華を誇りながらも自分のしてきたこと、人生を回想するにあたって絶望しました。その先につながる希望がなかったからです。自分のしたいこと、計画や夢を追い求めて、結果成し遂げるにしろ挫折するにしろ、その労苦への報いは「むなしい」ということを知ることだけだということをソロモンから学びます。

私達は、イエス様の血潮によって王である祭司とされ、霊的にはソロモンと同じ立場に置かれています。

イエス様によって永遠の希望の道が開かれましたから、もはやソロモンのようなむなしさに生きる王として歩むことは私たちにはありえません。パウロが言うように、イエス様の御心を行っていく時必ず永遠の報いがあるのです。

■A:考えてみよう

日々繰り返す仕事、学校、家庭生活、奉仕、祈り、礼拝に、倦怠感やむなしさを覚えていないだろうか。

一つ一つの歩みがいつも新鮮さと希望をもって熱心に取り組み、キリストの日、再臨につながっていく神様のご計画であることを確信する。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


◆私の愛している人を私は見つけました。

2013年09月29日 20時35分59秒 | 聖書

この方をしっかりつかまえて、放さず……。(雅歌三・四)

キリストは、私たちがみもとに行く時、過去の罪がどうであろうと、受け入れてくださるだろうか。私たちは、他のあらゆる避け所を試してみたが、そのために主が私たちをお叱りになることはないであろうか。この地上に、主のようなお方がほかにあるだろうか。すべての善の中で主は最善であられ、すべての美の中で最上の美ではないだろうか。
おお、それなら主をほめたたえよう。エルサレムの娘たちよ。タンバリンとたてごとをもって主をたたえよ。あなたの偶像を打ち倒して、主イエスをあがめよ。誇りと傲慢の旗を足下に踏みにじり、この世がまゆをひそめ、あざける十字架を高く掲げよ。主をとこしえにあがめ、私の霊を主の足台の下に座らせ、主の御足に口づけし、私の涙をもって御足を洗おう。
ああ、キリストの尊さよ! なぜ私は、主のことをわずかしか考えていなかったのか。主がこれほどに私を満たし、富ませ、満足を与えられたのに、なぜ主以外のものに喜びや慰めを求めたりするのか。主にある友よ。決して主を離れないという誓いを自分の心と結び、主の批准を求めよ。主に願い求めよ。あなた自身を主の指のしるしとし、主の腕の腕輪としてくださるようにと。花嫁がその身を美しく飾り、花婿が宝石をつけるように、主があなたをご自身につけられるように求めよ。私はキリストの心の中に生きたい。
すずめがすみかを見つけ、つばめがひなを入れる巣を得るように、万軍の主、私の王、私の神様、あなたの祭壇のかたわらに住まいを得させてください。私もまたあなたの中に、私の巣、私の家を造り、あなたの鳩のたましいである私が、決してあなたから飛び出すことなく、おお、イエス様、私の唯一の安息所であるあなたに、よりそっていたいのです。
 尊い主にお会いした時
 私の愛のすべてが燃え上がり
 愛のきずなで主を縛った
 私は主を引き止めて行かせない

 


◆見 た も う 神

2013年09月29日 10時23分01秒 | 聖書

もしあなたが、
「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、
人の心を評価する方は、
それを見抜いておられないだろうか。
あなたのたましいを見守る方は、
それを知らないだろうか。
この方は
おのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(箴言二四12)

神が見ていらっしゃる。――これは、何という単純で明快な真理でしょう。ある男が子どもを見張りに立てて、スイカ畑に盗みに入りました。「だれかが来たら、すぐ知らせるんだぞ。」しばらくすると、「お父さん、見ているよ」と子どもが呼びました。「だれが見てる。」「神さまが見てるよ。」すると父親が、「ばか。神さまに見えるもんか」と言ったという話があります。「天網恢々疎にしてもらさず」「天知る地知る我知る」とも言われます。この単純な真理ほど、実際の生活で無視されている真理はないでしょう。
私の尊敬するマックスエル博士が話してくださったことです。「子どものころ母に教えられた『ご覧になる神』(創世一六13欄外注)という聖書のことばは、初めは恐ろしかった。しかし年月がたち、この真理の深みが分かるにつれ、この真理が平安で喜びにあふれた私の人生をつくりあげたのだと思う」というのでした。
神に背いて、自分勝手で、いんちきで、言いわけばかり言う二枚舌の偽り者にとって、神は恐ろしいお方でしょう。しかし、落ちこぼれた者・悩んでいる者・弱く失望している者であっても、正直に自分の弱さやみにくさを認めて神に目をあげる者にとって、神は何と優しく、慰め・ゆるし・励ましに富んだお方でいらっしゃいましょうか。
神は、何でも見抜き、何でも正しく評価なさいます。しかし神に身を寄せるあなたにとって、神は、見守ってくださるお方、その愛と恵みを傾けて報いてくださるお方なのです。神を敵として勝ち目はありません。神をあなたの心の父としてごらんなさい。

 


◆もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、

2013年09月29日 10時21分49秒 | 聖書

祭司はその患者をきよいと宣言する。(レビ一三・一三)

この規則は一見奇妙だが、その中には深い知恵が隠されている。なぜなら病毒を外に出すことは、からだが健全な証拠だからである。今朝、この奇妙な規則の象徴的な教えを学ぶことは、私たちに有益であろう。
私たちもまた病者である。そしてこの病に関する律法は、私たちにも適用できる。人が自分を全く失われた破滅した者と見、全身がことごとく罪におおわれ、義であるものが一つもないことを知って、主なる神の前に罪があると告白するならば、イエスの血と神の恵みによってきよめられるのである。心中に隠れていて感じることのない告白されない罪が、真の病である。しかし罪があばかれ、罪が感じられた時には、すでに罪は致命的打撃を受けており、主はあわれみの目をもって罪に苦しむたましいをご覧になるのである。
自己を義とすることほど致命的なものはなく、悔恨よりも望みのあるものはない。私たちは罪以外の何ものでもないことを告白しなければならない。これ以下の告白は真実のものと言うことができないからである。もし聖霊が私たちに働かれて、罪を自覚させられれば、前述のことを認めるのに何の困難もない。
引用の聖句は、深い罪の意識のもとにある人に、なんという慰めを与えることだろう。どれほど黒く汚れていても、嘆き悲しんで告白された罪は、決して人をイエスから閉め出すことはない。主イエスのもとに来る者を、だれであろうと神は決して拒まれることはない。犯罪人のように不正直であり、罪を犯した女のように不貞であり、タルソのサウロのように凶悪であり、マナセのように残忍で、放蕩息子のように反抗的であっても、自分によいものが全くないことを感じる人々には、神の愛が注がれる。そして彼が十字架につけられたイエスを信じた時、きよい者という宣告が与えられる。それゆえに、主のみもとに来れ。
「来れ。乏しき者。来れ。罪ある者。そして忌まわしき裸なる者よ。おまえは決して汚れすぎてはいない。あるがままの姿で来れ。」

 


士師記1章16-21節

2013年09月29日 10時20分17秒 | 聖書

1:18 ついで、ユダはガザとその地域、アシュケロンとその地域、エクロンとその地域を攻め取った。
1:19 主がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、谷の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払わなかった。


ユダ族は山地を占領しました。

同時に、地中海の海岸沿いに存在するガザやアシュケロンを攻めました。

低地はペリシテ人が住んでいて、その後も戦いが何度も続いた土地ではありました。

しかし、主の助けによって少しづつ、取るべき地を取ることができるようにされていったのです。

 ところで、イスラエルの民は、本来は戦いの民ではありません。

エジプトでは奴隷として暮らし、また荒れ野の40年間の間も、軍事的な訓練を受けたわけではありません。

ただ主に頼って戦ってきた民でした。

ところが反対に低地の民は、土地が石地ではありませんので、馬を使っていたり、馬につながれた戦車をも持っていました。

 そこで、ユダ族は彼らとの戦いを後の時代の人々に任せ、自分たちでは無理はしなかったと告げているのです。


ピリピ人への手紙1章9節-11節 (伝道者の書1章)

2013年09月29日 10時18分16秒 | 聖書

★  私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。

■O:今日のコラム

これは、使徒パウロが、彼が愛した、ピリピにある教会のために祈った祈りです。

「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり」「 真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように」

愛するという言葉は一つですが、何が愛か、というところで、一人一人の理解は様々で、その違いが、愛の表現にも表れて来ます。神様への愛も、互いに対する愛もそうだと思います。

ですから、この祈りが重要だと思うのです。「私たちの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり」「 真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように」

新宿シャローム教会では、教会をあげて、24時間365日、祈りの手を下ろさない、賛美と礼拝、祈りを捧げ続ける。祭壇の火を絶やさない、ということをチャレンジして来ています。断食や徹夜の祈りをすることもあります。それは、宗教的に、どれだけ長い時間祈れるか、とか、どれだけ我慢出来るか、とかそういうことではありません。

私たちが真心から主を礼拝し、愛し、時間やエネルギーや優先順位、いろんなものをやりくりして、神様御自身を求め、主御自身を待ち望むとき、主がその信仰に応えて、豊かな御臨在や悟りを与えてくださいます。その主との親しい、近しい交わり、主からの語りかけが嬉しくて、また祈る。また求める。また主を賛美します。

でも、ここには、さらに恵みと祝福があります。その御臨在、その啓示の下に、時間を過ごすとき、少しずつ、霊の目が開かれ、霊的に敏感になり、神様の導き、促し、何が神様に喜ばれることなのかが、わかっていきます。

私は大学生の時アメリカで救われましたが、その時、多くのクリスチャンが祈ったり、愛を表したりしてくれました。寮の私の部屋を訪問して話しを聞いてくれた人もいれば、車で教会まで送迎してくれた人、食事に招いてくれた人、優しくしてくれた人、それぞれから愛を感じ、それぞれに感謝しています。全員が必要だったと思います。

でも、この人がいなかったら本当に困った、と思う人は、聖霊の力強い油注ぎによって、私に福音を伝え、信仰を与え、私を悔い改めるべき祈りに導き、神様と出会えるところに導いてくれた人です。多くの人の愛と親切によって私の心は開かれていましたが、霊的な権威をもって、私をキリストに導いてくれる人がいなければ、私は今ごろどうなっていたかわかりません。

ですから、パウロと一緒に祈りましょう。
「 私たちの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり」「 真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように」

■A:考えてみよう

私は心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、主なる神様を愛しているだろうか。自分と同じように、また主が私を愛してくださったように、隣人を愛しているだろうか。

■P: 祈り

私たちが、口先ではなく、言葉通りに、主よ、あなたを愛し、あなたが愛してくださったように互いに愛し合い、自分にしてほしいように、隣人を愛することができますように。真の知識と、識別力が与えられ、真に優れたものを見分けることができるようになりますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


◆七たびくり返しなさい

2013年09月28日 15時52分28秒 | 聖書

(Ⅰ列王一八・四三)

主が約束された時には、成功は確実である。あなたが幾月か祈っても、答えのきざしのないことがあるかもしれない。しかし、主の民が主のご栄光に関することを熱心に祈っているのに、主が耳を貸さないということはあり得ないことである。
カルメル山上の預言者は神と格闘し続けた。そして一瞬たりとも、主の法廷で自分の訴えが却下されはしないかと恐れたことはなかった。しもべは、六度まで帰って来た。そのたびに「もう一度行きなさい」とのことばだけがあった。私たちは、七度を七十倍するまで信仰を固守すべきである。信仰はカルメル山から眺めさせるために、待ち望みの希望を送り出し、もし何も見えなければ、何度でも見に行かせる。
信仰は度重なる失望に挫折せず、むしろいっそう熱心に神に嘆願をする。信仰は謙遜を与える。しかし決して恥じ入っているのではない。信仰のうめきは深くなり、その嘆息はさらに激しさを増す。しかし決してその手をゆるめない。祈りの答えがすぐに得られることは、血肉にとっては快い。しかし信仰深いたましいは従順を学んでいる。そして主にお仕えすることと同様に、主を待ち望むことがよいことであるのを見いだしている。答えが遅れることは、しばしば自分の心を反省させて悔い改めに導き、霊的改革をもたらす。
こうして、私たちの腐敗に致命的な打撃が加えられ、よこしまな思いの部屋がきよめられる。最大の危険は、人が気力を失って祝福を受け損なうことである。友よ。そのような罪に陥ることなく、祈りと見張りとを続けよ。ついに小さな雲が見えた。大雨の前触れである。あなたの場合も同様である。よい事のしるしはたしかに与えられる。そして、求めてきた恵みを受けるために、あなたは王侯のように立ち上がるだろう。
エリヤは私たちと同じような人であった。神を動かした力は、彼の功績のうちにはなかった。彼の信仰の祈りがそのように力があったとすれば、あなたの祈りがそうでないことがあろうか。絶えず執拗に尊い血潮によって嘆願せよ。必ずやあなたの願いのようになる。

 


◆助  け  出  せ

2013年09月28日 07時30分12秒 | 聖書

捕えられて殺されようとする者を救い出し、
虐殺されようとする貧困者を助け出せ。(箴言二四11)

ベイリー・モアさんというカナダの伝道者から聞いた話です。あらしの晩に、イギリスのある海岸で近くの暗礁に乗りあげて、船が沈没しました。村人は総出で小舟を出し、海に浮かぶ一人一人を助けました。女たちや年寄りや子どもは、砂浜にたき火をどんどんたいて待っていました。さて、最後の舟がもどってきました。聞いてみると切り立った岩の上に一人の男が声のかぎり助けを求めていたのですが、波がすさまじく、どうしても舟を近づけることができません。そこで、ひとまず浜に帰ってきたのです。
若者たちは額を集めて、見捨てるか、助けに行くかを相談しました。いのちがけで助けに行こうと話が決まって、舟を出そうとしました。すると一人の婦人が髪をふりみだしてかけ寄り、一人の青年に抱きつきました。「行かないでおくれ、息子や。お父さんも海で死んで、お前の兄さんも海で行方不明じゃないか。行かないで――。」しかしその青年は、優しく言いました。「お母さん、大丈夫だよ。あの人を見殺しにゃできない。」出かけていった舟は、長いことしてから浜を指して帰ってきました。「助かったかぁ。」「ああ、助かったぞー。」浜に着いて母親が駆け寄ってみると、何と助けられた男は、行方不明になっていた兄息子だったというのです。
この実話を聞いて、心が締めつけられる思いがしました。イエス・キリストは、体を張って十字架の上で血を流し、私たちを滅びから助け出してくださいました。ヨハネは、このように言っています。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(Ⅰヨハネ三16)。人を見殺しにする心が私の中にもあることを感じて、恐れおののきます。

 


◆主は天から目を注ぎ、

2013年09月28日 07時29分19秒 | 聖書

人の子らを残らずご覧になる。(詩篇三三・一三)

恵み深い神を表すことばのうち、神が天の御座を降りて人類の欠けを助け、わざわいを免れさせるために親しくおいでになるという表現ほど、それにふさわしいものはないだろう。ソドムとゴモラが悪に満ちている時にも、親しくその地を訪れて検分するまでは、それを滅ぼされなかった神を私たちは愛する。臨終の床にある罪人が神との和解を求める時、栄光の御座より耳を傾け、その耳を罪人のくちびるにつけて聞いてくださる神に、私たちは心からの愛情を感じる。
神が私たちの髪の毛をも数えきり、行く手を指し示して導いてくださることを知る時、どうして私たちは神を愛さないでおられるだろうか。神がその被造物の物質的要求だけでなく、霊的要求に対してどれほどの配慮をなさるかを思う時、この偉大な真理はさらに近く私たちに迫る。
有限な被造物と無限な造り主との間には、大きな隔たりがあるが、なおこの二つを結ぶ鎖の輪が存在する。あなたが涙を流すとき、神がそれを見ておられないと思うのか。否、「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」。あなたの嘆息は、主の御心を動かし、あなたのささやく声は主の耳を傾けさせ、あなたの祈りは主の御手をとどめ、あなたの信仰は主の御腕を動かすことができる。
神が高い御座におられて、あなたのことなどかまっておられないなどと思ってはならない。あなたがどれほど貧しくても、主はあなたを御心にかけてくださることを覚えよ。なぜなら、主の目は、全地をあまねく見そなわして、ご自身に向かって心を注ぐ者に御力を現してくださるからである。
 おお、疲れることを知らない真理を反復せよ
 私のたましいの慕う神のような神は
  ほかにおられない
 主の御声に、天も震えおののく
 主は大いなる方
 しかし私のために身をかがめることを
  ご存じの方だ