聖ペトロ使徒
1世紀
ペトロは、ゲネサレト湖畔のベトサイダの貧しい漁師ヨナとヨハンナの子として生まれ、弟アンドレと共に漁をしながら信心深い生活を送っていたといわれる。ペトロは、漁をしているとき、イエスから「人をすなどる者にしよう」と言われ、イエスの後に従った。彼の名は、初めはシモンであったが、イエスが「岩」を意味する「ペトロ」という名前をつけられた。のちにイエスから「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなくことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16.18-19)と約束された。復活されたイエスからは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、ローマ教会を導いた。
67年、皇帝ネロによってキリスト教迫害が始まったとき、信者たちの勧めでローマを脱出しようとしたが、そのとき、十字架を背負ったイエスに出会った。ペトロが「クオ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、どこに行かれるのですか)と尋ねると、イエスは「わたしは、ふたたび十字架につけられるためにローマに行くところだ」と答えられたという。ペトロは、それを聞いて自分の使命を悟り、ローマにすぐに引き返し、進んで十字架に逆さまにつけられて殉教した。ペトロが処刑された場所に、サン・ピエトロ大聖堂が建てられている。
ペトロは、ローマの司教として33年勤め、その最期をまっとうしたといわれる。後に、ローマの司教は全教会の司教団の頭、つまり教皇としてペトロの使命を受け継いでいくことになった。そのため教皇職は、ペトロの座とも呼ばれている。
聖パウロ使徒
1世紀
パウロは、キリストの時代に、小アジアのタルソに生まれ、サウロと呼ばれていた。ユダヤの律法や母国語以外に、ギリシャ語、天幕作りなどを学んだ。エルサレムに遊学し、有名な律法学者ガマリエルから学び、生粋のファリサイ派となっていった。そしてサウロは、イエスの新しい教えが神への冒涜であるとの信念から、徹底的にキリスト教徒を迫害した(使徒言行録 9.4 参照)。
ところがある日、キリスト教徒を捕らえるためにダマスコに行く途中、突然天から「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞き、地面に倒れた。この復活したイエスとの出会いによって、サウロは回心し、何が信ずべき道であるのかを悟り、「イエス・キリストこそ神の子である」と熱心に宣べ伝え始めた。しかし、イエスの弟子たちもサウロの回心を信じられず、彼は苦しい立場に置かれた。そんなサウロに力を貸したのが、バルナバであり、アンティオキアで共に宣教して、そこに初めて教会を建てた。そのころから、サウロは、パウロと呼ばれるようになった。
パウロは宣教旅行に3回出かけ、小アジア、ギリシャ、ローマ、コリント、アテネに福音を伝えた。多くの難に遭いながらも、ゆらぐことのない信仰によって、キリストの愛を伝えるために力を注いだ。
ペトロが殉教したのと同じころ、ネロ皇帝の迫害時代に、ローマで捕えられて殉教した。パウロはイスラエル以外の新しい地の人々に宣教したことから、「異邦人の使徒」と呼ばれる。新約聖書中にある彼の書いた書簡は、いかにキリストの愛がすばらしいかを私たちに伝えている。