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◆見よ。処女がみごもっている。

2014年12月25日 07時55分21秒 | 聖書

そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。(イザヤ七・一四)

今日ベツレヘムに行き、驚く羊飼い、礼拝する博士たちと共に、ユダヤ人の王としてお生まれになった方にお会いしようではないか。それは私たちが信仰により主にあって富を求め、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる」と歌うことができるためである。イエスは受肉された主であり、私たちの主、私たちの神であり、さらに私たちの長兄であり友である。私たちは彼をあがめ、ほめたたえようではないか。
まず注意したいことは、主が奇蹟によってみごもられたことである。これはかつて耳にしなかったことであり他に例がない。処女がみごもって男の子を産んだというのである。最初の約束は、「女の子孫」であり、男の子孫ではなかった。初めに女が楽園喪失の罪を招いたため、今は女が楽園の回復者を迎え入れた。
私たちの救い主は真に人であられたが、同時に神の御子であられた。主はその罪のないことによって、人間の喪失した昔の栄光を回復された。私たちは、主が私たちのうちに栄光の望みとなられるように祈ろうではないか。
また主の両親が決して身分の高い人ではなかったことを見落としてはならない。主の母は、「処女」と記されているのみで、女王とも女預言者とも、大金持ちの夫人であったとも記されてはいない。たしかに彼女の血管には、王族の血が流れていた。また教育のない女でもなかった。なぜなら、彼女は実に巧みに神をほめる歌を歌うことができたからである。しかし彼女の地位はなんとみすぼらしく、その婚約者はなんと貧しく、新しい王の誕生のための設備はなんと貧弱であったことか。
インマヌエル――神は私たちの性格の中に、悲哀の中に、生涯の事業の中に、受けなければならない懲罰の中に、また私たちの墓の中に共におられ、現在も共におられる。否、私たちは、復活に、昇天に、勝利に、そして輝かしい再臨において主と共にいるのである。

 


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1 コメント

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Re: (秀和)
2014-12-26 07:14:38
インマヌエルとは当該箇所を参照するとほぼヒゼキヤの事を指します。
 
マタイ伝は無理やり旧約にイエスに関連づけようとチグハグな引用が目立つ(預言は成就していない)と言われています。「処女」もヘブライ語のアルマーの誤訳であるとされます。(訳が変わったギリシャ語聖書かのら引用?)

・イエス一家の住所
ルカ伝のイエス一家は北部ナザレに住んでいる。
マタイ伝の一家はベツレヘムに家(マタ2:11)を持っている。(両者は100km以上離れている)
 
これはどちらなのでしょうか?
バラバラで整合しない箇所です。

・イエスの生年
マタイ書を参照するとヘロデのいた BC4 以前。
ルカ書 2:2 を参照すると AD6 頃となる。
「マリアは十年間妊娠していたのか」と学者を悩ませてきた矛盾。

ナザレからベツレヘムまで移動する(ルカ)と
120kmほどもあります。妊婦にマラソン3本分の距離は非現実的と思われませんか。
そしてベツレヘムからエジプトへ避難(マタイ)したとするとここは片道350-400kmとなり、これまた非現実的な距離です。両者の整合はかなり難しいとされます。

しかしマタイ伝はやはり旧約との直結を考えており
モーセの出エジプトを再現したという見方が有力でしょう。
福音書はそのような神学表現の書であり、歴史ではないと欧米の聖書学では考えられています。
偽りの救世主、パウロの救済論を信奉するよりもイエスの説教、生きざまこそが大切なのではないでしょうか?
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