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今日の聖人の記念日

2016年06月30日 07時03分56秒 | キリスト教

 ローマ教会最初の殉教者たち

64年

 64年7月、皇帝ネロの時代に、ローマの町が大火にみまわれた。ネロは、その原因をキリスト者による放火であるとして、彼らをバチカンの丘で処刑した。使徒ペトロとパウロを祝った次の日、教会は、 皇帝ネロによって虐殺されたローマのキリスト者たちを記念する。歴史家キトゥス(120年没)の年代記によると、キリスト者と呼ばれていた人々はおびただしい数で、彼らはネロの気晴らしのために殺されたという。野獣の毛皮を着せられて犬に引き裂かれたり、夜になると、十字架につけられた者が生きたまま暗闇を照らす松明とされた者もあった。一人の残忍さによって命を絶たれた多くのキリスト者には、多くのローマ市民も同情した。

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◆思慮は宝である

2016年06月30日 07時02分59秒 | 聖書

思慮のあるしもべは、恥知らずの子を治め、
その兄弟たちの間にあって、
資産の分け前を受け継ぐ。      (箴言一七2)
 
ほんとうの意味で人生で成功する人は、思慮深い人だと思います。思慮深い人は人を生かせる人なので、多くの人が集まってきて、人のリーダーになります。また、生きた物や金の使い方ができるので、物や金が集まってきます。そんな意味でも成功者になります。
思慮深い人とは、アイデアマンとか、単に頭がいい人ではありません。第一に、現在の目の前のことばかりでなく、人の見えない将来が見える人です。第二に、自分の都合・損得・気持ちがいい悪いに損なわれることなく、人の気持ち・立場・全体がよく見える人です。第三に、何が正しいか、何が価値のあることか、何がなすべきことかがはっきり分かる人です。
まとめて言えば、ほんとうの思慮深さとは、自分や人間のレベルの目ではなく神の目を持つことです。神がどう見ておられるかが分かり、神の目をもって自分を見、人を見ます。ですから、自分の弱さや罪深さを十分知りながら、人々をありのままに受け入れ、愛し尊ぶことができます。そこで、いつしか人々を生かすリーダーとなります。また、神の目をもって金や物をも見ます。それは神が与え、神から預けられたものであり、自分は正しい管理者だと心得るので、奪い、自分だけもうけることよりも、与え、よく用いることに心がけます。そこで、金と物を任せられ、成功者となるのです。このように思慮深い人は、人と神との信頼を受けて治める者となります。
ヨセフはしもべでしたが、主人の家を治め、ついにはエジプトの宰相となりました。ソロモンの思慮深いしもべヤロブアムは、ソロモンの恥知らずの子レハブアムと資産を分け、思慮深い少年サムエルは、祭司エリの恥多き子よりも抜きん出て、真の民の指導者となったのです。聖書は、思慮深い人を造りあげます。
 
 
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◆わたしは、

2016年06月30日 07時02分11秒 | 聖書
あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。(ヨハネ一七・二二)
 
見よ。主イエスの限りない心の広さを。主は私たちにその所有のすべてを与えられた。主がその所有のごくわずかを与えられるだけでも、天使の世界のすべてを限りなく富ませたことであろう。しかし主は、そのもっておられるすべてを私たちに与え尽くすまでは満足されなかった。もし私たちに、ご自身のあわれみの食卓からパンくずを食することを許されたとするならば、それすらも驚くべき恵みであろう。しかし主は中途半端なことはなさらない。私たちをご自身と共に食卓に着かせ、私たちと共にごちそうを食される。主がその宝庫よりごくわずかを与えられるとしても、それに応えて永遠までも主を愛すべきである。しかし実際は、それどころではなく、主はその花嫁をご自身のように富ませ、栄光と恵みを共に分かとうとされる。私たちを共同相続人とし、私たちがご自身と同じものを所有するようになるまでは満足をされない。
主はその財産のすべてを教会の倉に移し、すべてのものを贖われた民と共有される。主の家には、主がかぎを保管して、その民に任せられない部屋は一つとしてない。ご自分の所有物を民に自由に取らせ、彼らを愛し、その宝を自由に用いさせ、彼らがもち得る限りを自分たちのものとしてもたせられる。キリストは、その愛と恵みに満ちたびんを信者のくちびるに当て、永遠に飲み続けるようにと命ぜられるのである。それを飲みほすことができれば、それでよい。主はそれを望まれる。しかし飲みほすことができないので、主は十分に飲むようにと命ぜられる。それはすべて主にある者の所有だからである。天にも地にも、これにまさる真実な親しい交わりの証拠があるだろうか。
 自分のものではない美をまとい
 御座の前に立つとき
 あなたのありのままの姿を見
 汚れのない心であなたを愛するとき
 主よ。そのとき初めてほんとうに
 いかに多く与えられているかを知ります
 
 
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ネヘミヤ書8章13-18節

2016年06月30日 07時00分47秒 | 聖書


8:13 二日目に、すべての民の一族のかしらたちと、祭司たち、レビ人たちは、律法のことばをよく調べるために、学者エズラのところに集まって来た。
8:14 こうして彼らは、主がモーセを通して命じた律法に、イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない、と書かれているのを見つけ出した。



 モーセを通して与えられた律法の書は、巻物として5巻ありますので、1日だけでは、全部は読み切れなかったことでしょう。

そこで、指導者たちはエズラの所に集まって、律法の書に記されていることで、自分たちが忘れている大事なことがないかと調べました。

その結果、第7の月の祭りの間は、「仮庵の祭り」を行わなければならないことを知りました。

これは、主がエジプトで奴隷とされていた民を解放して、救ってくださったことを覚える祭りでした。

 粗末な仮庵を作ってそこで過ごすことによって、主がその苦しみから解放してくださったことを偲ぶためでした。

それは、また、バビロンからの解放と同じでした。

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申命記21章22~23節

2016年06月30日 06時58分11秒 | 聖書


★ もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。

ローマ人への手紙5章21節
★ それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

■O:今日のコラム
しゃろーむ!6月28日の朝です。今日一日も、主の恵みに支配され、永遠のいのちの中を歩んでいきましょう。イエス様が僕らの全てののろいを引き受けて下さったからです。僕らは、のろいの中を生きていく必要はありません。

ローマ人への手紙の5章は、僕らに、イエス様の十字架の血潮による恵みの深さを教えてくれます。リビングバイブルで1節から11節までまず読んで見ましょう。

「そういうわけで、私たちは、神様の約束を信じる信仰によって、神の目から見て正しい者とされているのですから、今や神様との間に真の平和を得ています。 それは、私たちの主イエス・キリストのおかげです。  信仰のゆえに、キリスト様は私たちを、いま立っている、この最高の特権ある立場に導いてくださいました。 そして私たちは、神様の私たちに対する計画がすべて実現するのを、確信と喜びにあふれて待ち望んでいるのです。  私たちはさらに、さまざまの問題や困難に直面した時も喜ぶことができます。 それは忍耐を学ぶのに役立つからです。  忍耐によって、私たちの人格は筋金入りにされ、ひいては神様への信頼を深められるのです。 こうしてついに、私たちの希望と信仰は、強く、何ものにも動じなくなるのです。  そうなった時、どんなことが起ころうと失望落胆せず、また、万事が益であるとわかります。 それは、神様がどんなに深く愛していてくださるか、わかるからです。 私たちは、そのあたたかい愛を全身で感じています。 それは、神様が聖霊様を与えてくださり、その聖霊様が私たちの心に、神様の愛を満たしてくださっているからです。  私たちが逃れる道もなく、全く窮地に陥っていた、まさにその時、キリスト様はおいでになり、何の役にも立たない、私たち罪人のために死んでくださいました。 
たとい私たちが良い人間であったとしても、だれかが自分のために死んでくれるなどとは、考えてもみなかったでしょう。 もちろん、そういう可能性が全然ないわけではありませんが。  しかし、私たちがまだ罪人であった時に、神様はキリスト様を遣わしてくださいました。 そのキリスト様が私たちのために死んだことにより、神様は私たちに、大きな愛を示してくださったのです。  キリスト様は、罪人のために、血さえ流してくださったのですから、神様が私たちを無罪と宣言した今は、もっとすばらしいことをしてくださるに違いありません。 今やキリスト様は、やがて来る神様の怒りから、完全に救い出してくださるのです。  私たちが神様の敵であった時に、神のひとり息子の死によって、神様のもとに連れ戻されたくらいですから、私たちが神様の友となり、神様が私たちのうちに生きておられる今、どんなにすばらしい祝福が備えられていることでしょう。  今や私たちは、神様との驚くべき新しい関係を心から喜んでいます。 それはただ、主イエス・キリストが私たちの罪のために死んで成し遂げてくださったこと、すなわち、私たちを神様の友としてくださったことのおかげなのです。」(ローマ人への手紙 5:1?-?11 JLB  http://bible.com/83/rom.5.1-11.JLB

主は、僕らに、さらなる希望を与えてくださいます。12節からの後半を見てみましょう。

「アダムが罪を犯した時、罪は全世界に入り込みました。 アダムの罪により、死が全人類に広まり、すべての人は年老いて死ぬよう定められました。 それと言うのも、すべての人が罪を犯したからです。  これらの原因がアダムの罪にあることを、私たちは知っています。 というのは、もちろんアダムからモーセまでの時代にも、人々は罪を犯していましたが、神様はそのころには、ご自分のおきてを破ったかどで、彼らに死刑を宣告したりは、なさらなかったからです。――神様はまだ、彼らにご自分のおきてを与えず、また、彼らにどんな行為を望んでいるかも、告げておられなかったのです。  そういうわけで、彼らの肉体の死は、彼らの罪のせいではありませんでした。 アダムのように、禁断の木の実を食べるな、という神様の特別のおきてを破ったわけではないからです。 アダムと、やがて来ることになっていたキリスト様とは、なんと対照的でしょう。  人間の罪と神様の赦しとの間には、なんと大きな違いがあることでしょう。 一人の人アダムは、自分の罪によって多くの人に死をもたらしました。 しかし、一人の人イエス・キリストは、神様のあわれみによって、多くの人に赦しをもたらしたのです。  アダムの一つの罪が、多くの人に死の罰をもたらしました。 一方、キリスト様は、無代価で多くの罪を取り除き、その代わりにすばらしいいのちを下さるのです。  この一人の人アダムの罪により、死はすべての人を支配する王となりました。 
しかし、神様から、罪の赦しと無罪放免という無代価の贈り物をいただく人はみな、この一人の人イエス・キリストによって、いのちの王となります。  そうです。 アダムの罪は、すべての人に刑罰をもたらしましたが、キリスト様の正しさは、人々を神様の前に正しい者とするのです。 それで、人々は生きることができるのです。  神様に従わなかったアダムは、多くの人を罪人にしましたが、神様にお従いしたキリスト様は、多くの人を神様に受け入れられる者としてくださいました。  「十戒」が与えられて、すべての人は、自分がいかに神様のおきてに従いえない存在か、よくわかるようになりました。 しかし、私たちは、自分の罪深さを知れば知るほど、赦してくださる神様の満ちあふれる恵みが、いっそうわかるようになるのです。  以前は、罪がすべての人を支配し、死に導きました。 しかし今では、反対に神様の恵みが私たちを支配するようになり、主イエス・キリストによって、私たちに神様の前での正しい身分を与え、永遠のいのちへと導いてくれるのです。」(ローマ人への手紙 5:12?-?21 JLB http://bible.com/83/rom.5.12-21.JLB



自分の罪深さは、神様からのろわれるべきものでした。罪の報酬は死です。しかし、イエス様の十字架の血潮によって、僕らに義の賜物である神様の子供としての権威を与え、神様の前で正しい身分が与えられました。イエス様が十字架の上で完全にのろわれた者となってくださったことで、僕らは、永遠のいのちへと導かれたのです。

「あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」

だから、イエス様の十字架の血潮によって自分を洗っていきましょう。きよめられていきましょう。主の恵みに応え、今日一日を歩んでいきましょう。


■A:考えてみよう
僕らは、永遠のいのちを得ました。永遠のいのちを得て、僕らは、何ができるでしょうか?


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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6月29日(水)のつぶやき

2016年06月30日 01時35分53秒 | キリスト教
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◆バビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、

2016年06月29日 17時03分31秒 | 聖書
この地に示されたしるしについて説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。(Ⅱ歴代三二・三一)
 
ヒゼキヤは心ひそかに増長し、神の恵みをもって高慢になったので、自らを義とする心が起こり、肉の安全に頼るようになった。その結果、活発に働いていた神の恵みが一時取り去られた。これは、彼のバビロニヤ人に対する愚行を説明するものである。神の恵みが最高のクリスチャンから離れるようなことがあるなら、その心にある罪は、彼を極悪な犯罪者にさえ変えてしまうからだ。あなたがもし捨てられるならば、あなたのキリストに対する熱心はたちまち冷却し、ラオデキヤ教会の「なまぬるさ」となるであろう。今主の御前に、立派な徳と節操をもって歩んでいるあなたが、よこしまな思いによろめくようになるであろう。
月のように、私たちの光は借りものである。恵みが私たちを照らす時、私たちは輝く。しかし義の太陽が沈むなら、私たちは暗黒になる。だから、神が私たちを決して見捨てられることのないように、神に向かって叫ぼう。
「主よ。あなたの御霊を私たちから取り去らないでください。あなたは『わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている』と言われました。それで、主よ。どこにいても絶えず私たちを守ってください。若くて熱情が強くなりすぎる時、私たちを守ってください。年老いて自分の知恵に思いあがり、それゆえ若者よりも愚かで尊大であることを露呈してしまうような時、私たちを守ってください。私たちが死に臨む時、私たちを守ってください。最後の瞬間になって、あなたを拒むことのありませんように。私たちが生きている間、死のうとする時、働いている時、苦しんでいる時、戦っている時、休息している時、私たちを守ってください。どこにいる時にもお守りください。神様。私たちはどこにおいてもあなたを必要としていますから。」
 
 
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「信仰の創始者であり、

2016年06月29日 17時02分46秒 | 聖書

完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)

主の「来なさい」との御言葉を受けて、ペテロは湖の上を歩き出した。
水の上を歩くという奇跡がなされた。ところが風がヒューと吹いて、風と波を見た途端、恐くなり、主から目を離すと沈み始めた。

何が違ったのか。全く同じ状況で、見つめる対象が違っただけで、沈んでしまった。
私たちも普段の信仰生活で経験する事だ。

主イエスを見て、御言葉にとどまっている時、御言葉が心にしっかりある時は、どんな苦しい状況の中でも、信仰があり、平安があり、歩んで行ける。

しかし、主から、御言葉から目を離した途端、真っ暗な状況に、辛い状況に飲み込まれてしまい、信仰が機能しない。

不安と思い煩いと落胆の大波にさらわれ沈んでしまう。
主イエスか、波風か、どちらを見ているかで喜びと平安で歩けたり、心が真っ暗になりブクブク沈んだりする。

毎日の生活の中でこの明暗が起きている。
真っ暗な状況を見ているだけでは、信仰は起こらない。ますます落ち込むばかりだ。

御言葉を握り、主を見上げる時、信仰が湧き上がる。喜びが来る。
主が信仰の創始者であるので、主を見つめる時、信仰が来る。

自分で頑張って、信じよう、信じようとするのでなく、語って下さった御言葉、約束の御言葉にとどまる時、主によって「与えられる信仰」が臨む。
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御言葉から離れたとたん恐れや不安、妨害を目にする。
御言葉と現実のとの間には、必ず壁がある。
だから主から目を離さず信仰をもって、与えられている恵みの中で喜んでいよう。

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今日の聖人の記念日

2016年06月29日 07時03分32秒 | キリスト教

聖ペトロ使徒

1世紀

 ペトロは、ゲネサレト湖畔のベトサイダの貧しい漁師ヨナとヨハンナの子として生まれ、弟アンドレと共に漁をしながら信心深い生活を送っていたといわれる。ペトロは、漁をしているとき、イエスから「人をすなどる者にしよう」と言われ、イエスの後に従った。彼の名は、初めはシモンであったが、イエスが「岩」を意味する「ペトロ」という名前をつけられた。のちにイエスから「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなくことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16.18-19)と約束された。復活されたイエスからは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、ローマ教会を導いた。

 67年、皇帝ネロによってキリスト教迫害が始まったとき、信者たちの勧めでローマを脱出しようとしたが、そのとき、十字架を背負ったイエスに出会った。ペトロが「クオ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、どこに行かれるのですか)と尋ねると、イエスは「わたしは、ふたたび十字架につけられるためにローマに行くところだ」と答えられたという。ペトロは、それを聞いて自分の使命を悟り、ローマにすぐに引き返し、進んで十字架に逆さまにつけられて殉教した。ペトロが処刑された場所に、サン・ピエトロ大聖堂が建てられている。

 ペトロは、ローマの司教として33年勤め、その最期をまっとうしたといわれる。後に、ローマの司教は全教会の司教団の頭、つまり教皇としてペトロの使命を受け継いでいくことになった。そのため教皇職は、ペトロの座とも呼ばれている。

聖パウロ使徒

1世紀

 パウロは、キリストの時代に、小アジアのタルソに生まれ、サウロと呼ばれていた。ユダヤの律法や母国語以外に、ギリシャ語、天幕作りなどを学んだ。エルサレムに遊学し、有名な律法学者ガマリエルから学び、生粋のファリサイ派となっていった。そしてサウロは、イエスの新しい教えが神への冒涜であるとの信念から、徹底的にキリスト教徒を迫害した(使徒言行録 9.4 参照)。

 ところがある日、キリスト教徒を捕らえるためにダマスコに行く途中、突然天から「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞き、地面に倒れた。この復活したイエスとの出会いによって、サウロは回心し、何が信ずべき道であるのかを悟り、「イエス・キリストこそ神の子である」と熱心に宣べ伝え始めた。しかし、イエスの弟子たちもサウロの回心を信じられず、彼は苦しい立場に置かれた。そんなサウロに力を貸したのが、バルナバであり、アンティオキアで共に宣教して、そこに初めて教会を建てた。そのころから、サウロは、パウロと呼ばれるようになった。

 パウロは宣教旅行に3回出かけ、小アジア、ギリシャ、ローマ、コリント、アテネに福音を伝えた。多くの難に遭いながらも、ゆらぐことのない信仰によって、キリストの愛を伝えるために力を注いだ。

 ペトロが殉教したのと同じころ、ネロ皇帝の迫害時代に、ローマで捕えられて殉教した。パウロはイスラエル以外の新しい地の人々に宣教したことから、「異邦人の使徒」と呼ばれる。新約聖書中にある彼の書いた書簡は、いかにキリストの愛がすばらしいかを私たちに伝えている。

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◆貧しくても平和

2016年06月29日 07時02分27秒 | 聖書

一切れのかわいたパンがあって、
平和であるのは、
ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言一七1)
 
これは、美しい宮殿に住み、美しい女たちに囲まれ、山海の珍味に飽いていたソロモン王のことばです。彼は、ごちそうはあっても争いに満ちた王宮の生活から逃げ出したかったに違いありません。ソロモン王でなくても、「ごちそうなんてなくていい。ぜいたくな邸宅なんてなくていい。ほんとうの平和・ほんとうに平和な家庭が欲しい」と思っている人は多いのではないでしょうか。
私は、感じやすい少年時代に、争いの絶えない家庭にいました。五十センチと離れず同じ食卓を囲んでいるのに、夫と妻の心が通わず、親と子の心が通じていなかったのです。針のむしろに座るような毎日。――とうとうこんな現実から逃げ出したくて、私は自殺未遂をしてしまったほどでした。
平和とは、ただ、争いがないということではありません。それは、いっしょにいるのがうれしく、いっしょに何かするのに張り合いがあり、楽しい。――つまり、愛で心と心とがつながっている状態です。そんなすばらしい、すてきで平和な交わりのために、次の三つの段階があることに、私は気がつきました。
・ ある一人の人が、自分勝手な生き方を心から悔い改めて神の前にへりくだると、その人の心と神とが、まず平和になる。
・ 神と平和になった人の心がくだけきって、からっぽになって神の前に出ていると、人工的な平和ではなく、人格的な神の平和・天来の平安が、その人の心の中に満ちる。
・ その人の心の中に神の平安が満ちると、今まで争い合ったり憎み合ったりしていた人々の間にも平和の力が及んで、人と人との間に平和が花を咲かせる。私の家庭が、まさしくこのプロセスを通らせていただいたのです。
 
 
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◆神は……

2016年06月29日 07時01分43秒 | 聖書
イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。(Ⅰテサロニケ四・一四)
 
世を去ったたましいが無感覚のままで眠っていると考えないようにしよう。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」というのが、すべての臨終の聖徒に対するキリストのささやきである。彼らは「イエスにあって眠っている」。しかし彼らのたましいは、神の御座の前で日夜イエスをほめたたえ、その血で彼らの罪を洗ってくださった方に対してハレルヤを歌っているのである。
肉体は、草におおわれた地下の寂しい寝床に眠っている。この眠りは何を意味するのであろうか。眠りと関連する概念は「安息」である。そしてそれは、神の御霊が私たちに伝えようと望まれる考え方である。眠りは夜を昼のための安息の時とする。眠りはたましいの戸を堅く閉ざして、すべて侵入する者に「しばし待て」と命じる。それは内なるいのちが新緑の園に憩うためである。働き疲れた信者は静かに眠る。それはあたかも疲れた幼子が母の胸に眠るのに似ている。
ああ、主にあって死ぬ人は幸いである。彼らはその労働を離れて休息する。そしてそのわざは彼らに従う。その静かな休息は、神が彼らに十分な報いを与えるため呼び覚まされる時までは、決して破られることはないであろう。天の使いに守られ、永遠の神秘に包まれて、栄光の相続人である彼らは眠り続ける。そして、やがて時が満ちて贖罪が全うされるのである。
彼らが目を覚ました時はどうであろう! 彼らは最後の憩いの場所に横たえられた時、疲れ果てていた。しかし起き上がる時はそうではない。安息に入った時は額にしわがあり、顔はやつれきっていた。しかし起き上がる時は美と栄光をまとっている。見るかげもないしなびた種が、美しい花となってちりの中から咲き出る。墓の中の冬は去り、贖いの春と栄光の夏が来る。
死は幸いである。なぜなら、その時神の力が私たちの仕事着を脱がせ、朽ちることのない結婚の晴れ着をまとわせるからである。「イエスにあって眠る」者は幸いである!
 
 
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ネヘミヤ書8章9-12節

2016年06月29日 07時00分07秒 | 聖書


8:9 総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。「きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。



 律法の言葉を聞いた時、民は泣きました。

主のみ言葉を、主の御名の置かれている町で聞くことができた、そのことを喜び、泣いたのです。

また、今までの困難や闘い、苦しみなどを思うと、苦しみに耐えて、今このように、平安の内に主のみ言葉を聞くことができるということは、彼らにとっては何ものにも変えることができない喜びでした。

ですから泣いたのです。

 しかし、ネヘミヤたちは民に向かって、泣くなと言いました。

そして、むしろ喜ぼうと告げたのです。

主の恵みを喜ぼうと言ったのです。

そして、その喜びのためにたくさんのごちそうを準備して、誰もが喜び味わえるようにしました。

今日は喜びの日、溢れる感謝の日だからです。

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申命記20章3~8節(ローマ人への手紙4章)

2016年06月29日 06時58分03秒 | 聖書


★『彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」つかさたちは、民に告げて言いなさい。
「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。
彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。女と婚約して、まだその女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が彼女と結婚するといけないから。」
つかさたちは、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」


■O:今日のコラム
この申命記20章は霊的な戦いの図を示しています。10~15節までは、宣教での戦いです。

『町を攻略しようと、あなたがその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民は、みな、あなたのために、苦役に服して働かなければならない。もし、あなたに降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲しなさい。あなたの神、主が、それをあなたの手に渡されたなら、その町の男をみな、剣の刃で打ちなさい。しかし女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ってよい。あなたの神、主があなたに与えられた敵からの略奪物を、あなたは利用することができる。非常に遠く離れていて、次に示す国々の町でない町々に対しては、すべてこのようにしなければならない。』(申命記20:10~15)

  降伏を勧める、とはヘブル語で、シャロームを宣言する事です。イエス様も宣教地に行ったら、まず「平安があるように」と言いなさいと言っています。この平安が「シャローム」です。宣教とは占領のための戦いの事です。包囲する、とは「縛る」という意味があります。私たちに与えられた縛る権威と解く権威は、霊的な戦いのための宣告です。そして、実力行使は、御霊の与える武具である御言葉の剣です。そこには戦利品が伴います。
  全部を説明する事を避けますが、私が受け取った重要なポイントは3~8節です。新しい家が、ぶどう畑が、婚約者が気になって戦えない状態になってはいけません。戦わなければ結局の所それらを守る事は出来ないのです。神の国とその義とをまず第一に求めると良いのです。
  それらは、財産や仕事や異性という事も言えます。この世の物と言えます。この世のものを愛するなら、神に敵対する事になります。それらは大切なものですが、神に捧げてこそ価値のあるものなのです。地にあるものは、神に捧げるために生み出されました。手に鋤をつけてから(戦いを始めてから)振り返る者は、神の国にふさわしくないのです。
  この根本にある重要な戦いがあります、それは、自分の肉に仕えるか、神に仕えるか?という戦いです。私たちは、自己中心が悪いと知っていながらそれに自分の力で打ち勝つ事は出来ません。この肉にイエス様の血潮を毎日宣言し、十字架に打ち付けましょう!そこでの勝利がこの世の物を捨てて、自分を捨てて、主を愛する事を、自分の十字架を負ってイエス様についていく事を可能にするのです。


■A:考えてみよう
自分の肉に血潮を宣言し、十字架に打ち付けます。
世のものを捨てて、自分を捨てて、自分の十字架をおってイエス様の後についていきます。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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6月28日(火)のつぶやき

2016年06月29日 01時38分17秒 | キリスト教
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◆しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。

2016年06月28日 17時07分31秒 | 聖書
(出エジプト七・一二)
 
この事件は、神の御手のわざが、それに反対するすべてのものに確実な勝利を得るという、教訓に富む象徴である。神の原則が心の中に投ぜられる時はいつでも、たとえ悪魔が偽りを作り無数の敵を作り出しても、神が働いておられる以上は、すべての敵をのみこむ。もし神の恵みが人をとらえるならば、この世の呪術師はその杖を投げ捨てる。その一つ一つはへびのようにずる賢く、有害であるが、アロンの杖は彼らの杖をのみこむ。十字架の不思議な引力は人の心に訴え、人の心をとらえる。すると、偽りに満ちたこの地上のためにのみ生きていた人が、高い世界に目を注ぎ、大空高く翼を張って駆けるようになる。恵みが勝利を得る時、世俗的な人も、やがて来る世界を求めるようになる。
同様の事実は信者の生涯においても認められる。私たちの信仰は、どれほど多くの敵に会わなければならないことであろう。私たちの古い数々の罪――悪魔はそれらを私たちの前に投げた。するとそれらはへびに変わった。なんと数の多かったことであろう! ああ、しかしイエスの十字架はそれらをすべて滅ぼす。キリストへの信仰は、私たちのすべての罪をただちに殺す。すると、悪魔はさらに一群のへびを放つ。それは、この世の試み、誘惑、不信仰である。しかしイエスへの信仰は、それらをものともせず、すべて征服する。
同様の原則は、神のための忠実な奉仕の中にも輝く。イエスに対する燃えるような愛によって困難は克服され、犠牲は楽しみとなり、苦しみは名誉となる。
信仰は、このように心を焼き尽くすほどの熱情であるのだが、信仰を告白しながらも、その実、信者でない人が多くいる。なぜなら、彼らがもっているものは、このテストに耐えることができないからである。読者よ。この点において自分を省みよ。アロンの杖は、天来の力をもつことを実証した。あなたの信仰も同様だろうか。もしキリストが何かであるのならば、キリストはすべてでなければならない。おお、イエスにある愛と信仰があなたを支配する熱情となるまでは、心を安んじてはならない。
 
 
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